黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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秋山優花里の戦車道 16

 薄暗く、肌を刺すような冷気に満ちた廃墟の中、気温とは裏腹に、彼女たちは汗を掻いていた。

 それぞれ破格の重量を誇る転輪と履帯を運び回り、優花里の指示を受けながら、傷ついた自分たちの戦車に応急処置を施していく。

 被弾の衝撃で、砲塔の回転機構に不調をきたしたⅣ号戦車もその例外ではなかった。

 

「砲塔、回るようになりましたね」

 

 破損していた砲塔の回転装置に対して行った処置が功を奏したのか、華の操作に合わせてⅣ号戦車の砲塔が回った。

 取り敢えずはこれで戦うことが出来ると、優花里は安堵の息を吐く。

 けれども、その顔色は優れない。

 

「ええ、そうですね。三突も、M3リーも、どれもこれも致命傷だけは免れましたから」

 

 彼女は何とか廃墟に逃げ込んできた車両たちを見つめる。全国大会が始まってから、ここまで車両たちがボロボロになるのは初めてだった。

 戦車道という、戦車が破損しても当然の大会ではあるが、やはり傷ついた戦車というものは見ていて気分の良いものではないのだ。

 

「……わたくしの不徳の致すところです。わたくしの冷静さが足りなかったため、このような事態を招いてしまいました」

 

 優花里が思い出すのは、プラウダの釣り野伏せにまんまと引っかかってしまった自らの失態だった。

 一見、(かい)(そう)をしているように見えるTー34を必要以上に追い回してしまったが為に、今現在のように包囲されてしまう結果になってしまっていた。

 チーム全体の浮ついたムードを押さえきれなかった自分の責任だと感じているのだ。

 

 何となくわかっていたのに、

 何となく、罠かもしれないと理解していたのに、

 

 大丈夫だ、ここが攻め時だと、自分に都合の良い嘘を吐き続けてきた結末が、目の前に横たわっている。

 

「……いえ、プラウダの罠に引っかかったのはチーム全体の責任です。決して優花里さんだけの問題ではありません」

 

 華の言葉は正しい。

 けれどもそういった事態に陥らないように、ブレーキをかけなければならなかったのが自分だと理解しているからこそ、優花里の胸の内は苦しいものだった。

 

「たぶん、自惚れていたんです。ここまで素人ながら勝ち進むことが出来て、もしかしたら行けるかも、と甘い期待を抱いていたんですよ」

 

 Ⅳ号戦車の狭い車内、優花里の吐く白い息が霧散し消えていく。砲手席でそんな彼女を見上げていた華は、これ以上どのような言葉を優花里に掛ければいいのかわからないでいた。

 沈黙が、車内を支配する。 

 けれどもその無言の時間は一分と続かなかった。何故ならキューポラから一応は副隊長である桃が車内を覗き込んできたからだ。

 

「秋山、会長とプラウダの使者の交渉が終わった。今から作戦会議を始めるぞ」

 

 

01/

 

 

 チーム全員の土下座と、学園艦の清掃及び麦踏み。

 それがプラウダ高校が提示してきた大洗女子学園に対する降伏条件だった。

 当たり前のことだったが、それを聞かされた大洗の面々は憤りを隠さなかった。

 

「いくら弱小校とはいえ、酷すぎる! 隊長、最後まで戦いましょう!」

 

 勝負事に関して、一番熱い心を持っているバレー部チームが優花里に詰め寄った。特に典子は優花里へ掴みかからんとする気迫である。

 普段はグデーリアン、グデーリアン、と笑っている歴女チームもそれぞれが静かに闘志を燃やしていた。

 

「今こそ我々の戦い様を見せるときだ。チーム一丸となって、最後の抵抗を見せよう」

 

 エルヴィンの宣言に、同調の声があがる。

 

「箱館、五稜郭の戦いで華々しく散った土方歳三ぜよ」

 

「いや、寡兵ながらもローマを翻弄し続けたハンニバル・バルカだ」

 

「それこそまさしく真田丸で徳川に決死の抵抗を見せた真田左衛門佐信繁だ」

 

『それだ!』

 

 なら、我々は徹底抗戦の意志でいいのだな、と桃はチーム全体を見渡した。彼女の視線を受けた面々は、小さく頷くことで自らの意志を示した。

 だが桃の視線がとある場所で止まる。

 それは自身の隣に立っていた優花里だった。

 

「どうした秋山? 我々に降伏の選択はない。早速起死回生の策を立てるぞ」

 

「…………」

 

「おい、秋山!」

 

 何も言葉を返さない優花里に、桃は苛立ちを見せた。そして彼女の肩を掴んで揺さぶった。

 だが、それでも反応がない。

 いい加減にしろ! と怒鳴りかけたとき、優花里の手によって、桃の腕は振り払われていた。

 まさかの展開に大洗の全員が動揺する。

 一番の狼狽えを見せたのはやはりというべきか、桃であった。彼女は信じられない、と目を剥いたあとすぐさま涙目になって柚子に泣きついた。

 

「柚子ちゃああああああん!」

 

「はいはい、大丈夫だから。秋山さんもわざとじゃないから。ね? そうでしょ、秋山さん?」

 

 けれども柚子のフォローにすら、優花里は言葉を返さない。静かにある一点を見つめ、ぶつぶつと何かを呟いていた。

 これは様子が可笑しいと、いぶかしんだ杏が側に寄る。

 

「ねえ、秋山ちゃん、もしかして体調でも……」

 

 悪いの? とは問えなかった。何故なら杏は優花里の呟きの意味に気がついたからだ。

 

「プラウダのカチューシャは昨年黒森峰の逸見カリエが立てた背後強襲作戦に破れている その後の練習試合においても包囲殲滅陣を西住みほ単騎に蹂躙され総崩れになったところを逸見姉妹に押されて敗北 黒森峰に対する勝利は未だなし なら彼女は本大会において何をめざす? 優勝 違う 勝利 当たり前

 ならそれら全てを達成することのできる完全勝利 そのために必要なものは カチューシャは何をしなければならない カチューシャは私たちとの試合に何を求める……」

 

 本当に耳を凝らさなければ聞こえないような小さい声。しかしながら紡がれている言葉は秋山優花里の思考そのものだった。

 杏は優花里から一歩身を引いた。

 今己が踏み込むべきではないと判断し、優花里から退いた。

 

「ね、ねえ、ゆかりん」

 

 心配した沙織が駆け寄ろうとするが、それは麻子が止めた。麻子もまた、優花里の変調の意味に気がついていた。

 

「少し待て。秋山さんの邪魔をするな」

 

「邪魔って――」

 

 そんなことない、と沙織が反論し掛けたその時、ようやく優花里の呟きが収まった。

 彼女は自身の出した結論が信じられないと言わんばかりに、髪を掻き毟った。さすがにそれは見過ごせないと、杏と柚子が目配せし合い、左右から優花里を取り押さえる。

 

「大丈夫、秋山ちゃん。秋山ちゃん一人だけじゃないんだ。ここには大洗のみんながいる。だから落ち着いて」

 

「そうだよ。だから秋山さんの考えを教えて? みんなでこのピンチを乗り越えていこうよ」

 

 優花里の自傷まがいの行為はすぐに収まった。だが代わりにその肩を振るわせてその顔を両手で覆う。

 そして顔を隠したまま、ぽつりぽつりと零し始めた。

 彼女は自信の思考に怯えていた。

 

「……私たちはプラウダにとって、決勝戦に挑むまでの体の良い練習台にしかすぎません」

 

 ざわっ、とどよめきがチームメンバーに走った。

 それはまともな対戦相手扱いされていないという、辛辣な事実を知らされたからだ。

 けれども優花里はそんなチームメンバー達を無視して続ける。

 

「カチューシャさんは私たちを仮想黒森峰と考えています。私たちが破れかぶれで行おうとしている最後の突撃を、黒森峰の電撃戦に見立てて封殺しようとしています」

 

 優花里の導き出した結論に反論したのは沙織だった。

 

「でもゆかりん、それはあくまでゆかりんの想像でしょ? 全部その通りになるなんてことは――」

 

 瞬間、爆発した。

 これまで何とか均衡を保っていた優花里の精神が爆発していた。

 自分だけで完結させていたあらゆる感情が吹き飛んでいた。

 屈辱、後悔、懺悔、それら全てか吹きすさぶ。

 

「状況がそういっているんですよ! 何であれだけの練度がありながら、我々は一両も撃破されなかったんです!? 何であれだけ悠々と追いつめていながら、我々の車両は致命傷を免れているんですか! 彼女たちは私たちを都合の良い実験台程度にしか考えていないんですよ!」

 

 ふーっ、ふーっ、と優花里が荒い息を吐いていた。誰もが初めてみる秋山優花里だった。いつも朗らかに笑い、大好きな戦車道にのめり込んでいる優花里ではなかった。

 

「お、落ち着いて秋山さん」

 

 柚子がそんな優花里の背を叩き、なんとか宥めようとしている。桃もいつの間にか泣き喚くのをやめて、そんな優花里の手を取っていた。彼女なりに無神経な自身の振る舞いを詫びているつもりだった。

 

「…………しましょう」

 

「え?」

 

 やがて、息を整えた優花里が俯きながら何かを口にした。

 その言葉は最初、誰も聞き取れなかった。

 だが二度目に同じ言葉が紡がれたとき、その意味は全員に伝播していた。

 

「降伏、しましょう。私は皆さんの安全を預かる身でもあります。これ以上皆さんをプラウダの苛烈な砲火の下に晒すことは出来ません。この試合は普通の試合とは違います。黒森峰という名の亡霊に憑かれた哀れな羆を相手取る消耗戦です。おそらく我々は一切の手心なく蹂躙されます。そんな無茶苦茶な試合の元で、まだまだ素人の私たちは自分たちの身の安全を担保出来ません。だから降伏しましょう」

 

 

02/

 

 

「――カチューシャが試合を止めたわね。慈悲のつもりかしら」

 

 ダージリンの零した疑問に、カリエは首を横に振っていた。

 

「いや、違う。あれは大洗が破れかぶれの突撃をしてくるようにし向けているんだ。プラウダは大洗を利用して、自分たちのチームや戦術を完成させるつもりだ」

 

 突如として両軍が動きを止めたことにより、観客たちはざわめいた。

 だがカチューシャの嗜好、その恐るべき知力を知っているカリエとダージリンは落ち着いて状況を分析していた。

 

「だとしたら苛烈にして悪辣ね。カチューシャ、秋山さんの心を徹底的に折ってしまうわよ」

 

「彼女にはそのつもりはないよ。ただ、私たちに対するリベンジを必ずや果たすつもりなだけ」

 

 パブリックビューイングの液晶には、「降伏交渉中」の文字が踊っている。

 勝利の見込みが完全消滅する程追い込まれた学校が、乗員たちの安全を守るために降伏を申し出るのは大会規約で認められていた。

 もしや大洗はそれを使うのか、と観客たちは勝手に想像し邪推している。。

 

「逆、ね」

 

 ダージリンの告げたとおり、実際にはその逆だった。

 絶対に大洗が飲み込めないような条件を突きつけて、自分たちに突撃させるのが目的なのだ。

 つまり交渉を持ちかけているのはプラウダである。

 

「でも大洗の一か八かの突撃は危険極まりないわ。素人の彼女たちではプラウダの重火力を受け流すことが出来ない。下手をすれば怪我人の可能性もある。秋山さんは何処まで冷静に判断が出来るのか……」

 

 ダージリンの言葉に、カリエは頷く。

 プラウダの黒森峰に負けず劣らずの火力を知っているだけに、その内心は穏やかではなかった。

 試合前、無邪気にここまでこれたことを喜んでいた優花里の事を思い出す。

 どうかせめて、引き際は間違えないで欲しいと、カリエは願っていた。

 

 

03/

 

 

「ふざ、けるな」

 

 絞り出すように優花里へ口を開いたのは桃だった。

 彼女は優花里の胸ぐらを掴みあげると、その怒気を隠すことなく詰め寄った。

 

「降伏するだと!? ここまでコケにされておいて、のこのこと白旗を揚げろというのか!?」

 

 沸騰している桃に対して、優花里は冷静に、冷たく言い放った。

 

「そうです。降伏を受け入れます。私の戦車道は勝利を追い求めるものではありません。皆さんが楽しく、安全に続けられるようにサポートし続けるのが私の戦車道です」

 

 それは優花里が戦車道を初めて以来、一貫してとり続けてきたスタンスだ。

 勝利に(こだわ)ったことは一度も無い。

 自分と共に戦車道をしても良いと思ってくれている仲間達が、競技を通して幸せだと感じられるように汗を流し続けてきたのが彼女の戦車道なのだ。

 そしてこれからもそれを曲げるつもりはなかった。

 

「馬鹿なことを言うな! 勝たないと意味がないんだ!」

 

 だが桃も譲れなかった。自分たち、いや、学園が陥っている状況を理解している彼女はここで白旗を揚げる訳にはいかなかったのだ。

 ここで諦めれば全て終わりであることを知っていた。

 だから、激情に身を任せつい口走ってしまう。

 決して告げてはならない言葉を。

 杏からは「秋山ちゃんに知らせてはならない」と厳命されていた真実を。

 

「勝たないと終わりなんだ! 我々は負けた時点で終わりなんだ! 秋山は学園が無くなっても良いのか!?」

 

 しん、とそれまでの喧噪が一瞬で静まった。

 誰もが言葉を失い、桃までもが己の失態に気がついて顔を青くしている。

 ただ杏だけがあちゃー、と天を仰いでいた。

 そして杏の次に正気を取り戻した柚子が慌てて桃に駆け寄り、「桃ちゃん!」と叱責していた。

 一人取り残された優花里が、震える唇で言葉を吐く。

 

「なんですか、それ」

 

 それは底冷えすら生ぬるい、余りにも冷たい声色だった。

 対面する形になっていた桃が数歩後ずさるくらいには、感情のない声色だった。

 

「学園が無くなるって、我々が負けたら学校がなくなるってどういうことなんですか」

 

 生徒会が何かを隠していることは薄々気がついていた。

 けれどもそれはもっと予算のことだったり、人員のことだったりと優花里が頭を各所に下げて回れば解決することの出来る話だと考えていた。

 だがその生徒会から告げられた本大会の真実。

 負ければ、そもそも学園がなくなるという話は完全に優花里の想像の範囲外だった。

 

「――会長、説明してくれますよね」

 

 優花里の雰囲気から、これ以上隠し通すことは出来ないと杏は観念した。

 観念して、事の顛末を語り始めた。

 大洗女子学園の廃校の危機を、そして廃校回避の為に文部科学省と交わした一つの約束を。

 

 戦車道大会で、万が一でも優勝すれば廃校撤回について考慮するという約束を。

 

 一同の空気が質量を持ったかのように重たいものへ変わる。

 誰もが口を開く事が出来ず、俯いていた。

 そんな凍えた空間の中、優花里だけが杏に言葉を投げかけていた。

 

「私に黒森峰のエキシビションマッチを見学させたときからこの計画は練られていたのですか」

 

 杏は淀みなく答える。

 もう隠しても仕方がない、嘘を吐いても仕方がないといったように。

 

「そうだよ。12月の合宿も、それからの猛練習に対する許可も全てこの大会で優勝するために仕込んだものさ」

 

 優花里は続けた。

 

「本当にそんなもので優勝できると思っていたんですか。そんな付け焼き刃で戦い抜けると思っていたんですか」

 

「思っていなくとも、縋らなければならなかったからね。この大会は私たちに残された最後の希望なんだ」

 

 杏を優花里が見下ろした。杏に初めて向ける、裏切られた悲しみと怒りに溢れた揺れる瞳だった。

 

「私を、利用していたんですね」

 

「否定はしないよ」

 

 ぐらり、と優花里の世界が傾く。

 咄嗟に沙織が駆け寄り、その身体を支えてやらなければそのまま冷たい地面に叩き付けられていただろう。

 沙織は腕の中の優花里がやけに軽いことに気がついて、きっと杏を睨んだ。

 

「私は、私は皆さんと共に楽しむ為に戦車道を続けてきたんです。そのために寝食も忘れて頑張ることが出来たんです。そんな意味不明な重しを背負うために、頑張ってきた訳じゃないんです」

 

 頭を抱え、現実が認められないと言った風に優花里は喘いだ。

 涙混じりの言葉を誰も止めてやることは出来なかった。

 

「……ごめんよ。でも、こうするしかなかったんだ」

 

 悔しさを滲ませるように杏は言葉を絞り出していた。

 彼女も彼女で葛藤や後悔を抱えていたのだろう。けれどもそんな杏の気持ちを汲み取ってやれるほど、今の優花里には余裕がなかった。

 彼女は涙ながらに、ぽつりと消え入りそうな声でこう告げた。

 

「――もう、もう私には指揮が出来ません。大洗戦車道隊長としての権限を全て河嶋先輩に移譲します。私には地獄しか待ち受けていないこの先に、皆さんを連れて行けるだけの勇気も実力もありません」

 

 

04/

 

 

 廃墟の片隅で、優花里は膝を抱えていた。

 これほどに心の痛みを感じるのは、友人に恵まれず一人で生き続けてきた中学生の時ぐらいしか記憶にない。

 それくらい、この一年間は毎日が充実した幸せな日々だった。

 

 大好きな戦車に、己が持ちうる情熱の全てを傾けることが出来ていた。

 気がつけばたくさんの友人に囲まれて、いつも笑顔を零していた。

 目標としたい人も出来た。

 たくさんのライバルも作ることができた。

 

 そんな幸せな戦車道にこんな落とし穴が待ち受けているとは考えもしなかった。

 学園存続の重荷を突然背負わされるなんて、想像が付くはず無かった。

 彼女の戦車道はチームメイトと楽しむ戦車道だった。

 何か一つの大義を成し遂げるための戦車道ではない。

 誰かに利用されても良しと出来る戦車道ではなかった。

 

 いや、と優花里は首を振った。

 

 本音では杏達の事情も理解することが出来る。

 学園存続のために、何かしらの成果を上げるため、戦車道に縋ら(すが)なくてはならなかったこともわかっている。

 これまで生徒会には数え切れないくらい助けて貰ってきた。

 予算で、人員で、時には個人的な相談で、此度の騒動程度でこちらが切り捨てて良いような義理ではないはずだった。

 

 それでも駄目なんです、と優花里は再び涙ぐむ。

 

 理屈ではわかっていても、理性が囁い(ささや)ていても、生徒会に対する憤りがどうしても押さえることが出来ない。

 これでは駄々を捏ねる子供ではないか、と己を叱咤しても心が納得しなかった。

 自分でもどうしてここまで意固地になっているのかわからないくらい、心が(がん)()(がら)めだった。

 

 仲間達の安全を最優先にしているのは嘘ではない。

 プラウダの総攻撃に皆が傷つくことが耐えられなくて、試合を放棄したのは事実だ。

 けれども全ての真実でもなかった。

 本当にそれを優先しているのならば、桃に指揮権の移譲などせずに、今すぐにでもプラウダ陣営に突っ走って降伏の旨を伝えに行けば良かったのだ。

 でも現状は違う。

 こうして仲間達が作戦会議を続けているのを、ぼんやりと少し離れたところで見つめ続けている。

 もちろん学園が失われることはショックだ。出来ることならば阻止したいと考えている。

 だがその感情を優先するのならば、真っ先に大洗の輪に戻って作戦について議論すべきだった。

 仲間がどうとか、自分に対して言い訳をする前に行動に移すべきだったのだ。

 

「なんて馬鹿なんでしょう、私は」

 

 結局のところ、優花里はどっち付かずだった。

 降伏も徹底抗戦も優花里は選べていなかった。選択することが出来ていなかった。

 学園を見捨てることも、仲間を危険に晒すこともどちらも出来なかった。

 選べるわけがなかったのだ。

 

 学園は、いや学園艦は優花里を育ててくれた街だった。言わば第二の故郷そのものであり、彼女にとって何物にも代えがたい大切なものだった。

 杏や桃、柚子達も学園艦のことを愛してはいるが、それに負けないくらい優花里も愛していたのだ。

 そんな学園艦の統廃合をみすみす見逃せるはずもなかった。

 

 しかしながら、それと同じくらい戦車道を通して出来た友人達も彼女にとって大切なものだった。

 自分の戦車道がこれで間違っていないと教えてくれた、かけがえのない人々だったのだ。

 いくら学園艦を守るためとはいえ、そんな彼女たちを勝ち目のない危険な戦いに連れて行くなど不可能だった。

 学園艦と友人、どちらも彼女にとっての最大の宝物であるからこそ、ここまで心は捩れ、悲鳴を上げていた。

 何を選べばいいのか、どちらが正しいのかわからなくなっていたのだ。

 

 そんな優花里の心境を知っているからこそ、大洗の生徒達は誰も彼女を非難しなかった。

 杏も柚子も、桃でさえも権限を移譲したいと告げた優花里を責めることは出来なかった。

 自分たちがどれだけ酷な選択を迫っているのか、わかってしまっていたから。

 

「……こんな時、あなたはどうするんですかね。カリエさんは戦車道でこんな辛い思いをしたことがあるんでしょうか」

 

 気がつけば、見えない何かに問いかけていた。

 自分の眼前に、虚空に問いを投げかける。

 

「カリエさんは選ばなければならない時って、あったんですか? 人生でこんな究極の二択を選ばなければならない日があったんですか?」

 

 思わず口をついて出てきた名前は、戦車道において目標とし続けている恩人だった。

 彼女がいなければ自分は戦車道をやってみようとは思わなかった。

 彼女の決死の活躍を目にしなければ、戦車道の世界など画面の向こう側の出来事だった。

 

 カリエが負かしてくれたから、もっと強くなろうと思った。

 カリエが努力の方法を教えてくれたから、疑いなく戦車道に打ち込むことが出来た。

 偵察が怖くなかった。戦車を覚えることが苦痛ではなかった。戦術がすらすらと頭の中に入ってきた。

 

 カリエがいたから、自分はやっとここまで来られた。

 

 ふと、手を伸ばす。

 目の前に鎮座するⅣ号戦車に手を伸ばす。ここまで一緒に戦ってきた戦友に手を伸ばす。

 何故だか、薄暗い廃墟の下に佇むそれに見覚えがあった。

 心の何処かの原風景に触れているようで、心の重しを降ろすことが出来そうな気がした。

 そんなものに縋りたいくらいには優花里の精神は疲弊していた。

 

「――あなたはどこでお会いしたのでしょうか」

 

 優花里の胡乱な心境とは裏腹に、彼女の思考は高速な回転を見せていた。

 過去の記憶を総当たりし、目の前の光景と一致する場面を必死に想起する。

 

 初めてⅣ号戦車を見つけた学園艦のガレージ――違う。

 テレビの向こう側に見た黒森峰のⅣ号戦車――違う。

 子供の頃に雑誌で見たⅣ号戦車――違う。

 

 ならばどれだ?

 どのⅣ号戦車が今目の前の風景に重なって見えるのだ?

 

 ふらふらと、優花里は立ち上がった。

 立ち上がってⅣ号戦車に歩みを進める。かの戦車が近づく。かの戦車が視界いっぱいに広がる。

 履帯に触れた。

 履帯に付いていた白銀の雪が、優花里の革手袋に触れた。

 その冷たさが、儚さが、彼女の心に掛かっていた(もや)を吹き飛ばしていた。

 

「……ああ、そうだったんですね。なんて馬鹿なんでしょう、私は」

 

 台詞は先ほどと同じもの。

 けれどもその声色は、その表情は、その意味は全くといって良いほど真逆のものだった。

 優花里に声を掛ける事を躊躇っていたチームメイトが驚くくらいには、安堵に満ちた声と表情だった。

 

「本当にあなたは凄いです。私が、いえ、わたくしが助けて欲しいと思ったときには、こうやって手を差し伸べてくれるんですね」

 

 雪を握りしめる。

 その銀の証を手の中に刻む。

 

 優花里は思い出していた。

 暗い照明の元に佇むⅣ号戦車。そしてそれを恨めしく、膝を抱えて見つめるさっきまでの自分のような人影。

 銀の髪に、翡翠色の瞳。

 天使のような少女は、自分の戦車道に対する心の原風景。

 彼女は優花里に名前を告げていた。

 散々引っ張り回し、戦車について精一杯語って見せた優花里に名を告げていた。

 

 ――逸見カリエ。それが俺の――いや、私の名前。

 

 

09/

 

 

 別に優花里が立ち直ることを期待していなかった訳ではない。

 けれどもこの試合中に全ての葛藤を飲み込んで貰うことを強要するつもりは、なかった。

 自分たちが彼女の好意を、戦車に対する情熱を利用していたことは認めていたし、罪悪感も常々感じていたからだ。

 だから半ば諦めにも似た感情を抱きながら、杏は桃と作戦を練り続けた。

 練り続けて、如何に自分たちが優花里におんぶ抱っこだったのか、と思い知らされていた。

 まず作戦の立て方がわからない。

 何となくこうすればいいのかもしれない、というビジョンは思い浮かぶものの、それを明確化するデータも知識も経験も何もかもが足りていない。

 その現実に薄々気がついているのか、桃や柚子の表情は暗かった。

 目の前に横たわっている「敗北」という名の現実に絶望していることが在り在りと見て取れた。

 だが自分までそんな表情をしては終わりだと、杏はあくまで気丈に振る舞っていた。

 

「だから残り二時間で何とか偵察を済ませるんだ! そして包囲が薄いところを何としてでも突破する!」

 

 桃の力説も空回りするばかりだ。

 彼女の意見の正当性を理解することが出来ていても、どういった風景を見て、包囲が薄いと判断して良いのか、どのような事に注力して偵察をすればいいのか誰もわからなかった。

 薄々その事実に皆が気づき始めていても、誰も対案を出すことが出来ない。

 誰も作戦について意見を述べることが出来なかった。何が正解で、何が間違っているのかわからないのだから。

 

 もう駄目だ。

 

 誰かが呟いた。

 これまでギリギリで保ち続けていた最低限の士気の維持すら困難になっていた。

 寒さと圧倒的なプラウダとの実力差、そして優花里の離脱という現状が彼女たちを追い詰め始めていた。

 杏はもしかしたらこれが年貢の納め時かも知れないと、静かに瞳を伏せた。

 

「――その突破法では駄目です。包囲が薄いところは仕掛けられた餌です。カチューシャさんは必ずやそこに火力を集中させ、わたくしたちを殲滅しにきます」

 

 声がした。

 誰もがその声に耳を疑った。

 もう自分たちを引っ張ってくれる筈のない、隊長の声がした。

 バサリと作戦会議の場に使われていたテーブルに大量の資料が積み上げられる。

 

「これがプラウダの編成と戦術傾向です。彼女たちはここ一年間、敢えて包囲に綻びを作るという面倒な訓練に勤しんでいました。相手に気がつかれないように、悟られないように、罠を張る方法を訓練し続けたのです」

 

 彼女は資料を指さす。

 指さして、大洗のこれからを示す。

 

「敢えて包囲の厚い部分を突破する必要があります。そのためには偵察班を編制して、包囲の全容を確かめる必要があります。麻子殿、そど子殿、エルヴィン殿はこの後、雪中偵察の装備をお渡ししますので、偵察をお願いします。麻子殿とそど子どのは確か視力が良かったですよね。エルビン殿は私と共に敵のフラッグ車の捜索をお願いします」

 

 すらすらとそれぞれの隊員がすべきことを羅列していく。

 彼女たちの長所を活かした、適材適所を組み上げていく。 

 

「はっきり言います。二時間後、間違いなくわたくしたちは人生で一番怖い思いをするでしょう。怪我だってするかもしれません。けれどもわたくしの事をもう一度信じてはくれませんか。一度は投げ出したわたくしですけれど、もう一度だけ、着いてきてはくれませんか」

 

 その場にいた全員が優花里を見た。

 誰もが自分たちの隊長を見た。見て、その力強い瞳と目が合った。

 試合前よりも遙かに覚悟に漲った瞳がそこにはあった。

 

「必ず勝ちます。プラウダに勝ってみせます。大洗女子学園を廃校になんてさせません。そして、皆さんを戦車道に失望させたりなど、絶対にさせません」

 

 杏は自身の表情が綻んでいくのを感じた。 

 そして恥じた。

 優花里の事を甘く見すぎていた自分を恥じた。

 彼女の本当の芯の強さを未だに認めていなかった自分を、大いに恥じた。

 

「もちろんさ、秋山ちゃん! 必ずプラウダに、そして黒森峰に勝って大洗に帰ろう!」

 

 飛びつくのは、ハグをするのはまだまだ先だと自分に言い聞かせた。

 歓喜の瞬間はその時に取っておくのだ、と何とか両足を地に縫い付けた。

 けれどもそれくらいしなければならないほど、杏の心は喜びに満ちていた。

 自分たちの隊長が帰って来た事を喜んでいた。

 

 誰も優花里が戻ってきたことに異論を唱えることはない。

 それどころか、全員がその復帰を喜び、大なり小なり彼女に抱きついた。

 優花里はそれらを一つ一つ受け止めて、微笑んだ。

 自分が手に入れたものの、大切さ以上に、その強さを噛みしめていた。

 

 いつも心の片隅にあった原風景。

 天使のような女の子と戯れた、幼少の夏。

 優花里の戦車道は去年の夏から始まったのではなかった。

 実のところ、同じ人物によってその遙か昔から種が蒔かれていたのだ。

 

 優花里は思う。

 このプラウダ戦は所詮通過点に過ぎないと。

 ここに勝って、最高の舞台で、最高の戦力を率いるカリエと戦ってこそ、自分の戦車道が完成するのだと。

 それがカリエをこの世界に引き込んだ自分の義務なのだと。

 

 待っていて下さい、と声が漏れる。

 

 この雪原の何処かで自分たちの事を見守っている彼女に、言葉を紡ぐ。

 試合再開まで残り二時間弱。

 大洗女子学園の秋山優花里は、遂に自分の戦車道を見つけていた。

 

 

10/

 

 

 試合が始まった。

 大洗女子学園が降伏しないまま、タイムリミットを切った。

 試合再開の空砲が雪原を揺るがす。

 プラウダの戦車隊が徐々に前進を始めて、その包囲を縮めつつあった。

 陣頭指揮を取るカチューシャは、教会内から聞こえてくる複数のエンジン音に気がついていた。

 彼女の鋭敏は耳は、大洗の交戦の意思を明確に掴み取っていた。

 

(じゆう)(りん)するわよ! ぎったぎたの滅茶滅茶にしてピロシキのお惣菜にしてやるわ!」

 

 砲声が轟く。

 幾つもの曳光が教会に飛び込んでいく。

 T-34たちによる砲撃だった。大洗も負けじと教会内から応戦する。

 だがその砲弾は雪原に雪の柱を刻み込むだけだった。

 プラウダ側に明確な被害は一切見られない。

 

「そろそろ出てくるわよ! 気をつけなさい!」

 

 カチューシャが警告したとおり、どん、と一両の車両が飛び出してきた。

 38t戦車だった。その38t戦車は煙幕を炊いていた。

 教会の入り口を包み隠すような、煙幕を周囲に撒き散らしていた。

 

「ちっ、出てくるところをカバーするつもりね。煙幕から距離を取りつつ砲撃を続行。後続にプレッシャーを与えるのよ」

 

 絶え間ない砲撃に煙幕が晒される。

 煙幕内にいるであろう、大洗の車両の装甲に砲弾が接触しているのか、時折甲高い金属音が響き渡った。

 このまま行けば、試合終了も目前だと、カチューシャは笑顔を見せた。

 

「黒森峰を打ち倒すのはこのカチューシャよ! どいつもこいつもよーく覚えておく事ね!」


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