黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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黒森峰の逸見姉妹 後編1

 豪雨のカーテンが、道なき道を行く鉄の獣たちを打ち付けていた。

 試合開始早々、ぽつぽつと降り出していた雨は、いつの間にか視界を遮るほどの大雨になっていた。

 これに舌打ちをしたのは決勝戦からティーガーⅡに乗車をしていたエリカだった。

 

「小梅、隊長から何か連絡は?」

 

 操縦手から通信手に配置変更になっていた小梅が無線機のチャンネルを回す。

 時折鳴り響く雷の影響を受けているのか、通信機器にはノイズが乗っていた。

 

「……なんとか聞き取る限り、カリエさんが車長を交代したそうです。ただ体調不良を訴えるほどではないとか」

 

「そう。なら問題ないわ」

 

 降り続ける雨のせいで、平原を進む彼女達の足下は酷くぬかるんでいた。

 時折履帯が空転しているのか、耳障りな音が車内に響く。

 

「エリカさん、隊長から指示がありました。私たちと他2両のヤークトティーガーはこのまま先行してフィールドの南側で待機しろとのことです」

 

「カリエは?」

 

「カリエさんのパンターはフラッグ車の副隊長と共に西の岳陵の奪取に向かいます。……おそらく隊長の配慮かと」

 

 言われてエリカは車長席に備えられている地図を見た。カリエ達が向かう岳陵地はフィールドの北側から南側に向かって流れる川からは正反対の位置だった。

 

「ふん、隊長に気を使わせるくらいなら参加するんじゃないわよ」

 

 エリカの叱責に対しては、小梅は一拍だけ呼吸を置くことで答えた。

 そして、憂鬱そうに天を見上げる。

 

「……でもついてないですね。予報ではそんなことなかったのに、こんな大雨になるなんて」

 

 小梅の言うとおり、決勝戦の天気予報は曇りのち晴れだった。それがここまでの大雨になるとは誰が予想したか。

 何処までも黒森峰に逆風が吹き続ける決勝戦だった。

 

「……どんな敵でもただ踏みつぶすだけよ」

 

 エリカの小さな呟きは降りしきる雨の中に消えていった。

 

 

1/

 

 

 豪雨のカーテンの中を進むのはエリカ達だけではなかった。本隊から分かれて行軍を進めているのは、カリエのパンターとみほのティーガーⅠ。そして2両のⅣ号戦車だった。

 

「カリエさん、そちらは変わりないですか」

 

 大雨の中、カッパを着込んだみほが先頭を行くカリエ車に話しかける。しかしながら先頭のパンターのキューポラから身を乗り出していたのはカリエではなかった。いつも装填手をつとめる上級生の隊員だった。

 ならばカリエは何をしているのか。

 彼女はパンターの車体内部で、何台もの無線機を必死に操作していた。

 

「……大丈夫。車長は代わって貰ったし、機材の準備はもう終わっている」

 

 それらのうちアクティブ状態だった無線機を使って、カリエはみほに応答する。

 

「わかりました。先行していた偵察部隊によると、この先でIS-2が1両、T-34が5両、待ち伏せているそうです」

 

 みほの報告を聞いて、カリエは手にしていた地図に赤いマーキングを次々と入れていった。そしてそれが、まほの予想したとおりの陣形であることに安堵の息を吐く。

 

「あなたのお姉さんはすごい。私がかじりだけ話したのに、あっという間に細かな作戦まで立ててくれた。それにあなたもここまで完璧に三つの小隊を率いている。やっぱ敵わない」

 

 カリエの賞賛は心からのものだった。彼女は前世においてそれこそ自分の数倍の才能を持ったプレイヤーをたくさん見てきた。プロに行ってそれなりに活躍した人物だって見ている。

 そんな彼女から見て、西住姉妹はまさに同類と呼ぶべき天才達だった。

 ただ、当人達が頑なに認めないだけで。

 

「そんなことないよ。……でもいいの? 今ならこの作戦も引き返すことが出来る。一応、黒森峰の設備で何度も安全は確かめたけれど、100パーセント安全なんてないんだよ? それにカリエさんは……」

 

 西住みほの、カリエを心の底から気遣った言葉。だがカリエは敢えてそれに首を振った。

 

「違うよ。みほ。私がやるからこそ、あのカチューシャを欺ける。彼女は天才だった。それに野心に溢れていた。私たちに負ける気なんてさらさらない人だった。だからこそ私は真っ向から挑んでみせる」

 

 無線機を脇にどけて、カリエは車長席に近づいた。そこに立っていた上級生が一瞬だけ驚きを見せるが、カリエの目を見てあっさりと席を譲った。

 打ち付ける雨の中、カッパもなしにカリエがキューポラから身を乗り出す。

 恐怖心はもちろんあった。

 いつものように体が動かなくなる。

 ただそれはわずか数秒のこと。天を仰ぎ見て、一呼吸着いた彼女は後続のみほに振り返った。

 

「もう、前の時みたいに逃げて失敗したくはない」

 

 

2/

 

 

『カチューシャ、妹蛇が網に掛かりました。あなたの予想通り、安全圏で陣地を展開するようです』

 

「そう。なら手筈通り、北部の川に追い立てなさい」

 

 東側の丘で戦車隊を展開していたカチューシャはノンナの報告に笑みを深めた。

 ここまでは彼女の読み通りの状況が展開していた。

 それは自身の有用性をなんとか証明しようとしているカチューシャにとって、かなり好都合なことだった。

 

「天候まで味方しているのだから、ミスは許さないわよ!」

 

『肝に銘じます』

 

 副官の頼もしい言葉を耳にしながら、カチューシャは車長席にぽすん、と収まった。

 彼女が座るには余りにも大きすぎる座席は、今の状況を如実に表している。

 

 何度も、好奇の視線に曝されてきた。

 何度も、戦車道をやめろと言われてきた。

 何度も、実力でないところで評価され、冷や水を浴びせられてきた。

 

 だがここに来て、ようやくその芽が出てきた。

 人一倍戦略について学び、人一倍練習した成果が現れ始めていた。

 あと一歩。もうあと一つ勝てば、彼女のプラウダにおける地位は盤石なものになる。

 そのためには、目の前に広がる黒森峰という余りにも高い壁を乗り越えなければならない。

 

「そうよ。利用できるものは何でも利用してやる。折角ここまで来たのよ。折角、カチューシャの実力を皆に認めさせることが出来るかもしれないの。失敗は許されないわ」

 

 キューポラの蓋を閉じ、彼女はしばし思考の海に潜った。

 天蓋を叩く雨の音を背景に、彼女の鋭敏な思考がフル回転する。

 それはこれまで何度も彼女が行ってきたルーティンワークのようなもの。

 誰も頼れる物がいない、敢えて一人の空間を作り出すことで自分を追い詰め無理からでも知恵を絞り出すのだ。

 

「まほは西住流らしく手堅く陣地を構築していってる。エリカとみほはその先鋒。カリエはみほに守られながら防御策をとったわ。大丈夫、大丈夫よ。ここまでは何も問題がないわ」

 

 カチューシャは自身に言い聞かせるようにそっと呟いた。

 声色から滲む怯えの色は決してまやかしではない。

 ここまでは自身の読み通りに状況が展開しているのに、どうしても胸に抱えた不安が拭えないのだ。

 

 決勝戦だから? 

 絶対に負けられないから?

 相手があの黒森峰だから?

 

 いや、どれも違うと首を振った。

 カチューシャが思い出すのは、つい先日のカリエとの会話だった。

 そうだ。

 思い返せば、あの日からこの胸の内に不安が燻り始めていたのだ。

 

 

3/

 

 

「……エリカと喧嘩なんかしていない」

 

「嘘ね。うちの諜報部を舐めないで頂戴。あんた達くらいのビッグネーム、近況を調べるくらいどうってことないのよ」

 

 華やかなお茶を囲んだ団欒のテーブル。しかし繰り広げられていたのは互いの腹の内を探り合う政治戦。

 副官のノンナはあくまで沈黙を保ち、対面のカチューシャだけがカリエを追い詰めていた。

 

「嘘なんかついていない。私はエリカと喧嘩したつもりなんてない」

 

「それは詭弁よ。あんたがエリカのことを鬱陶しがっていることくらい、みんな知っているのよ!」

 

 追い詰められるカリエに対して、カチューシャもまた必死だった。

 偵察に来たカリエを捕らえるというまたとない機会。ここで黒森峰の内情を探れるかどうかで、決勝戦の駒の進め方も変わってくる。

 危ういバランスの上に成り立っている己の地位が、決勝戦の結果次第では全て無に帰してしまうのだ。

 だから知らずのうちに彼女は竜の尾っぽを踏んづけていた。

 普段の冷静なカチューシャならあり得ない、珍しい失策だった。

 それまで淡々と言葉を返していたカリエが爆発した。

 

「勝手なことをいうな! 鬱陶しがるわけなんかないだろ!」

 

 事の成り行きを静かに見守っていたノンナが思わず身構えるくらいには、カリエの声色は室内に響いた。

 対面に座していたカチューシャも、呆気にとられて一歩身を引いている。

 叫びをあげたカリエはテーブルに手をついて、カチューシャに身を乗り出していた。

 

「お前達が私とエリカの何を知っているんだ! お前達が私の何を知っているんだ! 私だって、私だって必死なんだ! 後悔ばかりの人生をもう一度歩んでしまわないよう、がむしゃらに生きているんだよ!」

 

 いつの間にかカリエは泣いていた。

 一人でエリカの手料理を食べたときのように、泣いていた。

 あのときはわからなかった涙の訳が、今ようやっとわかったような気がした。

 

「エリカは自分が虐められても私の悪口は言わなかった! いつも私のことを心配してくれていた! 私がエリカに負い目を感じていると知ったら、そっとしてくれていたんだ!」

 

 涙の訳は後悔だった。

 後悔だらけの前世を繰り返さないように、必死に生きてきたつもりだった。

 けれどもカリエはまた繰り返してしまった。

 昔エリカが虐められたときのように、彼女にいらない重荷を再び背負わせてしまった。

 妹を救えなかったという重荷を、エリカに押しつけてしまったのだ。

 

「私のことは好きにすれば良い。水恐怖症を突きたければいくらでも突けば良い。私が水を怖がっているのは事実だ。それは否定しないし、卑怯だと罵ったりはしない。でも、でも――エリカに対する暴言だけは許さない」

 

 カリエにこんな一面があることをカチューシャは想像もしていなかった。

 カチューシャの思い描くカリエというのは黒森峰の皆から愛され、蝶よ花よと大切に育てられているお姫様そのものだった。

 だから何も考えずに一人で偵察に向かうし、ノンナに対して馬脚もあっさりと表してしまう。

 いわゆる世間知らずのお嬢様だと考えていたのだ。

 だが目の前にいたのは愛する家族を侮辱されて、怒りに震えるただの人だった。

 

 カチューシャは思う。

 余裕に振る舞う天才よりも、形振り構わなくなった凡人のほうが遙かに恐ろしいと。

 なら黒森峰の鬼才と称されたカリエが形振り構わなくなればどうなるのか。

 向かい合わせたカチューシャの喉が鳴る。

 

 それは、蛇を目にした小動物の仕草によく似ていた。

 

 

4/

 

 

「……そうよ。そうだわ。なんで気が付かなかったの? あんだけ啖呵を切った癖に、なんであいつこんなに大人しくしているの?」

 

 外界と隔てる役割をしていたキューポラの蓋を、カチューシャは跳ね上げた。

 雨音の向こうから時折砲撃の音が聞こえてくる。

 独特の重低音は、己の副官たるノンナが乗車したIS-2のものだ。

 

「やっぱり怖じ気づいたから? それとも姉と隊長があんたを押し込めてるの?」

 

 問答は長くは続かない。何故ならカチューシャの乗車したT-34の直ぐ隣に、砲弾が飛び込んできたからだ。

 

「っ! 何事!?」

 

「隊長! 黒森峰の本隊です! あいつらこの豪雨の中、森の中を突っ切ってきました!」

 

「まほか! 良い度胸してるじゃない!」

 

 直ぐさまカチューシャは自隊に回頭を告げた。

 ここで黒森峰の本隊と撃ち合っても良かったが、装甲防御力で劣っている以上、機動力を活かした戦いを行うべきだと考えたのだ。

 

 もしもこの時。

 

 テーブルを挟んで対面したカリエの表情を思い出していれば、カチューシャは戦いの中で感じる不安と違和感に答えを見つけられたのかもしれない。

 激情に身を任せながらも、しっかりとカチューシャを観察していた彼女の目を見ていれば何かが変わったのかもしれない。

 

 あとから考えてみれば、この絶妙なタイミングでの黒森峰本隊の接敵が、両者の明暗をはっきりとさせるものとなっていたのだった。

 

 

5/

 

 

「カリエさん! 右側面からT-34! 撃ってきます!」

 

 西住みほの焦りを含んだ声が雨音の中に響き渡る。

 今彼女が率いる小隊は岳陵地を左手に見据えたまま、低地を疾走していた。

 

「わかってる。装填手、榴弾を装填。砲手、併走するT-34の十メートル先に叩き込んで」

 

 車内で無線機に背を預けながら、カリエは指示を飛ばしていた。キューポラから外を伺う車長である上級生が状況を報告する。

 

「後続のⅣ号が若干遅れてるわ。それに副隊長のティーガーとも距離が開き始めている。あんまり開くと副隊長のフラッグが危ないわよ」

 

「プラウダの本隊を強襲した隊長らがこっちに引き返してきている。それまでの辛抱。操縦手、速度を少し落として」

 

 カリエの指示通り、パンターとティーガーの距離が詰まった。

 この距離なら肉声でも伝わると判断したみほが、パンターの上級生に叫んだ。

 

「順調と言ってもいいのかわかりませんが、確実に誘導されています! それにさっきからIS-2の姿が見えません!」

 

「だってさ、カリエ! IS-2だけが依然行方知れず!」

 

 カリエは素早く地図に目線を走らせた。そして自身が作成したリストのコピーを睨む。

 それは昨日、まほの目の前で破いて見せたものの改訂版だ。

 

「IS-2はノンナが乗車してる。彼女は長距離砲撃の名手。それにIS-2の速度はそこまで優れものでない。なら、考えられるのは待ち伏せ」

 

 地図に青いマーカーでIS-2と書き込んだ。それは今この小隊が向かわんとしているポイントだった。

 

「みほ、出来るだけパンターの陰に隠れて。最悪こちらを盾にしてくれてもいい。カチューシャがいつ方針を転換するかもわからない。私がやられたらすぐに隊長に合流して」

 

「……わかりました。でも、一つだけ約束して下さい」

 

 なに? とカリエが問う。

 みほは今までカリエに見せたことのないような、ひどく真剣な声色でこう告げた。

 

「カチューシャさんの読みを逆利用するのが私たちの作戦です。カチューシャさんが読んだように、私たちはあなたを守ろうと必死に戦います。そしてそれを逆手に取ろうとしている」

 

 でも、と

 

「カリエさんを守ろうとするのは作戦だからじゃありません。あなたが私たちの大切な仲間だからです。あなたが、私たちの大切な友達だから私たちはあなたを守ります。それを、それを決して忘れないで」

 

 パンターの車内は無言だった。

 カリエ相手だけではなく、パンターの車内全体に告げられたオープンチャンネルの宣誓に、誰も言葉を挟まなかった。

 そしてそれは全面の肯定を意味している。

 パンターの乗員全てに見つめられながら、カリエは答えた。

 

「……ありがとう」

 

 

6/

 

 

 決勝戦が着々と進んでいく中、特設会場に設けられた観客席でティーカップを傾ける女子生徒がいた。

 わざわざ雨よけのパラソルまで持ち込んだ、ダージリンとアッサムである。

 

「ダージリン様が仰られたとおり、プラウダはカリエさんを狙い撃ちにしようとしていますね」

 

「ええ、一見すればプラウダの本隊はまほさんの本隊を狙っているように見えるけれど、その実、主力はカリエさんとエリカさんの頭を抑えに行ってるわね」

 

 巨大なディスプレーに表示された戦況を見て、ダージリンは目を細めた。

 

「プラウダのカチューシャ。中々おやりになるわね。何より我々の失敗に対してきちんと対策を打っているところが好感が持てて憎らしいわ」

 

 ダージリンが告げる失敗とはエリカの実力を見誤ったことだった。

 常に二人一緒に行動していた逸見姉妹は、両者が揃ってこそその真価が発揮されると考えていたのだ。

 けれどもそれは正しくもあり、間違っていた。

 間違いなく二人揃っていた方が最高のパフォーマンスを発揮するだろう。

 だが問題はその片割れの脱落の仕方だった。

 普通にカリエが脱落したのならば、エリカは諦めて次の行動を取っていた。実際、ダージリンもそう予想した上で、エリカの追撃を命じていたのだ。

 だが、現実は――

 

「……蛇の中にはね、つがいを一生変えないような、愛に忠実な種類もいるの。エリカさんはそのタイプだったのね」

 

 エリカはダージリンの予想を裏切り、逃げなかった。1両対5両という圧倒的なハンデを負いながらも向かってきたのだ。

 ではそれは何故か。

 理由は至極単純だった。

 エリカは怒ったのだ。自身の大切な妹を傷つけられて怒り狂ったのだ。

 妹のトラウマを抉るような、ダージリンの戦い方に真っ向から刃向かったのだ。

 

「『近代に勝利したのは「個人」ではなく「家族」である』……私たちはエリカさんの「家族愛」に負けたのよ」

 

 結果的にあの局面において勝利したのはダージリンだった。

 エリカの車両は行動不能になり、撃破判定のフラグが戦場にはためいた。だが、それに伴うグロリアーナの出血はけして小さくはなかった。

 5両のうち3両が撃破された。

 ダージリンの車両も、あと一歩のところまで追い詰められた。ダージリンがその場を切り抜けることが出来たのは、エリカのパンターの弾切れのお陰である。

 そしてその少なくない出血が、グロリアーナ全体の敗北に繋がった。

 黒森峰本隊と抗戦していたグロリアーナ本隊の応援に駆けつけても、それといった働きが出来なかったのだ。

 

「その点を鑑みればプラウダの最初から逸見姉妹を分断する作戦は良いかもしれませんね。カリエさんをすぐに仕留めるのではなく、徐々に追い詰めていく。そうすれば分断されたエリカさんは妹を助けようと無駄な動きを強いられますし、かといって、カリエさんを見捨てられるほどエリカさんは割り切れていない」

 

 アッサムの言葉にダージリンは頷いた。

 

「エリカさんだけではないわ。黒森峰は西住流。元来、落伍する味方なんて目もくれないような流派だけれども、今その黒森峰に新しい風が吹いている。確実にまほさんもその妹もエリカさんのスタンスに引き摺られているわ」

 

「……なら、プラウダの優勝は殆ど決まったようなものでしょうか?」

 

 ダージリンは静かにティーカップを見つめた。

 ゆらゆらとたなびく赤い液体に、自身の顔が映っている。

 それが存外嬉しそうな表情をしていたので、彼女は思わず笑ってしまった。

 

「運命は浮気者。だから私は浮気者を捕まえておく鎖を彼女に渡しておいたわ」

 

「へ? 彼女とは誰です?」

 

 珍しく顔を惚けたアッサムに、ダージリンは「そういえば、あなたはその場にいなかったわね」と嘯いた。

 

「カリエさんよ。……ねえ、アッサム。私たちが取り組んでいるのは戦車道。目指すべき道の違いはあれど、何でもありの戦争ではない。イギリス人は恋と戦争では手段を選ばないけれど、同時に騎士道を重んじる心を持っているのよ」

 

 

7/

 

 

 確実に追い立てられているとカリエは地図に残された自車の走行経路を見て思った。

 もしこの追い立て方ですらカチューシャの指示の賜だとしたら、己の警戒心も中々馬鹿には出来ないな、と苦笑した。

 

「カリエ、そろそろ川よ」

 

 パンターを先頭にしたカリエとみほの別働隊は河川敷を駆け下りていた。 

 そして、大雨で増水した川の脇道を慎重に進んでいく。

 一瞬、プラウダの砲撃が静かになった。

 さっきまで執拗に打ち込まれていた砲弾達が鳴りを潜めている。

 

「そうか、ここが終点か」

 

 カリエのパンターが停車した。彼女は車長をつとめていた上級生と交代する。雨脚はさらに強く、滝のような雨粒がパンターの装甲にぶち当たって跳ね返っていた。

 

「……カリエさん」

 

 背後に突いたみほが声を掛けた。

 それは無理もないことだった。

 以前のようにパニックに陥ることこそなかったが、キューポラから体を乗り出したカリエは全身をかたかたと震わせていたのだ。

 けれどもカリエの目は死んでいなかった。

 彼女はそっと自身の胸元を引っ掴んだ。

 

「? カリエ、何をしているの?」

 

 それぞれの正しい配置に戻った装填手と通信手が疑問の声を上げた。

 カリエは手短に答えた。

 

「ダージリンからのお守……」

 

 ただし、言葉は最後まで続かない。

 先ほどまで鳴りを潜めていた砲撃が再び開始されたからだ。

 直ぐさまみほは小隊に指示を飛ばし、駆け下りてきた河川敷を後進しながら登り始めた。

 

「カリエさん!」

 

 だがその動きにカリエのパンターは追従しなかった。彼女はじっと、滝のカーテンの向こう側に広がる暗闇を見ていた。

 赤い閃光が暗闇で瞬く。遅れて、砲声。

 最後にパンターの足下に発生した爆発。

 

「みほ! IS-2が正面に1両! ここでお別れだ!」

 

 カリエが操縦手の背を蹴飛ばす。急発進したパンターはIS-2の2発目の砲撃をなんとかかわし、反撃の一撃を叩き込んだ。だがIS-2の強固な正面装甲がそれをはじき返す。

 

「カリエさん、戻って!」

 

 みほの悲鳴が轟いた。まだ撃破出来る距離ではないと判断したカリエがIS-2に肉薄したからだ。

 デザートカラーのパンターと、オリーブグリーンのIS-2が真っ正面からぶつかり合う。

 

「馬鹿! 早く行け! 作戦を忘れたのか! いつカチューシャがそっちを狙うのかわからないんだぞ!」

 

 火花をまき散らしながら、パンターとIS-2は互いにその場を譲らなかった。IS-2がみほのティーガーに砲塔を合わせようとしても、そこへ割り込んで妨害する。

 

「やっぱり見捨てるなんてできません!」

 

「違う! 見捨てるんじゃない!」

 

 カリエが叫ぶ。IS-2の車体から決して離れないように、重量で勝る重戦車を押しとどめる。

 雨と増水した川、そして凄まじい威圧感を放つIS-2からくる恐怖感と戦いながら叫んだ。

 

「ここまでみほがいたからこれた! みほが後ろにいてくれたから、ここまでやってこれた! それにここから先は私の戦いだ! 私に戦わせて!」

 

 カリエが振り返る。みほと目が合う。

 カリエは笑った。みほの表情が崩れた。

 

 均衡を保っていたパンターが、IS-2に押し出された。

 

「みほ、後は頼んだ! 直ぐに隊長と合流して、このIS-2をカチューシャのところへ連れて行って!」

 

 最後の言葉はそれだった。

 重量で一トン近く勝っているIS-2に押し出されたパンターは、ぬかるみに履帯を空転させながら徐々に川の方へ滑り落ちていった。

 みほはカリエのパンターを断腸の思いで視界外におき、残された車両と共に河川敷を登り切る。

 だが登り切る瞬間、戦車が一瞬だけ底面を曝してしまう瞬間を、IS-2は見逃さなかった。

 

「させるか!」

 

 滑り落ちながらもパンターは発砲した。ろくに照準も付けられていないそれは、またしてもIS-2の装甲にはじき飛ばされる。

 けれどもそれで十分だった。

 振動によって狙いを外されたIS-2の砲弾はティーガーの足下を穿つ。

 

「へへっ、ざまあみろ」

 

 IS-2へ渾身の嫌がらせが出来たと、カリエは不敵に笑った。

 ただ、状況は何も好転していない。

 発砲の反動でバランスを崩したパンターはさらに川へと滑り落ちていく。

 

「……大丈夫。今回は上手くやってみせるから」

 

 川底に呑まれていった呟きは誰に当てたものなのか。

 今世の姉であるエリカか、それとも前世でバッテリーを組んだエースなのか、答えを知るのはカリエだけだった。

 

 

8/

 

 

 カリエのパンターが川に転落した。

 

 その知らせは、他の黒森峰の隊員達を動揺させるには十分すぎる効力を持っていた。

 よりによって、水恐怖症であるカリエの車両が転落したのだ。

 フィールドの南側でプラウダの別働隊を抑えていたエリカは、絶望に心が押しつぶされるのを感じた。

 

「隊長! 直ぐに運営に救助を! 早く!」

 

 だが雷鳴が轟く中、無線の感度は最悪だった。

 まほへ繋がっているはずのホットラインは無情にも、ノイズを返してくるのみ。

 

「大丈夫ですエリカさん! 運営が必ず救助しますから!」

 

 小梅の励ましもエリカには届かなかった。

 エリカは少しばかり沈黙を保った後、うわごとのように命令を下した。

 

「……助けに行くわよ」

 

「駄目です! ここからじゃ遠すぎます!」

 

「なら、カリエを傷つけた奴を同じ目に遭わせてやるわ。このキングティーガーならIS-2だって川底にたたき落とせる」

 

「っ! しっかりしなさいエリカ!」

 

 ぱんっ、と小梅の平手がエリカの頬を打った。

 彼女は涙目ながら、エリカの胸ぐらを掴んで詰め寄った。

 

「エリカがしっかりしないとどうするのよ! 破れかぶれで報復することをカリエは望んでいるの!?」

 

「っ! うっさいわね! あんたに何がわかるのよ! あんたにカリエの苦しみの何がわかるのよ!」

 

「わかるわけないでしょう! エリカだって、わかっているつもりじゃない! あの子にその苦しみから救ってくれって、頼み込まれでもしたの!?」

 

 ぐっ、とエリカが詰まった。

 彼女は思い出してしまっていた。カリエの鞄の底から見つけたノートの事を。

 己が押し付け続けていた呪いのことを。

 小梅が言うとおり、水恐怖症のことだって、エリカが一方的に構っているだけに過ぎない。

 事実、カリエはエリカにそれについては何かを頼んだことは一度もない。

 

「あの子が黒森峰のみんなに頭を下げて回ったことを知らないんでしょう!? 隊長に、もう醜態はさらさないから使ってくれって頼み込んでいたことも知らないくせに! あの子が優勝を目指すために頑張っていることも!」

 

 エリカは何も言えなかった。

 本当に知らないことばかりだった。

 準決勝で、最後まで守ってやれなかったことを負い目に感じて、ここ最近はまともに話しかけもしなかった。

 エリカはカリエを見ていなかった。

 

「エリカが見てやらないでどうするのよ! 前に進むあの子を信じてあげなさいよ!」

 

 ごんっ。

 

「……!!」

 

 小梅の追及はそこまでだった。

 言葉が出ないエリカをさらに問い詰めたとき、ティーガーⅡの超重装甲が鈍く振動したからだ。

 例え互いに反目し合っていても、そこは黒森峰の一員。

 二人の反応は一瞬だった。

 

「どっから撃ってきてる?」

 

「東部の丘からです。どうやらプラウダは中央の本隊からさらに分割したものかと」

 

 

「ちっ、面倒なときに。でもそれが狙いか」

 

 エリカが小梅を見る。小梅が一つ頷いた。

 

「……ちょっとだけ目が覚めたわ。取り敢えずは目の前のこいつらをぶっ潰して、カリエの元へ向かうわ」

 

「それがよろしいでしょう。さっきはああ言いましたけれど、私だってそれなりに立腹しているんです」

 

 王虎の動力が唸りを上げた。

 いくら道が悪くとも、戦車に通れない道はない。

 ティーガーⅡに率いられて、随伴していたヤークトティーガーたちも咆哮をあげた。

 

「そうよ。あいつはね、こっちがどれだけ心配していてもいつもけろっとして帰ってくるのよ。どうせ今回も、ヤキモキさせられるだけ無駄なんだわ」

 

 丘の向こうから数両のT-34が顔を覗かせた。

 ティーガーⅡのアハト・アハト砲がそちらに照準を合わせる。

 

「だからあんた達、私の憂さ晴らしに付き合いなさい!」

 

 

 

 後編2へ続く。

 


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