黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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大変長らくお待たせしました。最終話の一話目です。


秋山優花里の戦車道 18

 夕食時のことだった。

 昨日までそうしていたように、エリカが台所に立ち、カリエとみほの分の食事を用意していた。

 いつもならば鼻歌交じりに料理を行っているエリカだが、この日は何故か勝手が違っていた。

 大きな青筋をこめかみに刻み込み、野菜を断ち切る包丁の音は小気味よいざくざくとしたものではなく、まな板まで両断せんばかりの凄まじいものだった。

 彼女の目に見えた不機嫌さを感じ取っているのか、みほはボコのぬいぐるみをしっかりと抱きしめ、居間で震えていた。その隣のカリエも知らぬ存ぜぬと、内容のちっとも入ってこないテレビに視線を向けている。

 そしてとばっちりというかなんと言うべきか、夕食に招待されていた小梅もそんな両人の間でおろおろと狼狽えている。

 ダージリンだけが、カリエの肩に体重を預けて平然とリラックスしていた。

 

 ダン!

 

 びくうっ、と三人の肩が跳ね上がった。もちろん誰の肩かは言うまでもない。みほとカリエ、そして小梅が恐る恐る台所を振り返ってみれば土鍋を一つ抱えたエリカが立っていた。

 彼女はその据わりきった目でカリエを見定めるとたった一言。

 

「鍋敷き」

 

「はい! お姉さま!」

 

 いつもの気怠げな調子を完全に投げ捨てて、カリエが立ち上がった。そして戸棚から姉が望んでいる物を取り出し、恭しくテーブルの上にセットする。

 

「みほ」

 

「はい! 何でしょうエリカさん!」

 

「小皿四つ。お箸も四つ」

 

 隊長としての威厳も何処へやら、みほもカリエのように切れのある動きで戸棚に走った。だがその手は小皿に触れるか触れないかのところで止まってしまう。

 何故ならダージリンの声が聞こえたからだ。

 

「あら、エリカさんはお腹が空いていらっしゃらないの? 勿体ないわ。こんなにも美味しそうなのに」

 

 鍋の中に煮立つ水炊きを見て、ダージリンは眉根を(ひそ)めていた。彼女はエリカの告げた小皿の数が、この場にいる人数に比べて一つ少ないことを指摘していた。

 つまり、カリエと自分、みほと小梅だけが鍋を食べても良いのか、と遠回しに問うていたのである。

 本場イギリスのような皮肉な言い回しに、ついにエリカがキレた。

 

「ばっかじゃないの!? あんたの分なんてそもそも用意してないのよ! 何したり顔でウチに居座っているのよ!」

 

 エリカは我が物顔で逸見宅に居座るダージリンに詰め寄った。カリエとみほ、そして小梅がそれぞれ身を抱き合うくらいには凄まじい剣幕だったが、ダージリンは何処吹く風と言わんばかりの涼しい顔でそんなエリカを受け流す。

 

「あなたたちが(よこ)()()から(わつか)(ない)に移動して下さるというからカリエさんに便乗をお願いしたのよ。そしたら何処かの誰かさんとは違って、快く承諾して下さったの。本当、何処かの誰かさんとは違って」

 

「別にあんたのためにそのルートを取っているんじゃないわ! 私たちは対戦校の見極めのためわざわざこんな寒いところまで出張ってきてるのよ! だ・ん・じ・て何処かの腹黒偏屈格言馬鹿のタクシーの為にここまできてるわけじゃないから!」

 

 そう、彼女たち黒森峰の学園艦は実の所、大洗やプラウダの学園艦と同じように、試合会場となっている高緯度地域に乗り付けていた。

 理由は言わずもがな、決勝で相対することになる対戦校研究のためだ。

 カリエがその事をダージリンに話したところ、横須賀から観戦に来ていた彼女が、学園艦への同乗を願い出たのだ。

 もちろんカリエはそれに快く応じた。そしてダージリンが良いのならば、家に泊まっていけば、と口走ってしまったのだ。

 そしてダージリンがそんなカリエの厚意というか好意を断るはずもなかった。

 ただカリエは一つ重要なことを失念していた。

 自身の姉と、ダージリンとの究極的とも言える相性の悪さを完全に忘れていたのだ。

 

「ううっ」

 

 かちゃかちゃと、無言の夕食が続けられる。

 あれからさらに二悶着ほどあったあと、結局食器を五人分用意して、皆して鍋をつついていた。

 エリカが用意した水炊きは冷たい気温も相まって絶品の域に達しており、普段ならばその美味しさを全員で喜んでいただろう。

 だが素直にその味を喜べない現状が存在している。

 箸を動かす手は重く、舌の上で踊る各種具材の味は、食卓に(まん)(えん)する重圧に押し潰されている。

 カリエの両サイドに腰掛けたみほと小梅がジト目で彼女を見た。

 責任追及の容赦ない視線を浴びたカリエは、箸を咥えながら呻くという器用な芸当を披露した。

 遂に針の(むしろ)になったカリエが弱音を零した。

 

「お姉ちゃん、ダージリンさん、お願いだから何か話して」

 

 二人からの応答はない。

 エリカはこめかみに青筋をこしらえたまま白菜を摘まみ、ダージリンは平然とした表情で鶏肉を口に運んでいた。

 カリエの奮闘ともいえないなんとも微妙な戦果に、みほと小梅が溜息を吐く。

 それはもうしばらくは無言の食卓が続きそうだ、という二人にとっての諦めの溜息だった。

 

 

01/

 

 

 入浴が終了すれば、就寝の時間だった。

 特に朝練を控えているダージリン以外の黒森峰組は早々に布団へ潜り込んでいた。

 みほの部屋にみほと小梅が、エリカとカリエはそれぞれ自室に、ダージリンが客間に寝床を敷いていた。

 だが、全員が全員、すんなりと眠りについたわけではない。

 何事にも例外というものが存在しているのである。

 

「……あら、エリカさんはお休みになられないの?」

 

 照明が落ちている居間のテーブルに、ダージリンが着いていた。

 彼女は携帯用の読書灯を頼りにノートにペンを走らせていたのだった。寝間着の上に半纏を着込んだエリカが、ダージリンの対面に腰掛ける。

 

(とぼ)けないで。カリエもみほも小梅も寝たから――、あんたの望んだ状況が整ったから来てやったのよ」

 

 言って、手にしていたスマートフォンの画面をダージリンに見せる。

 暗闇の中に輝く液晶には、メールの文面が踊っていた。

 

 皆さんがお休みしたら、二人で話しましょう。

 

 ダージリンは自身が送った文面を液晶越しに確認すると、静かに微笑んだ。

 

「去年のエキシビションマッチの時に連絡を交換し合ったのは無駄ではなかったようね。何より、あなたが私の連絡先を拒否も削除もしていなかったのはとても有り難いわ」

 

 ダージリンがそっと席を立つ。

 エリカが何事か、と視線を向けてみれば彼女は台所からポットを一つ運んできた。そしてそのまま、「紅茶を入れていたのよ」とテーブルに予め並べられていたカップにポットの中身を注いでいった。

 

「このあと眠れなくなるのは勘弁被るわ」

 

「心配なさらずとも、カフェインレスの特別製よ。大分冷ましてあるからむしろ安眠の効果さえあるわ」

 

 ダージリンから何かを与えられるというのは、エリカにとって(しやく)なことではあったが、無差別に厚意を否定するほど狭量でもない。

 彼女は黙って紅茶のカップを傾ける。

 

「で、話って何? 私はあんたと話したいことなんてこれっぽっちもないんだけれど」

 

 つっけんどんに応対するエリカに、ダージリンはあくまで余裕を崩さずに答えた。

 

「私は沢山あるわ。でもまずはそうね。謝罪と感謝を述べさせて頂くわ。――グロリアーナと私の保身の為に、あなたの妹を散々利用したことを謝罪します。大変申し訳ないことをしました」

 

 この言葉には、エリカが目を丸くした。

 もっと言えば、こちらに下げられた彼女の頭という光景が咄嗟に飲み込めなかった。

 プライド高く、グロリアーナでは女王として君臨する女の所作としてはあり得ないものだったからだ。

 ダージリンもそんなエリカの心境を見抜いているのだろう。

 ややあってから頭を上げ、彼女は小さく笑った。

 

「あら? 私の謝罪がそんなに意外かしら?」

 

 からかわれている、と理解したときエリカはついつい噛みつきそうになっていたが、カリエ達が就寝していることに思い至って、ぐっと踏みとどまった。

 ダージリンもそんなエリカの聡明さが好ましいのか、上機嫌に続けた。

 

「それと、何だかんだいって、こうして寝所まで用意して下さったことに対する感謝を。あなたの作った夕食、とても美味しかったわ。カリエさんが、あなたのことをべた褒めする理由がまた一つわかってしまったかもしれないわね」

 

 思わぬ賛辞にエリカは顔を紅くした。けれどもすぐにダージリンが不倶戴天の敵であることを思い出し、(ささや)き声で突っかかるという器用な真似をして見せた。

 

「私はあんたとカリエのことを絶対に認めないから」

 

「あなたはカリエさんが女性を愛することが嫌なの?」

 

 ダージリンの問いにエリカは即答する。

 

「あんただけは断じてありえないのよ」

 

 にべもないエリカの言葉にダージリンは「困ったわ」と大げさに(うそぶ)いた。

 一向に堪えていないことくらい、誰にでもわかるような仕草だった。

 その()(ゆう)(しやく)(しやく)の態度がムカつくわ、とエリカは追い打ちを掛ける。だがそんな子供染みた非難が通用する相手でないことくらい、彼女は悲しいかな、よくよく理解していた。

 

「なら仕方ないわね。私とカリエさんの蜜月も今日で終わり。これから二人別々の道を歩いて行くべきなのかも」

 

 ダージリンの視線が、獲物を狙う鷹のような光を持ったことをエリカは見逃さなかった。

 さらに自身が獲物に定められているということも。

 これはダージリンなりの舌戦のジャブであることを、重々その身に刻みつつ反論を返した。

 

「私とすればそうしてくれるのが、有り難いのだけれども」

 

 エリカが素っ気なく告げてみれば、自身のジャブが不発に終わったことを悟ったのだろう、ダージリンが一つ溜息を吐いた。

 

「本当に連れないわね」

 

「本当、あんたの性悪には呆れるわ」

 

 ほぼ同時に言葉を交わし合う。根本的に仲が悪いことを考えなければ、ある意味息ぴったりな二人だった。

 エリカもそれを薄々わかっているのだろう。ダージリン以上の溜息を盛大に吐き出した。

 

「癪だけど、あんたがあの子の心の支えになりつつあることはわかっているのよ。だからこそ、この絶好の機会にあんたに伝えとくわ。――カリエを次に泣かすような真似をしたら、比喩でも何でもなく殺してやるわ」

 

 別に凄みを利かせた訳でも、ドスを利かせたわけでもない。

 ただ本音を告げただけだったが、ダージリンがぐっ、と息を呑むくらいには凄まじい殺気が込められている言葉だった。

 やはり愛の力は侮れない、とダージリンは居住まいを正す。

 彼女も彼女とて、エリカの殺気程度で折れる性根などとうの昔に捨て去っているのだ。

 

「心配ご無用。私、こう見えて尽くす女なのよ」

 

 エリカがカリエに抱く愛とは、また違った愛をダージリンは誇った。

 カリエの中に混在している男性を受け入れると豪語した彼女がそこにはいた。エリカにとっては遺憾なことであるが、その心意気、その器の広さには感嘆する他ない。

 

「……前から気になっていたのだけれど、いつからあんたはカリエの秘密に気がついていたの? 私や両親しか知らないカリエの本当の姿。みほや小梅は全く気がついていないのに」

 

 ふと、エリカはここ最近抱いていた疑問を口にした。

 ダージリンから宣戦布告を受けたときから気になっていた疑問だ。

 自分たちよりも遙かに少ない頻度しか顔を合わせたことがないはずなのに、どうしてカリエの秘密に思い至ることができなのか、不思議で仕方が無かったのだ。

 エリカの疑問をぶつけられたダージリンは、紅茶のカップを手にしたまましばらくの間視線を周囲に彷徨わせていた。答えに窮しているという感じではなかったが、それでも即答できない様子だった。

 ダージリンの事だ。つらつらと理論立てて説明してくると身構えていたものだから、エリカは少しばかり驚いた。

 ようやく何かしらの答えを得たのか、ダージリンはそれから数十秒ほど経ってからようやく口を開く。

 

「言われてみればどうしてかしら。でも、あるふとした瞬間からカリエさんの違和感に気がついてしまった。そして、それに納得の出来る答えを見つけようとした結果が今なのかも知れないわね。でも、そうね、一度意識してからはあっと言う間だった。多分、カリエさんの中の男性が何処までも私の好みに合致していたというところかしら」

 

 何処までも底が知れない女だ、とエリカは呆れた。

 普通、好みに合ったからと言って、性別の壁を乗り越えて情愛を抱く人間がどれだけ存在しているのだろうか。ダージリン自身がそう告げているように、些か情が深すぎるのではないのだろうか。

 むしろ、それだけ彼女が気を張らなくても良い相手を探さねばならないほど、グロリアーナは魔窟だというのだろうか。

 

「いや、その両方か」

 

「はい?」

 

 思わず独り言が漏れた。

 そしてそれをダージリンに聞き咎められていたがエリカはそのまま流した。

 一瞬生まれかけた彼女への同情心を悟られたくなかったからだ。

 カリエという隣人に恵まれ続けてきた自身の人生を振り返ってみれば、グロリアーナで闘争に明け暮れているダージリンよりも遙かに恵まれてきたことは明白だった。

 

「ところでエリカさん。こうしてあなただけを呼び出した理由である、話の本題に入らせて貰っても構わないかしら。謝罪も感謝も重要だけれど、未来のためのお願いが私の目的なの」

 

 エリカが独り言について何も言わなかったので、ダージリンは遂に本題を切り出した。エリカも何となく勘づいていたのか、露骨に嫌そうな顔をして――、けれどもそのまま話の続きを待つ。

 

「とても簡単な、だけどあなたにしか出来ない事よ。……次の決勝戦、何か嫌な予感がするの。カリエさんに、あの人だけでは乗り越えられないような受難が待ち受けている気がする。あの人は残念ながらそういう星の下に産まれてきたとしか思えないような、試練に塗れた人生を送ってきているわ。だからこそ、あなたに彼女をどんな形でも良い、守ってあげて欲しいの。これは、カリエさんと共に戦うことが許されたあなたにしか頼めない願い事よ」

 

 何を今更、とは言えなかった。何故ならダージリンの告げた言葉が、エリカが心の片隅に抱いていた思いそのままだったからだ。

 双子故の勘の鋭さというべきか、エリカは決勝戦に対する嫌な予感というものを人一倍感じ取っていた。

 そして、もう一つの懸念すらも。

 

「――――」

 

「? 何か言いたいことでも?」

 

 不自然に沈黙を貫くエリカを見て、ダージリンが首を傾げた。

 エリカはこの自らが抱いている懸念をダージリンに告げて良いものなのかどうか迷った。だが、カリエが心を許した人間である以上、やはり伝えてはおくべきだ、と口を開く。

 

「あの子は人一倍のプレッシャーを今大会に感じているわ。準決勝で少しばかりマシにはなったけれども、でも心の根底では誰よりも敗北を恐れている」

 

 それはダージリンを驚かせるには十分すぎるエリカの言葉だった。

 準決勝であれだけ博打染みた一手を打ってきたカリエが敗北に怯えているなど、悪い冗談のようだった。

 だがエリカは無情にも続ける。

 

「あんたたちとやり合ったときは、良くも悪くもキレていたのよ。勝利や敗北を超えたところで戦うことが出来た。でも次は違う。次は我が黒森峰の十一連覇が掛かった試合。否が応でも、あの子の小さな肩にあらゆる重圧が降りかかる」

 

 ならば、とダージリンは反論の言葉を返す。

 

「フラッグ車をあなたが担当すればそれなりにプレッシャーは緩和されるのではなくて? それにティーガーⅡの防御力を持ってすれば大洗の車両に抜かれるなど早々無いはずよ」

 

 ダージリンの提案はもっともらしいものだった。戦略的にも戦術的にも理に叶った理想的なプランだ。しかしながらエリカは「いいえ」と首を横に振るだけだった。

 

「その話は何度かみほと議論を交わしたわ。そして出た結論はフラッグ車として認められない、というものよ。皮肉にもあんた達との決勝戦で私のティーガーⅡのフラッグ車としての適正のなさが露呈してしまった。足回りの弱さは少しでも小回りのきく車両を持ち込まれると何ともし難いディスアドバンテージになり得るから。やはり機動力があり、尚且つ車長が優れた能力を有するカリエ車が適任なのよ。それに、準決勝で晒してしまった醜態を再び繰り返すことは黒森峰には許されない」

 

 ダージリンが準決勝で指揮したクルセイダーによる波状浸透攻撃。それは今大会で黒森峰を最も追い詰めた戦術でもあり、黒森峰の苦渋の記憶でもある。

 王者が同じ過ちを犯すことは認められない。

 すなわち、その波状浸透攻撃に対する対策を万全にすることが求められているのだ。

 エリカの説明に、ダージリンはカップをテーブルの上に手放した。

 そして一つ息を吐き出し、こう続ける。

 

「……まさかそんな詰まらない(きよう)()でカリエさんに全てを押しつけるつもりなのかしら」

 

 今度はダージリンがエリカに対して凄む番だった。

 だがエリカは怯まない。

 ダージリンからの視線を真っ向から受け止めた。

 

「押しつけるのではないわ。分かち合うのよ。あの子の敗北に対するプレッシャーが自分勝手な思い込みであることを知らしめるべく、私たちはあの子を支えながら、それでいて大洗を叩き潰してみせるわ。それに――」

 

 一拍。

 エリカが笑った。ダージリンが目を見張るくらいには、美しい笑みだった。

 

「正直、黒森峰の栄光なんてあの子に比べれば本当にどうでもいいの。ただあの子が笑っていられるのなら、何でもするわ。例えそれが邪道と呼ばれる道でもね」

 

 ダージリンは何処か合点がいった、という風に再び紅茶に口を付けた。

 どうして自分がエリカに対して、それなりの好意を持って接することが出来るのか。

 どうしてエリカが自分の事を蛇蝎の如く嫌うのか、理解していた。

 ダージリンはエリカの目を真っ直ぐ見てこう告げた。

 

「あなた、考え方が私によく似ているのね」

 

 エリカは表情を変えなかった。

 嫌な顔一つせず、ただそれが確固たる事実であるかのように言葉を返す。

 

「本当にムカつくけれど、それは認めざるを得ないのかもね」

 

 

02/

 

 

 最愛の人たちの逢瀬を、カリエは扉越しに聞いていた。

 息を殺し、耳を研ぎ澄まし、二人の会話を伺っていたのだ。

 もともと二人の相性の悪さは気にはなっていた。

 ダージリンはそうではなかったものの、エリカのダージリンに対する確執は如何ともし難く、カリエ自身、それなりに気にかけていた問題だった。

 だが二人の会話を盗み聞きしたことによって、その難題が杞憂まではいかなくても、自分が想像していたよりは溝の浅い問題であることがわかった。

 何だかんだいって、エリカはダージリンのことを何処かで認めている節があるのだ。

 あの頑固な姉にそう思わせるダージリンの人間性と、エリカの器の大きさの両方に、カリエは感心する。

 感心して、ふと自分がどうなのか、と振り返った。

 姉として最大限の思いやりを与えてくれるエリカ。

 恋人として溢れんばかりの愛を注いでくれるダージリン。

 果たしてその二人に自分はきちんと義理を示すことが出来ているのが疑問に感じたのだ。

 振り返れば偽りだらけの人生。

 自身が抱える細大の秘密を守り通してきた毎日。

 誰に対してもいつも仮面越しに接してきていた。

 もちろん本音をさらけ出すことがなかったわけではない。エリカに対する感謝も、ダージリンに対する愛情も全て本物だった。

 けれども、彼女たちとの間に存在するベールはこれまで一度も剥がされたことがない。

 いや、それ以前に剥がそうと思ったことがない。

 そしてこれからも剥がしてはいけないものだと言うことも理解していた。

 

 だが、このままで良いのかという思いをどうしても捨て去ることが出来ない。

 演技にまみれた自分が正しいという確証が持てない。

 

 カリエは振り返る。 

 自分が騙してきた人々を思い出す。 

 

 奇行に走り続けていても、一度も見放したりしなかった両親。

 我が子ながら不気味で仕方なかっただろうに、決して見捨てず愛情を向けてくれた。

 

 少しでも妹が生きていき易いように、といくつもの道を教えてくれたエリカ。

 カリエの奇行が原因で周囲から責められても、()(ぜん)と立ち向かい、姉として守り続けてくれていた。

 

 僅かばかりの(かい)(こう)でも、本当の自分に迫り、それを愛すると告げてくれたダージリン。

 どうしても捨て去ることが出来なかった男としてのカリエの孤独を埋めてくれた人。 

 

 こんな嘘つきな自分でも、信じて共に戦ってくれるみほや小梅をはじめとした仲間たち。

 信じるに値なんかしないのに、いつも共に(くつわ)を並べ、どんな苦しい戦いでも支え続けてくれていた。

 

 今まで出会った全ての人のことを考えたその時、カリエの両目からは涙がこぼれんばかりに溢れていた。

 嗚咽を漏らさぬよう、静かに膝を抱えて扉の前にうずくまる。

 この期に及んで真実を話すことの出来ない自分が、腹立たしく、また悲しくて泣き崩れた。

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 気がつけば、二人の逢瀬が終わり、時計の針は深夜を指していた。

 カリエは無言のまま、居間への扉を開ける。

 誰もいないその空間を通り抜けて、彼女は浴室に向かった。

 顔を洗って、少しでもマシな表情に戻したかったのかもしれない。

 しかしながら、洗面所で見つけたあるものが目に入ったとき、そんな陳腐な思惑は完璧に忘れていた。

 明かりも点けていない浴室で、居間のオレンジライトに照らされたハサミ。

 もともとはエリカがカリエの髪を整えるために、ドラッグストアで購入してきたものだった。

 

 鏡を見る。

 

 真っ赤な瞳を称えた少女が一人いた。

 昨年の夏に比べれば、随分と伸びた髪。

 姉との境界線を引き続けるために、維持してきた妹たる自分の象徴。

 カリエはその一房をおもむろに手に取る。

 そして反対側の手でハサミを握った。

 

 この行為の意味を説明しろと言われれば、カリエは多分出来ないのだろう。

 でも、姉に、ダージリンに、両親に、そして親友たちに一つのケジメを見せる手段の一つではあった。

 ハサミが髪に入る。

 

 白銀の残滓が、洗面台にはらはらと落ちていった。

 

 

03/

 

 

 翌日、エリカは鼻孔を突く朝食の香りで目が覚めた。

 自分が用意したわけではないのに、どうしてそのようなものがするのか、と胡乱な瞳を周囲に巡らしてみれば壁掛け時計が視界に飛び込んでくる。

 遅刻というわけではなかったが、朝食の準備をするには余りにも遅すぎるその時間に彼女は血の気が引いた。

 引いて、慌てて飛び起き寝間着のまま居間に飛び込む。

 せめてパンくらいは焼いて用意してやらなければ、と半分寝ぼけた思考で考えていた。

 だが、

 

「え?」

 

 フライパンで何かを炒める音。

 台所には人影が一つ。

 一瞬、誰がそこにいるのか、エリカは理解できなかった。

 それなりに髪も伸びて、自分との容姿の境界が曖昧になりつつあった妹だったが、今現在目の前にいる存在ははっきりと自分との境界線を引いていた。

 ポニーテールに結った髪。

 でも毛量が昨日に比べて圧倒的に少なくなっている。

 居間に飛び込んできたエリカに気がついたのか、カリエが振り返った。器用にフライパンを返した彼女はエリカを見定めると、小さく微笑んだ。

 

「おはよう、お姉ちゃん」

 

 一瞬、言葉を失った。

 ポニーテールでなんとか少女としての対面を取り繕ってはいるが、正面から見てみれば殆ど少年のような短さまで髪を切りそろえたカリエがそこにいたのだ。

 ふらり、とエリカの地面がぐらついた。

 

「あらあら、朝から騒がしいわね。あら、エリカさん着替えも済んでいないなんて淑女にあるまじき――」

 

 ぴっちりとグロリアーナの制服に身を包んだダージリンが客間から出てくる。

 彼女は呆然と立ち尽くしているエリカを見て、やや呆れたように口を開いていたが、すぐにカリエの姿を見定めて、小馬鹿にしたエリカと同じように固まった。

 

「あ、あら? カリエさん、その頭は……」

 

 困惑していた。

 いつ何時も冷静を装い、鋼の女王として振る舞ってきていたダージリンが困惑していた。

 そしてついでに、顔を赤らめていた。

 

「…………」

 

「……あいたっ」

 

 妹に見惚れているダージリンに気がついたエリカが、無言で足を踏みつける。

 

「な、何をするのかしらエリカさん」

 

 こめかみをヒクつかせながら、ダージリンがエリカに詰め寄る。昨日とは全く逆の光景に、フライパンを持ったままカリエが目を丸くしていた。

 

「人の妹に色気を出しているんじゃないわよ。こんな朝っぱらから」

 

 エリカは吐き捨てるように、詰め寄るダージリンに答えた。

 ダージリンもダージリンで一切引くことなく反撃を見せる。

 

「あら、固まっていたのはあなたも同じじゃなくて? 近親者ということで私よりもよっぽど業が深いわよ」

 

「はん、どこぞの紅茶色情狂いと一緒にしないでくれるかしら。ただ単に少し驚いていただけよ」

 

 昨日と同じように繰り広げられる舌戦に、カリエは溜息を吐いた。

 逢瀬を盗み聞きしていたことは明かせなかったが、それでも昨晩に一瞬だけ見せた互いへの理解を、もう少しばかり思い出して欲しいと思ったのだ。

 結局のところ、二人の同レベルの罵り合いはみほと小梅が起きてくるまで続けられた。

 

 

04/

 

 

「で、なんで朝起きたらそんな頭になってるのよ。ていうか自分で切ったの?」

 

 カリエが焼いたベーコンエッグをつつきながらエリカが問うた。

 久方ぶりに口にした妹謹製の朝食に舌鼓を打っていたエリカだったが、ふと思い出したように口にしたのだ。

 カリエもカリエで、昨日の盗み聞きから許される範囲で頭を丸めました、とは言えずに、少しばかり迷ったかのように口ごもった。

 それがエリカ、強いてやダージリンのみならずみほや小梅にまで不安を抱かせる所作となっていることに、彼女は気がついていない。

 カリエ自身、そこまで難しく考えての行動ではないだけに、どう理由を付けて良いのかわからないというのが真相ではあるが、まさかそれを答えるわけにはいかなかった。

 だからこう答えた。

 

「うーん、決意表明、かな。どっちつかずの自分を戒めるというか、そんな感じ」

 

 どっちつかず。

 それはエリカとダージリンの間で揺れ動いているカリエの心情を言い表した現状そのものだった。

 その中途半端な状態をいい加減辞めてしまいたいというのが、カリエの告げた答え。

 つまりはどちらかに身を寄せるという事。

 彼女の返答を聞いて、エリカ以外の全員が息を呑んだ。

 随分と男性寄りのスタイルに変化したカリエを見れば、姉と恋人のどちらに寄り添ったのかは一目瞭然だったからだ。

 あのダージリンですら、エリカの心中を悟ったのか言葉を紡ぐことができない。

 だが気まずい沈黙というものはそう長くは続かなかった。

 何故なら皆の同情の渦中にいたエリカ本人が、すぐさま嘆息したからだ。

 彼女は箸で切り取ったベーコンエッグを口に運びながらこう話した。

 

「あっそ。なら、後悔なきよう頑張りなさい」

 

 簡潔な、余りにもあっさりとしすぎた一言。

 けれどもそれ以上は告げることなど何もないと言わんばかりに、エリカは席を立った。

 綺麗に食べ尽くした食器をまとめ上げて、流し台に向かう。そしてまだ食卓に付き続ける四人に振り返らないまま、言葉を投げかけ居間から出て行った。

 

「ティーガーⅡの乗員に、早朝練を言い渡してあるから先に学校に向かうわ。食器はそのままで良いからあんたたちもそこそこの時間で登校しなさいよ」

 

 終ぞ、そんなエリカに誰も何も言えなかった。

 取り残された四人の内、カリエを除く三人が顔を見合わせた。

 

「……エリカさん、怖いくらい落ち着いていましたね」

 

 小梅の言葉にみほが眉根を下げて困り顔を形作る。

 長年連れ添ってきた親友の心中を僅かばかりながらも察したからだ。

 

「多分、我慢しているんだと思う。私、エリカさんと学校に行くね」

 

 皿に残されていたおかず達を口に放り込み、みほが席を立った。小梅もそんな彼女に追従するかのように、急ぎ食事を終える。そして二人してエリカのように居間から姿を消した。

 最後に残されたのはカリエとダージリンの二人だった。

 

「……本当に良かったのかしら?」

 

 何が、とは誰も言わなかった。ダージリンの言葉の意味をカリエは痛いくらい理解していた。

 特に深い意味はなかった断髪ではあるが、その言い訳には意味があった。

 それはつまり、あの言い訳が口からの出任せではなく、少なからず普段から感じている本意そのものであるということ。

 

「――いい加減、姉離れするべきだと思ったから」

 

 カリエがどうしても考えてしまうのは、昨夜のエリカの言葉だ。

 妹のためならば、黒森峰などどうなっても構わないと彼女は宣言した。

 けれどもそれが全て本心であるとはカリエもダージリンも思ってはいない。

 カリエ程ではないものの、みほや小梅、そして黒森峰の仲間達に対してエリカが大きな愛情を抱いている事は確かだからだ。

 しかしながらどちらかしか選べないのなら、どちらかを犠牲にしなければならないときが来れば、エリカが迷う事はない。

 間違いなくカリエを選び、黒森峰を斬り捨てるのだ。

 だがそれは決して悔いの残らない選択というわけではない。エリカなりに断腸の思いで、捨てなければならないものを捨てるのだ。

 カリエはその事をよく理解しているからこそ、敢えて姉を突き放すような事を口にしたのだ。

 つまりいい加減自分からは手を引いてもいい頃合いだと、それとなく伝えたのである。

 

 自身は共に歩いて行くべき人を見つけた。

 だからこれからは姉妹それぞれの幸せを探していくのだ、とカリエは伝えたかったのだ。

 

 ダージリンは食後の時のために用意されていた紅茶を口に含む。

 含んで、同時に瞳を伏せた。

 それは悲しい姉妹の献身からくるすれ違いに心を痛めたからだ。

 ダージリンはエリカの真意とカリエの真意を唯一比較する事が出来る立場にいる人間だ。

 比較できるからこそ、それぞれの思いの尊さに感動し、そしてそこから産まれる悲劇に押し潰されそうになる。

 ただ、彼女は一つだけ思い違いをしていた。

 ダージリンはカリエが昨夜の逢瀬を盗み聞きしていた事を知らないのだ。

 カリエがエリカの思いや決意を知らないままに、姉離れを(かん)(こう)しようとしていると勘違いしていた。

 実際は、カリエが一切合切を飲み込んだ上で決意した事であるのに、そのことに気が付かなかったのだ。

 そのため、カリエに掛けるべき言葉を少しばかり間違えてしまう。

 まるでシャツのボタンを掛け違えるかのように、一つズレたことを口にしてしまう。

 

「無理に自立をしなければならないほど、あなたたち二人の関係は爛れていないわ」

 

 

05/

 

 

 ついにこの時が来た。来てしまった、と優花里は一人、資料に埋もれた部屋の中で思う。

 去年の今頃に比べれば随分と様変わりしてしまった部屋だ。あれほど所狭しと並べられていった戦車グッズたちは押し入れの中に居場所を変えて、代わりに戦車道関係の書籍や資料が棚や床を埋め尽くしている。

 カテゴリが戦車である事には変わりがないものの、その意味、本質は全くもって違う。

 部外者の、いわば外からの視点しか持ち得なかった一戦車マニアとしての、自分はとうの昔に消え去っていた。

 

 ここにいる、今現在の秋山優花里は大洗女子学園戦車道の隊長なのだ。

 学校の命運を託された集団を率いる長なのだ。

 

 その長に相応しいと、そこにいても良いと自分で言えるようになる為に作り上げた部屋なのだ。

 そんな部屋の中心で、優花里はノートパソコンのキーボードを叩く。

 彼女はメーラーソフトを使って、これまで島田愛里寿から受けてきたアドバイスや戦術指南を必死に読み返していた。

 これから自分たちが挑むのは、遙か頂きに座している王者黒森峰。

 車両の質、量、そして乗員の練度全てが全学校の頂点に君臨し続ける百戦錬磨の超強豪校。

 正直、勝てる可能性など無きに等しい。

 全く勝負にならないままに敗北する事だって大いにある。

 ここ数日は、試合開始早々に奇襲を受けて、チームが壊滅してしまう悪夢を何度も何度も見ていた。その所為か目の下にはうっすらと隈がやどり、血色は悪い。

 

 全てはその悪夢を現実にしない為に。

 

 愛里寿が提言する、黒森峰の戦術パターンを片っ端から頭に叩き込んでいく。それに加えて、黒森峰が保有する全車両のスペックを何度も何度も復唱する。

 その車両がどれだけの装甲と火力を有しているのか。そして機動力はどれほどのものなのか、できうる限り全てのデータを頭に叩き込んでいくのだ。

 

 これらは皆、逸見カリエから教わった戦い方だ。

 

 対戦相手に対して常に優位に立ち回る事が出来るように、逸見カリエが辿り着いた戦車道のある一つの極地だ。

 自分がそれを完全に再現できているとは、秋山優花里は考えない。それでも少しでも天の頂きに手が届くように、彼女は必死に足掻き続ける。

 ふと、カーテンの向こう側から朝日が差し込んでいる事に気が付いた。

 時計を見てみれば、あと二時間弱で学園艦を降りなければならない時間帯になっていた。

 学園艦の都合なのか、決勝の会場となる北海道の原野へはフェリーで向かう事になっているのだ。

 まだ「昨日」だったころに纏めておいた荷物が入った、カーキ色のボストンバッグを確認した優花里は、寝不足の頭をなんとか振り絞りながら、階段を降りていく。

 すると炊きたてのご飯の香りと、鰹出汁が良く効いた味噌汁の香りが漂ってきていた。

 優花里を気遣ってくれているのか、いつもよりもかなり早く起床した母が、朝食を用意して待っていたのだ。

 

「……そろそろ降りてくる頃だと思ったの。寝不足なら、フェリーの中で寝なさい。アイマスクや毛布を買ってきておいたから」

 

 母からの大きな愛情を感じながら、優花里は朝食の味噌汁を啜った。

 この学園艦で、もう十年以上は味わっているいつもの味。

 けれども、明日の試合の結果次第では、その味がいつものそれではなくなる可能性すらある。

 学園艦が廃艦された時、優花里の実家がどうなってしまうのか、わからないことだらけなのだ。

 

「ご馳走様でした」

 

 口数少ないまま、用意されていた食事を腹に収めた優花里は軽くシャワーを浴びた後、髪をセットして制服に着替え、愛用のバックパックとボストンバッグを携えて家を後にしようとした。

 本来の集合時間まであと一時間は余裕があったが、少しでも早くガレージに向かって、戦車のコンディションを確認したいという彼女の本心の表れだ。母である好子もそれを理解しているのか、特に何かを咎める事無く、静かにそんな優花里を見送った。

 

「優花里、ちょっと待ちなさい」

 

 玄関の取っ手に手を掛けた時、そんなことを母に言われた。

 何事か、と足を止めてみれば目の前で火花が散った。

 それが火打ち石のそれだと気が付くまで、少しばかり時間が掛かった。

 

「怪我だけはしないでね。本当に危なくなったら、降参するのもまた勇気よ。優花里さえ無事に帰ってきてくれれば他に何もいらないわ」

 

 これから挑まなければならない相手が、言葉にするのも難しいほどの強敵である事を母である好子は理解していた。

 理解しているからこそ、いざという時は負けてもいい、と彼女は告げた。

 そして古風ながらも、無事を祈り続ける儀式までやってみせて、娘の事を案じた。

 優花里はただ、「ありがとう」と微笑んだ。

 言葉数は少なかったが、精一杯の感謝の気持ちを込めて、「ありがとう」と告げた。

 

 くぐり慣れた玄関を抜ける。

 

 もしかしたらこうして玄関をくぐるのも最後かもしれないと、優花里は背後を振り返った。

 すると、理髪店の二階の屋根に人影が見えた。

 登り始めた朝日を背に、こちらを見下ろしているのは、まごう事なき父である秋山淳五郎だった。

 姿が見えないと思ったら、何をしているのか、と半ば呆れ顔で優花里は父を見上げるが、父はそんな優花里を気にする事無く、急に何かを振り始めた。

 黄金色の朝日に輝くそれは、のぼりだった。

 いつのまに用意したのか、特注で用意したであろう、世界に一つだけののぼりだった。

 

『最後まで楽しめ! 秋山優花里!』

 

 大きなのぼりに弄ばれながらも、大粒の汗を精一杯流して淳五郎はのぼりを振り続ける。さすがに激励を叫ぶ事は、早朝という時間を考えてなかったが、それでも娘に対する愛と期待を存分に表現し続けていた。

 優花里は不意にこみ上げてくる何かを、ぐっと飲み込んでそんな父に手を振った。

 隈と寝不足で完全なものではなかったが、それでも今することの出来る一番の笑顔で、父に答えた。

 

 何より。

 

 頑張れ、とも必勝、とも言わない両親が有り難かった。

 決勝のプレッシャーに飲まれそうになっている優花里に、両親は「勝ってくれ」とは言わなかった。

 優花里から、この試合に負ければ、学園艦が廃艦になることは両親に伝えてあった。

 これからの生活に直結する大事ではあったが、両親は優花里に何かを告げるという事はなかった。

 

 ただ、あれほど娘が憧れ、焦がれていた戦車道を楽しむ事が出来るよう、見守るだけだった。

 見守って、それぞれが出来る最大の愛情表現を持って、娘を送り出したのだ。

 

 プレッシャーから完全に解放されたわけではない。

 重圧から解き放たれた訳ではない。

 

 それでもそんな重たい心に、一筋の希望を見いだしながら、優花里は大洗女子学園までの道のりを歩いて行った。

 

 決勝戦まで残り二七時間。

 対に運命の時が、直ぐそこまで来ていた。

 

 

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