黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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逸見カリエの戦車道 09

 カリエが眼を覚ましたのは、隣に寝ていた筈の優花里がもぞもぞと動きを見せていたからだ。

 何事かと、寝ぼけ眼で枕元の携帯電話を見てみれば、まだ早朝の四時を少しばかり回ったくらいだった。

 就寝したのが丁度日付が変わろうか、という時だったので四時間くらいしか経過していないことになる。

 正直言って強い眠気が頭を支配していたが、カリエはのそりと起き上がって優花里に小声で声を掛けた。

 

「何処かにいくの?」

 

 暗がりで殆どよく見えないが、優花里は外行き用の着替えに身を包んでいた。

 まさかカリエが起きているとは思っていなかった彼女は「びくっ」と肩を跳ね上げていたが、何とか声を押し殺して言葉を返す。

 

「えと、戦車の様子を見に行こうかな、と。今日は合同訓練ですから、万が一何かあるといけませんし」

 

 正直言ってカリエは感嘆した。

 ここまで戦車道に真摯でひたむきな優花里の姿勢に感動していた。皆が寝静まっている間に全てを終わらせておこうとするその心配りに心打たれていた。

 そして、自分たちに勝ったのが彼女でよかったのかもしれない、とちょっとだけ前向きな気持ちが芽生えていた。

 

「カリエ殿はお休みなさっていてください。装填手は重労働ですから睡眠は大事ですよ」

 

 優しげに優花里は微笑んで布団から抜け出していく。

 ここで「はいそうですか」と優花里の厚意に甘えることも考えたが、カリエは布団を静かに畳んで寝床から抜け出した。

 外靴に履き替えようとしていた優花里が首を傾げる。

 カリエはまだ寝息を立てている沙織たちを気遣うように、小さな声で答えた。

 

「一緒に行こう」

 

 

01/

 

 

 カリエが黒森峰で搭乗していたパンターはそっくりそのまま戦車道ガレージに座していた。

 あれだけ苦楽を共にしてきたというのに、随分と久しぶりな感覚を覚える。

 Ⅳ号戦車によって穿たれたリア側の穿孔は綺麗に塞がれていて、破片その他諸々で剥げ落ちようとしていたエンブレムは塗装し直されていた。本来の主はその指揮を執ることが出来ないというのに、随分と小綺麗にされているものだ、とカリエは関心すら覚える。

 

「——わあ、これがカリエ殿が乗っていらしたパンターなんですね。とても丁寧に整備されていて凄いです!」

 

 優花里も黒森峰の整備班の仕事ぶりに見入っているようで、数分ばかりパンターの周囲をウロウロしていた。カリエは本当に戦車が好きなんだな、と若干離れたところに置いてあったベンチに腰掛けてその様子を見守った。

 

「おっと、すいません。他校の皆さんの戦車は大体見て回ることができました。外観等に異常は見られません。さすがに中を見聞するわけには行かないので、あとは私たちのⅣ号戦車を整備しましょう」

 

 やがて我に返ったのかやや頬を赤く染めて優花里がそんなことを言った。

 そういえば自分たちは早朝整備が目当てで寝床を抜け出してきたんだな、とカリエは立ち上がる。そして若干慣れを含んだ動作でⅣ号戦車の車体に上った。

 

「訓練用の砲弾は昨日の間に積んでおいたよ。模擬戦とかはやろうと思えば直ぐに出来ると思う。ただ自走した分燃料をちょっとばかり消費しているかも。ここの給油設備は自由に使っても良いみたいだから今のうちに満タンにしておこうか」

 

 砲塔の天蓋に置かれていた整備チェックシートを見てカリエは提案を口にする。優花里も異論は無いようで、「そういうことなら」とあっという間に車長席に陣取った。

 

「わたくしが先導しますから、カリエ殿が操縦してくれませんか? 確かこの前に一通りの役割はこなせると仰っていたものですから」

 

 返答は是だった。ナナほどではないにしろ、カリエはカリエで操縦に対する造詣を有している。

 車内に備え付けられているマニュアルを一通り再確認した後、彼女はさっさとⅣ号戦車のエンジンに火をともした。

 

「今は二人だけなのでこのトランシーバーでやり取りをしましょうか。実戦では混線してまともに使えませんけれども、ここなら大丈夫でしょう」

 

 優花里がカリエに手渡したのは私物の無線機だった。イヤホンタイプのそれを耳に通してみればそこそこ明瞭な音声で互いの声をやり取りすることが出来た。

 成る程、これがあればいちいち足で指示しなくとも車長から操縦手に出来るな、とカリエはいそいそとそれを身につける。

 

「ではまだ皆さんはお休みでしょうから、こっそり静かにパンツァーフォーです」

 

 

02/

 

 

 朝焼けの平原を二人きりと一両で進んでいく。

 ナナや麻子に比べれば覚束ない足取りではあったが、他校のレギュラー選手並みにはカリエはⅣ号戦車を操っていた。

 優花里もカリエの腕に対する信頼があるのか、実に晴れやかな表情で車長席から外を見ている。

 

「……そういえば」

 

 会話の口火を切ったのはカリエだった。操縦手専用の覗き窓から差し込む朝日に顔を照らして彼女は続ける。

 

「私たちが初めて会ったのはⅣ号戦車の側だったよね」

 

「あ、カリエ殿も思い出されました? そうなんですよ。熊本の戦車道博物館で実はわたくしたち一度会っていたんですよね」

 

 なんてことの無いように優花里は答えるが、その表情は喜びに満ちていた。

 あの時の、ある意味で人生を大きく変える切っ掛けになった出来事をカリエが思い出していたことは何よりも嬉しい。

 

「あの時さ、本当に私は戦車道をするのが嫌で嫌で仕方がなかったんだ。乙女のたしなみなんて糞食らえって思ってた」

 

 カリエの言葉に優花里は思わず苦笑する。

 もともとカリエが戦車道に対して悪感情を抱いていたことは薄々知ってはいたが、改めて本人の口からそのことを聞かされると思うところはあるのだ。

 カリエはさらに続ける。

 

「でもさ、因果なものだよね。あれだけ嫌がっていた戦車道にここまで自分が執着するなんて思わなかった。こんなに未練を持つなんて想像も付かなかった。——でもそれって多分優花里さんのお陰なんだと思う」

 

 因果——。

 

 確かにその通りかもしれないと優花里は考えた。カリエが戦車道を始める原風景を生み出したのが優花里ならば、優花里が大洗で戦車道を始める道を示したのはカリエなのだ。互いが互いに相手の人生のキーパーソンとなっている。それも全く違ったタイミングで。

 

「わたくしこそ、カリエさんがいなければ大洗で戦車道を始めていないかもしれませんよ。カリエさんの戦車道に憧れたからこそ、今の自分があるわけですから」

 

 だから全くの本心を語った。

 ここにきて、自身が目指した戦車道の在り方をカリエに打ち明けていた。

 カリエを目指してただ前に進んだ日々を告白した。

 

「カリエさんがいなければここまでこれなかったでしょう。選抜戦というチャンスを与えられることも無く、大洗は廃校になっていたと思います。——本当に感謝しています。あなたがいたから、私は私の今がある」

 

 カリエは「そっか」と相づちを返すだけに留めた。

 だがその一言には万感の意味が込められていた。

 高校選抜チームに割り当てられた給油施設が近づいてくる。もう、幾ばくも無い間にこの朝の散歩は終わりを告げる。

 朝日がⅣ号戦車を黄金色に照らし出していた。

 

「ねえ、優花里さん」

 

 停車する直前、カリエがそっと口を開いた。

 アイドリングするエンジン音に紛れながらも、彼女は言葉を紡ぐ。

 

「——最近思うんだ。優花里さんに負けたのもきっと意味があることなんだって。優花里さんがあの日私に戦車道を教えてくれたように、何か大事なことをあの決勝戦で教えてくれたんだって。でもまだその答えは見つからない。きっとそれはこれからの選抜戦で見つかるような気がする。だからさ、——勝とうよ。絶対に。まだ二人で戦車道が出来るように。いつかまた戦えるように」

 

 一瞬呆気にとられた優花里は直ぐには言葉を返さなかった。

 実際、気の利いた文句も言い回しも思いつかなかった。

 伝えたい言葉が多すぎて思考が洪水を起こしていた。

 けれども、一つだけ口を抜け出した言葉がある。それはとてもシンプルなものだったが、数多くの意味をカリエに贈るには十分すぎる言葉だった。

 文字数にしてたった二文字。

 赤く染まる朝焼けの中、優花里は答える。

 ただ、

 

「はいっ」

 

 と。

 

 

03/

 

 

 優花里たちが懸念していた、各高校のドクトリンの不和は全くの杞憂に終わっていた。

 理由は不明ではあるが、優花里を隊長として立て、その指示をそれぞれの学校が有している長所を持って遂行していくという形が出来上がっていたのだ。

 もともとそれぞれのドクトリンに対する理解が深い優花里である。

 的外れな指示というものは一つも無く、各校がある程度納得できる形の用兵がきっちりと守られていた。

 カリエと関わりの深い黒森峰やグロリアーナは言わずもがな。

 プラウダやアンツィオ、そして知波単までが連携を重視した姿勢を見せてきたのだ。

 昨日の苦労は何だったのか、と優花里は疑問を抱いていたが、それに答えるものは残念ながらいなかった。

 ただ一つだけ確実なのは、選抜戦を勝ち抜くためのパズルのピースがようやく揃い始めたということである。

 

 まだまだ即席チームとしての粗が見え隠れするものの、初日のことを思えば随分と一つのチームとしての体裁を整えることが出来ていたのだ。

 

 こうして合同訓練として割り当てられていた二日目がつつがなく終了した。

 そして日付は運命の三日目へと切り替わる。

 

 

04/

 

 

 まさか日付が変わったその瞬間に掴まるなど想像もしていなかったと、カリエは冷や汗を流した。

 嫌に接触が無かったよなあ、と思いつつも恐らくこの時を待っていたんだろうな、と妙な納得すら覚えてしまう。

 シャワーから上がって僅か数分。

 カリエは黒森峰に割り当てられた宿舎に連れ込まれていた。

 

「——ま、こっちを出て行ったときに比べたら随分とマシな表情するようになったじゃない。安心したわ。ところでご飯はちゃんと食べているんでしょうねえ? コンビニ弁当ばかり食べていたら承知しないわよ」

 

 がっちりとみほと小梅に脇を固められ、正面にはエリカが陣取っていた。

 ナナたちパンターの乗員はカリエが逃げ出さないように、宿舎の入り口を塞いでいる。

 

「えと、その、あんこうチームのミーティングに行かないといけないので」

 

 さすがに気不味いと、適当なそれっぽい出任せを口にする。だがカリエのそんな些細な抵抗は意外なことにナナの手によって握りつぶされてしまった。

 

「大洗の隊長さんには既に確認済みです。副隊長。後は就寝だけと伺ったので、こうしてご足労頂いております。無駄な足掻きはやめてください」

 

 熊本空港で突き放したのがいけなかったのか、ナナがどことなく厳しかった。

 あれだけ「副隊長、副隊長」と輝いていた瞳は、カリエを鋭く見据えている。

 

「と、いうわけよ。そんな訳であんたには明日の試合を前に幾つかのことを確認する必要があるの。覚悟なさい」

 

 これは腹を括るしか無いな、とカリエは息を吐いた。

 思えば楽な方へ逃げ続けてきたここ最近の自分が悪いのである。この辺りで仕切り直しをする必要性くらいは感じていた。

 

「じゃあエリカ、何でも聞いて」

 

 エリカ、と口にしたのも久方ぶりのことだった。エリカもエリカでその呼び名が久しいのか少しばかり目を丸くしていた。だが直ぐに表情を引き締めると、いきなり本題に踏み行ってきた。

 

「あんた、戦車に乗れないっていうのは本当なの?」

 

 核心を突く打ち合わせはあらかじめ黒森峰で成されていたのか、誰一人として動揺は見せなかった。

 ただじっとカリエの口から言葉が発せられるのを全員が待ち続けている。

 これだけの人間に気に掛けてもらえるなんて果報者だな、とカリエは嫌み抜きで笑みを零していた。

 

「正確には車長だよ。もともと脆いメンタルだから、前の敗戦が効いたみたい。車長席に腰掛けたらもう目が回って何も出来なくなる」

 

 だから正直に答えた。

 誤魔化しも言い訳も一切なしに答えた。

 自分は戦車に乗れないと。指揮を執ることが出来ないと素直に口にしていた。

 

「そう。なら、明日の試合はどうするの?」

 

 意外なことにエリカはあっさりと質問を切り替えてきた。

 もっと車長をすることが出来ない問題について切り込んでくると考えていただけに、カリエは拍子抜けしていた。

 ただ拍子抜けしても、新たな問いには真摯に答える。

 

「あんこうチーム——Ⅳ号戦車の装填手として参加するよ。もともと人手が足りていないみたいだからそこの枠に拾って貰った感じ。さすがにここに来て試合を投げ出すことはないから安心して」

 

 カリエの言葉を受けて、ナナたちパンターの乗員が一瞬だけ表情を強ばらせた。

 事前にある程度事情は知っていたとは言え、自分たちの車長として戦ってくれる未来が潰えただけに、思うところは確かにあった。

 だがここで声を上げてしまってはカリエに申し訳ないと、必死に何事も無いように装う。

 エリカも特に真新しいリアクションを見せること無く、じっとカリエを見た。

 姉からの視線を受けて、特にやましいことはない筈なのにカリエは生唾を飲み込む。

 

「——はあ。やっぱあんたって妙に諦めが悪いというか、生き汚いところあるわよね」

 

 たっぷり数十秒ほど経過して告げられた言葉は溜息と呆れに彩られていた。

 まさかここでそんな感情をぶつけられると思ってもいなかったカリエは思わず「え?」と困惑の声を上げた。

 しかしながら両サイドを固めたみほと小梅が似たような表情をしているのを見て、「あれ? これはエリカが正しいのか?」と驚きを抱く。

 

「……戦車に乗れなければ、辞めればよかったじゃない」

 

「いや、何か投げ出すような感じがして嫌だった」

 

「私たちに後のことを任せていれば、他に道はあったかもしれないわよ?」

 

「そんな他人行儀なことできないよ」

 

「そうまでして黒森峰に戻りたいの?」

 

「それは——正直わからない。でも、このまま終わらせたくはない」

 

「指揮も執れないのに?」

 

「装填手も立派な選手だよ」

 

 エリカの言葉に対してカリエは即答を貫いていた。

 それは既に決まった腹積もりを明らかにしているだけの行為。

 カリエはもう、道を見つけていた。

 

「……戦うのね」

 

「うん」

 

「負けたら終わりよ」

 

「負けないよ」

 

「車長が出来ないのなら私たちに任せなさい」

 

「もちろん。私はただ全力を尽くすだけ」

 

「……あれだけウジウジしていたのに、いつの間にか随分としっかりしてるじゃない」

 

「みんなが——優花里さんやダージリンさんが引っ張ってくれたから」

 

「妬けるわね」

 

「でも、黒森峰の皆が、お姉ちゃんが一緒に戦ってくれるってわかっているからまだしがみつけているんだよ」

 

 しん、と部屋に沈黙が訪れた。

 みほと小梅がそっとカリエから手を離す。

 正面のエリカが静かにカリエに歩み寄った。

 そしてしっかりと、もう手放してしまわないように強く抱きしめる。

 

「心配する必要はないわ。必ず大学選抜なんて叩きのめしてやる」

 

「うん」

 

「お姉ちゃんたちに任せなさい。絶対にあなたたちを勝たせてみせるわ」

 

「うん」

 

「だから、だからね」

 

 ぎゅっと、さらに力が込められた。

 

「もう少しだけでも良い。ここにいる皆と——お姉ちゃんと一緒に戦車道、しよう?」

 

 

05/

 

 

 三日目の朝は快晴だった。

 

 国主催の選抜戦と言うこともあって、全国大会以上の人々が観客として訪れていた。列車の台車に載せられた巨大な液晶パネルは過去最大の数が用意され、複数のテレビ局が取材と称して会場入りを果たしている。

 ただ、選手に対する接触だけは頑として国が規制したため思ったような画は撮れていないようだった。

 それでも会場の熱狂を伝えるレポーターの言葉には自然と力が入り、全国のお茶の間に祭りの様相を送り続けている。

 試合開始まで残り僅か。

 大洗とカリエの命運を賭けた一戦が今始まろうとしていた。

 

 

06/

 

 

「え? お姉ちゃん?」

 

「あれ、ミカさん?」

 

 戸惑いの声が上がったのは、高校選抜と大学選抜チーム、それぞれの選手が初めて顔を合わせた時だ。

 初日と二日目は機密保持のためか、両者は徹底的に隔離されており互いの姿を認めることはなかった。

 それが今、試合開始三時間前になってようやく両者相まみえたのである。

 そこで二人の人物が声を上げ、三人の人物が絶句していた。

 声を出したのはみほとカリエ。そして絶句したのがエリカ、小梅、優花里である。

 五人の視線の先にはとある人影が二人いる。

 

「暫くだな、みほ。あれからも精進しているようで何よりだ。全国大会は残念だったが、その心残りを今日この場で私たちにぶつけて欲しい」

 

「やあ、奇遇だね。逸見さん。風に呼ばれてふらふらとしていたらまた君の前に戻ってきたようだ。もしかしてこれは運命なのかもね」

 

 一人は日本戦車道会最強の戦車乗りである西住まほその人だった。

 みほたちが見慣れた黒森峰のタンカースジャケットではなく、何故か大学選抜チームのジャケットを身に纏っている。

 それは今日、高校選抜チームの敵として立ちはだかることの証明のようだった。

 もう一人は継続高校に所属しているはずのミカだった。

 彼女もまた、逸見カリエを撃破寸前まで追い詰めた実力者である。

 まほと同じように大学選抜チームのジャケットをこちらも羽織っており、立場は二人とも共通しているようだった。

 

 まさかこんな人選が存在するなんて、と高校選抜チーム側はいよいよ全員が言葉を失っていた。

 ただ、カリエだけがいち早く復帰して、顔合わせの立会人となっていた職員に言葉を掛ける。

 

「これは、どういうことですか。二人とも所属から言えば高校選抜側の筈。大学生ではありません」

 

 疑問をぶつけられた職員——眼鏡を光らせ、髪を綺麗に整えたスーツ姿の男は至極事務的な口調で答えた。

 

「西住まほ選手は国の指定した特別強化選手ということで本試合に参加して頂く運びになりました。ミカ選手は大学選抜チームの監督を務める島田流家元たっての願いで準飛び級扱いでチームに参加して頂いております。どうかご理解ください」

 

 どこからともなく、「横暴だ!」「権力の腐敗だ!」「フェアじゃない!」との叫びが上がる。

 だが、職員は顔色一つ変えること無く言葉を続けた。

 

「もしこちらの決定が受け入れられないというのなら、試合を辞退して頂いても結構です。棄権はいつでもお引き受けしますよ」

 

 これ以上は伝えることはない、と男はきっぱりと拒絶の意を表した。

 取り付く島のなさに、カリエは「わかりました……」と絞り出すように小さく頷く。

 職員も一応の区切りが付いたと判断したのか、極めて機械的に言葉を続ける。 

 

「——では三時間後に試合を開始します。両チーム共に準備の方、よろしくお願いします」

 

 

07/

 

 

 やーやーやー、ご苦労様。

 

 大会関係者が控えるテントの下で、冷たい水の入ったペットボトルを傾ける逸見カオリがそんなことを宣っていた。

 空調も何もない場所なものだから、カオリはいつもの白シャツの袖を綺麗にまくり上げて、時折流れる汗のしずくをハンドタオルで拭き取っている。

 辻はその隣の椅子に深く腰掛けると、大役をこなした重圧から解き放たれた息を吐いた。

 

「……生きた心地がしませんでしたよ。西住まほと島田ミカの参戦を告げる役なんて二度とゴメンです。特に逸見エリカさん。彼女、こちらを射殺さんばかりの視線を送ってきていましたよ」

 

「あはは。カリエちゃんはおっとり系なところあるけれど、エリカちゃんはその辺激しいからね。特に妹の進退が掛かったこの試合なら尚更でしょう。でも助かったよ。さすがに私が彼女たちの前に姿を見せるわけにはいかないからね」

 

 飲む? とまだ封の切られていないペットボトルをカオリは差し出した。

 辻はスーツ姿のままそれを受け取り、ごくごくと喉に流し込んでいく。

 

「しかしどうして西住まほがあちら側にいるんですか? まさか島田流家元が島田ミカのように手を回したとでも?」

 

 一息吐いた辻が口にしたのは、此度の選手起用に関する純粋な疑問だった。

 彼もまた、まほの大学選抜チーム側での参戦は直前に知らされており、完全に想定外の出来事だったのだ。

 そして逸見カオリも同じ立場である。彼女も今日の早朝にその情報を掴んだばかりで、辻に両チームの顔合わせを任せている間、さまざまなコネクションに連絡を通して事情の確認を行っていたのだ。

 

「——まあわかったことは財務省の仕業ということくらいかな。大学選抜チームを何としても勝利させて、予算的に問題のある大洗女子学園を廃校させたいという思惑が一つ。そしてちょっとでも将来の日本代表チームの実力を世間に示して、戦車道関係の金の巡りを良くしたい、っていう願望が働いているんだってさ。全く、ここに現れない奴らばかりが私の邪魔をしてくれる。何の事情も知らされていない西住まほをドイツから引っ張ってくるなんて反則だ」

 

 言って、カオリはペットボトルを握りつぶしていた。

 やはり彼女にも思うところはあるようで、その視線は鋭く冷たい。

 彼女の逆鱗の苛烈さを知っているだけに、辻は自身に飛び火しないよう、祈ることしか出来なかった。

 

「……ただ西住まほは逸見カリエと旧知の仲です。おそらくこの選抜戦の何処かで彼女たちが抱えている事情を知る機会があるでしょう。そうなればこう、手心というか高校選抜チームも付け入る隙が生まれるのでは?」

 

 薄氷を踏むかのように辻が口を開く。

 カリエは辻を一瞥すること無く言葉を返した。

 

「さあね。でも、この突然の起用、もっと根深いところで手が回されていそうな気がするんだ。例え西住まほが高校生たちの事情を知ったところで手を抜けないような何かがね。ていうか、西住家元の教育と西住まほの性格を考えたら何処までも望み薄だと思うけど。あの子、逼迫している黒森峰の状況を憂いつつも全力で叩きつぶしてくるタイプでしょ。その辺、妹の西住みほとは違うよね」

 

 カオリの返答は真に迫っていた。

 辻も僅かな希望を口にしていながら、彼女の言葉には反論することが出来ない。

 冷や汗を流しながら「では高校選抜チームに勝機はあるのですか?」と漏らしていた。

 カオリはじっと正面を睨み付けている。

 それから十秒、二十秒と経過したとき、ようやく言葉を紡いだ。

 

「……けれどもさ、ここまできたら後は信じるだけだよ。高校生の彼女たちの底力を、そして我が愛しい姪っ子たちの活躍をさ」

 

 ふと、彼女の視線から圧力が抜けていた。

 何事か、と辻がカオリの視線の先を見てみるとオーロラビジョンに映しだされた逸見姉妹がそこにいた。

 黒森峰女学園と大洗女子学園。それぞれのタンカースジャケットを羽織ってはいるが、間違いなく同じ血を分けた同じ顔をしたたった二人きりの姉妹である。

 こうして三人を同時に見てみれば、確かにカオリは逸見姉妹によく似ている顔立ちをしていた。

 エリカの苛烈さとカリエの思慮深さを併せ持たせれば丁度カオリになるように。

 

「もうすぐ元の鞘に戻るよ。あの子たちはそんな子たちだ」

 

 試合開始まで残り二時間を切ろうとしていた。

 逸見姉妹はそれぞれ一枚の地図を取り囲んで、何かしらの打ち合わせを行っている。

 

「ところで逸見課長。カリエさんが今回の試合、装填手で出場されることはご存じですか?」

 

 そういえば、と思い出したように辻が声を上げた。

 正直言って言い出しづらいことこの上なかったが、今の機嫌ならば何とかなる、という打算も含まれていた。

 そしてその計算は当たっていたようで、カオリは姉妹を見つめたまま「ああ、そのことか」と答える。

 

「昨日の晩に——とはいっても日付が変わってそれなりに時間が経った頃だったんだけれども、お義姉さんから連絡があったんだよ。エリカちゃんから母親に伝えたらしいね。カリエちゃんが車長をこなせない、っていうことを」

 

 それは……と辻は思わず言葉を濁していた。

 カオリに電話が掛かってきた時間帯が、逸見姉妹の母の狼狽ぶりを如実に表していたからだ。

 

「私の方からカリエが試合に出ないよう説得してくれ、とも言われたよ。でもさすがに二人の母親だ。最後は娘たちが決めて、覚悟したことだから、と納得してくれたよ。本当、うちのぼんくら馬鹿の弟には勿体ないお嫁さんと娘さんたちだ」

 

 事の顛末を聞いて、辻は再び安堵の息を吐いた。確かに一悶着あったようだが、何とか解決の方向に向かっていることが良かった。

 ただ今の話を耳にして、辻はある疑問を抱き始めていた。

 

「随分と、彼女たちのお母様は逸見課長を頼りにされているようですね。そして逸見課長もそれに応えている。過去に何かあったりしたんですか?」

 

 辻の疑問を受けてもカオリは機嫌その他一切を変えなかった。ただ前を見たまま「んー?」と間延びした声を漏らす。

 それから数秒ばかりの間があって、彼女はこう答えた。

 

「多分お義姉さんなりの配慮だよ。あの人、本人が了承したらカリエちゃんを私に養子に出しても良いって言ってたしね」

 

 は? と辻は間抜け声を呟く。

 カオリは特に反応もないままさらに続けた。

 

「——自分の子どもも産めないような欠陥品に、子どもを育てることの喜びを分けてくれているのさ。そしてそれに私は甘えているわけ。まあ、確かに養子発言の時はお義姉さんもカリエちゃんも相当病んでた時期だから譫言の類いだろうけどね。——でも、ここだけの話、私はそれなりに本気にしていたよ」


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