優花里が見守る中、カリエはⅣ号戦車のハッチに触れていた。
戦車から感じる刺すような緊張感は相変わらずだが、押さえ込めないほどではない。
よく手入れされているのか、想像していたよりもスムーズに蝶番がすべり、砲塔の左側面にある乗降口が開いた。
やはり、とこの時点でカリエはある確信を持つ。
恐る恐るではあるが、身を車内に潜り込ませていけば、黙って見守っていた優花里がいよいよ口を開いた。
「——本当に大丈夫ですか、カリエ殿」
言葉には首肯のみしか返せない。何せカリエの全神経はⅣ号戦車に入り込んでいく己の全てに注がれているのだから。
足が床につく。
ついに全身がⅣ号戦車の中に収まった。
薄暗い車内に目を慣らすように、瞳を閉じて何度か深呼吸を繰り返す。
そしてそのまま周囲を見渡せば可愛らしいイラストがあしらわれたホワイトボードや、壁面に紐で吊された数冊のノートが目に入った。
よく見てみればそれぞれの乗員の座席にはクッションが敷かれている。
空ではあったがクーラーボックスも鎮座しており、彼女たちがどのような思いで戦車に乗っているのか窺い知ることができた。
思わず零れたのは、自分でも驚くような朗らかな笑い声。
緊張感は随分と和らいでいた。
クッションに触れ、座席に座り込んでも何もない。
やはりそうか、と確信が間違っていなかったことをカリエは悟った。
次に車長席を見上げる。丁度、装填手の位置からだった。自分もここからならああいう風に見えていたのか、と暢気な感想を抱く。
そっと車長席に手を伸ばした。
触れれば幻痛を感じた。
どうやらここに座ることは無理そうだ、とあっさりと手を離す。
カリエはそのまま、装填席に腰掛けてぼんやりと天井を見上げた。
少し余裕が出てきたのか、Ⅳ号戦車のにおいの事を考え始めていた。
自身のパンターとはまた違う、女の子らしい柔らかなにおいがする戦車だと思っていた。
なんだか変態くさいな、と微妙な感情が湧き出てきていたが不思議と嫌な気持ちではなかった。
「あの、カリエ殿?」
ふと頭上から声がした。
振り返って見上げてみればいつのまに移動したのだろう。車長席から優花里がこちらを見下ろしていた。
彼女はどこか安心したような、それでいて困惑を隠しきれない表情をしていた。
まさか車内のにおいについて考えていました、とはさすがのカリエも口にすることが出来ず、「ごめん。考え事をしてた」と誤魔化して見せた。
優花里も深く追求するつもりはないのか、「そうですか」と直ぐに相貌を崩す。
「やはり車長が駄目なのですね」
「うん、車長が駄目みたいだ。でもここなら特に問題ないと思う。やっぱりあなたに負けたあの瞬間をそこで過ごしたのが目に焼き付いて離れないんだろうね」
そう。
何もかもが絶望的な現状において、大洗女子学園に一つだけ光明があった。
それがカリエの戦車恐怖症が実は限定的なものではないか、というカリエ自身が立てた仮説である。
本当に戦車の一切合切が駄目なら、徹夜で戦車道に関する覚え書きを作成できるわけがない、とカリエは気がついたのだ。
それに車長席に収まらなかった——パンターに腰掛けてエリカとの最後の夜を過ごした事実もカリエの仮説を後押ししていた。
ならば善は急げ、と覚え書きを提出したその足でカリエは優花里にそのことを報告したのである。
あとは付き人を優花里にそのままお願いして、早速実験に乗り出したのだ。
結果としては——カリエの仮説が正しかった。
「今のⅣ号戦車は装填手と通信手が沙織さんによる兼任制になっているんだよね。なら沙織さんには通信手に専念して貰って、私が装填手をするよ。一応向こうでは一通りの役割がこなせるように訓練は受けているし。たぶん無理に兼任して貰うよりは早く装填できると思う」
確かにカリエの言うとおりだと優花里は理解する。現状、通信手と装填手の二足の草鞋を実行している沙織の負担はそれなりに大きいものだ。
その問題が解決できるのならば、カリエの提案に乗るべきなのだろう。
だが即決できない事情ももちろん存在する。
それは、あれだけ戦車に一度は拒絶を示したカリエをここに引き摺り込んで良いのか、という疑問。
そして何より、「Ⅳ号戦車」に負けたカリエの心情を見て見ぬふりをしてよいのだろうか、という罪悪感。
ぐっ、と返答に詰まった優花里の視線が中空を彷徨う。そんな優花里をカリエはじっと見つめた。
優花里を射貫くカリエの瞳は驚くほど澄んでいて、いつか憧れた美しさが残されていた。
恐らくカリエの思いは至ってシンプル。
「なんとか大洗女子学園の廃校を撤回させたい」というただそれだけなのだろう。
せめて一度受け入れてくれたのなら、その恩義は必ず返したいと考えるのが今のカリエなのだ。
特大の悪意に身を落とされただけに。
人からの優しさには最大限の力を以て報いようとする。
ならば今この瞬間、カリエの提案を受け入れることは、そんな弱り切ったカリエに付けいることになるのではないかと、優花里は危惧し始めた。
しかしながらそんな優花里よりもカリエの方が幾ばくか上手だ。
優花里の中で芽生え始めたいらぬ心配を払拭するように、言葉を重ねた。
「私に乗らせて。お願い優花里さん。これは私の我が儘。エリカやダージリン、そしてあなたたちにこのままじゃ顔向けが出来ないんだ。戦術だって提案できないかもしれない。指揮なんて今のままじゃ到底無理。けれども何か一つ、ここまで私を支えてくれている人に何かを返したい、っていう私の我が儘をどうか聞いて欲しい」
決まりだった。
そこまでの思いを語られてしまっては、優花里に断るという選択肢は選べなかった。
ただ静かに頭を下げて「よろしくお願いします」と言葉を返すのみ。
こうしてカリエは、選抜戦を装填手として戦うことになった。
02/
大洗女子学園の角谷杏の名前で幾つかの高校に書状が届いていた。
ここ黒森峰女学園でも同じ事で、届けられた書面を戦車道ガレージの中で履修生の全員が取り囲んでいる。
「……ついに来ましたね。これがカリエさんを取り戻すための戦いですか」
小梅の言葉にみほが力強く頷いた。
「お母さんに私たちの署名を預かって貰ったけれど、最後はやっぱり自分たちの手で掴み取らなきゃいけないと思う。だからこれは絶対に負けられない戦い。決勝戦で私たちに勝った大洗女子学園に思うところがある子はたくさんいると思うけれど、今は黒森峰一丸となって戦うべきです」
誰からともなく、「はい!」と力強い肯定が集団から湧き上がる。
まだ見えぬ敵から追放されてしまった副隊長を取り戻す戦い。それが此度の選抜戦であることを、黒森峰の戦車道履修生たちは全員がみほたちから聞かされていた。その為か、今の黒森峰女学園に流れる士気は先が見えぬほど高い。
中でも、車長を意図せずして失い、敬愛と忠誠心を向ける相手を奪われたカリエのパンターの乗員たちが顕著だった。
彼女たちは今にも掴みかからんばかりの勢いで書状を読み込んでいる。
「……私たちからの参加車両数は大会規定で定められているのね。合計四両。みほと小梅、そして私。この三両は決定と言うことで良い?」
異論は湧かなかった。現黒森峰における最高戦力の三両である。当然と言えば当然だった。
だが残りの一両——この枠をどの車両で埋めるかは随分と議論が紛糾した。
「車両構成を考えれば、重戦車で固めるのがよろしいかと。大洗は基本的に中戦車以下の構成ですし、プラウダを除けば他校も同じような事情です。ならば私たちは連合軍の一角として攻撃力に秀でた重戦車部隊を編成するべきです」
小梅の提案にみほは一理あると頷いた。だがそれに反論したのはエリカだった。
「私は残りの車両を偵察もこなせる中戦車——Ⅳ号戦車が理想だと思うわ。参加車両の多さを考えれば使い勝手の良いマルチプレイヤーがどうしても必要よ。即席のチームで余り連携が取れないことは目に見えているのだから、私たちの部隊だけである程度の作戦能力は維持するべきだわ」
成る程、とエリカの意見にもみほは肯定を返した。
正直なところ、二人の意見はそれぞれがそれぞれとも正しい。どちらも黒森峰が取るべき戦略だろう。ただ、視点が違うだけだ。
ふと、白熱した議論が一度静まる。
原因はみほの雰囲気にあった。深く椅子に腰掛け、書状をじっと見つめる彼女の姿にこれ以上自分たちが口を挟むべきではないと皆が判断したからである。
皮肉なことにカリエが抜けたからこそ、黒森峰にはみほを絶対中心に据えたカリスマ的組織構造が芽吹き始めていたのだ。
そしてそれが今回はプラスの方向に働いている。
「わかりました。残りの車両は重戦車で固めたいと思います。エリカさんの意見も尤もですが、やはり今回は中心校が大洗女子学園ですので、あちらの学校に足りていない戦力で参加しようと思います。連携の問題も、大洗女子学園側にいるカリエさんがフォローしてくれるでしょう。どの車両の車長をするのかはわかりませんが、カリエさんも重戦車で固めた部隊で援軍を受けた方が普段通りの采配を振るえるかと思います」
みほが選択したのは小梅の提案だった。ただ選ばれなかったエリカも特に思うところはないのか、大人しく「わかったわ」と頷いている。
あくまで最善の形を話し合っただけで、議論することが本題ではないのだから当然の反応ではあった。
選抜戦をカリエと共に勝ち抜き、黒森峰に凱旋させる、という目的が果たせられれば手段など何でもよかったのだ。
実際、みほの決定に異論を挟むものなど誰もおらず、実際の編成をどう組むか、という議題にシフトしようとしていた。
みほも手にしていた黒森峰の編成表を取り出し、選抜戦へ向けての戦略の構成に思考を傾け始めている。
その時だった。
次の場面へと移行しようとしていた空気に佐久間ナナが一石を投じたのは。
「あの!!」
声はよく響く。
編成会議を始めるよう意識を傾けていた全員がナナを見るほどには。
彼女に対する黒森峰の戦車道履修生たちの感情はおおむね好意的で同情的だ。
カリエに対する真っ直ぐすぎる忠誠心はあまりにも有名で、カリエの転校に頑として反対し続けたのも我が儘などではなくその忠誠心の表れなのだ、と評価されていた。
みほや小梅、そしてエリカもその面については大いに認めており、カリエのパンターの人員の一人として、他の車両に編入させずそのままにしている。
つまりカリエが復帰したあとの操縦手の地位が約束され続けているのだ。
ただ主人を失ってしまった犬のように見られているのもまた事実だった。ナナの圧倒的な操縦技術はカリエという主人がいるからこそ成り立っているのだ、という見方もあるくらいには。実際、カリエがいなくなってからのナナはケアレスミスも多く、その実力を十全に発揮できている状況とは言いがたい。
そんなナナだからこそ、この場面で声を上げたことは否応なしに注目を集めていた。
みほがナナの前に立つ。
どうしたんですか? と柔和な表情が語りかけた。しかしながらその背景にちらつく圧倒的なカリスマ性はナナを一瞬でも萎縮させる。
ナナはぐっ、と何かを堪えながらもみほの前に立ち続けた。
「わ、私を選抜戦に連れて行ってください!」
「……それは参加する車両の操縦手をつとめたい、ということで良いですか?」
周囲で聞き耳を立てていた人間は「なるほど」と一定の納得を見せていた。
確かに十全ではないとはいえ、ナナの実力は黒森峰においてトップクラスだ。選抜戦に参加する車両の操縦手をつとめあげることは理に叶っている。
ここでナナが声をあげたことはごく自然なことであると、皆が考えていた。
ただ例外が二人いる。
それはみほとナナだ。
ナナが絞り出すように口を開いた。
「いえ、私を、私たちを連れて行って貰いたいのです。副隊長が指揮されていたパンターとその乗員を連れて行ってください」
は? とガレージの空気が凍った。
まさかナナが車長不在の自分たちを連れて行けなどと言い出すなど、誰にも予想が出来なかったからだ。
そんな空気の中でみほだけが周りとは違った反応をナナに返す。
「……何となく予想はしていました。あなたたちはカリエさんの居場所になりたいんですね」
みほの言葉に「そんなこと」とエリカが言葉を漏らした。けれども彼女も何か思うところがあるのかそれ以上口を挟むことなく、黙ってナナの言葉を待った。
その場にいる全員の視線を受けながらも、ナナは気丈に言葉を連ねていく。
「はい、副隊長がもう一度私たちの車両に乗ってくれるのかは正直わかりません。もしかしたら黒森峰よりも大洗で戦う方が良いと考えておられるかもしれません。ですが! 私たちは副隊長がいつでもこちらに帰ってこられるよう、副隊長の居場所を守り続けたいんです! いつでも帰ってこられるように、お側にいたいんです!」
気がつけば、ナナ以外の乗員たち——装填手、通信手、砲手の隊員たちもナナの隣に立っていた。
そしてナナと同じようにみほへ懇願を口にする。
「私たちからもお願いします! 必ず役に立ちます! 副隊長が戻ってこられるよう、全力を尽くします!」
「決勝戦では撃破されましたが、同じ轍は二度と踏みません! ですからどうか!」
「お願いです! 西住隊長! 私たちを選抜戦に連れて行ってください!」
しん、と一瞬ガレージの喧噪が静まる瞬間がきた。
パンターの乗員たちが一様に頭を下げて、その前にみほが立つという構図ができあがった瞬間だ。
みほは静かに乗員たちを見渡した。彼女はそのままパンターの乗員たちへ問いかける。
「車長が不在ですがそれはどうするんですか?」
「私が代理としてつとめます。幸い、副隊長からは手ほどきを受けています」
ナナが面をあげた。確かに副隊長車の操縦手を任されているだけあって、そんじょそこらの中堅校の車長なんかよりも状況判断力、指揮力は勝っている。だがそうなればナナがつとめあげていた操縦手はどうなるのか、とみほは問いを重ねた。
「それは私がやります。通信手が装填手を兼任する形でパンターを運用します」
次に面を上げたのは装填手の少女だった。彼女もまた、黒森峰でレギュラーを張るだけあって操縦手としての技能も一応持ち合わせている。
しかしながらそれぞれが一線級かと言われれば断じて否だ。
彼女たちよりか、もっと専門的な技能に秀でた人間など黒森峰にはそれこそ溢れんばかり存在している。
戦力的な視点で考えたとき、ナナたちを無理してでも連れて行くメリットは皆無に等しかった。
だからこそみほは悩んだ。
大洗にいるカリエのことを思えば、慣れ親しんだ車両を連れて行くのは至極当然とも言える。
車長として合流さえしてしまえば戦力としては完成するだろう。
ただそれだけでは終われない懸念材料が一つあったのだ。そしてその懸念を口にしたのは沈黙に伏していたエリカだった。
「あんたたち、カリエの性格を考えたらパンターにあいつが帰ってくる可能性は限りなく低いわよ。間違いなく大洗女子学園への義理を果たそうとして——いえ、違うわね。私たち黒森峰に対する負い目でパンターに乗ろうとはしないと思う。あいつ自身が何かケジメを決めきれなければ、それこそ最後まで帰ってこないと思いなさい」
黒森峰への負い目。
それは黒森峰に残された全員が薄々感づいていた、カリエに穿たれた楔だった。
かの副隊長が此度の敗戦にどれだけの責任を感じていたのか。どれだけの重圧と自戒を持っていたのか、全員が嫌と言うほど知っているのだ。
大洗への亡命の道がなければ、それこそ戦車道を辞しても可笑しくないくらいには追い詰められていた。
理事長からの罷免という切っ掛けがあったにしろ、カリエの心はそれを一度受け入れている。
つまりはそういうことだ。
誰かにやめろ、と糾弾されればあっさりとそれを認めてしまうくらいには、カリエは戦車道というものから離れる決心をつけていた。
そのことを黒森峰に取り残された全ての人間が感じている。
もっと意地汚く黒森峰の戦車道にしがみつきさえしてくれれば、と恨み節を抱いてしまいそうになるくらいにはカリエの心境が伝わっているのだ。
だがナナはそんな事情を理解し尽くした上で、「それでも」と続けた。
エリカに向かって言葉を吐いた。
「その時に帰ってこられなくても、例え可能性がなくとも、私たちは副隊長の車両を連れて行きたいんです。理に適っていないこともわかっています。もっと良い編成があることも知っています。ですが、絶対に足手纏いにはなりませんから、必ず副隊長を支えますから——お願いします!」
最後はみほに、エリカに、いや黒森峰の乗員全員に対する拝み倒しだった。
自分たちが頓珍漢なことを主張しているという自負があるからこそ、ただひたすらに頭を下げるだけだった。
余りに泥臭いその姿を見かねた小梅が、パンターの乗員たちに頭を上げるように告げるが、ナナたちは微動だにすることない。
エリカもまさかここまでとは、とナナたちの決意の固さに呆気にとられていた。
どれくらいその問答が続いたのだろうか。
少なくとも分の時間は刻んでいる。
徐に口を開いたのはやはりと言うべきか、此度の最高意思決定者であるみほだった。
「——皆さんの願い、覚悟、わかりました。選抜戦へはカリエさんのパンターを伴って参加します。エリカさんの言うとおり、カリエさんが乗り換えてくれる保証などないに等しいですが、私たちの不退転の覚悟を示すには必要なことだと思います。責任も私が取りますから、ここにいる皆さんもどうか納得してくれませんか」
鶴の一声だった。
みほが認めたその瞬間、ガレージを覆っていた困惑は消し飛んでいた。
何故なら皆が皆、心の何処かでパンターの乗員たちの思いに共感していたからである。
車長を理不尽な決定で奪われてしまった彼女たちの無念は十分知られていた。
「——なら残り少ない時間だけれども、この子たちを私たちの編成に組み込んだ訓練を行うべきだわ。それにここにいる全員の知恵を出し合って戦術教練も行わないと。選抜戦という慣れないフィールドだからこそ、黒森峰の総力を挙げて挑むべきだわ」
ふとエリカがナナの横に立った。彼女はみほやその他全員に向けてこれから成すべき事を速やかに提案する。黒森峰他の隊員たちも異論など有るはずもなく、「はい!」とガレージ全体に響き渡る声色で喜色を滲ませていた。
「それでは皆さん、今から参加組は車両訓練を。待機組はエリカさんが告げた通り戦術教練を行って、当日の戦術についての提案を纏めてください。私たちならばきっとカリエさんを取り戻すことが出来ます!」
みほの号令でそれぞれが散っていった。ナナはエリカがわざわざ隣に立ったことを不思議に思いつつも、車両訓練を行うべく足を前に踏み出した。
けれども、エリカがそんなナナの肩をおもむろに掴んだ所為で、その場に留まることになってしまった。
何事か、とエリカを見やればカリエと同じ翡翠色の瞳がこちらを見ていた。
そしてそこから先、エリカの零した言葉はナナにだけ聞こえるものだった。
「——よく言ったわね。有り難う。カリエの代わりに私から礼をさせてもらうわ」
ぱっ、と肩から手が離れ、エリカはそのまま自身のティーガーⅡへと足を向けていった。
一人取り残されたナナはぼんやりとその様子を眺め、やや赤く染まった顔で、やがてこう声を漏らした。
「——ちょっと揺れてしまった自分が憎い。浮気、だめ、絶対。……でも、顔は同じなんだよなあ」
03/
俄然王者としての実力を有する黒森峰女学園が本格的に動き出したとき、女王率いるグロリアーナも歩みを再開し始めていた。
残念ながら全国大会をベスト4という成績で終えていたものの、依然としてダージリンを中心とした強固な結びつきで戦車道に挑んでいるのが彼女たちだ。
とはいっても、ダージリンが現役であるのは言ってしまえば残り一戦。選抜戦を残すのみとなっている。
だからこそ、そこに賭ける意気込みは黒森峰に負けず劣らずのもので彼女たちもまた非常に高い士気を有していた。
ただ憂いがないのかといえばそれは嘘になる。
「大洗から連絡がありました。逸見さんはどうやら車長ではなく、Ⅳ号戦車の装填手として出場するみたいです。実際に練習も行っているのだとか」
大洗とのメールのやり取りは常に電子機器を携帯しているアッサムが担当していた。
彼女は今し方開いた文面をダージリンの眼前に差し出す。
「ダージリン、あなたが告げたように彼女はまだまだ諦めていないようですよ。これは朗報なのでは?」
久方ぶりの良い知らせのためか、自然とアッサムの声色は弾んでいた。
ここ最近、当事者でなくとも気が滅入るような知らせばかりだったために、その反動が来ているのだろう。
側に待機しているオレンジペコも心なしか柔らかい表情で二人のやり取りを眺めている。
「ええ、そうね。このことに関しては本当に良い知らせだわ。信じていたとはいえ、あの人の心が死んでいなかったという事実が何よりも嬉しい。けれども、そうまでしてカリエさんを追い詰め続けている自分が本当に嫌になるの」
そう言って、ダージリンは手にしていたカップを口に傾けた。
カリエのために繋いだ道とはいえ、半ば自分勝手な感情から始めた策謀だ。そこには周囲が想像している以上に複雑な感情が蠢いている。
「……アールグレイさまから選抜戦の存在をリークされてから2週間。あなたは本当に上手く立ち回っていると思います。そんなあなたが自己嫌悪に浸っていては逸見さんも悲しむと思いますよ」
アッサムは知っている。
ダージリンがどれだけ危険な橋を綱渡りしているのかを。
彼女が持つ情報網をフル活用し、選抜戦の存在を掴んでからは、それを利用した策を綿密に丁寧に推し進めている。そこには決して大っぴらに出来ない人脈であったり、取引だったりが存在している。
全国大会が終わった今、座していればグロリアーナの女王として幕を閉じることが出来るというのに、彼女はその地位を失う可能性がある道をただただ邁進しているのだ。
「アッサムの言う通りかもしれないわね。ここまで来たらわたくしに迷いなんて許されないわ。地獄の底に落ちてでもあの人を失意から救わないといけないの。でもたった一つの懸念が頭から離れない、と言えばあなたたちは失望してしまうかしら?」
ふと茶目っ気を込めてもたらされたのは意外な一言だった。
あれだけ細やかな計画を打ち立て、それを実行する能力のあるダージリンが「懸念」などと不確定要素を口にするのは普通ならば考えられないことだからだ。
アッサムとオレンジペコは驚きに表情を染めたまま、ダージリンの次の言葉を待つ。
「実はね、随分前から選抜戦が行われるかもしれない、という情報がアールグレイさまが漏らしていたの。それこそ全国大会が始まってすらいない、今年の三月から」
「——それ自体は不自然ではないと思います。これだけの大規模な試合ですからそれ相応の時間を掛けて計画が練られて然るべきかと」
言葉を返したのはオレンジペコだった。彼女がダージリンに告げた通り、選抜戦の計画が随分前から存在していたという事実は全くもって不可思議ではない。ダージリンも同じ事を考えているのか、最初の一言は肯定だった。
「確かにオレンジペコの言う通りね。計画案が起草された時期そのものは気にとめる必要もないでしょう。けれどもね、その起草者が少し気になるのよ」
言って、彼女はカップをテーブルに置いた。
そして一拍おいた後、静かな声色で言葉を紡ぐ。
「逸見カオリ。何を隠そう、カリエさんやエリカさんの伯母の名前がそこにはあったの。彼女が文部科学省に働きかけて、選抜戦をこの時期に開催しようとしていたのよ」
は? と声を漏らしたのはアッサムもオレンジペコも変わらなかった。
ダージリンは当然の反応だと言わんばかりに、さらなる言葉を重ねていく。
「偶然にしてはできすぎているでしょう? でもね、私の懸念はそんなことではない。もっともっと深いところの話。——この選抜戦の計画案はね、4月には一度凍結されて棚上げになっていたの。けれども何があったのか再び表舞台に上げられている。何を隠そう、全国大会が終わった直後にね。そしてそこで起草者が逸見カオリから『戦車道興隆委員会』という不可思議な委員会に取って代わっていた。ねえ、カリエさんの伯母さんはどこに消えたの? どうしてこの時期、このタイミングで再び計画案が再開されているの? どうしてカリエさんが全国大会で敗戦したその後に都合良く計画が横たわっているの?」
ダージリンはオレンジペコとアッサムに問うていた。
どうしてこんなにタイミングが良すぎるのか? と。
逸見カリエの復帰戦に利用することの出来る大会が、何故こうも都合良く存在しているのかと。
さらに彼女は畳みかけていく。
「カリエさんが新しい功績を打ち立てて、黒森峰に凱旋することの出来る道筋を作ったのは確かに私よ。その為に大洗女子学園だって利用した。けれども私のその行動ですら、誰かに牽かれたレールの上を走らされているように思えてならないの。ねえ、この道は本当にカリエさんを救える道なのかしら? もしも悪意ある誰かが全てを操作しているのだとすれば、それこそ取り返しのつかないことになるわ」
ダージリンの疑念に二人は言葉を返すことが出来なかった。
彼女も彼女で返答を期待しているわけではないのか、そっと窓から外の景色を見下ろす。
夏を彩り、季節を刻みつけていた熱気はいつのまにか残暑と呼ばれる残り香に変貌していた。
おそらくもう少しもしないうちに空気は冷気を帯び、季節を移ろいゆかせていくのだろう。
蝉の寂しげな声が何処かで聞こえる。夏の終わりが目の前に横たわっている。
夏はカリエの季節だった。
いつだってこの暑さの中で、彼女の輝きに嫉妬し絶望し、そして愛した。
そんな夏が終わる。秋が来て冬が来る。
「——もしかしたら、色々と理屈づけてはいるけれども怖いのかもしれないわね」
何がですか? と聞き返したのは果たしてアッサムとオレンジペコのどちらだったのだろうか。
ただ、ダージリンはその後、残暑の喧騒に消え入りそうな声色でこう告げた。
「不意に現れた終わりよ。折角手に入れることができた——いえ、あの人がくれた幸せがあの人とともに消え去るのが怖いのよ」