真横を通り抜けていったⅣ号を、カリエが慌てて追うことはなかった。
ただ、煙幕で多少の混乱をきたしている味方をまとめ上げるべく、無線に対して口を開いた。
「全車、深追いは禁物。逃げるのなら逃がしてやればいい。それぞれいつものツーマンセルを編成。煙幕が完全に晴れ次第、追撃を開始する」
過ぎ去っていくⅣ号をカリエは静かに見送る。彼女が思い出すのは、すれ違った一瞬の、ぶつかり合った視線。
変わっていた。
半年以上前に見たときとは、別人になっていた。
破れかぶれの、こちらに一泡を吹かせてやろうという視線ではなかった。あれは、カリエにどうすれば勝利することが出来るのか、真剣に探りを入れる勝負師の視線だった。
ぞくり、と泡立つ体を押さえるように、カリエはその場に踏みとどまる。
まさか僅か半年でここまで戦える指揮官に成長するとは、さすがのカリエでも読み切れなかった。
大洗の快進撃を見守っていたときとは明らかに違う、自らが当事者になったからこそわかる感情だった。
「くそ、これだからぽっとでの天才は厄介なんだ」
こちらは何年もの間、毎日必死に打ち込んでようやくここまでこれたのに、とカリエは愚痴を一つ零した。
水を吸うスポンジの如く全てを吸収し、決勝まで上り詰めてきた怪物に対する最大級の賛辞でもある。
「あちらは山を降りた。どうやら疑似市街地に向かっている模様。そちらはどう?」
そんな怪物をどう討ち取るのか、カリエは考えを巡らせた。そして幾つか浮かび上がってくる作戦を検討するべく、姉との通信を図る。
しかしながら、中々応答がない。普段ならば、少し喧しいくらいには連絡を欠かさないエリカだったが、今日は勝手が違った。
不審に思ったカリエがもう一度、無線に呼びかける。
「エリカ?」
返答は、遙か前方から響いてくる砲声だった。
『ごめんなさい、カリエさん! 少数ですが本隊が奇襲を受けました! 撃破までは行かないものの、数両が足まわりをやられています! そちらも不意の奇襲に注意してください!』
しかも無線の応答はエリカに同行しているみほからだった。明らかに交戦中と思われるそれを聞き、さらに姉からの返事が未だないことに、カリエは表情を曇らせる。
「副隊長、我々だけでも先に市街地に向かいますか?」
通信手の問いに、カリエは即答出来なかった。
正直、姉の車両の安否だけでも確認したいという気持ちはあった。だが、余り時間を掛けすぎると、大洗が市街地に拠点を構築し終えてしまうというデメリットがある。
死角の多い市街地では、装甲火力に勝るというアドバンテージの差が狭まってしまうのだ。そのため、拠点を構築し終わっていない早期に遭遇戦へ持ち込む必要があった。
つまり、待ち伏せや小細工の時間をなるたけ与えないようにしなければならないのだ。
数秒、カリエは沈黙した。
こうして黙考すること事態はそれほど珍しいことではないので、パンターの乗員たちは静かにそれを見守った。むしろ、この面白くない状況をカリエならきっと打開してくれるという期待感すら抱いている。
やがて、カリエは口を開いた。
「……私たちだけで先に市街地に向かう。ツーマンセルを徹底し、待ち伏せを食い破るだけの火力を維持。後方の本隊とは市街地にて合流する」
指示が下されてからの彼女たちは素早い。一切の迷いを見せることなく、フラッグ車兼現場指揮官であるカリエを護衛する布陣を展開。
防御力と機動力に優れたパンターが先頭を切り、撤退した大洗の車両を追撃し始めた。
少しばかり丘を下っていけば、右手側に廃遊園地が見える。
「あちらは発砲禁止区域ですね。ここから東へ向かうと、戦車戦の為に整備された疑似市街地があるはずです。街の主な入り口は二カ所。一方は橋で、もう一方は大きな幹線道路です。ただ、幹線道路はこちらから少し離れたところにあり、橋を渡るよりも時間が掛かります」
通信手の進言を受けて、カリエは地図を見た。
先に街へ入った大洗チームは十中八九、近場の橋を渡って行っただろう。だからといって、黒森峰がそれに追従するのは危険極まりない行為だ。
もし橋を渡っているときに、それを落とされでもしたら大きな損害を招いてしまう。
だが、黒森峰のそんな安全策を見越して、橋への攻撃をブラフとしている可能性もあった。
敢えて橋の防衛を放棄して、幹線道路に戦力を集中。のこのこと道路を辿ってきたところを集中砲火するのだ。
どちらも大いにあり得る策なだけに、カリエは頭を悩ませる。姉と連絡がつけば、どちらの道を辿るのか相談もするのだが、今はそれも叶わない。
みほも同様だ。奇襲からくる乱戦直後の部隊を纏め上げる力のある彼女に、余計な手間は煩わせたくなかった。
自身が決断しなければならない場面が連続している状況に、カリエは嘆息した。
不安や緊張感に押しつぶされているわけではないが、それでも息の詰まる現状であることには変わりない。
もともとこういった勝負事の読み合いを得意とはしていたが、それでも常時その状況を堪能できるほど、達観してはいない。
ひりつく感覚を覚えながらも、カリエは地図のある一点を指さした。
「幹線道路を目指す。待ち伏せに十分留意し、市街地に突入する」
01/
偵察に出ていた典子から、橋をスルーしていく黒森峰の戦車団の様子が報告された。
『橋を渡るつもりはないようです。おそらく、北側の道路から入ってくるかと』
なるほど、カリエ殿はそちらを選びましたか、と優花里は頷いた。
そしてそのまま偵察ポイントに待機するよう伝える。
「了解しました。レオポンさんチームがもうすぐそちらに合流します。アヒルさんチーム、レオポンさんチームは後続の重戦車部隊に発見されないよう、引き続き身を隠して偵察に努めてください」
取り敢えずは読み通りに敵が動いてくれたことに、優花里は安堵の息を吐いた。
正直、こちらが橋と幹線道路を見張っていることなど、カリエには見抜かれているだろうが、突拍子もない策を打たれていないだけ、まだまだ希望はあった。
「カモさんチーム、ウサギさんチーム、黒森峰の後続はどれくらいで復帰してきそうでしたか?」
自分たちに残された時間を知るため、優花里は問いかけた。すると、当初の素人ぶりが嘘のように、すらすらと簡潔かつ明瞭な洞察が告げられた。
「あの様子なら、あと三十分は動けない筈です。特に無理をしたティーガーⅡは片側の履帯が吹っ飛んでましたから、そこそこ時間は稼げていると思います」
梓の言葉に、優花里は「よし」と喜びを露わにした。
「それはおそらく逸見エリカ殿の車両です。普段ならば履帯を飛ばすなどという失態は犯されない方ですが、妹のカリエ殿と離れているという状況が確実に焦りを生んでいます。露骨に分断作戦を講じてしまうと、その化け物じみた連携ですぐに合流されてしまいますが、今回はまだその心配はありません」
優花里はここにきて初めて、決勝戦の作戦の魂胆を全車に告げた。
「カリエ殿の方からエリカ殿とは別行動をするように、とことんし向けます。私たちが逃亡に徹しているのも、機動力に優れるカリエ殿がエリカ殿たちと合流する暇を与えないためです。西住殿もエリカ殿もカリエ殿のことを信用していますから、単独で前衛を率いることに疑問を挟むことはないでしょう」
そう、優花里の立てた作戦は何てことのない、逸見姉妹の分断作戦だった。けれどもそれは、黒森峰と砲火を交わしたチームならば一度は考え、実行したことのある、言わば手垢の付いた作戦である。
そしてことごとく、黒森峰はそんな作戦を打ち破り連勝記録を伸ばし続けていた。
つまりは作戦そのものがことごとく失敗しているのだ。唯一ダージリンだけが、纏めて始末しようと奮戦しているが、それすらも姉妹には食い破られている。
「お二方は何よりも互いを信頼し、互いを気遣いあっています。だからこそ、どちらかが集中砲火を受ければすぐに駆けつけてきますし、纏めて包囲してもその神業のような連携で包囲した側が殲滅されてしまいます。無理矢理二人を分けようにも、それを察知したら最後、意地でも互いから離れようとしなくなります」
ですから、と優花里は続けた。
「どちらかを集中攻撃せず、包囲せず、そして離れさせなければいいのです。カリエ殿が、自身の考えでエリカ殿から離れて戦う戦況を作り出せばいいのです。他校はこんな逃げ続ける戦車道なんて、学園の伝統とプライドに掛けて出来ないでしょうが、私たちなら出来ます。逃げの戦車戦を続けることが出来ます」
理論だけならばそれほど難しいものではないが、いざ実行しようとなると様々な障壁が立ちはだかる困難な作戦だった。
まず逃げ続ける戦車道など、中堅校以上ではまず不可能な戦法だ。それぞれOG会や理事会、そして伝統という歴史そのものが、逃げるだけの戦車道を許容することが出来ない。ここで殆どの学校がふるいに掛けられる。
そしてその戦法を許容することの出来る学校は、そもそも戦車道大会に出ることの出来る規模を有さない弱小校だったりして、黒森峰から逃げ続ける技量をそもそも持ち合わせていないのだ。つまりは、このような戦法を黒森峰に対して仕掛けた学校が歴史上存在しないのである。
そんな中、一つのイレギュラーな学校が戦車道大会に参戦した。
負けたら廃校という、背水の陣を敷き、戦車道の伝統が途絶えたからこそ、逃げの戦車道を許容することが出来た。
そして何よりも戦車道を優先したが為に、黒森峰から逃亡を図る技量も何とか手に入れることが出来た。直接の戦車戦での技量ならば、大洗は黒森峰の足下にも及ばない。それどころか、プラウダやグロリアーナにも蹴散らされるだろう。
だが逃げの一手を打ち続けるだけなら、やりようがあった。戦いようがあったのだ。
「それではみなさん、『逃げるは恥だが役に立つ』作戦開始です! パンツァーフォー!」
Szegyen a futas de hasznos.
実は島田愛理寿から教えられたハンガリーの諺である。
例えどれだけ恥ずべき逃げ方であっても、生き抜き戦い抜くことが重要であると、彼女は優花里に伝えた。
そしてそれが、大洗の強みなのだ、と彼女は語ったのだ。
優花里はその言葉を胸に、作戦を一つ一つ組み立てている。
「ねえねえ、秋山ちゃん」
ふと、無線機から脳天気な声色が優花里のもとへ届いた。
幹線道路の入り口で偵察活動を行っていた杏たちだ。
「お客さんが到着したよ。これは歓迎が必要かなー」
杏の言葉を聞いて、優花里は口を開こうとした。
だが声を発する必要はなかった。
何故なら、敵部隊接近の報を受けて、それぞれの車両が、優花里の号令よりも先に自分たちに割り当てられたポイントに移動を開始したからだ。
皆が皆、己の成すべき役割を理解しているからこそ出来る動きだ。
逸見カリエに無惨な惨敗を喫した冬からこの夏に掛けて、数多の試練を乗り切ってきた彼女たち。
その逞しく、頼りになる姿を見て、優花里は何かこみ上げてくるものを感じた。だが、まだその感傷に流されてはいけないと、気丈に首を振った。
遠くから、ドイツ戦車特有のエンジン音が協奏曲を奏でながら接近してきている。
自分たちが今まで経験したことの無いような激戦を感じ、誰ともなく喉をごくりと鳴らした。
大洗に逃げられ続けていても、頂に立つ王者の風格が損なわれることはない。威風堂々と、完璧な精密さを追い求めた隊列を組んで、市街地の入り口までたどり着く。
優花里対カリエの第二ラウンドが今ここに、幕を開けようとしていた。
02/
「副隊長、待ち伏せです。先頭が撃たれています」
「……各自訓練通りの防御陣営を構築。速やかに前進し、向こうの待ち伏せ陣形を逆包囲して」
カリエが予想したとおり、幹線道路では大洗が伏兵を仕掛けていた。だが、先頭車両から伝えられる敵戦力を鑑みてみれば、それが大洗の全車両からなるものであるとは考えにくかった。
つまり橋と幹線道路、両方に優花里は伏兵を仕掛けていたことになる。
カリエはその戦術に若干の疑問を抱いていた。
「幹線道路に全戦力を配置しなかったのは何故? こちらが橋を強行突破する可能性を考えた? いや、そうだとしても、戦力を二分化して配置するのは悪手だ。橋は『伏兵がいるかも』というブラフだけで十分封鎖できることくらい、優花里さんは理解しているはず。何故わざわざ中途半端に戦力を配置している?」
キューポラの縁に背を預け、カリエは熟考に浸っていく。通信手と装填手、そして砲手や操縦手であるナナも、車長であるカリエの思考を遮らぬよう、身じろぎ一つせずに彼女の結論を待った。
だが――、
『――副隊長! 背後からも奇襲です!』
味方車両からもたらされた報告に、カリエが振り返る。見れば、最後尾の車両の砲塔が真後ろを向き、砲煙を吐き出していた。
「敵は?」
思考を中断したカリエが最後尾に問う。すると、ルノーB1bisがいつのまにか接近してきたことを伝えられた。
「……了解。私が始末する」
抑揚のない声色でカリエが応えた。彼女の意志をくみ取ったのか、ナナがパンターを最後尾方面へと進める。すると、奇襲から撤退しようとしているのか、その場で後退と前進を繰り返しているルノーB1bisがいた。
「たしか、風紀委員のチームだったか」
停止を命じ、砲手の肩に手をおく。
狙い撃ちされぬよう、不規則な加速と減速を繰り返しながらその場を離れようとするルノーB1bisだったが、その動きこそがカリエの待ち望んでいるものだった。
「いくらこちらの進路予想を外そうと無駄な動きを繰り返しても、人間の生み出せるランダムパターンなんてたかが数が知れている。いずれ何処かで単調な直進が生まれるからそこを狙ってやればいい。しかも、逃げることに精一杯だから、意外と殺気に対する警戒心も薄い。こんな楽な的、なかなかいない。だから、――ほら、今」
全幅の信頼感がなせる技か、カリエが軽く肩を叩いただけで砲手は何の疑いもなく砲撃を行った。真っ直ぐ空気を切り裂きながら進んだ砲弾は、ルノーB1bisのボディやや後方を穿つ。それは偶然か必然か、ラジエーターが納められている弱点部分。
精緻な射撃でラジエーター部分を撃ち抜かれたルノーB1bisは黒煙を吐き出しながら少しばかり前進した後、
小さな爆発音を上げて動かなくなった。
「全車に通達。ルノーB1bisを撃破。向こうの奇襲は失敗した。落ち着いて前進。先頭の伏兵も数と練度で押しつぶして」
副隊長の人間離れした技術に、前線部隊の隊員たちが色めき立つ。ここまで大洗の攪乱戦術に少なからず苛立ちを感じていた彼女たちは、副隊長が見せてくれた華麗な撃破劇に胸がすく思いを感じているのだ。
そしてそれは士気の向上に直結している。
目に見えてキレが増した動きで、パンターたちが前進を再開した。大洗側もそれを感じ取ったのか、圧力の増した黒森峰の進撃に浮き足立っていく。
夏の風を顔に受けながら、カリエは正面を見据える。
この先にいるであろう、秋山優花里を見据えるように、視線を前方に固定していた。
「ねえ、優花里さん。ここからどうする?」
03/
汗水と機械油に塗れながら、エリカは巨大な転輪を転がしていた。パンツァージャケットは必要以上汚れないよう、車内に置いてきている。黒森峰特有の真っ赤なシャツの袖を捲り上げて作業しているわけだが、そのシャツは結構な面積が真っ黒に染まっていた。
「副隊長、ここからは私たちがやります。車内で休んでいてください」
そんな副隊長の有様に何か思うところがあったのか、ティーガーⅡの乗員たちがエリカに声をかける。
だがエリカは首を横に振り、転輪を転がし続けた。
「あんたたちが遠慮する必要はないわ。少しでも早く戦線復帰するには、総出で修理するのが一番いいでしょう?」
大洗の奇襲部隊を無理に追撃しようとしたために、履帯を吹き飛ばすという失態を犯してしまったエリカ。彼女は自らの未熟さを戒めるという意味でも、積極的に修理に携わっていた。
実際、普段から肉体を鍛え続けているエリカが、一番スムーズに転輪を運んでいる。
「……ちょっとでも早くあの子に合流して上げなきゃいけないのよ。例え無名校相手でも、一人で戦線を維持し続けてくれているあの子を見殺しに何てできないわ」
エリカが心配して止まないのは、もちろん妹のカリエのことだ。奇襲を受け、前進が遅れている重戦車部隊の代わりに、戦線を構築し大洗と砲火を交わしている。
妹の技量を疑っている訳ではないが、それでも一人で隊を指揮し続ける負担を考えれば、直ぐにでも合流して支えてやりたかった。
妹に黒森峰の戦いの責を負わせ続けるにはいけないのだ。
「エリカさん、随伴のエレファント、ヤークトティーガーの修理が終わりました!」
最後の転輪の取り付けが終わり、重量級の履帯も復旧したそのとき、みほが小走りに近寄ってきた。彼女によれば、損傷を受けた全ての車両が戦線復帰したという。
これで前進を再開することが出来ると、エリカは乗員たちに振り返った。
「ティーガーⅡはこれより主力部隊の盾として先陣を切るわ。カリエたちに合流し次第、かの部隊の護衛に加わる。私たちの装甲と火力を持って、一気に敵戦力を撃滅。試合を終わらせるわよ」
焦りを若干帯びつつも、的確で冷静な指示に隊員達が肯く。直ぐさま王虎――キングティーガーⅡのエンジンが始動し、随伴する車両を引き連れて前進を再開した。そんな超巨大重戦車の動きに呼応して、みほは指揮するティーガーⅠを横につける。
「カリエさんからの報告に寄れば、大洗の人たちはこの先の疑似市街地で待ち伏せ戦術を展開しているようです。南側の橋、北側の幹線道路共に伏兵あり。ただしカリエさん達が北側から侵入した為、南側の守りが手薄になっている可能性があります」
みほの言葉を受けてエリカは地図に目を走らす。南の橋と北側の幹線道路。二つの入り口のどちらが使えるかで街への到達時間に大きな差が生まれる事に気が付いた。
「……出来れば南の橋を強行突破したいわ。伏兵の有無をカリエに確認できないかしら?」
「リアルタイムで確認する事は難しいと思います。ですので、斥候を用意して橋を偵察。伏兵がなければそのまま強行突破が一番効率が良いかも」
黒森峰の指揮官二人が顔を付き合わせながら地図を睨む。カリエが進撃し、敵を蹴散らしている分、北側の幹線道路の安全が担保されているが、南側の橋を強行突破する利点も捨てがたかったのだ。
エリカは一つ嘆息すると、みほに向き直った。
「……ここはあんたのプランで行くわ。私の隊から斥候を用意して橋を偵察させる。もしも伏兵が存在していて、橋を攻撃される可能性があるのなら、斥候を置いたまま北側に向かうわ。排除が可能ならばそのまま排除。なにか異論は?」
みほは首を横に振った。そして、エリカの台詞に付け加えるように、無線へこう言い放った。
「これより市街地への浸透強襲を行います。斥候の二両は南側の橋に偵察を。その他は斥候からの報告を待ちつつ、北側の幹線道路を目指します。おそらくカリエさんは訓練通り、市街地内において、ツーマンセルのチームを構築しているでしょう。私たちは火急速やかにそれらに合流。無理にフラッグ車を狙うのではなく、カリエさんを護衛しながら、敵戦力をすり潰していきます」
有無を言わせない、万人を納得させるだけのカリスマは西住みほ特有のものだ。カリエのように理詰めでなくても、エリカのように威圧しなくても、誰しもが頭を垂れてその命令に忠を捧げる。
黒森峰の長として最も必要なものを有している彼女は、よく通る声色で、戦場に宣告した。
「パンツァーフォー!!」
04/
いつかこの舞台で、カリエと試合をしたいと願ったことがある。それは間違いなく昨年の十二月のことだった。
けれどもそれよりも前に、あの女の子と戦車道をしてみたいと感じたことがある。それは下手をすると十年近くも前の話だ。
カモさんチームが撃破された知らせを受け、さらに黒森峰の最前線と接触している車両たちから伝わってくる強大な圧力を感じた優花里は汗を一つ流した。
それは気温からくるようなものではなく、緊張と興奮からくる生理反応のようなものだった。
あの逸見カリエが本気でこちらを潰しに来ているという夢のような現実に、身体が反応しているのだ。
「ゆかりん、私たちはしばらくこのまま待機でいいんだよね」
ふと、沙織の声に意識が引き戻される。車長席から見下ろしてみれば、優花里以上に緊張した面もちで、無線を操作している彼女がいた。この日のために、猛勉強でアマチュア無線資格を獲得した彼女は、遺憾なくその能力を発揮している。
「ええ、決して黒森峰の車両に発見されてはいけません。私たちが見つかれば、かの戦力が集中して襲いかかってきますからね。出来るだけ全ての車両が分散して、あちらが戦力を散開させる必要性を作り出します。そしてカリエさんに対する攻撃は絶対に許可できません。私たちが黒森峰のフラッグに指先一つ届かない状況を演出するんです」
言って、優花里は沙織が慌ただしく駒を動かしているホワイトボードを見る。何処にどの車両がいるのかリアルタイムに表示されているそれが、言わば大洗の生命線だ。
「アヒルさんチームとレオポンさんチームは引き続き橋の見張りをお願いします。カバさんチームはそろそろ所定の位置に移動を。カメさんチームとウサギさんチームはカリエさんから逃げ始めてもらって結構です」
優花里の指示の直後、沙織がホワイトボードの駒を動かした。無線越しに報告される移動距離や方角が反映されているのだ。
「……あと少しです。あと少しで我々に残されたたった一つの勝機が訪れます。ですからみなさん、ここが正念場なんです」
ぽつり、と零された優花里の言葉は、まるで自身に言い聞かせるようなやや切羽詰まったものだった。
05/
「やば、黒森峰の車両がこちらに近づいてる」
とある民家の二階部分に潜んでいた典子が、双眼鏡片手に声を上げた。その隣にいたスズキも、同じく双眼鏡を覗き込みながら、無線を操作した。
「黒森峰、南の橋に接近。隊長に伝えて」
彼女たちの視線の先には、二両の斥候と思われる車両ヤークトパンターが今まさに、橋に差し掛かろうとしているところだった。優花里からは黒森峰の車両が近づいてきたら連絡を入れるように指示されている。
だが――
『だめですキャプテン。あんこうもこちらも屋内に潜んでいるためか、無線が繋がりません』
『同じくこちらナカジマ。レオポンも無線の感度が悪いね。黒森峰に見つかる覚悟で屋外に出て見るかい?』
互いに屋内に身を潜めている所為か、無線が繋がりにくくなっていた。そうこうしているうちに、二両のヤークトパンターが橋を渡り始めている。
「……落とすなら今だよ」
スズキがぼそり、と呟く。彼女が告げたとおり、ポルシェティーガーの主砲には榴弾が詰め込まれており、橋の一部分に狙いが合わせてあるのだ。
ここで橋を落とせば、二両のヤークトパンターを撃破することが出来る。
しかしながら典子はその提案に首を横に振った。
「いや、秋山さんならもっと効率的に敵を罠に嵌めるはず。あの二両を撃破しても、私たちとの戦力差は殆ど埋まらない。なら、敢えてあの二両は通してしまって――」
典子の言わんとしていることを理解したのだろう。スズキが不敵に笑った。
「良いね、それ。そういうの好きだよ。他の学校ならば隊長に伺わないと懲罰ものかもしれないけれど、ここなら問題ない」
二人で納得し合ったその瞬間、スズキが待機中のポルシェティーガーに対して、無線機越しに言葉を告げた。
「もっと大きな戦果を隊長にプレゼントしたければもうしばらく待つんだ。何、決勝戦まで裏方として待ち続けたんだ。なら、この数分くらい短いものさ」
06/
敵影なし。
そう斥候から告げられたエリカはみほに向き直った。すると、自分と同じように難しい顔のまま、何かを考えるみほと視線が合う。
そしてほぼ同時に、間髪入れずに口を開いた。
「はっきり言うわ。私はここを通るべきだと思う」
「はっきり言います。ここは慎重を期すべきです」
周囲にいた誰かが息を呑んだ。何故なら、ここに来て初めて隊長と副隊長の意見が完全に分かれたからだ。他の学校ならば、隊長の意見が優先されていただろう。
だが今年の黒森峰は違う。他ならぬ隊長である西住みほが逸見エリカの意見を尊重するように振る舞っていたからだ。だから今回もエリカの意見を否定せずに、その魂胆を問うた。
「エリカさんは何故ここを?」
「私たちにはあまりにも時間がないわ。これ以上、大洗に市街地でゲリラをさせるわけにはいかないし、何よりカリエを孤立させている時間が長すぎる」
「あちらには小梅さんもいます」
「小梅と私、そしてあんたの役割は別物よ。小梅はカリエの指示を忠実に遂行してくれる良き仲間。でも私とあんたは違うでしょう? あの子以外に黒森峰を舵取り出来る人間があちらにはいないわ」
エリカの言葉を受けて、みほは再び考え込んだ。正直言って、エリカの意見が正論であることくらい理解している。みほ個人の感想を言ってしまえば、エリカの提案にすぐさま乗ってやりたいくらいだ。
けれども黒森峰の隊長という立場がそれを許さない。
決して敗北してはならない王者としての立場が許してくれない。
つまり、慎重さを忘れて個人可愛さに強行突破することが出来ないのだ。
エリカもそれを痛いくらい理解しているからこそ、みほをせかすことはない。ただ、一つだけ代案を提示した。
「ならここで二手に分かれましょう。私たち半数がここを強行突破する。みほたち別働隊は北側の幹線道路を目指して」
妥当な線だ、とみほは思った。戦術としては一番理に適っている提案だ。しかしながらそれはエリカたち強行突破組を危険に晒しかねないものであり、多大なリスクを孕んでいることも同時に考えていた。
ぐっ、と言葉に詰まるみほの真意を見抜いているのか、ふっと微笑んでエリカは言葉を告げた。
「大丈夫よ。無茶はしないわ。それにあんたを信じているからこそこんなことを言い出せるのよ。万が一、こちらの戦力が駄目になっても、あんたなら黒森峰を十一度目の王座に導いてくれるって信じているから」
そこまで言われてしまっては、首を横に振ることはみほには出来なかった。わかりました、と息を吐き随伴の車両を橋から遠ざける。
一分、一秒の時間が惜しいと言わんばかりにティーガーⅠを後退させながら、エリカに視線を投げかけた。
「中で四人共に戦えることを楽しみにしています!」
重戦車特有のエンジン音にかき消されながらも、何とか肉声で言葉を伝えようとみほが叫んだ。エリカが叫び返すことはなかったが、代わりに大きく腕を振る。
「任せてなさい、隊長殿。それに、このシチュエーション、別に初めてって訳じゃないのよ」
北の幹線道路を目指すみほたちを見送った後、三両の随伴車両を伴って、エリカも前進を開始した。その際、ティーガーⅡを最後尾にするよう、指示を飛ばした。
「待ち伏せがあることくらい、わかっているのよ。でもね、それをねじ伏せてこそ私たちなのよ!」
前から二両目、ちょうど車列の真ん中のエレファントが橋の真ん中に差し掛かったとき、何処からか発砲音が轟いた。
来た、と感じたときにはエリカは操縦手の背中を強く押して叫んでいた。
「全速前進! ティーガーⅡの車体で前の子を思いっきり押し上げて!」
予想通りの伏兵に、エリカはただ前進を命じた。飛来した榴弾が橋の橋脚を穿ち、特大の火柱を吹き上げる。橋脚の片側が吹き飛ばされた所為か、徐々に橋が進行方向右に傾き始めていた。
誰かが悲鳴にも似た声を上げた。
そりゃそうだ、とエリカは妙に落ち着いた思考で考える。視界はおよそ三〇度ばかり傾いており、その傾斜角はなお増大中だ。前進は続けているものの、いつ橋から投げ出されて川に転落するかわからない現状にあれば、誰だって悲鳴の一つや二つは上げたくなるだろう。
だが、そこでパニックにならないのが黒森峰の化け物じみた練度の象徴とも言える。
そしてそれはエリカも例外ではない。
脂汗が吹きだし、車内の取っ手を掴む手は震えてはいるが、そのぎらついた視線は揺らいでいなかった。
ただ前を、妹が待つ戦場だけを見据えている。
彼女は自分に言い聞かせるように、怒声を上げた。
「カリエはもっと怖い道を辿ってきてくれたのよ! なら姉たる私が怖じ気付いてどうするのよ! 逸見エリカ! 根性見せなさい!」
あれだけ水を恐れていた妹が、川の中を渡って自分を助けに来たのだ。ならば自分もそれに応えるべきだとエリカは自身を叱咤する。
左側の履帯が浮き上がった感覚がした。超重量級であるティーガーⅡの車体が、履帯が浮き上がるほどに傾いているのだ。その異常事態に、エリカの思考回路は完全に茹であがっていた。もう、怖いという感情すら消え去っていた。
ただ覗き窓の向こう側で、前方のエレファントが橋を渡りきったことを確認した。少しばかり無理矢理でも、ティーガーⅡで押し上げたのが良かったのだろう。
いつかの納涼祭で自分がしてもらったことを、今ここで再現したのだ。ただ、その時と違うのは自身の生存を諦めていないことだ。
「あんたもここまで来たんなら、ちょっとは踏ん張りなさいよ!」
だん! とエリカが床を踏みしめた。すると、それが影響した訳ではないのだろうが、浮いた履帯の先端が、崩落し掛けている橋の一部分を噛んだ。
かすかに戻ってきたコントロール可能の証に、操縦手が飛びつく。さすがは黒森峰と言うべきか、それともエリカの車両を任されているが故か、その僅か一瞬のチャンスを見逃したりはしなかった。
ほとんど飛ぶように、その車重を何処かに置き去りにしてきたかのように、ティーガーⅡが橋を駆け抜けたのだ。
07/
転がるように民家の二階から駆け下りた典子とスズキはとんでもないものを見たと言わんばかりに脂汗をまき散らしていた。
何せ崩落必至の橋を、一両の損失を出すことなく黒森峰の重戦車たちが渡ってきたのだ。その恐るべき操縦技術と、人間離れした度胸を目の当たりにして、自分たちが相対しているチームの化け物っぷりを実感していた。
両腕で抱えた無線機に、スズキと典子が叫ぶ。
「レオポンチームはD45地点に退却! たぶんさっきの砲撃で、何処から撃ったのかバレたと思う!」
「バレー部のみんなはそのまま待機! 今から戻るから絶対に動かないで!」
それぞれ違った指示を告げながら、民家前の歩道橋を駆け上がる。少しでも黒森峰の動きを観察するために、最後の偵察を敢行したのだ。
そして彼女たちは見た。
ティーガーⅡのキューポラから半身を覗かせる、黒森峰の逸見エリカを。
あれほどの修羅場を潜り抜けたというのに、一息つく間もなく、周囲の車両を動かしていた。それがこの先で逸見カリエ相手にゲリラ戦を仕掛けている仲間たちを押しつぶすための事前準備であることくらい、二人には痛いくらい理解できた。
だからこそ、必死の思いで二人は前線の優花里に呼びかける。
「申し訳ありません! 南側の橋に構築していた防衛ラインが強行突破されました! 繰り返します! 橋を逸見エリカが強行突破しました!」
それは大洗女子学園にとってまさしく凶報であり、黒森峰女学園にとって久方ぶりの良き知らせだった。