黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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逸見カリエの戦車道 04

 鋼鉄の獣に触れたその瞬間、それまでに感じたことのない悪寒を覚えた。

 こちらを見下ろすその威容は、黒森峰にいた頃までは頼もしさすら感じていたのに、今となっては恐ろしさだけが身を貫いていく。

 纏った装甲の分厚さは他者を拒絶する壁のように思えて、触れれば刺すような痛みすら幻視した。

 かたかたと、油の切れた歯車が回るような挙動で、なんとか天蓋によじ登る。

 小豆色のキューポラに手を掛け、そこを覗き込んでみれば異界の入り口が開いているように思われた。

 

「カリエ殿?」

 

 直ぐ近くで名を呼ぶ声がする。それが優花里のものであるということに気がつくまで、カリエは数秒の時間を要した。

 ぽたぽたと夏の熱気とはまた違った――それどころか寒気からくる脂汗を天蓋に落とす。

 

「カ、カリエ殿!」

 

 異変を察知した優花里がカリエの肩を掴んだ。結果的にはそれが呼び水だ。

 ふらりと傾いた視線は、どれだけ身体に力を込めても元には戻らない。いつの間にか夏の青空が視界一面に広がったと思いきや、背中に強い衝撃を感じた。

 砲塔部分から車体部分に落下したと気がついたとき、周囲には人が押し寄せていた。

 何やら騒がしい辺りのノイズに身を晒しながらも、カリエの思考はぼんやりと働いている。

 

 この感覚を知っていると、彼女は考えていた。

 いや、厳密には知っていたと訂正を加える余裕すらある。

 けれどもだらりと力が抜けた四肢を再起動させる余裕はない。

 

 いつか煩っていた水恐怖症。

 前世の因果からなる、カリエに刻み込まれた呪い。

 頭では大丈夫だとわかっていても、覆しようのない圧倒的な畏れ。

 今ではなんとか克服したものの、長年カリエの人生に昏い影を落としていた楔。 

 

 まさか、とカリエは思う。

 けれども全身をひた走っていく感覚たちが現実というものを突きつけてくる。

 一度「トラウマ」という病巣と向き合い続けてきたからこそ理解できる、自身の肉体の変調。

 

 決勝戦で負けたという後悔。

 十一連覇を閉ざしたという重責。

 そしてそれが原因で他者から徹底的に排除されるという屈辱をもって、

 

 逸見カリエは戦車恐怖症になっていた。

 

 

/01

 

 

 どういうことだか説明して貰えますよね?

 

 優花里をはじめとしたあんこうチームの四人が生徒会室に来訪したのは、カリエが医務室にかつぎ込まれてすぐのことだった。

 それぞれが険しい表情を携えながらの訪問だったが、それは生徒会側も同じだった。どこかに電話連絡をしているのか、杏が会長席に腰掛けて受話器に対して言葉を投げかけている。

 柚子と桃の二人はそんな杏を護るように――門番のように立っていた。

 

「……どなたと連絡されているのですか?」

 

 柚子に勧められるままに、応接用のソファーに優花里が腰掛ける。柚子はその真向かいに位置どりながら優花里に答えた。

 

「グロリアーナのダージリンさん。もともと、今回の短期転校プログラムの仲介をしてくれたのは彼女なの」

 

 言外にそれ以上のことは知らないと、柚子は目線だけで語っていた。優花里も追求するのならば杏だと、ただひたすらに電話のやりとりの終わりを待ち続ける。

 杏が受話器を本体に納めたのは、それからおよそ五分ほど経過してからだった。

 

「――ちょっと不味いことになったね。あんなに狼狽えているダージリンなんて初めてかもしれない。今回のことは向こうもこちらも、完全に想定外だ」

 

 いまいち要領の得ない言葉をつぶやきながら、杏がソファーに腰掛けた。そんな彼女の背後に桃が陣取ったのと同時、優花里の背後にも沙織、華、麻子が立つ。

 

「本当は冬くらいに打ち明けようと思っていたんだけれど、そうもいかなくなったみたいだ。皆には逸見さんの本当の転校理由を教えるよ」

 

 え? と声を上げたのは杏を除いた生徒会の二人だった。柚子たちは全てを打ち明けるという杏の判断に明らかに戸惑いを見せていた。

 まさか大っぴらに出来ないようなことなのか、とあんこうチームの彼女たちは表情を険しくしたが、杏はそんな他の面々の困惑を振り払うように口を開き始めた。

 

「実はさ、逸見さんの転校はダージリンに依頼されたものなんだ」

 

「それはつまり、短期転校プログラムっていうのは嘘と言うことですか?」

 

 間髪入れずに優花里が口を挟む。杏は「その通りだよ」と肯定の意を返した。

 

「いや、全部が全部嘘というわけじゃない。短期転校プログラムっていう制度にねじ込んだのは本当の話さ。けれど、実質が違う。実質は大洗への都落ち。いや、亡命だよ」

 

 亡命、という言葉を聞いて、優花里の脳内を何かが駆けめぐった。それは高校戦車道界の事情に通じている優花里故の頭の冴えでもあった。

 彼女は殆ど正解に近い結論を瞬時に導き出していた。

 

「そうか、カリエ殿は黒森峰敗北の責任を負わされて転校せざるを得なくなったんですね……」

 

 言って、優花里は後悔した。後悔して、自身の胸の内を支配し始めた薄暗い感情が膨れ上がっていくのを感じる。

 

 昨日、自分はカリエになんと声を掛けた?

 

 昨日、カリエに自分はなんとお願いした?

 

 昨日、失意のカリエの前でどれだけはしゃいでいた?

 

 やってしまった、という絶望が鎌首をもたげていた。それは優花里以外の三人も同じだった。

 それぞれが、自分たちが訪問したときのカリエの心中を想像して、言いようのない吐き気を覚えている。

 これは駄目だ、と杏が生徒会室を支配し始めた負の感情を払いのけるように声を張り上げた。

 

「——秋山さんたちが気に病む必要はないよ。責任を感じなければならないのは間違いなく私だ。私が逸見さんの気を少しでも紛らわせようと、君たちにお願いをしたことなんだから。そこは勘違いしないで欲しい」

 

 まあ、それで割り切れないのが秋山さんたちの優しさなんだけどね、と杏は付け加えた。

 杏のフォローを受けた優花里はぐっと、自分自身の後悔を押さえつけて次の質問を口にする。

 ここで自己嫌悪に陥って、話を停滞させている余裕など正直なところないのだから。

 

「——先ほど会長はダージリンさんも想定外だったとおっしゃいました。それはつまり、カリエさんが戦車に拒否反応を見せることが想定外だったという事でいいんですね?」

 

 杏はただ頷く。

 そしてこれはダージリンから聞いたことなんだけれども、と前置きを一つ加えて言葉を繋いだ。

 

「逸見さんが黒森峰で色々と手続きをしたときは、戦車に関して問題なかったみたいなんだ。なんなら、姉である逸見エリカとはそれぞれの戦車に腰掛けて話していたくらいなんだって。それはつまり、大洗という新しい環境に来たからこそ生まれた弊害かもしれない」

 

 大洗に来てから生まれた弊害。

 その場にいる誰しもが「そんなものある筈がない」と否定することが出来なかった。

 

 あの飄々としたカリエだから。

 あの黒森峰で戦い続けてきたカリエだから。

 自分たちに頂の遠さを突きつけてきたカリエだから。

 

 全国大会のやるせなさその他もろもろを呑み込んで大洗に来てくれていると、勘違いをしていた。杏ですら大洗への緊急避難という言葉を軽く考えて、匿い続ければ何とかなると楽観視していた。

 そしていつか、黒森峰に戻ることが出来るようになるまで大洗で様々なことを楽しんでいって貰えればいいと考えていたのだ。いわば大洗女子に戦車道がなんたるかを教えてくれたカリエに対するこちら側の恩返しだと勝手に思いこんでいた。

 しかしながらそのツケを想像していたよりも遙かに早く支払う羽目になってしまった。他ならぬ、逸見カリエの新しい恐怖症の発現だった。

 

「もともと逸見さんは水恐怖症を患っていた。もしかしたら精神的に強く揺さぶりを掛けられると人より過剰に防衛機制が働く体質なのかもしれない。一応、本校のカウンセラーに診て貰えるよう手続きは整えておいたよ」

 

 カウンセラーに診て貰えるから、と安堵することができればその場にいる全員は幾分か楽な気持ちになることができただろう。だがそんな無責任を良しとしない気質ばかりが集まった生徒会室の空気は一向に重たいままだ。

 けれどもこれ以上ここで言葉を重ねても仕方がないことくらい、全員が理解していた。

 突如始まった生徒会とあんこうチームの会議に区切りをつけたのは、やはりというべきか秋山優花里だった。

 

「……大方の事情と現状は理解しました。カリエ殿は黒森峰で何らかの圧力を受けて他校に転校するほかなくなってしまった。そしてその受け入れ先にわたくしたち大洗が名乗りをあげた。転校そのものはつつがなく進んだものの、カリエ殿の心に巣くっていた恐怖心だけは誰にも見抜けなかった――このような理解でよろしいですね?」

 

「うん。全く以てその通りだ。私はもう少しダージリンや黒森峰の人と連絡をとって情報を集めてみるよ。秋山さんたちは……」

 

 杏の言葉を遮るように声を上げたのは華の凛とした声色だ。

 

「では私たちはカリエさんのお見舞いと、その後のアフターケアに回らせていただきます。出来ることはそれほどありませんが、最善を尽くそうと思います」

 

 沙織と麻子も華の言葉に同意を示す。優花里はそんな三人を引き連れて、杏と向かい合った。

 

「会長はもっとたくさんの情報を手に入れて下さい。戦車道チームのみなさんや、カリエさんのことはこちらに任せてもらいたいと思います」

 

 いつか優花里が見せた、決意に固まった瞳がそこにはあった。

 自分たちに敗れた逸見カリエの亡命まがいの転校劇。

 そこには多くの疑問や不安、そして確執が残されているのは間違いない。

 けれどもそれらを全て理解した上で、秋山優花里は逸見カリエを何とか支えて見せたいと願っていた。

 それは受けた数多の恩を返すという至極当然の理由もあったが、優花里は敢えてこの言葉を口にしていた。

 

「カリエ殿は一言で言い表すことが出来ないくらいわたくしとの複雑な関係を持つ方です。ですが、わたくしの友人であることに疑問を挟む余地はありません。友人を助けたいという気持ちに理由なんていらないでしょう」

 

 杏はただ、「任せたよ」と微笑んでみせた。

 優花里に対する信頼だけがそこにはあった。

 

「……大洗を救って貰ってすぐに申し訳ないけれど、たった一人の女の子を救うミッション。きっと私達ならやり遂げられるさ」

 

 

 02/

 

 

 目が覚めて最初に見たのは数え切れないくらいの瞳だった。

 ああ、そういえば優花里たちに医務室に運び込まれて、簡単な診断を受けてから横になって、それで眠ってしまったんだっけ、と冴えない頭でここに至る経緯をトレースする。

 しかしながらその過程でこれだけの瞳に見つめられるような要因など何一つ思い至るものがない。

 カリエは微妙な居心地の悪さを感じながらも、取りあえずは、とのそりと起きあがった。

 

「えと、おはようございます。みなさん」

 

 声を発したその刹那、カリエは人の波に揉まれた。

 バレー部らしきユニフォームに身を包んだ一団からは「根性も大事だけれど、体調不良にはこれ!」と栄養ドリンクのセットを押しつけられ。

 歴史上の人物のコスプレをした一団からは「入院中の暇つぶしにはこれ!」となにやら分厚い書籍を何冊もベッドの中に放り込まれ。

 ツナギが眩しい健康的な一団からは「Ⅳ号戦車の整備に不備があって目眩がしたのだとしたら申し訳ない! 詫びの品はこれ!」と何故かスパナを手に握らされ。

 下級生らしき少し幼い雰囲気の一団からは「これ、風邪を引いたときに効くと思います!」と新鮮な万能ネギを手渡され。

 見事なおかっぱでヘアースタイルを統一した一団からは「夜更かしからくる寝不足は立派な校則違反よ! 今日はこれを飲んで寝なさい!」と現時点で既にいれたてのココアが入ったマグカップが眼前に置かれ。

 

 そこから先、優花里たちが医務室に駆けつけてくるまで、瀑布のような喧噪は収まることはなかった。ただ、体調的には辛いはずなのに、その一時だけカリエは今まで抱えていたわだかまりをすっかりと忘れていたことは事実である。

 だからこそ、やや怒り調子だった優花里に対しても医務室に押し掛けてきた集団を咎めないで欲しい、と申し出ていた。

 そして場面は仕切り直され、戦車道チームを引き連れて華と沙織、そして麻子が医務室を後にした。

 優花里とカリエだけが医務室に残される形だ。

 

「本当に、本当に申し訳有りません! 皆さん決して悪い人たちなんかではなく、いやむしろとても良い人たちなんですけれども、タイミングが悪かったというか、とにかくごめんなさい!」

 

「いや、全然大丈夫だよ。むしろ良い気分転換になったと思う。なんか黒森峰にいた時を思い出すよ。風邪でも引いて戦車道の授業を休もうものなら、翌日にパンターの車長席がお見舞いの品で埋まっていたこともあったから」

 

 ころころと笑みをこぼし、黒森峰での思い出を語るカリエを見れば、そう大事なかったのだと優花里は錯覚を覚えそうになった。

 だがそれは違う、と彼女は心の中で首を横に振る。

 戦車に触れただけで意識を手放す状態のカリエが普通の訳がなかった。

 あの逸見カリエが、戦車に触れられないなどあってはならない現象の筈なのだ。

 優花里は吐き気すら覚える緊張感を抱えながらも、事の本質を突くべく口を開いた。

 

「カリエ殿、単刀直入に聞かせてください。戦車、乗れないんですね?」

 

 それまで医務室に流れていたふわふわとした空気が仮初めのものであったことが暴かれる。

 優花里に本質を問いただされたカリエが見せた表情は、筆舌に尽くしがたい苦悶の表情だった。

 

 葛藤、失望、恐怖、苛立、困惑。

 

 様々な重苦しい感情が、代わる代わる顔を覗かせては消えていっていくのを見て優花里は思わず唾を飲み込んでいた。

 質問のことを悔いるわけではないが、それでも軽々しく問いただすべきではなかったと後悔を滲ませる。

 カリエはカリエで、震える瞳と瞼を押さえつけるように、かき抱いたシーツで表情を覆っていた。

 

「……たぶん、そうです。Ⅳ号に触れた瞬間意識が飛びました。いつかの時みたいに、水を触れた時のように、体が言うことを聞かなかった」

 

 ぽつりぽつりとカリエはその時のことについて言葉を重ねていく。

 その行為は決して触れたくない傷痕をあえて弄くるかの如く、痛く、辛く、苦しいことだった。

 言葉として現状を積み重ねていく度、まるでそれが現実になっていくような錯覚すら覚えてしまう。

 認めたくない自身の今が襲いかかってくる。

 

「――頭ではまだまだ戦車に乗りたいって思っているんです。このまま戦車道を続けて、いつかまたエリカやみほ達と一緒に頑張りたいと思っている。でも、自分のものじゃないみたいにその瞬間には体が拒否していました。駄目だ、と思う間もなく体が戦車から離れていた」

 

 心は離れていないはずなのに、という呟きは余りにもか細すぎて対面している優花里すらも聞き逃してしまいそうなものだった。

 しかしながらそれがカリエの抱く紛れもない本心であることに優花里は気がつくことが出来た。

 カリエは戦車を嫌っているのでも、拒絶しているのでもない。

 

 ただいつか西住の博物館で出会ったときのように、体がついていっていないだけなのだ。

 

 ならばまだ希望はあると、優花里はカリエの方に身を乗り出した。そしてカリエを覆っているシーツをそっと捲っていく。

 この人の泣き顔を見るのはこれで三度目だ、と赤く染まった瞳を優花里は覗き込んだ。

 

 一度目に見たときのように、戦車道博物館でそうしたように、優花里はカリエに語りかける。

 

「――心が離れていないのなら、まだまだ大丈夫です。今の状態は麻疹みたいなものでしょう。人間誰しも、ちょっと不安定になってそれまでに打ち込んでいたものが嫌になることくらいあるんです。わたくしだって、こんなに好きでたまらない戦車道なのに、一度嫌になったことがありました。プラウダとの準決勝で、大洗女子学園の廃校を聞かされたときです。自分の進んでいた道の意味を一瞬だけ見失ったあの時、わたくしは確かに戦車道から逃げたくなった」

 

 でも、と優花里は続ける。

 

「そんな苦しみを乗り越える時はあっという間です。わたくしの場合は記憶の中にいたカリエ殿が背中を押してくれました。あなたがいたからこそ、わたくしは準決勝でも立ち直ることが出来た。なら、わたくしなんかよりよっぽど強い心をお持ちであるカリエ殿が戦車に対する恐れを乗り越えられないわけがないじゃないですか。それに微力ながらわたくしたちがいろいろとお手伝いいたします。困ったことがあったら何でも言ってみてください。難しい問題でも一緒になればなんとかなりますって。ああ、それにお姉さんや黒森峰の皆さん、それのカリエ殿を慕う全ての人があなたの味方なんですよ? みなさんが必ずやカリエ殿をサポートしてくれます。……きっととてもお辛いことが向こうではあったのだと思います。それこそ、新設のわたくしたちでは決して想像できないような惨い現実が。けれども、それもここに来たらなんの心配もいりません。絶対に絶対に、カリエ殿の事を守って見せますから」

 

 緊張のためか早口で紡がれた言葉はともすれば聞き逃してしまいそうなほどたどたどしい。

 しかしながらその言葉、その思いは本物なのだとカリエは感じ取っている。感じ取っているからこそ、こちらに身を乗り出している優花里に向かってその身を預けて見せた。

 カリエが今までそんな仕草を見せたことがあるのは、この世界ではエリカとダージリンだけだった。

 二人の最愛の人にしか見せなかった弱みを、初めて全くの他者にさらけ出していた。

 

「御免、優花里さん。しばらくこうしてても良い?」

 

 姉にも、恋人にも見せられなかった憔悴が今湧き出ていた。

 二人には心配を賭けたくないと、副隊長を罷免されてから被り続けていた仮面がぼろぼろと剥がれ落ちていく。

 縋り付くように優花里の制服の裾を掴んだ白い手は小刻みに震え、一度止まった涙は再びシーツを汚し始めていた。

 

 どうして自分が。

 なぜたった一度の敗北で。

 あんなに頑張ってきたのに。 

 あれだけ努力してきたのに。

 一生懸命前に進んだのに。

 

 どろどろと渦巻いていた負の感情が、見えないふりをしていた嘆きが、慟哭という形をもってカリエの口からこぼれ落ちていく。

 優花里はただただその言葉達を受け止め、カリエを抱き留める腕に力を込めていった。

 こんな彼女に掛けられる言葉などあるはずがないと、ひたすらに歯を食いしばる。

 

 それからしばらく。

 カリエが泣き疲れて再び眠るまで。

 優花里は医務室で一人カリエと向き合い続けていた。

 これから先に控えているエキシビションの話は一切しなかった。

 今自分たちに必要なのは、戦車の話ではないということくらい理解していた。

 カリエが抱えた心の傷を癒やすには、もっと沢山の時間が必要であることを思い知らされていたのだった。

 

 黒森峰からもぎ取った勝利に後悔はない。

 けれども。

 こんな禍根を残してしまうくらいなら、もっと別の道があったらよかったのにと一人夕暮れに嘆き続けていた。

 

 

 03/

 

 

 

 

 大洗女子学園の優勝を記念したエキシビションは、表向きでは大したトラブルもないままに終了した。そこにカリエの姿がなくとも、そもそも電撃的な転校劇が世間にはまだ知られていないのだから、問題にすらならなかった。

 大洗女子学園に属する生徒たちと聖グロリアーナの一部の生徒のみが、カリエが黒森峰から放逐された事を知っているのだから当然と言えば当然である。またそれぞれのグループの長が厳戒な緘口令を敷いたことも大きい。

 転校という事実そのものがなかったかのように、対外的にはいつも通りの両校として振る舞っていたのだ。

 そういった細々とした工作があった上で、当日カリエは、運営委員の一人としてひっそりと大洗女子学園戦車道に関わる形になっていた。

 優花里や杏たちは自宅療養を進めたが、体だけでも動かしたいと希望したカリエが運営委員会に潜り込んだのである。

 身も蓋もないことを言ってしまえば、大洗女子学園側に迷惑を掛けっぱなしであることを気に病んだカリエがせめて何か役に立てないか、と無理を押し通した形だ。実際、戦車道の試合運営に精通しているカリエの助力は初めてエキシビションを開催する大洗女子学園側には大いに役立っていた。

 無名だった新設校が、伝統ある元王者のノウハウを請うことになったのである。

 そして大洗女子学園側の雑用係として裏でちまちまと働いていたカリエが最後に取りかかったのが、アクアワールドから逃げ出したペンギンたちの捕獲だった。さすがに水族館から逃げ出した生き物の捕獲ノウハウなど有しているわけがなかったが、何故かカリエはペンギンに懐かれやすい体質らしく、想像よりもスムーズに作業は進んだ。もしかしたらぼんやり立ち尽くす姿が、ペンギンたちから見れば仲間に見えるようにできているのかもしれない。

 そんなこんなで、全てのペンギンをアクアワールドに返し終え彼女は帰宅の道についた。

 途中、ダージリンからのメールの連絡があったものの、返信どころか開封する勇気すら持てないまま悶々と過ごし、気がつけばとっくの昔に自宅に辿り着いていて、携帯電話をベッドに投げ出していた。

 あのダージリンのことだから、カリエを責めるような文面はまずあり得なかったが、それでも踏ん切りがつかないまま時間だけが過ぎていく。

 学園艦さえ降りてしまえば直ぐに会いに行ける距離にお互いがいるというのに、その距離は無限にも等しい開きを持っていた。

 あれだけ便宜を図って貰っておいて、「戦車に乗れなくなりました」という現状がカリエを縛り付けているのだ。

 

 申し訳なさや情けなさ、悔しさだけが溢れ出ていてダージリンの顔などとても見ることが出来ないのである。

 ましてや、メールすら確認することが出来ないのに、直接顔を合わせることなど不可能だった。

 

 ダージリンもダージリンでそんなカリエの心情を痛いくらいに理解しているからこそ無理に面会を押し通そうとはしなかった。

 そっとしておくのもまた愛だと言わんばかりに、敢えて距離を置いたのである。

 例え直ぐ目の前にカリエが乗り越えなければならない山場である大学選抜対高校選抜の一戦が控えていたとしても、そのことは決して口にはしなかった。恐らくそれは苦渋の決断ではあったが、英断でもあった。

 きっと今カリエにそのことを伝えても、ただ心が砕かれるだけで何の意味もなかっただろうから。

 

 だが、そんなダージリンの深慮と心慮を無に帰すような出来事も並行して進んでいた。

 奇しくもダージリンがカリエへの連絡をこれ以上続けない、とオレンジペコに伝えたのとほぼ同時刻のことだった。

 それはつまり、日が傾き始め、夕焼けが大洗女子学園の町並みを照らしていたまさにその時。

 

 

 動きがあったのは首都の中枢にほど近い、高層ビル群に挟まれた昔ながらの店が密集するエリアだ。

 その中でも特に歴史のある高級料亭の一室で、三人の人物が顔をつきあわせていた。

 辻と呼ばれる職員を伴った逸見——逸見カオリが一つの会談の席を設けていたのである。

 霞ヶ関から日も明るいうちに移動してきた彼女らはある人物に接触を試みていた。

 

「……成る程。文部科学省が何を考えているのか、凡その道筋は聞かせて頂きました。島田流家元として、そちらの申し出大変ありがたく思います」

 

 深々と頭を下げる島田流家元、島田千代を見てカオリは相貌を柔和に崩した。

 

「いえいえ、こちらとしましても今後の戦車道会の発展を願うばかりですから。全国高校生選抜チームと大学選抜チームの対抗試合を実現させることがわたくしどもの悲願であります」

 

 何とも白々しい、と辻は思わず視線を伏せていた。

 最初から最後まで仕組まれたマッチポンプの様相に、彼は感情を完璧に殺すことが出来ていなかった。

 しかしながら隣に座すカオリは対面に位置する千代に向かって笑みをそのままに言葉を重ねていく。

 

「日程の調整等はこちらにお任せください。戦車道連盟に働きかけて高校生の代表選抜を選考していきたいと思います。恐らく本年度の優勝校である大洗女子学園を中心とし、黒森峰、聖グロリアーナ、そしてプラウダで脇を固めた構成になることでしょう」

 

 何処までも妥当で無難な提案である。

 余りに収まりがよすぎるので、却って千代の警戒心を生み出してしまうのではないか、と辻は危惧した。だが、千代はそれに関して特に意見を告げることはない。高校選抜としてそれ相応の実力さえ伴っていれば十分だという考えを持っているが故の沈黙だ。

 大学選抜チームと互角まで行かずとも、それなりに相対できるチームさえ用意してもらえるのならばそれでよかった。

 カオリと千代。お互いがお互いの立場や考えを最初から知っているからこそ、会談とは名ばかりの、これからの対抗試合の細案が摺り合わされていく。

 何処までも政治臭く、何処までも出来レースの話し合いだ。

 ただ辻一人だけはそんなつまらないとも言える会談劇に安堵の息を吐いていた。最初、カオリがいらぬ事を口にしては話し合いをかき乱すのではないか、と心配していたのだ。他者を煽るだけ煽って無理矢理にでも隙を生み出そうとするのが、カオリの交渉のやり方なのである。

 悪辣としか言いようのないカオリに帯同して会談に臨むなど、悪夢としか言い様がなかった。

 そして残念ながら辻の恐れていたことは現実となる。

 会談もそれなりに進み、ようやく締めの頃合いが見え始めたその時だった。

 

「——島田流家元、これはわたくしの素朴な疑問であり愚問だと存じ上げますが一つお聞かせください。大学選抜チームは——そちらのチームを率いられるのはあなたのご息女という理解でよろしいでしょうか」

 

 それまで静かに、泰然と会談に望んでいた千代の眉が初めて動いた。

 余りにも小さな動きすぎて、常人ならば気がつきもしない千代の表情の変化。けれども霞ヶ関という魔窟で生き残り続けているカオリと辻はその変化を決して見逃さなかった。

 カオリは千代の返答を待たずしてさらに口を開いた。

 

「おっと失礼。官僚たる私が曖昧な言葉を使っては示しがつきませんね。だから改めてお聞かせください。大学選抜を率いてくれるのは島田家元の次女様という認識でよろしいでしょうか」

 

 辻は比喩でも何でもなく地雷が踏み抜かれる音を聞いていた。

 彼も噂だけならばそれとなく耳にしたことがある。

 元来、島田流の後継者は二人の姉妹という形で存在していたと。だがそれは今となっては過去形で、島田流を真っ先に継ぐ筈だった長女は家を出奔。親の影響力が全く及ばないような小さな高校に姿を眩ませたと。

 逸見カオリが踏み抜いたのはまさにその地雷である。

 彼女は島田千代に対してここにきてとんでもない挑発を掛けて見せたのだ。

 沈黙が部屋を満たす。

 

 誰も身じろぎ一つしなかった。

 辻は自身の速すぎる心音すら聞いていた。会談の当事者はカオリと千代ではあったが、一番心労を感じているのは間違いなく彼だった。

 そんな苦労人がいよいよ吐き気すら覚え始めた時、ぽつりと千代が口を開いた。

 

「……次女も何も、私には愛理寿という娘が一人いるだけです。まだ十三の子どもですが、私が伝えうるあらゆる技を既に会得しています。必ずや対抗試合を実りのあるものにしてくれるでしょう」

 

 言葉はそれだけだった。

 千代は「これからの予定がありますので」と席を立つ。辻はこのまま行かせてはいけない、と本能的に千代を引き留めようと腰を浮かせかけたが、隣に位置していたカオリが手で制した所為で中途半端な姿勢になってしまった。

 カオリは辻を一瞥することもなく、こちらに背中を向ける千代に向かってもう一度口を開く。

 

「島田家元、わたくしの企みを認めてくださりありがとうございます。ただ、あなたのご息女に最高の舞台を用意してみせるというわたくしの考えは真実であることをこの場をお借りして申し上げておきます」

 

「——黙りなさい。あなたに心を砕かせなくても、私の愛理寿は一人で前に進むことが出来ます。そうね、何処かの双子の姉妹とは違ってつまらないことで足を止めたりはしませんし、無様な外野に引きずり下ろされることもありませんから」

 

 きっとそれは島田千代なりの意趣返しだったのだろう。

 人が世間から隠している事情に精通しているのが自分だけだと思わないことだ、と千代なりに釘を刺した形だった。

 だがその場に居合わせた辻は全く生きた心地がしなかったのも事実だ。

 あくまで丁寧な口調で繰り広げられる舌戦に、彼は神経をすり減らし摩耗させ、ほぼほぼ失っていた。

 特にカオリの本性についてよく知っているものだから、千代の意趣返しは核爆弾級の破壊力を持つものだった。

 姪を侮辱された彼女がどのような行動にでるのか一切想像がつかなかったのである。

 

 しかしながらそんな彼の怯えと恐れは幸いなことに杞憂に終わった。

 

「そうですか。ではその双子たちとご息女、どちらが頂点に立つのか、一戦車道ファンとして心待ちにさせて頂きます」

 

 カオリはただそう述べるだけで、去って行く千代を引き留めなかったのだ。

 料亭の女将によって静かに引き戸が閉じられ、部屋にはカオリと辻だけが取り残された。

 辻はその時になって初めて安堵のため息を吐いたが、カオリはまた別の仕草を見せた。目の前に出された料理と酒を初めて口にし、がつがつと膳を平らげていったのである。

 さすがに辻は呆気にとられて「何をしているんですか」と苦言を呈した。

 全く悪びれもせずカオリは「もごもご」と返答を告げた。

 

「ん? 辻くんは食べないの? これ経費で落ちるから食べとかないと損だよ。例え天下の官僚っていってもここの夕食は我々の財布では持て余してしまう」

 

 ぱくぱくと決して上品とは言えない仕草でカオリは出されいた膳を次々と空にしていく。つられて辻も幾つか箸を伸ばしたが味は全くわからなかった。

 

「……意外って顔をしてるね。そんなに姪っ子のことで暴れない私が珍しい?」

 

 最初から全てお見通しだったのだろう。食前酒を食後に平らげるカオリは事も無げにそう零していた。

 辻は明確な返答を避けたが、否定もしなかった。

 

「さすがに自分から喧嘩売っておいて、相手が反撃したから怒るなんて餓鬼な真似はしないさ。あれはあちらがどれだけこっちの情報に通じているのかカマをかけただけだからね。半分確信めいたものはあったけれど、カリエちゃんが黒森峰を追い出された話、戦車道界隈では広まりだしてるみたいだ。まあ、島田流家元はそれなりに黒森峰の一団と付き合いがあるからね。当然と言えば当然なのだけれど」

 

 言って、彼女は携帯電話を取りだしていた。

 そして辻の言葉を聞くこともなく何処かへ電話をし始める。

 それまでのラフな態度は何処へやら。表向きの逸見カオリとしての顔が電話の向こうに数多の言葉を投げかけていた。

 辻はただ、言葉のやり取りが途絶えるのを数分待ち続ける。

 

「……はい。それでは明日の午前、そちらの邸宅にお邪魔させて頂きます。時間の都合、本当に御礼申し上げます」

 

 ぴ、と通話が切れた。

 カオリの目が辻を見ていた。今日一日で何度も目にしてきた、蛇のような鋭い瞳。

 

「今から羽田に向かうよ。タクシーの中で辻くんは熊本空港行きのチケットを取ってちょうだい。今日中に現地入りして資料を揃えたいから」

 

 辻がどれだけ料理を口にしたのか気にもとめず、カオリは立ち上がっていた。辻はカオリの台詞と、凡そ想像しうる電話の相手を思い浮かべてこれからのスケジュールに目眩を覚える。

 

「まさか逸見課長、明日西住流の家元に突撃するおつもりですか」

 

 何を今更、とカオリは笑った。

 

「そりゃあ、高校選抜から黒森峰をハブにするわけにはいかないからね。挨拶くらいはしておかないと。それに辻くんは興味ない?」

 

 何が、とは言えなかった。

 何故ならその後に続けられるであろう言葉など、容易に想像がついたから。

 

「西住流家元、西住しほは今回の黒森峰の動きについてどう考えているのか、私興味津々なんだ」

 

 無邪気に笑みを零すカオリに、辻は黙って付き従った。

 不本意なことに、辻は自身の好奇心が全くないとは口が裂けても言えなかったのだ。


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