黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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グロリアーナ戦で後半何があったのかは、後編で明らかになります。


黒森峰の逸見姉妹 中編2

 夢を夢だと認識したまま見る夢を明晰夢という。

 カリエはそれの真っ只中にいた。

 

 

1/

 

 

 しとしと降りしきる雨の中、家の縁側で外をじっと眺めている。

 それは今世における小学校三年生くらいの時の記憶だった。

 いい加減、次の人生にも慣れ初め、前の人生の記憶が朧気にもなりつつあった頃。

 彼女はどうしようもない深刻な問題を抱えていた。

 それは雨の日の登校拒否である。

 前世の記憶から、雨や水に関するものがカリエはことごとく苦手になっていたのだ。

 水に触れれば体が震え、水に浸かれば体が動かなくなる。

 顔に水を浴びせられれば、叫び声を上げてパニックに暴れ回った。

 そう、いわゆる水恐怖症である。

 

 躾に厳格な両親も、こればっかりはお手上げだった。

 彼女の水恐怖症を克服させることを諦めたのである。

 彼らがカリエに対して愛情を抱いていないわけではなかった。むしろ人一倍愛情を注いでいるからこそ、水に狂乱する娘を無理矢理水に慣れされることは出来なかったのだ。

 たまの奇行や、男らしい振る舞いなど、普通でないことは多々あっても、彼らは娘の聡明さを知っていたし、それ以外の素晴らしい素質を過分に認めていたのだった。

 だからこそ雨の日の不登校を認め、娘の謎の心の傷が癒えるまでそっとしておくことにした。

 

「カリエ、もうすぐお姉ちゃんが帰ってくるわよ」

 

 そしてその日も、過分に漏れずカリエは家に引きこもっていた。縁側から外の景色を眺めているだけで、随分と進歩している物である。少し前なら雨が降っただけでいたく怯え、部屋に籠もって布団に潜り込んでいたのだから。

 家事を一通り終えた母はそんなカリエに優しく話しかけた。彼女も彼女なりに娘のことを気に掛けていた。

 けれどもカリエが口を開くことはなかった。

 母はいつも通りの反応が返ってきたことに嘆息する。

 

「……お姉ちゃんはあなたのことを嫌っているわけじゃないのよ。ただお姉ちゃんはお姉ちゃんで戸惑っているだけ」

 

 両親はもちろんカリエの水恐怖症のことを心配していた。だが、目下の悩みの種はカリエの水恐怖症ではなく、それに伴う姉妹の溝だった。

 姉のエリカは決して妹が贔屓されていると文句を言わないが、幼心ながらに扱いがイーブンでないことを感じ取っていた。

 エリカは両親をして、殆ど手の掛からない娘だった。

 妹のカリエとは違い、女子とはこうあるべき、を地で行く淑女だった。

 誰に対しても礼儀正しく、学業も優秀で、運動神経も申し分なかった。習い事も完璧にこなし、あらゆる分野で賞も獲得している。

 ただ、妹のカリエに対する態度は他とやや違っていた。

 まず関わりを極力持とうとしない。無視をしているわけではないのだが、自分から話しかけていくことは皆無だった。

 それとなく両親が諫めても、「カリエの方が話を聞いてくれない」と返されれば両親もそれ以上は何も言えなかった。

 

「違う。エリカは私のことを気持ち悪がっているだけ」

 

 ぼそっ、とカリエはそんな風なことを呟いた。

 母親は「そんなことない」と返すが、カリエは静かに首を振った。

 

「そんなこと、私が一番わかる」

 

 やや意固地になった口調でカリエが断言するものだから、母はほとほと困り果てた。

 こればっかりは時間が解決するのを期待するしかない、とそれ以上の声かけはしなかった。

 カリエを縁側に残したまま、母はリビングに戻る。すると丁度そのタイミングで部屋に備え付けられている電話が鳴った。

 縁側にいたカリエも、母が受話器を手に取り、いつもより高い声色で応対するのを聞いていた。

 

「はい、はい。いつもエリカがお世話になっています。……ええ。はい。――っえ? それは本当ですか!?」

 

 

2/

 

 

 エリカが虐められている。

 

 そう担任から連絡を受けた母は、カリエを家に残してすぐさま学校に向かった。

 一人取り残されたカリエは、盗み聞いた母と担任の会話を振り返っていた。

 

「妹のことで友達と揉めたのが発端で……」

 

 母が零した一言をカリエは決して聞き逃さなかった。

 リビングのテーブルに腰掛けた彼女は、黙って己の手を見つめる。

 前世で白球を受け止めていた大きな手のひらはもう存在しない。あるのは小さくてひ弱な、弱虫の少女の手だった。

 生まれ変わってから、かれこれ十年が経とうとしていた。けれどもこれといって何も変わらないまま、だらだらと過ごし続けた十年だった。

 勉強は出来た。

 でもそれは当然のことだ。前世も合わせれば既に四十近く。小学生の勉強ぐらいこなせなくって何になるのだ。

 むしろそれだけ生きているのに、双子の姉とまともな関わりも持てていない今はなんなのだ。

 エリカが虐められた理由なんて、母と担任の会話を最後まで聞いていなくても殆ど想像できた。

 大方、奇行が目立ち、男らしく振る舞い、雨の日には必ず休む変な奴を妹に持ってしまっているから、虐めのターゲットになったのだろう。

 つまりは全部カリエのせいだった。

 カリエがもっと真剣に周囲と馴染もうとしないから、エリカが苦しむ羽目になっているのだ。

 

 カリエは外を見る。

 日が暮れかけた外は、雨が降っているということもあって、既に真っ暗だった。

 ただ、さっきよりも強くなった雨音だけがカリエの耳に届いていた。

 

 

3/

 

 

 目が覚めた。

 夢は中途半端なところで終わっていた。どうせなら「最後まで見せてくれても良いのに」とカリエは瞳を閉じたまま唸った。やけに柔らかい枕に顔を埋めながら、そういえば家の枕と全然感触が違うな、とどうでもいいことを考えていた。

 

「っ、カリエ!」

 

 誰かが耳元で叫んでいる。

 カリエの知るかぎり、そんなことをしてくるのはこの世でたった一人しかいない。

 エリカ。もう少し寝かせて、と口走りかけた時、電撃を受けたかのように彼女は飛び起きた。

 

「カリエ!」

 

 見れば目の前にこちらを覗き込んでくるエリカの姿があった。

 けれどもカリエは全く別のことに気を取られていた。だからエリカの憔悴した顔にも、赤く腫れた目にも気が付かない。

 カリエが気を取られていたのは戦車道大会の準決勝のことだった。

 盛大に水を引っ被って、泣き喚いたことだけは覚えている。

 けれども、その後は、その後の記憶が全くといって良いほどなかった。

 自分たちは、黒森峰女学園は果たして勝ったのか、負けたのか、何もわからないままだった。

 

「エリカ!」

 

 必死にこっちを揺さぶってくるエリカの肩を掴んだ。

 面食らったような表情をしたエリカが、一瞬だけ動きを止めた。

 

「勝った? 負けた?」

 

 沈黙が二人を支配する。同じ顔を突き合わせ、片方は真剣そのもの、片方は呆気にとられていた。

 けれども呆気にとられていた方――エリカは直ぐさま表情を険しくし、そのまま頭突きをカリエに叩き込んだ。

 

「うぎっ」

 

 脳天に星が舞ったカリエが思わず呻いた。何をするんだ、と抗議を入れようとするがそれはエリカの言葉の嵐に打ち消されていった。

 

「勝ったわよ! 隊長とみほがグロリアーナのフラッグ車を叩きのめして黒森峰が勝ったわよ! でも、だから何!? あんた、二日も眠り続けていたのよ!」

 

 言われて、カリエは周囲を見渡した。確かにそこは黒森峰の学園艦の医務室だった。

 戦車道中の怪我で何度か訪れていたから身に覚えはある。

 

「え? うそ」

 

 さすがにそんなことはないだろう、と笑って見せた。けれども何かを堪えるように俯いてしまうエリカを見て、それが冗談ではないことを察した。

 

「グロリアーナ戦であんたは意識を失ったの。別に何処かをぶつけた、とかじゃなかったから大事には至らなかったけれど、もう一日眠りこけていたら実家に送り返されていたわよ」

 

 聞けば、撃破された直後にカリエは失神してしまったらしい。

 直ぐさま運営に助け出された彼女は病院へ直行。精密検査の結果、特に外傷は見られないとして、学園艦の方で経過を観察することになった。エリカがカリエの水恐怖症の事を口添えしたこともあって、取りあえずは心的ストレスが原因だと診断され今に至っているのだ。

 

「そんなことが……」

 

 全く実感のわかないエリカの話に、カリエは脳天気そうに答えた。その態度がますますエリカを苛つかせ、彼女はカリエに掴みかかった。

 

「もっと真剣に考えなさいよ! あんた失神したのよ! 下手をすれば命にだって関わったのかもしれない! だいたいあんたは昔からそうなのよ! こっちがどれだけ心配してもいつも飄々としていて、ちっとも本音を曝け出してくれない!」

 

 いつの間にかエリカは泣いていた。泣きながらカリエを揺さぶっていた。

 あまりにも久しぶりに見た姉の涙に、カリエは何も言えないままだった。

 

「なんとか言いなさいよ! 言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない!」

 

 それからはもう、悪循環だった。エリカがまくし立てるたびにカリエは困惑を深め、言葉数を失っていく。そうすればエリカはますますヒートアップし、カリエに食ってかかった。それを受けて、カリエは何も話せなくなる。

 ついには、鞄の底で見つけたノートの事をエリカは口走ってしまっていた。

 

「あんたが私に言われたことをいちいち書き留めているのも知っているのよ! そんなに私の小言が嫌なのならそう言ってよ! お前なんか大嫌いだと一言言ってくれればこっちだって諦めがつくのよ! あんたが優しいから、こんな私でも姉みたいに扱ってくれるから勘違いするじゃない!」

 

 医務室を沈黙が支配する。

 エリカの荒い息と嗚咽だけが時折零れていた。

 カリエが何か口を開こうと、エリカに手を伸ばした。だがそれは、エリカが手を振り払ったことで中断を余儀なくされる。

 

「……着替えとかは全部用意してあるから適当にしなさい。お金もある程度渡しておくから好きなものを食べると良いわ。実家には私から連絡しておく」

 

 それだけを捲し立てると、エリカは踵を返して医務室から出て行ってしまった。

 取り残されたカリエは心底困惑した様子で、エリカの出て行った扉を見つめた。

 だが、その扉は数秒と経たない間に開けられる。

 一瞬だけカリエの表情に明るさが戻るが、それは長続きしなかった。

 何故なら入ってきたのはエリカではなく、険しい顔をした西住まほとみほだったからだ。

 

「エリカと何があったかは敢えて聞かないでおく。だが、私から伝えなければならないことがいくつかある。心して聞いてくれ」

 

 

4/

 

 

 カリエの退院自体は即日だった。

 もともと体調不良でも何でもなく、心理的要因からくる失神だったのと、過去に同じような症状から回復していること、何より現在のカリエが食欲も旺盛で受け答えもしっかりしていたことから退院があっさりと決まったのだった。

 

 

5/

 

 

 着替えの詰まったボストンバックを抱えて、カリエは一人、学園艦上の道を歩いていた。

 まほから自宅まで送迎する提案をされたが、体力回復のために歩きたいと言われれば、彼女もそこまで強要はしてこなかった。

 いつもならエリカと並んで歩いていた帰路が、一人で歩くと随分と遠く感じる。連絡の一つでも入れれば、エリカがバイクなりなんなりで迎えに来たのだろうが、今はそんな気分になれなかった。

 どんな顔をして彼女に会えばいいのかわからないのだ。

 久方ぶりの大喧嘩だった。そして過去最大の大喧嘩だった。

 あそこまでエリカに嫌われたのはそれこそ小学校の時以来だろうか。

 これほどまでに居心地の悪さを感じたのは、記憶にある限り殆どない。

 そしてそんなことを考えていた罰が当たったのだろうか。

 病み上がりの体力で、やっとのことで辿り着いた我が家には誰もいなかった。かわりに、テーブルの上にはエリカが作り置きで残していったオムライスがあった。置き手紙は見当たらなかった。

 

「……たべよ」

 

 そこまで空腹を感じているわけではなかったが、どこかこれだけは食べなければならないような気がして、カリエはオムライスを温め直した。適当にケチャップを振りかけ、一人でスプーンを差し込んでいく。

 ふと正面を見れば、いつも姉が座っている空席が目に付いた。

 いつ帰ってくるのかもわからない、しばらくは埋まることのない席だ。

 ぽたり、と涙が零れた。

 何故、と疑問に思えば思うほど、涙の量は増していく。

 一度あふれ出た滴は、止まることなく皿の上のオムライスを汚していった。

 涙に塗れたそれを口に運んで、カリエは一言呟いた。

 

「美味しくない」

 

 

6/

 

 

 エリカが家に帰ってきたのは日もとっくに暮れた十一時過ぎだった。日程調整のためか、二週間後になった決勝戦に向けて、黒森峰の隊員達はこれまでにないくらい練習に打ち込んでいた。

 もちろんエリカも例外ではない。

 病院からカリエが退院した旨を伝えられた時は、すぐにでも迎えに行こうとしたのだが、カリエ本人が自力帰宅を望んでいることを聞かされ、直前の口論もあってか彼女の意思を尊重することにした。

 ならばせめてと練習に人一倍取り組み、くたくたになった体を押して、カリエの好物であるオムライスの材料やお菓子などを大量に買い込んでいたのだ。

 しかしながら、その思いやりが実ることがなかった。

 まず帰宅をしたとき、家の鍵が閉じられていることに気がついた。中から施錠しているのかと、訝しみながらも解錠をし、エリカは中に入った。だが人の気配は一切感じられず、代わりにリビングのテーブルの上に空になったオムライスの皿と、置き手紙がされているのを見つけた。

 置き手紙にはたった一言だけ記されていた。

 

 プラウダに行ってきます。

 

 手紙を見たエリカが荒れに荒れたのは言うまでもない。

 

 

7/

 

 

 学園艦が変われば、やはり流れている空気も違うな、とカリエはぼんやりと考えていた。

 彼女は医務室でまほから告げられた言葉を思い出す。

 

「カリエはしばらく静養しろ。戦車に乗ることは認められない。決勝戦まで、その体力が回復することを祈っている」

 

 実質的な戦力外発言だった。

 確かに自分なら試合中に失神する奴をスタメンでは使えないと、カリエは妙な納得の仕方をしていた。

 けれどもそれで腐るようなことはなかった。

 グロリアーナ戦では確かにとんでもない失態を演じてしまったが、それで全てを諦めるほどカリエは自暴自棄になっているわけではない。そもそもそれで心が折れていたら、前世において高校の時に野球をやめていただろう。

 エリカお手製のオムライスを食べて、ひとしきり泣いた後のカリエの行動は早かった。

 エリカと喧嘩別れしてしまっていることは気がかりだが、今にどうこう言っても問題が解決しないことはわかっていたので、それは時間の経過に任せることにした。一言エリカに嫌っていない、むしろ好いていると告げることは簡単だが、今のエリカにそれを言っても逆効果だろうと考えたのだ。

 カリエが考えたのは、戦車に乗れない間、少しでも敵の情報を集めることだった。インターネットで黒森峰の次の対戦相手がプラウダ高校であることを確認し、直ぐさまプラウダの学園艦の停泊地を調べた。するとそれが、黒森峰の学園艦が寄港している横浜に程なく近いことを突き止めると、荷物をまとめてとっとと下船。電車を幾分か乗り継いで、人の行き来に紛れ込んで見事プラウダの学園艦に乗船を果たしていたのだった。

 カリエの意外なフットワークの軽さを知っているのは、散々手を焼かされてきたエリカくらいのものである。

 

「さてはて、どうしたものか」

 

 勝手などわかるはずもないプラウダの学園艦だ。スパイ目的でオークションサイトからあらかじめ入手していたプラウダの制服に身を包んだまではよかったのだが、そこからどのように行動すれば良いのかまでは調べていなかった。

 露骨に戦車道が行われているエリアに近づくのは躊躇われたし、だからといってのんびり散策していられるほど時間は残されていない。それにいくら置き手紙をしてきたとはいえ、エリカに無断で出歩いているのだ。

 戻れるのならば、早めに戻るに越したことはなかった。

 

「まあ、とにかく車両編成くらいは確かめないと」

 

 ならば最低限の偵察はするべきだ、と戦車道新規履修者の振りをして配備車両をチェックすることに決めた。幸いプラウダも戦車道に力を入れている学校なだけあって、車両の整備所の位置は直ぐに把握することができた。

 曜日も日曜日だったためか、人の出歩きが多く、カリエがふらふらと散策をしていても誰も気にもとめなかった。

 

「で、これがその場所か。大きいな」

 

 学園艦の北側に位置する校舎の一角で、カリエは大きな煉瓦造りの建物を見上げていた。冬は雪が積もるのか、いたく鋭角な屋根が備え付けられた大きな建物だった。しかもカリエにとって好都合なことに、日曜日は戦車道の公開練習が行われているらしく、その場所は人で溢れていた。

 

「おおっー、すげーべなー。来年はわだすも戦車に乗ってみてーだ」

 

 脇から声が聞こえた。ふとカリエが横を見るが誰も居ない。

 気のせいか、と首をかしげたがやっぱり人の気配がするのでもう一度横を見た。それでも人影は見当たらなかったが、やや視線を下げてやれば、随分と小柄な少女が目を輝かせ戦車を眺めていた。

 

「あ、先輩は戦車道の生徒さんだべか? わだしは仁那川と言います。今年、プラウダ高校を受験しようと考えどる青森の中学生だべ」

 

「――逸見です。ごめんなさい。私も戦車道を見学に来たので、まだ正式な隊員ではないのですよ」

 

 咄嗟に口が回ったのは、文字通り生まれ持った頭の回転の速さのお陰か。なんとか慌てることなく、少女に応対することが出来た。

 やや口調が固かったか、と不安を覚えたが仁那川という少女は「ご丁寧にどうも」と妙な関心をしていたので、誤魔化しは効いていたのだろう。

 

「なら、先輩。一緒に戦車見ていかねーべか? これでもわだし、それなりに勉強してきどるんです」

 

 人生初めての本格的な東北訛りに戸惑いはするが、それは決して悪い提案ではないなと思ったカリエは二つ返事で了承していた。一人でうろうろするよりも、誰かと一緒に見学していた方が怪しまれずに済むと考えたし、何より第三者の意見を取り入れていくのも、相手戦力の分析には必要なことだったからだ。

 

「ほな、こっちから回るべ。おっ、あれはわだしの好きなKV-2でねえか!」

 

 ただ、想像していた以上にテンションの高い仁那川に、カリエはどうしたものかと苦笑した。

 

 

8/

 

 

「ずいません。あっちこっち連れ回して。先輩に付き合って頂いて、わだし、とても楽しかったです」

 

 小一時間ほど、カリエと仁那川は戦車道の見学を行っていた。取りあえずは一段落か、と一息吐いたとき仁那川はカリエに向かって頭をぺこり、と下げていた。

 どうしたのか、とカリエが問えば仁那川はこう答えた。

 

「いえ、わだし好きな物の前では周りが見えなくなって暴走してしまうことがあるんだべ。それのお陰で、友達もあんま多ぐねぇです。けれども逸見さんは嫌な顔一つせずに、付き合ってぐださった。本当に、ありがどうございました」

 

 その言葉を聞いて、カリエは微妙に居心地が悪くなった。いや、私はプラウダに偵察に来ているのだ、とは口が裂けても言えなかった。仁那川はそんなカリエの焦りに気が付かないまま、さらに続けた。

 

「逸見さんはどこかわだしの姉のようで、本当に頼りになるお人でした。もしも来年、一緒に戦車道が出来るのならば、是非よろしくお願いするべ」

 

 出来るよ。敵同士だけど。

 そう出かかった言葉をカリエは必死に飲み込んだ。

 そしてそれと同時、仁那川に告げられた「姉のようだ」という言葉に引っかかった。

 思わずカリエは仁那川に問い返していた。

 

「……何で私が姉だと?」

 

「だっで、逸見さん。私が迷わないようにいつも手を引いてくれたし、喉が渇いたら飲み物まで買ってくれたべ。まさに理想のお姉さんそのものだっだ」

 

 言われて、確かに世話を焼いたことを思い出していた。けれどもそれは、

 

「――エリカの真似をしただけ」

 

 そう。カリエがやったのはそっくりそのまま、エリカがカリエにしてきたことばかりだった。

 カリエがふらふらと脳天気に出歩けば、それをいつもひっ捕まえ、カリエが財布を忘れたと溢せばどこからともなく飲み物を買ってきてくれていた。戦車道でも、カリエが何かミスをすれば直ぐさまそれをフォローし、いつもカリエの前を走り続けていた。

 エリカの行いをただ真似してきただけなのに、それを仁那川は理想の姉と言ってのけたのが、カリエにとっては衝撃だった。

 

「? エリカって誰だべ?」

 

「私の姉です」

 

「そっか。ならそのお姉さんは大切にしてくんろ。きっとそのお姉さん、逸見さんのことが大好きだべ」

 

 屈託のない仁那川の笑みに釣られて、カリエも笑った。エリカと喧嘩して以来の、初めての笑みだった。

 胸のつっかえがすっかりと抜け落ちた、そんな笑みだった。

 

「ところで、逸見さん。プラウダ高校の戦車道履修者はロシア風の名前を先輩から頂けるそうだ。逸見さんはなんて名前もらいてえだ?」

 

 そしてカリエと仁那川の別れ際、仁那川のほうがそんなことを聞いてきた。

 正直初耳だったので、カリエは再び焦りを覚えたが、口から出任せでこんなことをいった。

 

「カリーシャ」

 

「へえ、綺麗な名前だ。ならわだしは……なんだろう?」

 

 まだ入学もしていないのに、気が早いんだな、とカリエは笑った。でもそんな純真さに引かれつつあったのもまた事実なので、カリエは一つ提案をした。

 

「仁那川なら、ニーナでどう?」

 

「おおっ! すんげえ可愛いべ! ほんならわだし、その名前が頂けるよう、精一杯頑張るべ!」

 

 予想以上の食いつきに正直面食らったが、気に良いってもらえたのなら、とカリエも気をよくした。

 そして、いつか彼女と戦車道をやってみたいと思うようになった。

 

「ではさよならです!」

 

 精一杯手を振る仁那川にカリエも手を振り返した。やがて、彼女の姿が人混みに消えていくのを確かめると、カリエは再び戦車道の整備所に足を向けた。

 確かにある程度の情報は集まったが、肝心の隊員達の情報はまだ埋められていない。

 もう少しだけ、とカリエは偵察を続けることにした。

 だが、それは彼女にとって大きな墓穴となった。

 

「あら? 今日の公開練習はもうお終いですよ」

 

 背後から声を掛けられる。

 いや、それだけではなかった。

 声だけなら、一言謝罪して踵を返して戻ることも出来た。

 だが肩をしっかりと掴まれては、それ以上何をすることも出来ない。

 ましてや肩を掴む力が万力の如しだとすれば、カリエは観念するほかなかった。

 

「それとも、まだ我が校に用事がおありなのでしょうか。黒森峰の逸見カリエさん」

 

 ブリザードのような凍えた声色。

 なまじ美声なだけに、そこから感じられる威圧感は恐ろしいものがあった。

 カリエは静かに両手を挙げ、降伏の意を示して振り返った。

 

「いえ、もう大丈夫です。プラウダのノンナさん」

 

 そう、カリエをがっちりと拘束したのは、プラウダの実質的な主力。

『ブリザード』のノンナその人だった。

 

 

9/

 

 

「スパイは見つけ次第、粛正してやるわ!」

 

 開口一番、カリエの目の前に座しているちびっ子はそう嘯いた。

 こんな選手、プラウダ高校のリストに載っていたっけ? と疑問に思うが、やがて西住まほから聞かされていた、謎の選手だと思い至った。

 

「ではどうしますか? 古式に則り拷問に掛け、まずは爪を剥ぎましょうか。それでも秘密を暴露しなければ鼻を削ぎ、耳を削ぎ、ボルシチにして食べさせてみますか?」

 

「え? いや、そこまではしなくていいのよ。だってこのカチューシャ、バイカル湖よりも深い慈愛とウラル山脈よりも大きい優しさを持っているのだから! だから、ノンナ。もっとそれらしく穏便にいかない?」

 

「わかりました」

 

 こぽぽ、とロシア式の紅茶がカップに注がれた。ベリーのジャムと一緒に差し出されたそれは、甘くて良い香りがした。

 さらにビスケットが盛られた小皿を目の前に出されれば、カリエはさてどうしたものかと、困惑を深めるだけだった。

 

「プラウダ特製のロシアンティーです。ジャムと一緒にどうぞ」

 

 先ほどからこの扱いはなんなのだろう? とカリエは自問する。

 正直ノンナに捕まったときは、もうお終いだと絶望を覚えたものだが、いざ連行されてみればいたく豪勢な客室に招かれ、アフタヌーンティーまでご馳走になっていたのだ。

 手錠なども勿論はめられておらず、両手がフリーのままカップを手に取ることが出来た。

 

「で、あんた一人で偵察に来たわけ? 馬鹿なのか度胸があるのかさっぱりわからないわね。まあ、別にいくら私たちのことを調べようとも、私たちがあんたたちを踏みつぶすのは変わりないけれど!」

 

 上機嫌に笑うちびっ子――カチューシャは口の周りにジャムをたくさんつけて笑って見せた。

 まるで子供だな、とカリエは思うが、それを口にしてしまえば本当にボルシチにされそうだったので、黙ってロシアンティーのカップを傾けた。

 

「どうですか? お口に合いますか? 黒森峰では紅茶を飲む習慣がないようですので、遠慮なく言って下さい。残念ながらビールはありませんが、ウォトカくらいなら用意することも出来ます」

 

「あ、いえ。とてもうまいです」

 

 思わず素で返してしまったが、カチューシャとノンナが気づいたそぶりは見せなかった。

 何故ならカチューシャの口の周りについたジャムをノンナがせっせと拭き取っていたからだ。

 

「で、あんたが偵察に来たことは今回だけ特別に不問にしてあげるわ! そのかわりいくつか質問に答えなさい!」

 

 来た、とカリエは身構えた。

 確かに歓待ムードは漂ってはいるが、それすらも政治的な駆け引きだ。

 彼女は高速で話しても良い機密、駄目な機密を整理する。その中で、どれを告げればカチューシャが満足するのか、必死になって考えた。けれどもそれはある意味で杞憂に終わった。

 

「早速いくわよ! ……あんた、姉のエリカと喧嘩別れしたのは本当?」

 

 だがまだ機密を聞かれた方が、カリエはすんなりと答えられたのかもしれない。

 持っていたカップを取り落とさなかったのはたまたまだった。

 

「さあ、どうなの? てきぱきと答えなさい。カチューシャがね、この世で一番嫌いなのは人に待たされることなの!」

 

 カリエは震える手を押さえながらカチューシャを見た。

 するとそこには、その体格に全くもってそぐわない、底の知れない知性と野心を秘めた表情があった。

 

 

10/

 

 

 カリエが自宅に帰ってきたのは、プラウダに偵察に向かってから三日経ってのことだった。

 部屋に入ってから僅か10秒。

 彼女の頬には真っ赤な紅葉が咲いていた。

 理由は言わずもがな。

 出迎えたエリカが涙目で平手を打ち付けたのである。

 

「ただいま。エリカ」

 

「……あんた、人に心配ばっか掛けさせてんじゃないわよ」

 

 いつものヒステリックな叫びはなかった。ただ弱々しく、カリエを抱き寄せる彼女がいた。

 カリエは抵抗しなかった。

 

「ねえ、エリカ」

 

「黙って。聞きたくない」

 

「ううん、聞いて」

 

「黙れって、言ってるでしょ」

 

「ごめんなさい」

 

 エリカの動きが一瞬止まった。けれどもそれだけだった。エリカは直ぐにカリエを押しのけると、一切振り返ることなく自分の部屋に戻っていった。

 取り残されたカリエは真っ赤に腫れた頬を押さえて、当分は埋まりそうにない姉との溝に溜息を吐いた。

 

 

11/

 

 

 結論から言えば、カリエは決勝戦の参加を認められた。

 最後の大会に対する意気込みが特に強い三年生の隊員達が、優勝するにはカリエが必要だとまほに頼み込んだのだ。

 さらに本人の体調も特に問題がなく、参加に前向きだったこと。

 いざとなれば装填手の上級生と車長を交代すると本人が告げたこともあって、まほが渋々認めた形になった。

 そして決勝戦の前日、一同に集められた隊員達は最後のミーティングにいそしんでいた。

 

「いよいよ決勝戦だ。諸君らの日々の研鑽を考えればここまできたのは当然のことだと思う。ならばこの先の栄光も必然のことだ。だが、慢心と油断はいつの時代も強者を奈落へ引き摺り込む。各自、今更言うまでもないだろうが最後まで気を引き締めて戦って欲しい」

 

 あと一歩で十連覇となれば、いつも冷静なまほの言葉にも熱が籠もっていた。

 まほですらそうなのだから、その他の隊員達は推して知るべしである。

 だがその熱気から一歩身を引いてミーティングに参加するもの達もいた。それが逸見姉妹の二人である。

 妹のカリエはいつもそうしているように、何を考えているのかいまいちわからない表情でパイプ椅子に腰掛けていた。

 ただ姉のエリカはその様子がいつもと違っていた。

 まずその座している位置である。

 必ず妹のカリエの隣に腰掛けている彼女が、幾分か離れた場所に位置しているのである。

 さらにはまほの言葉を聞いているのかいないのか、何処か遠い目線で前を眺めていた。

 

「対戦相手のプラウダ高校だが、前回練習試合では我々が完勝した。だがそのままでいてくれるほど甘い相手ではないことは重々承知だと思う」

 

 丁度二人の中間ぐらいに位置していたみほだけが、そんな二人の様子を心配していた。

 まほから二人が喧嘩していることは聞かされていたが、いざ目にしてみればその深刻度合いは想像の上だったのだ。

 あれだけ仲が良かったのに、と眉根を下げてきょろきょろと二人を見つめる。

 

「では初期配置などは手元に配った資料通りだ。作戦についても先日演習した通りにいく。何か質問は?」

 

 手は上がらなかった。

 相手の陣容を説明するカリエのプレゼンテーションがないことだけが気掛かりだったが、当人が病み上がりと言うことを知っていたので深く追求することはなかった。

 

「……よし、それでは解散してくれ」

 

 言われて、それぞれの隊員達が散り散りにミーティングルームから退出していった。前で演説を述べたまほも広げていた資料の片付けを始める。

 と、その時。

 まほはカリエがパイプ椅子に腰掛けたまま微動だにしていないことに気がついた。

 

「どうした、具合でも悪いのか」

 

 近づいて、顔を覗き込む。

 それほど表情の変化のないカリエだが、まほから見ても何か悩んでいるかのように眉根を寄せているのが気になった。

 

「隊長……このあと少しいいですか」

 

「……どういうことだ」

 

「この前、プラウダに偵察に向かったことは知っていると思います」

 

 その時の資料は確かに受け取っている、とまほは一冊のファイルを提示した。

 カリエが調べてきた車両編成、隊員の名簿が収められたファイルだ。

 

「ああ、その節は本当にご苦労だった。けれどもエリカがいたく心配していたんだ。今度からは必ず彼女に直接告げてから偵察に向かってくれ」

 

「いいえ、私が言いたいのはそういうことじゃありません」

 

 まほが持っているファイルをカリエが引ったくった。

 何をするのか、とまほが呆気にとられていると、あろうことかその資料をファイルから取り出し細かく破り始めたのだ。

 

「何をする!」

 

 珍しくまほが声を荒げた。だがカリエは一切怯むことなくまほを見据えた。

 それはまほが初めて見る、カリエの表情だった。

 

「隊長、我々は嵌められています。前回の練習試合の時からカチューシャに踊らされているんです。彼女は賢く、聡明だ。このままだと、黒森峰の栄光は訪れない」

 

 まほが一つ、息を呑んだ。

 

「隊長、私に策があります。もしあなたが私のことを信じてくれるなら、あのちびっ子に必ず一泡吹かせることをお約束します。けれどもこの策は決してエリカに伝えないで下さい。もちろん他の隊員にもです。あなたと、それに副隊長だけで共有して頂きたい作戦です」

 

 

12/

 

 

 決勝戦のその日。

 T-34に乗車したカチューシャは己の副官たるノンナと最後の打ち合わせを行っていた。

 

「ノンナ! あなたここの地形図は頭に叩き込んだんでしょうね!」

 

「ええ、カチューシャ。北部の河川までの道のりは既に確認済みです。実際に徒歩でマッピングもしておきました」

 

「そう。で、妹の方は参加しているのかしら?」

 

「ええ、先ほど挨拶に赴きましたが、その時に確認しました」

 

「ならいいわ! グロリアーナみたいにこそこそやるのは性に合わないけれど、正々堂々やるなら話は別よ! 真っ正面からあの妹を水辺まで追い詰めてやりなさい!」

 

 カチューシャの立てた作戦は至極単純明快だった。

 準決勝で水恐怖症を発し、パニックに陥ったカリエを黒森峰の弱点だと判断。

 全軍を持ってそれを徹底的に突いていく作戦だった。グロリアーナと違うのは、あちらは一部の選抜部隊が事に当たったのに対し、プラウダは全車両をカリエにぶつけることか。

 その意図はカリエに対する他の黒森峰の隊員達の親愛を利用するものだった。

 カチューシャはカリエを狙い続ければ、必ずや他の隊員達が無理を押してでも彼女を守ろうとすることを知っていたのだ。

 

「……カリエはね、黒森峰のみんなから愛されているのよ。ならカチューシャはそれをとことん利用してやるわ。カチューシャと違って、あの子は最初から認められているの。でもそれがお前達の敗因なんだって証明してやる」

 

 ふと見せたカチューシャの寂しげな表情に、ノンナは何も言えなかった。

 何故ならノンナは知っているからだ。

 目の前の小さな副隊長が、これまでどんな苦労をしてきたのか。

 どんな挫折を味わってきたのか。

 ただ人より体格が小さいだけでどれだけ軽んじられてきたのか。

 

「カチューシャは負けるわけにはいかないのよ。あんな奴らに絶対に負けてやらない。必ず踏みつぶして私が如何に優れているかみんなに知らしめてやるわ」

 

 まほやカリエに見せた野心に溢れる表情はそこにはない。ただ誰かに認めて貰いたくて、必死にあがき続ける一人の少女がそこにいた。

 

 ノンナはそんなカチューシャにかける言葉が見当たらず、たまらず空を見上げた。

 すると暗雲垂れ込める曇り空の向こうで、雷が奏でる音を聞いた。

 

 決勝戦開始まで、残り一時間。

 

 

 

 後編に続く。

 




「ねえ、エリカ。たまにヘッドホン付けたまま、ニヤニヤしてることあるんだけど、何してるの?」

「ぶっ!」

「私がウォークマン貸して、って言っても絶対に貸してくれないよね」

「げほっ、げほっ」

「……あんまり、人に言えないのは聞かない方がいいよ」

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