黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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秋山優花里の戦車道 13

 ずきずきとあたまがいたむ。

 

 もう雨なんて怖くないはずなのに、歯が噛み合わずかちかちかちかち五月蠅(うるさ)かった。

 

 震える右手を、同じく震える左手で無理矢理押さえつけて、豪雨の中、パンターの天蓋で堪え忍ぶ。

 

 またすぐ近くで砲弾が炸裂した。

 

 それが偶然、もしくは幸運からくるものでないことくらい、カリエは解っている。

 

 グロリアーナの砲弾が、自分をいたぶるものであることくらい、これだけ長時間砲火に晒されれば理解できる。

 何かしらの悪意に、自身が晒されていることくらい、嫌でも思い知らされた。

 

 どうして、と目の前のチャーチル歩兵戦車を見る。

 フラッグ車を示す青い旗が、雨の中揺れている。

 チャーチルから、いや、ダージリンから発せられる無言の圧力に「どうして」と言葉がこぼれた。

 

 パンターの足が遂に止まる。

 カリエは殆ど無意識の内に停車を命じていた。

 容赦なく打ち付ける雨粒のなか、カリエはこれ以上の逃走を諦めていた。

 

 背後にクルセイダーが。

 両脇にマチルダが。

 そして眼前にはチャーチルが、

 パンターを包囲している。

 

 四面楚歌に陥る中、乗員の一人である砲手が「撃ちますか」と問いかけてきた。

 彼女の視線の先にはフラッグ車であるチャーチルが座している。もしも仮にここで撃破に成功すれば、その時点で黒森峰の勝利だ。

 だがカリエは首を横に振った。絶妙に保たれた彼我の距離の差がその砲撃が無駄に終わることを教えてくれていたからだ。

 チャーチルの強力な装甲を一撃で撃破できなければ、反撃で袋叩きに合うことは分かり切っていたのだ。

 無闇矢鱈に、乗員を危険にさらすことも出来ないと、カリエはキューポラの上でがっくりと(うな)()れた。

 

「……そんなに私のことが憎いんですか。こんなことをするくらい、私を嫌っていたのですか」

 

 溢れ出す疑念は、ダージリンの行動に対するもの。

 信じていた者に裏切られた、カリエの嘆き。

 

 その気品に憧れていたのに、

 その知性に敬意を抱いていたのに、

 その優しさに惹かれていたのに――、

 

「どうしてこんなことをするんですか! 私のことが嫌いだったんですか! あんなに優しくしてくれたのに! それは全部演技だったんですか!」

 

 返答はもちろんない。

 ただチャーチルの砲塔が静かにパンターに向いた。

 かあ、と頭に血が昇った。

 裏切りに対する怒りが、カリエの思考を塗りつぶした。

 ダージリンが無言の圧力を貫くのならば、精一杯足掻いてやると、カリエは怒声を上げた。

 

「舐めるなあ!」

 

 パンターがその場で旋回した。超信地旋回は出来ないが、ナナがそれに近い挙動でパンターを操作した。クルセイダーが咄嗟に砲撃で牽制を行うが、敢えてそれを装甲で受け止めた。

 激しく車体が揺さぶられるが、カリエは形振り構わずチャーチルにパンターに突進させる。

 カリエの意図を汲み取った砲手が75ミリ砲を放つ。チャーチルを狙ったものだったが、間に割り込んだマチルダを撃破していた。

 やはり盾を排除しなければ、と撃破されて動かなくなったマチルダに体当たりする。そしてそのまま車体を押しのけて、右側に展開していたもう一両の車両に突っ込ませた。

 撃破こそは出来なかったが、同質量の車両に押しつぶされて、右舷のマチルダは動きを封じられた。

 

「ダージリン!」

 

 道は開けた。

 突然のカリエの苛烈な攻撃に、グロリアーナの車両は狼狽えていた。

 とは言ってもさすがは強豪校。その隙はあくまで一瞬であり、すぐさまパンターの動きを封じるべく活動を再開する。

 だが一度穿った道を取りこぼすほど、カリエは(もう)(ろく)していない。マチルダとの衝突の衝撃からいち早く復帰したパンターが再加速を開始した。

 

「いけええええええ!」

 

 40トンの質量を置き去りにして、パンターがチャーチルに肉薄した。彼我の距離が詰まる。

 撃破可能距離まであと数秒。

 後方のクルセイダーが破れかぶれの砲撃を放つ。

 (ろく)に狙いも付けられていない、焦りから生じた一撃。

 パンターの左後部で火花が散った。

 

 ばきん、とカリエの視界の端で何かが跳ねた。

 

 何事か、と視線を向けるよりも先、突如として世界が回転する。

 まさか車外に投げ出されたか、と背筋を寒くしたが、両足はパンターの車内を踏みしめていた。

 ならば何故、と周囲を見渡した。いつの間にか回転が止まっている。

 半ばで断ち切れた履帯が無惨にもパンターの左側面に転がっていた。

 転輪が空しく空転し、雨の中嫌な金属音を周囲に響かせていた。

 

「あっ」

 

 よりによって、こんなところで――、

 

 カリエは唇を噛みしめた。あと少しというところで、パンターは足を失っていた。撃破の判定はまだ出ていない。

 だが、これ以上走ることは出来ない。

 まだダージリンとの距離がある。

 まだ、彼女には届かない。

 後方から追いついてきたクルセイダーたちが再びカリエのパンターを囲んだ。

 控えめに見ても殺気立っていることが伺える。捕らえたと思っていた獲物が、予想外に暴れたので苛立っているのだろう。

 

 がん、とパンターの天蓋に拳を打ち付けた。

 こんな情けない形で、

 こんな醜態をさらけ出して、

 撃破されることが悔しかった。

 

 何より、ダージリンの真意を知れないままに退場しなければならない、己の未熟さと無力さ加減に腹が立って仕方なかった。

 

 天を見上げる。

 雨の滴が容赦なくカリエとパンターを打ち付けている。

 体を支配する激情からくる熱も、パンターの発する熱も、冷たい雨に打たれて徐々に冷めていく。

 何となく、この熱が引いたときが敗北の時だとカリエは感じた。

 

 やるなら(ひと)(おも)いに――。

 

 そんな願いを込めて再び眼前のチャーチルを見る。

 いよいよ、ダージリンは何も言わなかった。

 

 もういい、と瞳を閉ざす。来るべき衝撃に備えて、キューポラの縁をぎゅっと握りしめた。

 審判(おわり)の時を今、待ちわびる。

 

 

01/

 

 

 カリエにとって救いがあるのだとしたら、それは乗員たちの練度だった。

 彼女たちはカリエの命令を忠実に遂行するスキルを有している。

 カリエが動けと言えば動き、止まれと言えば止まった。例えその場では理に叶っていないと思わせるような命令でも、カリエが命じるのだから、と一切の余談を挟むことなく彼女たちはそれに従う。

 カリエの言葉に全てを捧げた従僕なのだ。

 けれども、命令をこなすだけのお人形ではなかった。

 彼女たちの練度は、忠誠と自主性が複雑に入り交じった、本物の練度だったのだ。

 通信手が無線を受け取る。

 友軍の発信内容を読み取る。

 そしてカリエを見る。カリエはチャーチルを睨み付けてはいたが、すぐに観念したように天を仰いでいた。

 

 そんな彼女に無線内容を伝え、命令として車内に伝達されたときのパンターが反応できるスピード。

 自身が独断でナナに指示を下して、パンターが反応できるスピード。

 

 考えるまでもなかった。

 後から叱責されてもいい。カリエに嫌われてもいい。この試合の後、パンターから降ろされてもいい。

 けれども、自分の車長がこんなところで、グロリアーナの卑劣な作戦の前に屈する姿など見たくなかった。

 何よりカリエの、悲痛な叫びをこれ以上聞きたくはなかったのだ。

 

「ナナ! 右の履帯だけで良い! 全速前進!」

 

 そしてナナもそれは同じこと。

 カリエの命令でなくても、通信手の言葉一つに全てを託した。言われたとおりにパンターを操作する。ここにきて初めて、カリエの意図しない動きを彼女たちは取った。

 

 そしてそれがカリエを救う。

 

 

02/

 

 

 飛来した砲弾が装甲と火花を散らした。

 

 右の履帯だけで、殆どスリップするように動いたパンターの背後から、砲弾が飛来したのだ。

 最初、グロリアーナの面々は焦ったクルセイダーの誤射だと思った。

 

 だがその雷鳴すら掻き消してしまう発砲音の大きさが、もっと事が重大であることを教えてくれる。

 冷たい雨と、砲撃の熱がぶつかり合って、白い水蒸気が巻き上がっていた。

 

 第二次世界大戦中連合軍が、最も恐れた怪物。

 公式記録上、一度も撃破されたことのない誇り高い王虎。

 燦然と輝くエンブレムは、円環の蛇であるウロボロス。

 

 王者黒森峰女学園、栄光あるフラッグ車。

 逸見エリカのティーガーⅡだった。

 

「うそ、なんで」

 

 半ば心が折れていたカリエが疑問の声を上げる。

 何も指示を下していないのにパンターが動いたこともそうだが、ここにあるはずのない巨体を見定めて動揺する。

 後方にいるはずだった。小梅たち護衛に守られて座しているはずだった。黒森峰の勝利のために、彼女は彼女の役割を果たしているはずだったのだ。

 

「エリカ!」

 

 いつかそうだったように、妹を(なぶ)られた怒りか、猛然とティーガーⅡが前進を開始した。

 途中、クルセイダーの一両がチャーチルの盾になるべく進路上に割り込むが、アハトアハト砲の一撃で吹き飛んでいった。目に見えて、グロリアーナの部隊の統制が乱れた。

 

「エリカ! エリカ! 駄目だ来るな!」

 

 無謀とも取れるカリエへの援軍。

 去年のあの時は、エリカの奮闘及ばず二人とも最終的には撃破されていた。

 ただ、その時と決定的に違うことが一つある。

 それはティーガーⅡに随伴車両が複数台伴っていたことだ。姉妹二人ではない。今回は姉妹を救うために意を決した仲間がいた。

 雨のカーテンの向こうから、ティーガーⅠとパンターが出現したのだ。

 車両番号を照会するまでもなく、二両の主が誰なのか、カリエにはわかっていた。

 みほと小梅までもが、カリエを救うために最前線まで駆けつけていた。

 じわり、とカリエの視界が雨以外の液体で滲んだ。

 

「副隊長、救援です! エリカ副隊長とみほ隊長、小梅さんが助けに来てくれました!」

 

 ぽろぽろと涙を零しながら、通信手がカリエに叫ぶ。

 彼女が受け取った無線は簡潔ながらに明瞭。

 

『ティーガーⅡの射線上にあなたたちがいる。至急、発進されたし』

 

 通信手の完全な独断ではあったが、確かにパンターは動いた。

 動いて、エリカのティーガーⅡの砲撃の道を開いた。カリエに対する包囲網が一転、グロリアーナのフラッグ車が強力な黒森峰の主力車両に反包囲される形になった。

 状況が一瞬で好転したのである。

 

「…………」

 

 思わぬ援軍に、パンターの乗員の士気が一気に回復した。履帯は破損していたが、砲塔部分は全く問題がない。装填手が砲弾を砲尾に叩き込み、砲手がハンドルを使って砲身を回転させる。

 狙いはもちろん、敵フラッグ車のチャーチル。

 

「…………おかしい」

 

 ぽつりとカリエが漏らした。「え?」とパンターの隊員たちが疑問の声をあげる。彼女たちが敬愛してやまない副隊長は浮かない顔をしたまま、チャーチルに視線を送っていた。

 今更何を恐れる必要があるのかと砲手が発砲を催促する。

 けれどもカリエは硬直しまたまま、チャーチルをじっと見つめた。

 そして――、

 

「あっ」

 

 ある可能性に気がついた。

 いや、可能性というには余りに状況が揃いすぎていて、それは必ず成就する呪いの予言みたいなものだった。

 カリエは自分たちに下された神託を状況から読み取って、戦慄する。

 目の前に突如と出現した、黒森峰敗北の未来をはっきりとその目で見てしまう。

 震える唇で、紡ぐ。

 自分たちを見事に釣り上げてみせた、グロリアーナの女王に敬意と畏怖を込めて、口を開く。

 

「あなたは何処まで――」

 

 ――何処まで策を弄していたんですか、ダージリンさん。

 

 

03/

 

 

 砲弾の雨が降り注いだ。

 一つ一つの威力は、黒森峰の車両を貫通させるほどではないが、それでも決して無視できるものではない。

 ティーガーⅡとティーガーⅠ、パンターが一カ所に身を寄せ合って、死角が生まれないように砲身を操作する。それぞれがそれぞれ、あらゆる方向に対して反撃の砲撃を叩き込んでいた。

 カリエのパンターは少し離れた場所で、その惨状をただただ見せつけられる。

 

「餌だったんだ。私が餌だったんだ」

 

 カリエの中で、全ての疑問が氷解していった。

 何故、フラッグ車自らが自分をあそこまで追い詰めようとしていたのか。何故、他の街道を無視してまでそこまで一点突破に拘ったのか。何故、パンターを破壊することなくいたぶる真似をしたのか。

 

「ダージリンさんは、最初からこれが目的だった……」

 

 みほのティーガーⅠに、小梅のパンターに、エリカのティーガーⅡに砲弾が接触し、火花を散らす。

 致命傷には程遠い。

 けれども、確実にその体力と装甲を削り取っている。

 

「ふ、副隊長、まさか――」

 

 通信手が己のしでかした失態に顔を青くする。副隊長を救うことに意識を傾ける余り、彼女もしっかりダージリンの策に騙されていたのだ。

 カリエはもう一度、チャーチルを見た。

 もう、無言だとは思わなかった。それどころか声高に、己の策略が成功したことを宣言しているかのようだった。

 

 

04/

 

 

「見事な采配でした。ダージリン様」

 

 オレンジペコが、淹れ立ての紅茶をダージリンに手渡した。ダージリンはそれを受け取って、静かに傾ける。

 それは事前に定めておいた作戦の行程が最終段階に差し掛かったことを意味していた。

 

「……エリカさんが妹思いな人で本当に助かったわ。私がカリエさんにご執心な様子を見せれば必ず警戒してくれるんですもの」

 

 これまで一年間、一年もの間、コツコツと積み上げてきた策略を思い出して、彼女は息を吐く。

 カリエに接触し、過剰に追い求めたフリをし、エリカにそれを見せつけて彼女の冷静な思考を奪っていく。

 あとは準決勝のこの場面で、自身が暴走している演技をしてやれば、必ずエリカを引き摺りだせると踏んでいたのだ。

 

「美しい姉妹愛、大いに結構。それはあなたたち黒森峰の強みだわ。でもそれが、こうして弱みにもなり得ることをいい加減自覚する事ね」

 

 ダージリンがこの準決勝において、グロリアーナに下した命令は至極単純。

 カリエのパンターを半数の部隊で追い詰め、残りの半数はそこから少し離れて待機しておく、というものだ。

 そして必ず出現するであろう黒森峰主力からなる援護部隊を、待機していた残りの部隊で包囲し直し、一気に撃滅するのである。

 

「カチューシャの言っていた通りね、カリエさん。あなたはお姫様よ。黒森峰の人々全てを魅了する魔性のお姫様。その魅力は皆の冷静な思考をドロドロに溶かし、亡き者にしてしまう。本当、恐ろしい人」

 

 グロリアーナの女王は嗤う。

 王者の不甲斐ない姿を、情にほだされ、本来の実力を発揮することのできない黒森峰を嘲笑する。

 

 何度も何度も煮え湯を飲まされてきた。

 優勝の栄光を夢見るたびに、彼女たちの前に膝を屈してきていた。

 どれだけ策を巡らしても、どれだけ相手を謀略に陥れても、あと一歩のところで手が届かなかった。

 黒森峰に敗北するたび、OG会から無能の烙印を押されてきた。

 逸見姉妹の後塵を拝するたびに、愚か者の称号を押しつけられてきた。

 

 けれどもその日々は今日この瞬間に終わりを告げる。

 謂われのない侮辱に耐え忍び、泥水を啜り、嘲りを受け流し続けた日々が今終わる。

 防弾ガラス越しに、姉のティーガーⅡの援護を続けるカリエが映る。

 己をここまで追い詰めてきた、憎き蛇がそこにいる。

 彼女はこちらに背を向けていた。

 ダージリンを見てはいなかった。

 

「アッサム」

 

 紅茶のカップから口を離し、砲手のアッサムにオーダーを下す。

 沈黙を保っていた彼女は「何でしょう、ダージリン」と車長の命令を待った。

 

「パンターにとどめを刺しなさい。カリエさんの心を弄んでしまったお詫びのようなものよ。黒森峰が敗れ去るその瞬間に生き残っていた、という屈辱を与えてあげないでおきましょう」

 

「……本当によろしいのですね」

 

 普段ならその指示を即実行するアッサムが疑問の声を挟んだ。らしくない姿に、装填手のオレンジペコが困惑する。だがダージリンは顔色一つ変えずに続けた。

 

「くどいわ。何を(ちゆう)(ちよ)するというの。さっさと始末なさい」

 

 苛立ちを交えた催促。だがアッサムは狼狽えることなく、むしろ何処か慈愛すら滲ませて答えていた。

 

「――あなたがそのように決意を固めているのなら、私は地獄の果てでもお供すると言うことを忘れないで下さい」

 

 砲身が回転する。

 パンターの砲塔と車体の隙間――、かの車両の一番の弱点に狙いが付けられる。

 オレンジペコが徹甲弾を装填し、砲尾の栓を閉じた。

 後はアッサムが引き金を引くだけ。

 それだけで、行動不能に陥っているカリエのパンターは試合続行不能に追い込まれるだろう。

 

「さようなら、カリエさん。――本当に、本当に楽しかったわ」

 

 轟音が雨音を吹き飛ばすように響き渡る。

 光が瞬いて、世界が真っ白に染まった。

 

 

05/

 

 

 これは全て自分の失態だ、とエリカは現状を嘆いた。

 例えフラッグ車でも、ティーガーⅡの装甲火力を持ってすれば、乱戦に陥る前にチャーチルを撃破することが出来ると判断していた。

 妹の救援と、グロリアーナの撃破が出来ると甘い幻想を抱いてしまっていた。

 

 冷静な思考が失われていたことも大きい。

 

 ダージリンのカリエに対する妄執を警戒しすぎて、慎重さを完全に欠如していた。

 あの女の昏い瞳を思い出すたびに。

 あの女に穢される妹を思うたびに。

 あの女に思いを寄せる妹を想うたびに。

 

 エリカの思考は激情に塗りつぶされ、ダージリン以外の何もかもが見えなくなる。

 今となってはその直情さが()()に愚かなことだったのか、嫌と言うほど理解することができた。

 

「ごめん、みほ、小梅、カリエ」

 

 救援に駆けつけた三両は、必死に応戦を繰り返している。

 けれども包囲網は確実に狭まっており、装甲に跳ね当たる敵の砲弾も増えていた。

 今はまだ、ドイツ戦車が誇る強固な装甲で耐え忍んではいるが、被撃破の瞬間はすぐそこまで迫っている。

 

「私が馬鹿だったから、私があの女の思惑に気がつかなかったから」

 

 ふと視線をカリエのパンターに向けた。

 履帯を破損し、身動きの取れなくなっているパンターだ。

 彼女にダージリンの想いをしっかりと伝えていれば、彼女にあの夜の事を伝えていればこの現実は少しは違っていたのだろうか。

 

「ごめんね、本当に馬鹿なお姉ちゃんでごめんね」

 

 絞り出すような謝罪は雨と砲声に掻き消されてカリエに届くことはなかった。

 エリカの最愛の妹は、ただ敗北を待つだけの自分たちを見ていることしか出来ない。

 ふと、カリエの背後にいるチャーチルが動いていることに気がついた。

 こちらの援護のために、砲塔だけを動かしている妹は、自分が狙われている事に気がつかない。

 

「カリエ!」

 

 どれだけ叫んでも言葉が通じない。

 後ろに佇む死神を妹は知らない。

 

「やめてやめてやめてやめて!」

 

 エリカは絶望する。それは妹がダージリンに撃破されることではない。

 妹が憧れた、恋していた女に裏切られる瞬間が、すぐそこまで来ていることに絶望したのだ。

 もしもその未来が成就するのなら、最愛の妹が立ち直れなくなることくらい理解できていた。

 全ての終わりが目の前に横たわっている現状に、エリカは(どう)(こく)する。

 

「お願いやめて!」

 

 ダージリンについて話すたびにはにかんでいた妹を思いだしていた。ダージリンから貰ったアクセサリーを大事にする妹を思い描いていた。ダージリンに想いを寄せていた妹が今消え去ろうとしていた。

 

 地獄の戦場を轟音が支配する。

 エリカの必死に伸ばした手は無残にも虚空を切った。世界が白く瞬き、彼女の視界が一瞬消え去る。

 

 

06/

 

 

 しん、と沈黙が世界を支配した。

 いや、正確には雨と雷音だけが鳴り響いている。

 何処か遠くで、赤い火柱が上がっている。カリエのパンターからではない。

 

 少し離れた場所の、立ち枯れた針葉樹が落雷を受けて燃えていた。

 

「ダージリン、砲身がロックされました。発砲できません」

 

 淡々と、アッサムが報告を下した。

 気がつけば、エンジン以外の全てのシステムがロックされている。これは撃破されたときの症状に似ているが、全く違う状況であることくらい全員が理解していた。

 無線が鳴る。

 ただしグロリアーナのものではない。

 試合に参加する車両全てに搭載を義務づけられた、大会運営の無線だ。

 

『戦闘中の全ての車両に通達します。頻繁な落雷が確認され試合の続行が危険であると判断されました。よってこの瞬間より、全ての戦闘行動を禁止。各車両は今から指示するポイントに避難し、試合開始まで待機して下さい』

 

 落雷による試合の中断。

 その判断を受けて、運営が全ての車両の一部機能を、遠隔操作でロックしたのだ。

 つまりカリエのパンターはほんの少しのタイミングの差で、命拾いをしていた。

 

「……そう、千載一遇の好機なのだけれど仕方がないわね。全車両に通達。これより運営の指示に従い待機ポイントに向かいます。自走できない車両はそのまま待機。回収車を向かわせるので大人しくしていなさい。絶対に外に出ては駄目よ」

 

 一言で全体に対する指示を下し、ダージリンは無線機を置いた。

 そしてままならないわね、と脇に置いてあった紅茶のカップに手を伸ばす。

 だが、

 

「あら?」

 

 つるり、とカップが彼女の指をすり抜けた。重力に引かれたそれは、一秒もしない間に車内の床にたたき付けられ、破砕音と共に紅い染みを作り出していた。

 

「あ、ダージリン様、私が片付けます! お怪我はありませんでしたか!?」

 

 慌てたオレンジペコが砕けた破片を拾い集める。

 ダージリンはまるで信じられない、といったふうに己の手を凝視していた。

 

「うそ、なんで……」

 

 かたかたと、震える手。いや、手だけではなかった。彼女の身体そのものが何かに怯えるように震えていたのだ。

 オレンジペコがそんなダージリンを見て、「お寒いのですか?」と気遣う。

 言葉を返したのはアッサムだった。

 

「オレンジペコ、視界が悪いわ。あなたが車長席に立って周辺警戒を行ってくださる? 特にローズヒップがちゃんとこちらに着いてきているか、監視をお願いしたいわ」

 

 落ち着いていながらも、有無を言わせぬ迫力の言葉に、オレンジペコはすぐさま行動を開始した。合羽を着用しないままキューポラをこじ開けようとしたので、慌てて通信手に止められている。

 

「……ダージリン」

 

 この会話は二人にしか届かないと、アッサムはダージリンに向き直った。

 訳がわからない、と自分の手を押さえつけようとするダージリンの腕を彼女は掴み取った。

 

「この試合中断は黒森峰の幸運ではありません。私たちに対する幸運です。神様がくれた、最後のチャンスです。よく考えて下さい。そして忘れないでください。私は、いえ、私たちは地獄の果てでもあなたに着いていきます。だから、次は自分の心のあり方を間違えないで下さい」

 

 がくん、とチャーチルの車体が揺れる。

 待機ポイントに向かい始めたのか、車両が歩みを進めていた。

 ダージリンが他の乗員の制止を振り切って、合羽も着ないままにキューポラから顔を出す。

 着替えを行っていたオレンジペコが「駄目です!」と縋り付いていたが、それでも彼女は止まらなかった。

 

 カリエのパンターが遠ざかる。

 姉たちに支えられて、パンターから引き上げられるカリエが遠ざかっていた。

 

 

04/

 

 

 未だ雨脚が収まらぬ中、みほと小梅、そしてエリカは雨合羽を着込んでカリエのパンターの周辺に残っていた。それぞれ自分たちの車両の車長を通信手に委任し、指定ポイントまで向かわせたあと、履帯の破損したパンターの応急処置を手伝っていたのである。

 回収車が到着するまでの間、少しでも車両復帰を済ませておこうという魂胆だった。

 

「みほ、小梅、それにカリエ。本当にごめんなさい、私が短慮だったわ」

 

 そして、応急処置が完了していたパンターに、四人で乗り込んで身を寄せ合った。

 本来のパンターの乗員たちは、先に来た兵員輸送車で指定ポイントに先行している。回収車が到着するまでパンターの見張りを四人で行うとエリカが申し出たのだ。

 自分たちの隊長格にそんなことはさせられない、とナナ達は反対したが、みほが滅多に見せない「命令を聞いて下さい」という威圧に押される形で、渋々輸送車に乗り込んでいった。

 雨粒が天蓋を打ち付ける音と、時々鳴り響く雷音が四人の耳に届く。

 エリカの謝罪に最初に答えたのはみほだった。

 

「いえ、反対もせず作戦を承認した私の責任です。エリカさんが気に病む必要はありません」

 

 彼女が謝罪するのは、隊長としての務めを果たすことの出来なかった自分の甘さだ。

 エリカのフラッグ車が前線に向かうことの危険性を軽視し、黒森峰を結果的には窮地に追い込んでいた。

 

「みほさんもエリカさんも悪くないですよ。大人しく援軍の編成に従わなかった私が悪いんです」

 

 そんな二人に小梅が反論する。

 彼女はそもそもこんな状況に陥ってしまったのは自身の進言が原因だと主張して譲らなかった。

 

 カリエを除く三人がそれぞれ自分の責任を主張し合った。

 その不毛な議論は数分ばかり続いたが、誰からともなく「せっかく命拾いしたんだからやめましょう」と宣言して一応の収束を見せる。納得したわけではなかったが、今はそんな場合じゃないと自分たちを律した。

 数拍の沈黙が車内を支配する。

 一度謝罪合戦を終えてしまえば、互いに口を開くことが躊躇(ためら)われた。それほどまでに、四人の雰囲気は消沈していたのである。

 だがぽつり、とそれまで黙していたカリエが口を開いた。

 

「……三人は悪くないよ。私が全部悪い」

 

 今更蒸し返すな、とエリカがカリエの頭を小突いた。けれども自分たちの謝罪とは毛色が違うことに気がついて、三人はカリエの言葉に大人しく耳を傾けていた。

 

「ダージリンさんに対する甘えがあったんだ。この人は私のことを見てくれている。私のことを気に掛けている、私のことを好ましく思ってくれている。そんな浅ましい考えをあの人に見透かされたからこんなことになった」

 

 それは残念ながら事実だった。

 カリエのダージリンに対する想いが利用されたからこそ、黒森峰は窮地に陥った。カリエがダージリンに対する冷静な分析を持つことが出来たのなら、主力を釣り上げる為の餌にされることもなかった。もっと早くに自身の生存を諦めて、数両を道連れにグロリアーナに痛手を与えるのが正解だったのだ。

 

 再び、車内から言葉が失われる。

 誰もカリエの言葉を否定できなかった。本人の、自分たち以上の悲痛な想いを知っているからこそ、否定することが憚ら(はばか)れたのだ。

 淡々と時間だけが過ぎ去っていく。

 無言の時間だけが積み重なっていく。

 回収車はまだ現れない。この悪天候の中、パンターの元に辿り着くのに手間取っているのだろうか。

 

「……カリエはダージリンのことが好きだったの?」

 

 ぽつり、とエリカがいつのまにかそんな事を口にしていた。

 薄々と感づきながらも、触れることのなかった一種のタブー。見えないふりをしていた不都合な真実。

 カリエは驚いたように姉を見つめたが、隠していても仕方がないと観念したように言葉を繋いだ。

 

「たぶん、ね。エリカは怒るかもしれないけれど、やっぱり私の中に捨てきれない男の部分があるんだと思う。そしてそいつがダージリンさんに懸想しているんだ」

 

 馬鹿みたいだよね、とカリエは自嘲した。

 自嘲して、静かに涙を零しながら続ける。

 

「逸見カリエとして生きていくと、お姉ちゃんの妹として生きていくと決めていた筈なのに、どうしても心がざわめくんだ。あの人の笑顔を思うたびに、あの人に貰った好意を思い出すたびに、心臓が言うことを聞いてくれなくなるんだよ。頭ではおかしいとわかっていても、心がそれについていかない」

 

 でも大丈夫だよ、と笑顔を見せた。エリカだけではなく、みほや小梅にまで笑顔を見せた。

 

「――フラれちゃったから。ダージリンさんにはもうフラれたから大丈夫。次はもう惑わされない。次は黒森峰の逸見カリエとして叩き潰してみせる。あなたたちの栄光を穢しはしない。名声も堕としはしない。あの人を完膚なまでに叩き潰して、勝利を掴み取って見せる。そのために牙を磨いてきた。逸見姉妹として、研鑽を積んできた」

 

 それは壮絶な笑みだった。みほも小梅も、エリカですら初めて見るカリエの笑みだった。

 三人に恐怖心を抱かせるには十分すぎる、殺意に塗れた感情だった。

 先ほどとは違った意味での沈黙が車内に満ちる。余りに重たすぎるカリエの気配が、三人を押し潰しているのだ。みほも小梅も言葉が紡げない。

 カリエの言葉を否定するだけの、何かが足りない。

 

「――馬鹿なんじゃないの、あんた」

 

 そんな状況だからこそ、動いたのはエリカだった。

 気がつけば、彼女はカリエの胸ぐらを掴みあげていた。

 そしていつかダージリンにそうしたように、カリエの頬を平手で打ち付けていた。

 

「え、エリカ」

 

 困惑したカリエが自身の頬を押さえる。姉にぶたれるのはこれで二度目だと、混乱する思考の片隅でそんなことを考えていた。

 

「フラれたも糞もないでしょう! あんたがはっきりしないからあいつも拗らせて狂っているんじゃない! あんたがいつまでも何も言わないから、あんたが何も言ってくれないから……!」

 

 正直言って八つ当たりだった。責めるべき相手を間違えてはいた。

 カリエが悪くないことくらい理解していた。カリエのダージリンを叩き潰すという覚悟が正しいこともわかっている。

 けれどもエリカはそれを容認できなかった。

 最愛の妹が、そんな選択をせざるを得ない今が許せなかった。

 ダージリンの事は今でも嫌いだ。殺してやりたいくらい恨んでもいるし()()もしている。

 妹にした数々の所業を許すことは恐らく未来永劫ありえない。

 けれどもカリエが、それらを乗り越えた上で、ダージリンを許し、愛そうと決めているのなら、話は別だった。

 そんな妹の想いを諦めさせることが何よりも我慢ならなかったのだ。

 エリカはカリエを愛している。

 愛しているから、カリエが幸せになるあらゆる道筋を認め、共に歩んでいくと決めていた。

 

「お願いだからそんな選択をしないで。あなたまで、おかしくならないで。あなたはあなたのままでいい。私はそのままのあなたが一番好きなの。だから、後悔をしないように、あなたがやりたい道を進んで見せて」

 

 それが私の幸せだから、と遂には泣き崩れた。

 みほと小梅は何も言わない。だが心の内はエリカと同じだった。

 カリエの気持ちを踏みにじってまで手に入れる勝利など、微塵も求めていない。

 二人の視線がカリエを射貫く。じんじんと痛む頬が、寝ぼけていた思考を無理矢理起き上がらせる。

 

「ごめんなさい。お姉ちゃん。やっぱり、私のお姉ちゃんはお姉ちゃんだけだ」

 

 カリエが狭い車内であるものに手を伸ばした。それは運営から支給されている黒森峰、グロリアーナ、その全てにホットラインが開いている無線機。

 試合中断のこの瞬間だけ使える、ダージリンへの最後の道標。

 

「やっぱりお姉ちゃんが一番好き。お姉ちゃんと共に決めた道を歩いて行くのが私の一番の幸せ。でもこれから想いを伝える人はそんな道を進むときに、寄り添っていて貰いたい人だと思う。お姉ちゃんとはいつまでも二人で行き先を決めて、時に馬鹿みたいに笑い合いたい。そして――、この人とは手を繋ぎたい。道を歩みながら二人で同じ月を見ていたい」

 

 最後にこう告げる。

 

「我が儘な妹でごめんね」

 

「馬鹿ね、あんたの我が儘なんてもう慣れっこなのよ」

 

 エリカがぐいっ、とカリエの肩を押した。

 彼女はこんな風にして妹と何かを決め続ける毎日が、自分にとっての最大の幸せだと、いつの間にか理解していた。

 

 

05/

 

 

 宣誓が響き渡る。

 黒森峰とグロリアーナの垣根を越えて、青臭い少女の声が響き渡る。

 

『ダージリンさんに告ぐ! 試合開始直後に私は私の部隊を率いてあなたを貰い受けに行く! 絶対に逃がしはしない! 地の果てでも、地獄の向こう側でも、何処に行こうとあなたの姿を見つけて、その青く気高い全てを奪いにいく! 全てを欲しているのがあなただけなんて、馬鹿な考えは捨てて下さい! あなたは私の全てを受け入れるとおっしゃってたんですよね!? なら――』

 

 カーン、と無線が音割れした。

 

『あなたが欲しいという私の欲望も受け入れて下さい! 私はあなたを信じています!!』  

 黒森峰とグロリアーナ、雌雄を決するときがきた。


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