逸見カリエの戦車道 01
黒森峰女学園の敗北が世間に与えた影響はとても大きなものだった。
新設の無名校が、完全たる王者である強豪校を打ち破るというサクセスストーリー。
余りにも日本人好み的な、それこそどこかの夢物語のような試合結果に世間の人々は色めき、沸き立った。
昨年度から勃興しつつあった戦車道ブームはさらに加熱し、書店では関連書籍が軒並み売り切れ、テレビ局では連日のように特番が組まれていた。ネットではサイトの種類を問わずに戦車道に関するあらゆる情報が洪水のようにあふれている。
普通に一日を過ごしていれば、戦車道関係の話題が否応なしに耳に入ってくる毎日が訪れていた。
そんな世間の風に煽られたのか、それとも最初からそうなるように既定路線が組まれていたのか、この国家の中枢部分でも動きがあった。
学生戦車道を統括する文部科学省である。
「やあ、辻君。こんなにも暑いのに精がでるね」
ここは霞ヶ関の何れかの建物の、何れかの階にある、何れかの執務室。
空調によって外界からの熱波から完璧に守られているというのに、その女性はニコニコとそんなのことを宣っていた。
相も変わらぬ嫌らしい会話の切り口に、辻と呼ばれた男は眉根を顰めながら応対する。
「……逸見課長、今日は上との会議だったのでは? 来年の世界大会に向けて関係省庁との打ち合わせがあると仰っていた筈ですが」
逸見、と辻によって名を呼ばれた女性は「うーん」と困ったように笑って見せた。
「いや、それがね? 黒森峰女学園が負けちゃったからこれからの会議スケジュールが全部吹っ飛んじゃったの。かの王者のメンバーを中心に高校生のユースチームを作り上げて、プロチーム育成へと繋げていく青写真だったんだけどさ、全部おじゃんもおじゃん。なんたって、王者より強いチームが出てきちゃったんだもの」
笑っちゃうよねー? と戯けてみせる逸見に対して、辻の返した言葉は至極事務的なものだった。
「仕方がありません。それが勝負の世界というもの。たとえ、あなたの姪っ子達が活躍するチームだったとしても勝負事では敗北もありえるでしょう。ならば、その結果を受け止め、さらなるプランを練り上げるのが我々の仕事です」
「うわー、いつも通りの堅物っぷりだね。……でも確かに君の言う通りかも。兄さんの子ども達ったらちょっと頭おかしいくらい優秀だったから、今回も優勝するだろうって楽観視してたこちらの落ち度だよね。物事に絶対などなし。スポーツと教育に携わる私たちが常に胸に抱いていなければならない不変であり普遍の真理って訳だ」
ふふん、と勝ち誇ったように笑う逸見に対して辻は溜息を吐いた。
いつも自由で傍若無人。かつ、なまじ頭が切れる分だけ非常に扱い辛い上司。
それが辻の逸見に対する評価だった。
「ただね、私たちはそうやって頭を切り替えるだけで済むけれど、そうもいかない人たちもいるんだよ。先週なんてさ、お義姉さんから泣きの電話が入ってきてたいそう愚痴られちゃった。あの人、姪っ子ちゃんたちを溺愛してるからね、現状に耐えられないみたい」
現状? と辻は首を傾げる。
「うん、現状だよ。これは割と内密というか口外厳禁な情報なんだけれど、姪っ子ちゃんたちの一番末っ子――カリエちゃんがさ、黒森峰を追い出されちゃった」
あはは、と笑い飛ばす逸見に対して辻は露骨に顔を顰めて見せた。
とことん役人気質で徹頭徹尾官僚的な思考で生きてきている辻からしても、「追い出された」というワードは決して看過しうるものではなかったのだ。
「……それはどういうことですか?」
だから問う。逸見の言葉の真意を。
「いやそのままの意味だよ。王者の栄光に泥を塗ってしまったカリエちゃんはさ、OG会にとことん恨まれて黒森峰にいられなくなっちゃったんだ」
まさかそんな横暴が成される訳がないと、辻は逸見の言葉を否定しようとする。
だが逸見はそれまでの飄々とした態度を一変させて、逆に辻に詰め寄った。
「そのまさかがまかり通るんだよ。あの学校はさ。理事長なんて外から連れてきたただのイエスマンだ。戦車道の顧問だって名ばかりの名誉職で実権なんてなにもない。結局はOG会が金と権力にものを言わせて未だに牛耳っているんだよ。まあ、勝ち続けている間はそれでもよかった。勝つ為の戦車道ならばどんなことでも認められていたから。――でも今回は駄目だ。負けてしまった。それも新設の無名校に。王者の癌たちのプライドはズタズタ。彼女たちは体の良い生け贄を欲し、罰する事でこれからの自分たちの体面を保とうとしている」
まさかそんなことが、と反論を口に仕掛けるが、逸見の視線に宿った殺意に似た感情を見て、辻は口をつぐんだ。
彼は知っている。
目の前の女は誰よりも執念深く、誰よりも情が深い蛇みたいな女だという事を。
そして彼女のそんな親愛は可愛らしい姪たちに向けられていて、その姪が害されている現状に相当苛立っているという事を。
「だから学園長はカリエちゃんに遠回しに退学を進めた。おそらくもう黒森峰では戦車に乗れないとかなんとか上手く言ったのだろう。もしくは仲間たちに迷惑が掛かるとか、そんな感じだ。とにもかくにも、こうして黒森峰女学園は戦犯を見事処断して見せた」
ふう、と逸見が息を吐いた。
それは自身の内に渦巻いている怒りを一度沈めているかのような所作だった。
触らぬ神に、いや蛇に祟りなしと言わんばかりに辻はただ逸見の次の言葉を待つ。
「たださ、一つだけ幸運もあった。それはカリエちゃんが、兄さんやお義姉さん、そして本人が思っている以上に周囲から好かれていたということだよ。そんなスケープゴート劇を良しとしない人たちがちょっと手を回して見せたんだ」
そう言って逸見は辻の背後にあった本棚から一冊のファイルを無断で取り出していた。部外禁のその資料は南京錠の掛かった棚に収められていた筈だが、いつの間にか解錠されていた。
いつも通りとは言え、その手の早さに辻は感動すら覚える。
「――この学校がカリエちゃんの転校先。ねえ、辻君。どうして私がここに足を運んできたのか、賢い君ならもう理解したでしょう?」
開かれたページはとある学校の統廃合に関する資料が収められているものだった。
そして辻はそこに記されていた学校名を見て、額から一つの汗を流した。
「これからあなたは、私が描く青写真に基づいて行動して欲しいの。まずはそうね……とっととこの学校の責任者を呼び出して廃校を告げなさい。あなたが存続のための特別予算を組んでいるのは知っているけれど、いったん棚上げね」
「……それは彼女たちとの約束を翻意することになります」
「翻意じゃないわ。保留よ。条件が変わったと突きつければ良いのよ」
何を考えているのか、と辻は疑問の視線で逸見を見た。
だが彼女は何処吹く風と言わんばかりに言葉を続ける。
「大学日本選抜と試合をさせなさい。その勝利が統廃合の撤回の条件である事を彼女たちに伝えるの。そして連盟各位には面白い催しがあると告げればいいわ」
ああ、なんて非道なのだと辻は逸見を仰ぎ見た。
目的達成の為なら、本来この件とはなんの関わりもなかった人々を再び失意のどん底に叩き込んでも良しとしているのだ。
彼女は策を張り巡らせるのが楽しくて仕方がないと言わんばかりに、辻に視線を送り、辻を見ていなかった。
ただその頭の中にあるとある未来を視ていた。
「逸見カリエが今後の日本戦車道界に必要不可欠な人材であることは誰の目から見ても明らか。一学校のプライドの生け贄にしていいものじゃない。だから私たちでもらい受けるの。私たちのプランを推し進める為のキャラクターになってもらう。自分たちを打ち破った無名校の統廃合を阻止した英雄として返り咲いて貰う。ほら、どう? このシナリオ? いけ好かない強豪校を追い出された主人公が、新生ライバルの所に転がり込んでそこを救う救世主になる。なんて日本人好みの、それこそ愚民受けするサクセスストーリー」
ねえ、辻君? と逸見はようやく辻を見た。
ただその瞳は酷く冷たく生暖かい。
生理的嫌悪感すら抱かせる、爬虫類のような瞳。
「私たちでお祭りを起こすの。日本全体を巻き込んだ楽しい楽しいお祭りを。その過程で私の可愛らしい姪っ子ちゃんたちが救えるのなら、これほど面白い事は無いでしょう?」
毒婦だ、と辻は吐き捨てた。
逸見は「毒婦でもなんでも結構」と嗤って見せた。
何処までも自分勝手で傲岸不遜。
それが自分の生き方なのだと言わんばかりに嗤っていた。
01/
どこかの首都で自分にまつわる陰湿な政治劇が繰り広げられていることなど露知らず、カリエは晴天の空の下を歩いていた。
彼女は一匹のペンギンを抱えている。
戦車備え付けのOEMや、シュルツェン、そして履帯痕の散乱する海岸を一人でとぼとぼと歩みを進めていた。
激戦の痕を感じさせる砂浜だ。
腕の中に抱えられたペンギンはとくに暴れる事もなく大人しくされるがままに運ばれている。
耳元にはどこかと連絡を取り合っているのか、イヤホンが垂れ下がっていた。左肩には腕章が安全ピンで留められ、「エキシビション運営委員会」と銘打たれている。
そのイヤホンが決して明瞭でないながらも、それなりの音量で声を伝えてきた。
『やーやー、逸見ちゃん、悪いねー。アクアワールドから逃げ出したペンギンの捕獲を手伝って貰っちゃって。飼育員さんたちも驚いていたよ。自分たちが捕まえると大層暴れる癖に、逸見ちゃんが捕まえると借りてきた猫のように大人しいって。もしかしたら向いてるのかもねー』
まだこの調子には慣れないと、カリエはあくまでマイペースを守ったまま返答を返した。
彼女の間延びした声は襟元のピンマイクが拾っている。
「――そう、かもしれない。戦車道なんて忘れてこのままペンギンたちと暮らしていくのも悪くないかも」
その返答が意外だったのか、無線の向こう側の杏が珍しく狼狽えていた。
普段は余裕たっぷりに振る舞っているだけに、ちょっと面白いな、とカリエはずれた感想を抱く。
『いやいや、ごめんね。冗談だよ。と、とにかくさ一度本部に戻っておいでよ。このあと、グロリアーナにプラウダ、そして知波単のみんなを潮騒の湯に招待しようと思ってるんだ。逸見ちゃんも汗掻いただろうから早い内においで』
返答はしなかった。
ただ砂浜を踏みしめていた足を止めて、無線の電源を落とす。
ぎゅっ、と腕の中のペンギンをかき抱けば、ペンギンが不思議そうにカリエを見上げていた。
カリエはそんなペンギンに小さく笑いかけた。
「ごめん、ちょっと休憩」
言葉の意味が通じた訳ではない。
だがペンギンは特に暴れる事もなく、優しげに少し伸びたカリエの髪をそのくちばしで突いていた。
一人と一匹は、しばらくそうやってただ浜辺に打ち付ける白い波を見ていた。
02/ 逸見カリエの戦車道 01
カリエが歩いていた海岸から少しばかり南下すると、大洗女子学園の生徒たちがよく通う入浴施設である「潮騒の湯」があった。
海水が温水となっているため、舐めると非常に塩辛いが、肌には良いともっぱらの評判である。
そんな「潮騒の湯」の駐車場には大洗女子学園をはじめとして、プラウダ高校、知波単学園、聖グロリアーナ女学院が所有する戦車が所狭しと言わんばかりに並べられていた。
大洗の町で執り行われたエキシビションの慰労会が開かれていたのである。
砂浜に打ち寄せる波の音が涼やかな露天風呂では、オレンジペコが防水ケースに入れたスマートフォンを操作していた。
「……だめです。カリエさんからの返事はありません。メールメッセージも電話の応答もノーサインです」
湯船で味わう日本酒のように、紅茶のカップが乗った銀盆を湯船に浮かべながら、ダージリンは「そう」とつぶやいた。
「こちらに来たのだからもしかしたら、と思っていたのだけれどまだ時期尚早だったみたいね。仕方がないわ。今はただ待ちましょう。私が蒔いた種ですもの。それくらい我慢しますわ」
「とかなんとか言いながら、一番お綺麗なお召し物を持ってきているのをこのローズヒップはごぼごぼごぼごぼ」
二人の会話に横やりを入れようとしたローズヒップは、慌てて駆けつけてきたルクリリの手によって湯船に沈められていた。
そしてそのままごゆっくりと、首根っこを引っつかまれて何処かに連れて行かれる。
聖グロのでこぼこコンビが見せた珍妙なやりとりに苦笑を漏らしながら、オレンジペコはダージリンの空になったカップに紅茶を注いだ。
「でもカリエさんと本格的に連絡がとれなくなって二週間が経ってしまいました。決勝戦から一度も戦車には乗られていないようですし、ちょっと心配です」
オレンジペコの言葉にダージリンは肯定の意を返しつつも、「それこそ仕方がないわ」と続けた。
「私がそうなるように仕向けたのもあるけれど、黒森峰にあっさりと切り捨てられたのが相当堪えたのかもしれないわね。エリカさんたちは必死に庇ったみたいだけれども、かのOG会の責任追及に疲れ切ってしまったんだわ。こんなことになるのなら、もっと早くに、それこそグロリアーナに匿うべきだったと今では思うわ」
ダージリンの何気ない台詞に、オレンジペコは困り顔で言葉を返す。
「それこそ絶対だめですよ。良くも悪くもカリエさんの名前はグロリアーナでは刺激が強すぎます。未だに怨敵だと敵視する派閥もいれば、ダージリン様を陥れた奸雄として歪んだ崇拝を向ける一派もあります。そんな環境にカリエさんを引きずり込むわけにはいきません」
オレンジペコのため息交じりの否定と同時、ダージリンは大洗の主力メンバーたちの様子を横目で伺っていた。
これ以上踏み込んだ話題を口にしても良いのか判断するためだ。
幸い、プラウダや知波単のメンバーと騒いでいるおかげか、彼女たちはダージリンとオレンジペコのやりとりに注意が向いていなかった。
今このときなら、とダージリンは再び口を開いた。
「彼女たち大洗女子学園がカリエさんを受け入れる姿勢を見せてくれたのは僥倖だったわ。カリエさんを黒森峰から避難させることは火急の課題だったけれども、その受け入れ先には随分と難儀したから」
「サンダースは好感触でしたが、いかんせん長崎の佐世保は黒森峰のある熊本と近すぎました」
「プラウダは副隊長の大反対を受けてしまったわね。まあ、うちと事情は同じなのでしょう」
そう、カリエの突然の転校劇は何を隠そうダージリンが裏から手を回したものだった。もちろん彼女個人の力だけではなく、黒森峰内のカリエを慕うものたち、ダージリンと親交のある各校のOG、そしてそれなりの権力を有した人々、それぞれが尽力した結果である。
目的はたった一つ。
優勝逸脱の責任を追及されそうになったカリエを、少しでも黒森峰の中枢から遠ざけるためだった。
「この事態の直接の原因となった大洗が受け入れ先というのは、正直思うところがないわけではないけれど、今思うとそれなりな選択ね。戦車道チーム内での派閥はなく、OG会も既に消滅済み。なおかつ学校の責任者たちが話のわかる人たちだから隠れ蓑にするにはもってこいだわ」
そう嘯くダージリンの視線の先には、無邪気に優香里と語りあう杏の姿があった。
オレンジペコもダージリンが誰を見ているのかすぐに気がついて――不意に眉尻を下げた。
「でも大洗には今回のドタバタ劇の肝心な部分は告げていないんですよね」
それまでよりも遙かに声量を落として、オレンジペコはダージリンに問いかけていた。
「――今は余計なことを言うべきではないわ。アールグレイさまの言っていたことが本当ならもうそろそろ角谷さんのところに例の催しの通達が来るはず。そしたら彼女はなりふり構わず助けを請うでしょう。他でもないカリエさんに」
オレンジペコは手元のスマートフォンをちらりと見た。メッセージアプリの、カリエとのやりとりは一向に更新されず、既読の印すらついていない。
電話の向こう側のその人が乗り越えなければならない未来を予感して、「それはそうなんですけれど……」と言葉を濁した。
「はたしてカリエさんはそんな大洗の皆さんのお願いに応えて下さるでしょうか。お優しい方であることは存じ上げていますが、今の彼女は許容できるキャパシティを遙かに超えた受難を感じられています」
「精一杯戦えて悔いなどないという満足感。もっと他にも方法があって、必ず勝てたという後悔。エリカさんたち黒森峰の人々に対する謝罪の念、そして自分を蛇蝎のごとく嫌悪してくる学園とOGたち。人の感情は複雑怪奇なものであることは重々承知だけれども、今のカリエさんのそれに関しては少々ややこしすぎるわね。一つ一つに整理をつけていくにはまだまだ時間が足りないわ」
ならばダージリン様の目論見ははたして成り立つのですか? とオレンジペコは縋るような視線を投げかけた。対するダージリンは涼しい顔をしたまま、だが、確固たる信念を抱いた瞳を持ってこう答えた。
「馬鹿ね。私が選んだ人は強い人よ。本当に本当に強い人。だから私はそのすべてをあの人にあげた。見くびるのも大概にすることね」
03/
最初は一本の電話だった。
カリエがエリカの胸の内で泣きに泣いた翌日。
黒森峰の戦車道の乗員たちは学園所属の飛行船で熊本への帰還を目指していた。激戦を戦い抜いた戦車たちはあとから海路で輸送されてくることになっていて、乗員だけ先に学園艦へ戻るよう指示されていた。
意外なことに、この時のカリエは割とけろっとしていて、ナナたちに交じって大富豪に興じたりしていた。
少しばかりぎこちない仕草を時折見せるものの、大筋では何処か一区切りつけた、自分なりに納得した表情を見せていたのだ。
エリカやみほ、そして小梅はそんなカリエの様子に安心し、それなりに楽しい旅路を続けることになった。
異変が生じたのは、彼女たちが学園艦にたどり着き、戦車のまだ到着していないガレージで解散式を終えたその直後だった。
それぞれが帰り支度を始め、荷物などを纏めていたとき、ふらふらっとカリエが集団から離れていった。
そしてガレージ備え付けの事務所に籠もり、十分ほど自身の携帯電話で誰かと話していた。
このカリエの行動はエリカを始めとした、黒森峰の乗員のほとんどが確認している。
やがて、カリエが事務所から出てきた。
誰と電話していたのか、とエリカが何気なく問いかけた。
だがカリエは答えない。
ちょっとね、と誤魔化し笑いを一つしてエリカに「帰ろう」と笑いかけていた。
この時エリカはダージリンから電話があったのだろう、と深く追求はしなかった。いけ好かないことは確かだが、カリエに対してはダージリンと付き合うのをやめろとは言えないのである。内心面白くないわね、と感じながらもカリエの「帰ろう」という言葉に賛同していた。
そして一晩経った。
エリカとカリエは二人して夏期補修に登校した。
二学期の始業式前、最後の登校日である。
途中、クラスメイトたちからは「お疲れ様」「大丈夫だった?」「かっこよかったよ」と概ね好意的な態度で迎え入れられた。普段はマイペースに過ごしているカリエも、さすがにその時ばかりは周囲に笑顔で応対していた。
エリカは安心する。
なんだかんだいって、日常に戻りつつある自分とカリエのことを考えて安心していた。
十一連覇を逃したことは確かに辛く、悔しく、やるせない事実ではあったが、そんなもの来年しっかりとリベンジすれば良いと楽観的に考えていた。
日中の授業はつつがなく進んでいく。
途中、休憩時間にカリエが席を立っていたが、別段気にするほどのことでもないと、エリカは注意を向けなかった。
大方トイレか、小腹が空いたので購買に立ったのだろうと判断していた。
そして、すべての校時が終了し、戦車道の授業時間が訪れる。
エリカは先に更衣室に向かい、タンカースジャケットに着替えていた。
カリエはお菓子を買っていくと、堂々と寄り道宣言をし、エリカと分かれていた。
まあ、それで少しでも気が晴れるのなら、とエリカは珍しくそんなカリエを咎めなかった。むしろ私の分もよろしくね、とらしくない冗談を告げたくらいである。
ふとエリカは気がついた。
何やらガレージが騒がしいと。
規則では乗員たちはガレージに集合し次第、備品の整備や簡単な清掃活動をすることになっていた。
別に私語が禁止されている訳ではないが、それにしても喧しすぎると眉を潜めた。
大会が終わって緊張感が切れたのかしら、とエリカは注意をするべく更衣室から出ようとした。
だがガレージに繋がる扉を開ける寸前、人影が中に飛び込んできていた。
それはカリエの副官でもあり、忠臣でもある佐久間ナナだった。
彼女は顔を真っ青に染めてエリカに詰め寄った。
「エリカ副隊長! はやく来て下さい!」
04/
以下の者を戦車道履修者から除名するものとする。
乗員たちが取り囲んでいたのは作戦会議にも使われているホワイトボード。そこには一枚の紙が貼り付けられていた。
真っ白で簡素な、だが学園理事長の実印が赤く毒々しいそれには異世界の単語が書き連ねられていた。
エリカは何が書いてあるのか全く理解できなかった。
対象者:3号車車長 兼 副隊長 普通科 2-C 4番
いや、理解はしていた。だがそれを認めることが出来なかった。
震える視線を走らせて見れば、自分の名前の次に見慣れた文字列が飛び込んでくる。
逸見カリエ
瞬間、エリカはホワイトボードから書面を剥ぎ取っていた。
咄嗟にナナたちが止めていなければ、そのまま激情に任せてそれを破り捨てていただろう。
ガレージは一瞬で阿鼻叫喚に包まれる。
怒り狂う逸見エリカと、それをなんとか押しとどめようとする佐久間ナナたち。
周囲にいた他の乗員たちは、エリカが怒りを代弁したせいか、代わりに大きな悲しみをあらわにしていた。
泣き出す者や、カリエに謝罪を繰り返す者、ただうつむき静かに耐える者。
それぞれが突然下された裁定に対して各の反応を繰り広げる。
一枚の書面を巡った混乱は、遅れてやってきた西住みほと赤星小梅に止められるまで、止まることはなかった。
05/
電話越しにカリエが受け取っていたのは、自身の処分に関する知らせだった。
本来ならば、大会で敗退するくらいで処分されることなどありえない。
仮にあったとしても、幹部としての任を解かれる降格人事だろうと、カリエは考えていた。
そして、もしもそのような判断が下されたのだとしたら、甘んじて受け入れていこうという覚悟もあった。
己の至らなさが招いた敗北なのだから、その責任はいずれ取るべきなのだ、としていていたのだ。
だが今回ばかりは少々事情が違っていたようだった。
まず第一に、黒森峰の十一連覇という偉業を無に帰してしまったということ。
次に後塵を拝した相手が、戦車道の「せ」の字も知らなかった新設の無名校だったこと。
最後にカリエの状況判断の悪さが直接の敗因だったこと。
他にも細々とした要因があるのだろうが、大まかに言ってしまえば以上の3点だった。
僅か3点ながらも、カリエの立場を絶望的に悪化させてしまう致命的な要因。
それらが複雑に混じり合った結果、黒森峰OG会の怒りと憎悪が爆発していたのだった。
電話向こうの人物はカリエにこう告げる。
「今後の進退について話がある。明日の戦車道の授業時間、出頭するように」
どうやら降格人事どころではないだろうな、とカリエは何処か諦観にも似た感想を持っていた。
夏の、大会の残滓も燃え尽き始めている八月の終わり頃。
まだまだ終わりそうもない波乱のこれからに、彼女は深いため息を吐いていた。
そして現在。
黒森峰戦車道のガレージで一枚の書面が発見されたのと同時刻。
カリエは理事長室に訪れていた。
「……というわけだ。君にはしばらくの間、戦車道を休んでもらいたい」
大粒の脂汗をたっぷりと流しながら、その男はそう宣っていた。彼の瞳はカリエを一切見ておらず、常にあさっての方向に固定されている。試しにカリエが一歩詰め寄ってみせれば、びくり、と肩を振るわせていた。
――板挟みか。
学園の責任者たる理事長のあまりにも情けない姿を見て、カリエはそんな感想を漏らしていた。
黒森峰OG会の影響力についてはそれなりに知っていると自負はしていたが、まさか理事長を脅すことが出来るほどとは、と感嘆すら抱いてしまう。
OG会からの莫大な寄付金が減額するのを恐れているのか、それとも彼自身の今後のポストを揺すられているのか、詳しい事情は全くもって不明だが、彼が外部の狗であることは早々に知ることが出来ていた。
だからこそ、カリエはこの人物に反抗しても仕方がないと、従順の姿勢を見せることにした。だが、疑問点だけは解消さえてもらうと、いくつかの質問を飛ばそうとする。
「しばらくと仰ってはいますが、具体的にはどれくらいの期間でしょうか」
「それは――ほとぼりが冷めるまでだ」
彼が言うほとぼりとはおそらくOG会の怒りのことだろう。ならば事実上の永久追放だな、とカリエは思わず笑っていた。
まさかここまで苛烈に責任を追及してくるとは考えていなかっただけに、呆れや怒りを通り越して笑いが込み上げてきたのだ。
だからこそ、もうやけっぱちに、もうどうでも良いと言わんばかりに次の質問を口にした。
「早期の復帰を私が望んでいるのだとしたらどうしますか?」
自分でも意地が悪い問いかけだな、とカリエは思った。
いわばOG会とカリエという板の距離を狭めて見せたのだ。間に挟まれた理事長は先ほど以上に目を泳がせていた。
そりゃ、答えようがないよな、とカリエは今日何度目かわからないため息を吐く。
——意地が悪かったですね。ごめんなさい。質問を撤回させて頂きます。
これ以上の時間はもったいないと、カリエは問答を切り上げようとする。しかしながらそんなカリエの行動は理事長の言葉によって遮られることとなった。
「君のお姉さんの立場の保証は出来ない」
奇しくもそのタイミングは、エリカがその激情を滾らせたのと全く同じだった。
双子故の奇蹟か、それとも運命の悪戯か、全く同時刻に逸見姉妹はそれぞれ感情を爆発させていたのだ。
「ふざ、けるな」
エリカが行動でその怒りを表現するのだとしたら、カリエは言葉だった。
決して手は出さないが、それでも特大の殺意と凄みのある言動をひっさげて、理事長に詰め寄っていた。
「エリカは関係ないだろう。なぜそこで彼女の立場の話になる」
理事長は落ち着いてくれ! と必死にカリエをなだめた。だがカリエは止まらない。
唯一と言っても良い、カリエの地雷を踏み抜いてしまったのだと、彼は後悔した。
「あくまでも君が勧告に従わなかった場合だけだ! 君さえ従ってくれればお姉さんにはいかなる影響もないし、君自身の在学だって認められる! 戦車道だって、大学に進学さえしてしまえばあとは自由だ! 好きにしてくれたらいい! だからこれ以上私を困らせないでくれ!」
怯えたように懇願する男を見て、カリエは冷静さをふと取り戻した。
思えばこの男だって、悪意ある誰かに弄ばれているのだ、と気がついたのだ。
それに男は言った。
カリエさえ大人しくしていれば、エリカには何の危害も及ばないと。
おそらくそれは事実なのだろう。
OG会だって表だってことを荒げたくないはずだ。
カリエはOG会の意図を正確に読み取っていた。
「なるほど、私が責任を感じて自ら戦車道を引退した、というシナリオですか」
どこか合点がいったというふうに、カリエは呟いた。
そしてカリエは淡々と、それこそ他人事のように言葉を続けた。
「——わかりました。では理事長。私、逸見カリエは今年度の全国大会を通して己の至らなさにようやく思い至り、黒森峰戦車道の栄えある歴史を牽引していくには力不足であると判断いたしました。よって、私の一存においてこの場を持って戦車道に関する一切から引退させて頂きます。今までありがとうございました」
一筆書きますか? とカリエは問うた。
理事長は黙したまま首を横に振った。
カリエは「わかりました」とそのまま踵を返し、理事長室の重厚な扉のノブに手をかける。
「……他の学校で戦車道を続ける分には、誰も何も言わないだろう」
カリエは振り返らない。ただ、「そうですか」と相槌だけをうって、その場から退出した。
夏の熱気が充満した薄暗い廊下で、カリエは一人ぼんやりと立ち尽くす。
さてこれからどうしようか。
ぼそり、と零された嘆きに答えてくれる人物は誰もいなかった。