たぶんその知らせが自分に届いたことは運命なのだろう。
ミカは早朝から一人でそんな風に考えていた。
彼女は今、学園から陸へとその身を移している。何を隠そう、「会いたい」と願い請うた人物がそこにいるからだ。
継続高校の学園艦を降りるときは、いつもアキやミッコと一緒だっただけに、此度の一人旅は何処か新鮮で、それでいて懐かしいものだった。
思えば、継続高校に転がり込む前はいつも一人だったな、とこれまでの一時を振り返る。
母と妹という血の繋がった肉親がいたとしても、心の在り方は常に孤独だった。
流派というしがらみに囚われ、ただただ自身の思いを殺し続ける日々。
自由に憧れ、世界に羽ばたく自分を夢想するも、それは叶わぬ夢だと諦め続けていた。
もしも流派の長として定められたレールがあれば彼女はそれを拠り所に生きていくことができた。
私はこの流派を発展興隆させていくために生まれたのだ、と諦めをつけることも出来た。
けれども母はミカに長の地位を約束しなかった。それはミカですら敵わないと感じてしまう超人染みた妹の存在があったためだ。
門下生がいつも噂をしていた。
「姉が妹に負けてしまうなど、何とも情けない」
一族の連中がいつも陰口を叩いていた。
「何故あの母親はとっとと妹を後継者に指名しないのだ」
いつか妹がミカに告げた。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんの好きな道を生きれば良い」
こんな自分はなんなのだ、と自問を続ける毎日だった。
自由はなく、地位もない。あるのはただ漠然とした未来への不安だけ。約束されぬ将来と、約束された不自由さが横たわっていた。
——けれども。
そんな閉鎖的で、息の詰まるような生活は唐突に終わりを告げた。
ミカが今を以て刹那論者であるのはその出来事が何の予兆もなく自身に降りかかったためである。
どうてことのない、他流派との親善試合。
西住流とかいう、西日本で根付いているもう一つの流派との極普通の試合。
そこに彼女たちはいた。
確かに目立っていたのは将来流派を継承するであろう、西住の姉妹だった。化け物染みた連携と技量で確実に相手を押しつぶしていく、質実剛健な姉妹だった。
しかしながらミカが目を奪われたのはそんな西住姉妹と共に戦うもう一つの姉妹だった。
顔を見てみれば双子であることが一目瞭然な容姿をしており、それぞれがそれぞれと連携を取ろうと努力していた。
ただその技量は西住姉妹に遠く及ばず、双子ならではの連携もこちらの門下生が突っついてやれば直ぐに瓦解するような脆いものだった。
その証拠に、あっという間に妹の方が討ち取られ、姉の方もそれから程なくして撃破されていた。
恐らく、こちらからしたら特に気にとめる必要もない、凡百な選手だっただろう。
それでもミカが目を奪われたのはそんな普通の姉妹だった。
「馬鹿ね! あれだけ出しゃばったら撃破されるに決まっているでしょう!」
「エリカうるさい。いいでしょ、それなりに頑張ったんだから」
「あのね、カバーするこちらの身にもなりなさいよ!」
試合後、目の前で繰り広げられていた姉妹喧嘩にミカは己にないものを見つけていた。
ちょっとお節介焼きの姉と、ちょっと我が儘な妹。
そんな何処にでもいるような普通の姉妹が、ミカにとっては余りにも衝撃的な光景だった。
自分と妹は、喧嘩一つしたことがなかった。
自分と妹は、世話を焼くことなど一つも許されなかった。
自分と妹が、最後に顔をまともに合わせたのはいつだろう。
それから暫く、ミカは二人の姿が頭から離れなかった。
少し時間さえあれば、姉妹のことを調べていた。
二人が逸見姉妹と呼ばれ、地元熊本ではそれなりに名の通った選手であること。
幼い頃から西住流を学び、黒森峰女学園の中等部に所属していること。
様々な二人に関する情報を、ミカは手にしていた。
手にして、いつか思いは憧れと絶望に変わっていた。
自身も妹と同じような関係になりたいという憧憬。ただの姉妹として、くだらない毎日を送りたいというささやかな願い。
呪いのような流派に身を置くが故に、決してそれは叶わぬという残酷すぎる現実。
そんな二律背反の感情を抱き続けていた彼女だが、その限界は呆気ないほど直ぐにきた。
高校進学を目の前にして、ミカはある人物に接触を図っていた。
それは血縁上は父と呼ばれる者であり、戸籍上は全くの赤の他人という人間だった。
ミカは家を出て行った元父に請う。
ただ一言「逃げたい」と。
元父はミカが拍子抜けするくらいにはあっさりと「わかった」と告げた。
そして翌日には元父の車で、ある学園艦に訪れていた。
継続高校。
ミカがその身を埋めさせる学び舎はそんな名前だった。
01/
指定されたのは都内のある高級ホテル。
女子高生という身分では決して立ち入ることの出来ないレストランのテーブルにミカは腰掛けている。
そんな彼女の対面に座すのは島田流家元、島田千代。
何を隠そう、ミカの実の母親だった。
「——まさかあなたが私の呼びかけに応じてくれるなんてね。便りの一つも寄越さなかったというのに」
母の皮肉交じりの言葉にミカは棘のある口調で返答した。
「——あのように連絡を打てば私が必ずここにやってくると確信を持っていたのでは?」
千代の表情が強ばったことをミカは見逃さなかった。
やはり母は何か一物を抱え込んでいるのだ、と彼女は警戒心を自然と高める。
思えば母からの久方ぶりの連絡など、ただの親子のやり取りで終わるはずがないのだ。
千代はそんなミカの警戒心を感じ取っているのだろう。
回りくどい弁解などいらぬと、あっさりと内心を打ち明けてみせた。
「ええ、『逸見姉妹』の事で話があると綴った下心は認めるわ。それがあなたを釣り上げる最優の針であることも知っていたから。でもそれは決してあなたを釣り上げる為の偽りの針ではない。純然たる事実として確かに存在する針よ」
そう、普段ならばミカは決して母の呼び出しに応じなかっただろう。
居場所がバレていることは薄々感づいていたが、母からの何らかの干渉があっても無視を決め込むつもりで学園生活を送っていたのだ。そんなミカがアキやミッコを置いて学園艦から出向いてくるなど余程のことである。
ミカが食いつかざるを得ない餌——『逸見姉妹』の話を持ち出されるくらいのことがない限りは。
これは恐らく罠だ——と、ミカの本能が警鐘を鳴らし続けてはいるが、このまま怖じ気づいていても仕方がない、と母へ言葉を返す。
「ならばその針の向こう側にある『あなた』を早く見せて欲しい。どういう思惑があって私を呼び出したのか、どういう魂胆があって今更会う気になったのか洗いざらい吐いて貰いたい」
他人から見れば二人が親子であることを推し量るのは難しいだろう。
それくらい両者の間には隔絶した壁があった。ミカは決して千代を『母』とは呼ばない。
「……そうね、島田流の真髄はある意味で忍術めいた回りくどさと丁寧さにあるのだけれども、たまには西住のように正面切って進むことも良いでしょう。特にあなたに対しては殊更そう思うわ。では単刀直入に言います。島田ミカさん、あなたにはもうすぐ開催される高校選抜対全日本選抜の試合に選手として出て欲しい。——大学選抜チームの一人として」
ここでどれだけ言葉を重ねても娘には届かないと考えた千代は、胸の内を一瞬で吐露していた。今は殆ど他人でも一応は実の娘である。これが現時点における最善手であることを読んでいた。
実際、その読みは殆ど的中していて千代の言葉を受け止めたミカは目を見開いて身動き一つ出来なくなっていた。
彼女が次に言葉を発するまでには実に数十秒の時を要する。
「——まさかあなたは私を逸見姉妹と戦わせるためにここに呼び出したのか」
首肯だった。
千代は「あなたが彼女たちに抱いている気持ちをよく知っている」と告げた。
「あなたが家を出て行ったのも元を辿れば彼女たちに憧れ絶望したからでしょう? この間の全国大会で『いつか砲火を交わしたい』という願いは一応叶えられたものの、それが消化不良に終わっていることは理解しているつもりだわ。だってあなたが望んだ相手は姉妹で徹底的に敵を蹂躙する逸見姉妹であって、妹を守る姉という逸見姉妹ではないもの」
やはりこの人物は強敵だ、とミカは思わず苦笑を漏らしていた。
自身が抱く鬱屈した感情が見抜かれていることは想定の範囲内だったが、その先の、それこそ直近の大会で感じた思いまで知られているなどとは考えもしなかったからだ。
血が繋がっているというだけで、何処までも見透かしてくる千代が素直に言って恐ろしい。
「……次の選抜戦、逸見姉妹は文字通り死力を尽くしてこちらに食らいついてくるでしょう。彼女たちの、姉妹で引き裂かれてしまった境遇ももちろんあるけれども、そうなるようにレールを敷いている人間もいる。これはあなたに取って絶好の舞台ではなくて?」
正直、何処までも甘美で何処までも唾棄したい提案ではあった。
逸見姉妹ともう一度戦えるという餌は限りなく極上のものであるし、そんな自身が抱く欲望を知られているという事実が何よりもおぞましい。
文字通りミカは葛藤する。
揺れ動く天秤に心が乱されていく。
彼女の中にいる獣は既に餌に食らいつく寸前だった。
だが——。
ふと、アキとミッコの姿が脳裏にちらついた。
ふらりと継続に飛び込んできた自分を受け入れ、そして今まで付き添ってくれた二人の姿だ。
得体の知れないこんな自分を友人だと言ってはばからない二人だ。
そんな二人を、こんな自分勝手な願いで千代の思惑に巻き込んでいいのか、と獣に殺されかけていた理性が警告を鳴らしてくれている。
今まで隠し通してきた家の問題に巻き込んでいいのか、と忠告してきてくれている。
危なかった、とミカは息を吐いた。
先ほどの苦笑とは正反対の、まさに安堵の息だった。
逸見姉妹を目の前に、まんまと踊らされそうになった自身が恥ずかしくなった。
彼女たちと本当の意味で砲火を交わす機会など、それこそこれから先の人生、いつか実現すると視野が明らかに開けていた。
だからこそ、憑きものが落ちたかのように素晴らしく晴れやかな表情でミカは口を開いた。
「残念ながら私はあなたの申し出を辞退するよ。そもそも継続高校の一車両だけが全日本選抜に参加するなんて可笑しな話だ。筋が通っていないんじゃないかな?」
返答には興味がない、とミカは席を立つ。
いつの間にかウェイターが運んできたコーヒーに目線が向かうが、千代が用意させたものだと思うと到底手をつける気にはならなかった。
アキ辺りがこのことを知れば「勿体ない」と残念がるだろうね、と冗談を思いつく余裕さえある。
そして学園艦をこっそりと抜け出してきたことが二人に知れ渡ると面倒だ、と帰りの道を思い描いていた。
しかしながら。
「——訂正するわ。『ミカ』。逸見姉妹と戦う、と告げた事実には一つ誤りがある。今から私の真意とあなたへの願いを伝えます。それに、あなたがこんなことで釣れるだろうと軽んじたことも謝罪します。だからもう少しだけ話を聞いて頂戴」
足が止まった。
いよいよミカの本能が警告する。
耳を傾けるな、そのまま立ち去れ。千代の言葉が呪いになるぞ、と。
でも悲しいかな。
ミカは馬鹿正直に振り返ってしまっていた。
母に『ミカ』と名を呼ばれたのが余りにも久方ぶりすぎて、それを少しばかり喜んでしまった『娘としての自分』が振り返らせてしまっていた。
迂闊だった。
「私たちの敵は逸見姉妹ではないわ。その伯母であり官僚でもある『逸見』というもっと大きなものよ。文部科学省で戦車道に関する一切を牛耳ろうとしている女狐がいる。彼女はあろうことか愛里寿を狙っていた」
どういうことだ、と言葉には出来なかった。
まだ母の真意をミカは測りかねている。
「ついこの間、『逸見』と顔を会わせたの。そこで彼女はあなたと愛里寿の関係について言及してきた。——あの人はね、世間的には知られていない愛里寿のアキレス腱を知っているの。どうすれば島田愛里寿という人間を揺さぶれるのか知っている」
愛里寿のアキレス腱。すなわち弱みと母が口にしたことで、ミカは言いようのない不安を覚える。けれども母はそんなミカの内心を待ってはくれない。
「愛里寿があなたとの関係をずっと気に病んでいることを理解していた。そして彼女は何処までも身内を守ろうとする策謀家。此度の選抜戦、逸見姉妹を勝たせるためにはそんな愛里寿の心の弱点を容赦なく突いてくるつもりよ。有ることないことを外野に吹き込み、こちらの身内にも吹き込み、あなたと愛里寿の不和をでっち上げるでしょう。文言なんて簡単な物よ。ちょっと言いふらせば良いの。『姉である島田ミカは妹の島田愛里寿を恨んでいる。島田流後継者の座を追い出されたから恨んでいる』ってね」
そんなことはない! とミカは再び母の前に立った。
言葉にこそしなかったが、その目線と表情で自身が抱く愛里寿への感情を母に示した。
千代はそれを正確に読み取ってみせる。母親だからこそ、姉妹の間に横たわっている複雑怪奇な感情も理屈も理解していた。
そしてだからこそ、と続ける。
「私は先に手を打ちたい。あの女にあなたたちを滅茶苦茶にされる前に先手を取りたい。もしこのタイミングであなたと愛里寿の関係に横槍を入れられたら、それこそ姉妹の仲は完全に修復不可能なものになってしまう。私は一人の母親としてそれを許すつもりは毛頭ないの。だからお願い。あなたから全日本選抜に参加して愛里寿を支えて欲しい。顔を合わせなくたって良い。言葉を交わさなくても良い。ただあの子の側にいて欲しい」
最早懇願染みた母の言葉をミカは撥ねのけることができなかった。
母の告げる言葉は恐らく真実だからこそ、ミカはその場に固まってしまっていた。
葛藤ですらない。
ただただ困惑と焦燥だけが体を支配している。
「——そんなにも『逸見』という人はいけないのかい?」
だからこそやっと絞り出せた言葉はごく僅かなもの。
だが母はその言葉に誠実さだけを見せる。
「あれは本当に魔物よ。自身の目的達成ならば何人を犠牲にしても眉一つすら動かさない怪物。残念ながらミカと愛里寿はその視界に入ってしまっている。『逸見姉妹』という茨に触れてしまったあなたたちを見ている」
これは何の因果だ、とミカは唇を噛んだ。
自身が島田の束縛から逃げる切っ掛けを作ってくれた『逸見』が、今度は島田そのものを破壊しようと目の前に立ちふさがっている。
もしもあの時、逸見姉妹に憧れずにいたら別の未来が見えていたのだろうかと、後悔すら滲ませてしまっていた。
時だけが流れていく。
母は一切急かさなかった。
やがてミカは大きく深い息を一つだけ吐いた。
その行為は皮切りだった。
再び母の対面に腰掛ける。
テーブルには既に冷えたコーヒーが一つ。
ミカはそれを手に取り。
最後には口につけて一気に飲み干していた。
02/
「……撃破しなければならない車両は全部で30両。しかもそのほぼ全てが王者黒森峰と同等の実力を有した猛者。無理ゲーだな」
いつもの学園艦ではなく、つい最近乗ったばかりの「さんふらわぁ」号。
茨城と北海道を結ぶ大型のカーフェリーはそれこそ数週間前に辿った航路を再びなぞり直す。
それが大洗女子学園の現状であり今だった。
フェリーに設けられているロビーの円卓を囲った、大洗のあんこうチームの中で、麻子が苦言を漏らしたのはまさにそんな現実に対してなのかもしれない。
「いくら高校選抜として他校の皆さんが協力してくれても厳しいものがありますね。黒森峰の皆さんも車両制限で四両の参加ですか」
華が告げた通り、文部科学省から通達されたレギュレーションには各校の参加車両に関して事細かに条件が記されていた。
一番当てにしていた黒森峰に許された四両という数字は、大洗に流れ始めていた楽観的な空気を一瞬で吹き飛ばしている。まさか文部科学省がここまで黒森峰の戦力を制限してくるとは夢にも思わなかったからだ。
「それでもやるしかありません。カリエさんはこの通り、私たちに持てる全ての戦車道に関する考えを渡してくれています。何とかこれをもとに微かな突破口を見つけるしかないでしょう」
言って、優花里はまだ真新しいノートをぎゅっとかき抱いた。カリエに手渡されたそれは全日本選抜に関するあらゆる情報と、その対策について記されている。
カリエの戦車道に関する全てが詰まっていると言っても過言ではないものが、今優花里の手の中にある。
「でもさでもさ今回ばかりは本当に危ないよね。結局、それぞれの学校同士の連携訓練も出来なかったし、戦力も思った以上に伸びていない。そりゃあ何とか勝ちきって廃校を撤回して貰わないといけないのはわかるけどさ。それでも限度って言うものがあるでしょ」
沙織の嘆きはその場にいた全員が共通して感じているものだ。
問答無用の廃校は何とか回避できてはいるものの、大して好転しているとは言いがたいこの状況。
大なり小なり突きつけられた理不尽さへの複雑な感情は全員が抱いている。
「……足を止めてしまえばそれこそそこで終わってしまう道です。私たちの道は今までも決して平坦なものではありませんでした。恐らくあの人——カリエ殿も同じだったでしょう。だからこそ、共に手を取り合い、何とか歩き続けていかなければならないのです」
優花里の最後の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるかのような、そんな熱を帯びていた。
03/
まさかこんな直ぐに北海道にとんぼ返りするなんて。
夏の生ぬるい海風を全身に受けながら、カリエはフェリーのデッキに備え付けられているフェンスにもたれ掛かっていた。
目的があったわけではない。
ただ、あんこうチームの会合を始め、大洗の諸チームの顔合わせに参加するだけの気概がなかったから、ふらふらと船内を彷徨った結果だった。
とっとと横になって睡眠を取った方が良いことくらい理解はしていたが、何故だかそんな気にはなれなかった。
ならば気晴らしに、と足を踏み入れたのが結果的にフェリーのデッキだっただけだ。
ぼんやりと海を見つめてみれば、天上に輝く月が鏡のような水面にきらきらと映り返している。
今思えば、この人生において姉とここまで離れて行動するのは初めてだった。
おそらく何事もなければ選抜戦にその顔を連ねた二人に再会はするだろうが、車長として戦うことが出来ない以上、そこで顔を合わせる機会があるかどうかも怪しいものがある。
何より、ダージリンとエリカが用意してくれた道を脱線している今、合わせる顔などあるのだろうか、という懸念がつきまとっている。
あの二人が考えたのは、大洗女子学園を救う救世主となり英雄となり、その功績を以て黒森峰に凱旋するという青写真。
けれども、部隊の指揮を執ることが出来ない無様な現状のままでは、文字通り青写真のままになりその期待を裏切るのと同義だ。
正直、会いたくないとすら思ってしまう。
大洗の廃校が掛かった選抜戦に手を貸すことは吝かではないのだが、だからといって一切の雑念なく試合に臨めているとは口が裂けても言えなかった。
試合に全く集中できていないと言っても良い。
本当に中途半端だと、自嘲の声すら零れていた。
だがそんなカリエの呟きは、フェリーがかき分けていく海原の飛沫にかき消されていた。
世界の何処にも、居場所がないと錯覚させるような夜の海だった。
「……本当、なにしてるんだろう」
だからだろうか。次にこぼれ落ちた言葉はそれなりに声量の込められたそれだった。
自身がどれだけ空しいことをしているのか自覚があるだけに、カリエの気持ちは明るくない。むしろより低い場所へ落ちていったくらいだ。
しかしながら怪我の功名もある。
カリエのそんな虚しい言葉を拾う者が現れたのだから。
「随分とブルーだね、逸見さん」
いつの間にか背後に人が立っていた。
随分と小さな人影だったが、体から溢れ出ている覇気はどこかエリカを思わせるもので、存在感だけは人一倍だ。
角谷杏。
大洗女子学園をある意味でここまで引っ張ってきた傑物だ。
彼女がいたからこそ、大洗は全国大会を制することが出来たし、此度の選抜戦の開催も滞りなく行われようとしている。
そんな大人物が何のようなのか、とカリエは困惑を隠しきれずにいた。
「いや、みんな気を使ってそこまで馴れ馴れしくはしていないけれども、うちの子たちはみんな逸見さんのことを気に掛けているんだよ。もちろん私も同じさ。まだ日が浅いとはいえ、間違いなく逸見さんは私たちの仲間だから、そんな顔で一人アンニュイになられたら心配もするだろう?」
アンニュイ、と言われてカリエは自身の顔をぺたぺたと触った。
そして何とも女々しい姿を見られてしまったと、思わず顔を顰める。気が重たいのは確かだが、それを誰かに見せびらかして喜ぶ性分はカリエにはない。
むしろ誰にも見られたくないからこそ、こうして一人人気のないところに逃げ出しているのだ。
そんなばつが悪そうなカリエに、杏は優しく笑いかけた。
「逸見さんが何を考えているのか何となくわかるよ。それにおこがましいかもしれないけれど、その気持ちもある程度理解できる。だからさちょっと話に付き合ってくれない?」
何が「だから」なのかてんでわからなかったが、カリエは思わず頷き返していた。
もしかしたらこの押しの強さが杏の弁論術なのかもしれないという考えがちらりと頭をよぎるが、詮無きことだと直ぐに深く考えるのをやめていた。
近くにあったベンチに二人して腰掛ける。
「いやさー、明日にはもう現地入りじゃん。こんな急ぎ急ぎ組まれたスケジュール一つで私たちの学校がなくなるとかさ、ほんと訳わかんないんだよねー。ぶっちゃけ意味不明すぎて私もあんまり理解していないのかも」
杏のぼやきにカリエは「いや」と言葉を続けた。
「失うのは本当に一瞬なんだって、これまで何回も経験してきたからわかるよ。ちょっとした油断や誰かの悪意で簡単に今まであったものは手のひらをすり抜けていく」
カリエが思い浮かべるのは黒森峰での楽しかった日々と、前世の最後の記憶。
ほんの少しの歯車の手違いですり抜けていってしまった黒森峰での幸福の日々。
あっけないほど終わりを告げてしまった前世の命。
どちらも終端の予兆など全くなかった。気がつけば仄暗い現実の中に足を踏み入れていた。
だから杏に「それはあり得る話」と返していた。
「成る程。逸見さんにとって突然の終局は不思議でも何でもないんだね。ならさ、その終わりは幸福だけのものかい? 不幸にも同じように終わりは訪れないのかな?」
杏が告げたのはあくまでも素朴な疑問だった。しかしながら確実に的を射てはいる。
けれどもそんな言葉は理想論だとカリエは首を横に振った。そして不幸が突然終わることを期待して「ただ待つだけ」の選択肢は取れないと口にする。
「例え明けない夜でも足搔かなくてはならないと思う。例えどんなに苦しい暗闇でも歩み続けないといけないと思う」
そっか、と杏はどこか合点がいったような反応を示した。
ただカリエは「でも」と言葉を続けた。
「頭ではそうわかっていても、やっぱり心がついてこない。ちょっと油断してしまえば、全部投げ出して何処かに逃げ出してしまえば良いと囁く自分がいる。なんでわざわざこんな苦しい目に遭わなくてはならないんだ。もっと楽な道を進んでもいいんじゃないかって」
カリエが頭を伏せた。
両者に言葉はない。
二人の間には水面が奏でる波の音だけが流れていた。本当の本当に静かな夜。時間だけがゆっくりと過ぎ去っていく。
それからどれだけの時間が経ったのかはわからない。カリエと杏、二人はベンチに腰掛けたまま動こうとはしなかった。
どちらも言葉を発さないまま随分と時間が経った。
ふと口を開いたのは杏の方からだった。
「ならさ、いっそのこと諦めちゃう?」
冗談のような台詞だったが、冗談の声色ではなかった。その証拠に、カリエを見つめる杏の視線は極真面目なもの。
カリエも杏の雰囲気から察しているのか即答しない。むしろ長考に浸っていった。
正直言って大洗に思い入れがあるわけではない。
手酷く切り捨ててきた黒森峰に対する未練も殆ど残されていない。
これまで自分を支えてくれた人たちと肩を並べることが出来ないことは残念ではあるが、今にこだわる必要がないことは知っている。それこそ大学なり社会人で再会しても何の問題もないのではないか、とすら考えている。
目の前に突きつけられた状況だけ見てみれば、杏の言うとおり諦めてしまうのが得策にすら思えてくる。
けれどもどうしてだか踏ん切りがつかなかった。
格好悪いということは百も承知だったが、何故だかこのまま戦車道にしがみついてやろうという感情がこびりついている。
この不思議な思いに対する正確な答えをカリエはまだ知らない。
まだハッキリと自覚しているわけではないが、もやもやとした何かが燻っている。
だからこう口にした。
「いえ、自分でも訳がわからないですが、諦めるのは嫌です。まだ何か見落としている、答えを見つけられない自分がいるのでもう少しだけ頑張ってみようと思います。だから優花里さんに私の全てを託しました。装填手として意地汚くしがみつく道を選びました。かなりみっともないですけれど、今自分に出来ることの全てをしているつもりです」
いつの間にか両者の視線が交錯していた。杏はそんな一時の逢瀬の中で、カリエの瞳をしっかりと見つめる。
そしてここにきて初めて、カリエの瞳が美しい翡翠色をしていることに気がついた。見とれてしまいそうになる綺麗な色だった。思わず言葉を忘れてしまうくらいには。
「……」
「角谷さん?」
困惑したカリエが声を掛けてようやく杏は「ああ」と声を絞り出していた。
それはこの静かな邂逅の終わりの合図でもある。
「いや、ちょっとぼおっとしちゃったね。失敬失敬。まあ、カリエちゃんの考えは大体わかったよ。そういうことならば是非とも協力してもらいたい。もちろん、そのために必要なことがあるんだったら何だってするからさ」
悪戯っぽく笑ってみせる杏にカリエは微笑み返した。それ以上の言葉は互いに必要なかった。
じゃあね、と杏が去って行く。カリエはその背中を見送って再び海を見下ろした。
若干熱を帯びていた潮風はいつの間にか冷たさすら孕んでいて、気がつけば心地の良いそれに変わっていた。
もう少しだけ、この流れに身を任せてみようか。
最後の呟きは波に消えるのではなく、はっきりと世界に刻まれていた。
04/
「会長、カリエさんは……」
「あいつ、ふらふらふらふらと、少しは迷惑というものをだな」
フェリーの生徒会チームに割り当てられた船室に杏は帰還した。出迎えたのはやはりというべきか、柚子と桃の二人だ。柚子は言わずもがな、桃も字面では非難こそしているがその口調にはカリエに対する不安と心配を覗かせている。
杏は「よいしょ」とソファーに腰掛けて、にっこりと笑った。
「カリエちゃんは大丈夫だよ。さすがと言うべきかなんと言うべきかとんでもない胆力だね。ありゃ」
言って、眼前のテーブルに置かれていた干し芋の袋を手に取る。中身をごそごそと漁って一欠片を口に含んだ。
もごもごと口を動かしながらさらに続ける。
「篝火ではあったけれども、火はついていたよ。まだ燃え方を知らないだけで、種火は確実にあった。やってくれるよあの子は。うちの秋山ちゃんとともに必ずや大きいことをしでかしてくれる」
杏が語ったのはカリエに対する全幅の信頼だった。直接その思いを聞いたからこそ抱くことの出来る確信がそこにはあった。
大洗女子学園を預かる長として、カリエが抱き続けている種火を見抜いていた。
だからこそこう締めくくってみせる。
「ああいう静かなタイプはね、溜めて溜めて最後は爆発するって相場が決まっているんだよ。なら私たちはそれを待とうじゃないか。そのための時間を稼ごうじゃないか。私たちは私たちの役割を全うすればいいのさ」
昨日、約束を守れなかったので、今日は二話投稿です。