パーシングを引きつけるために囮となっていた杏とアリサに、一つの幸運が訪れていた。
煉瓦造りの橋の下を抜けたその直後に、直上でカール自走臼砲の砲撃が炸裂し、破損した瓦礫が降り注いだのである。
幸い彼女たちは無傷で切り抜けることが出来ていたが、後続のパーシング達は違った。三両のうちの一両が砲身を瓦礫に押し潰されて撃破判定を受けていたのだ。
「はへー、ついてるもんだねー。こりゃいけるかも」
背後を振り返りながら杏が漏らす。ここまでやられっぱなしの高校選抜チームだったが、ようやく運が向いてきたようだった。
こうした幸運の積み重ねが試合の行方を左右することを杏は知っていたので、素直に喜びを表し、チームの士気へと変換していく。
「でも油断できないわ。残り二両、無理して片づける必要はないけれども、もう少し引きつけておかないと」
隣を併走するアリサが追いすがるパーシングに視線を向ける。
ジグザグに走行しているお陰で直撃弾は受けていないが、至近弾が増え始めていることから向こうもこちらの動きに慣れつつあるようだった。
このままだとジリ貧だ、と唇を噛む。
「ならどうする? このまま撃ち合ってみる?」
杏の提案に「いや……」と歯切れの悪い言葉を返した。
「あんたたちは固定砲塔だし、シャーマンの主砲で正面からパーシングを抜くことは出来ないわ。何とか側面や背後に回り込んで装甲の薄いところを打ち抜かないと」
アリサの懸念に杏は「その通りだ」と頷いた。固定砲塔であるヘッツァーは弱点である横っ腹を一度晒して、180度回頭しなければパーシングを狙えない。アリサの乗るシャーマンは走攻守のバランスが取れた傑作とも言える中戦車だったが、パーシングと一対一で撃ち合うには全てのスペックであと一歩足りていなかった。
「なら仕方ないかー。こんな時秋山ちゃんならどうするか……」
ふと口にされたぼやきを耳にして、アリサがはっ、と何かに気がついたように声を上げた。
「——いや、待てよ? この方法なら何とか……。でもそれが私たちに出来るかどうか」
何かを思いついたのかぶつぶつと独り言を零していく。杏はどんな知恵でも有り難いといわんばかりに、アリサに思考の暴露を促した。
「何か思いついたみたいだね。いいよ、やってみようよ。どうせこのままだと両方ともやられるだろうし」
にしし、と笑う杏にアリサは「あんたね……」と呆れたように声を上げる。
だが考えていることは殆ど同じだったのか、それ以上の躊躇を見せることはなかった。
「——後ろのパーシングは上手いこと私たちをカール自走臼砲に近づかないように追い立ててきている。わざとらしく見えないよう、フェイントを織り交ぜながら。つまるところ、そこまでこちらの撃破に固執しているようには見えないわ。多分、追い払えたらそれで良いと思っているのね。そしてもう一度カール自走臼砲の守りを固めるつもりよ。で、ここからが本題なんだけれど、私たちは敢えてそれに乗って、追い立てられているフリをするのよ。そして、最後はやけになってカール自走臼砲に特攻を仕掛けたように振る舞うの。こちらの囮作戦が失敗したように見せかければ最高ね」
アリサの献策に杏は「成る程ね」と頷いた。
「私たちがサンダースの無線傍受を逆手に取ったように、相手の作戦に嵌まったフリをするわけだ。相手もこちらの破れかぶれの特攻も織り込み済みだろうから、落ち着いて防御を固めるだろうね。で、ここから先は? 私たちがサンダースを誘き出したように、もう一手、作戦が必要だよ」
それなら——とアリサは続けた。
「私たちの隊長がまだ残っているわ。あの人はここぞという好機を見逃さないように常に戦況を見守っている。私たちはそれを信じて特攻をかければいいのよ。三人寄れば文殊の知恵。3対2の数の利をここで活かすわ」
「でも私たちが中州に戻るまでにカール自走臼砲が撃破されていなければ全て台無しだ」
杏の言葉にアリサは「馬鹿ね」と笑った。
「あんたたちの所の八九式とアンツィオの喧しい奴ら、それにナオミが総掛かりで相手しているのよ。私たちが戻る頃にはとっくの昔に撃破していてコーヒーでも傾けているわ」
01/
パーシングに追われていたシャーマンとヘッツァーが大きく進路を左に切った。
そしてほぼ180度ターンして、カール自走臼砲の方角へと戻っていく。
慌てたのはパーシング達だった。ある程度織り込み済みだったとはいえ、いざカール自走臼砲への特攻を実現されてしまうのは、大学選抜チームの大きな戦力の喪失に繋がりかねないからだ。
一発、二発とパーシングの砲弾が降り注ぐ中、杏のヘッツァーとアリサのシャーマンは蛇行運転を続けながら再び中州へと近づいていく。
中州の上の状況はまだわからない。
カール自走臼砲を撃破できたのか、それとも失敗してしまったのか。
今の二人に出来ることは仲間達を信じるということだけ。
一度特大の砲撃音が轟くが、パーシングの砲撃から逃走を続ける二人がそれを意識することは無かった。
「取り敢えず戻ってきたけれどこの後は?」
杏の問いにアリサは答える。
「このまま真っ直ぐ! 大丈夫! 隊長は、マムは見ていてくれているわ!」
信頼だねえ、と杏が笑う。
だが茶化さない。
アリサのケイに対する信頼を彼女も信じた。
自分たちと鎬を削ってきたライバル達の実力も同じように信じているから。
そんな彼女たちが信奉するものに間違いはない筈だから。
ヘッツァーとシャーマンが中州の斜面を駆け上がっていく。
直ぐ後ろをパーシングが追いすがっていくが、パワー不足の車体が祟って、徐々に彼我の差が開いていった。
いける、と呟いたのは誰だったか。
中州の頂上に躍り出る。
急激に開けた視界の中には動きを止めたカール自走臼砲が横たわっており、アリサの待ち侘びていたケイのシャーマンの姿もあった。
その砲塔はこちらを向いている。
アリサの信頼が勝ちを拾った瞬間だった。
「Good jobs(お疲れ様) 私たちの勝ちよ」
シャーマンの主砲が瞬いた。
中州を少し遅れて登り切り、一瞬車体の底面を晒していたパーシングに砲弾が吸い込まれる。
いくら強固な装甲で防護されていようとも、車体の底面はその限りではない。
全ての戦車に共通するウィークポイントを狙撃されたパーシングはあっという間に白旗を掲げその場に停止した。
味方が撃破された事を理解した、まだ中州を上り続けていた残り一両のパーシングが慌てて後退を開始する。
しかし全ては遅かった。
カール自走臼砲の撃破という、ここ一番の大仕事をやってのけたシャーマンファイアフライの主砲が、ぴたりと側面装甲にロックされていた。
ガムで出来た風船を割ったナオミが口を開く。
「Bang!」
光弾はただ真っ直ぐ、ひたすらに、螺旋を描いて前へ進んだ。
鋼鉄の盾に食い込んだそれは貫通の判定を残して爆散する。
中州の上に翻る三つの白旗は、高校選抜チームがあげた大金星の象徴そのものだった。
02/
風がようやく向いてきたと優花里が感じたのは、ボロボロになりながらも無事に帰還を果たしたティーガーⅠとティーガーⅡ——つまりみほとエリカとの合流を果たしたその瞬間だった。
一時は全滅すら危ぶまれた黒森峰車両の帰還が、チームに与える士気向上の効果は決して無視できるものではない。
ここまで後手後手に回り、苦しい戦いを強いられていただけに喜びもまた大きかった。
しかしながら状況は相変わらず厳しいままだ。
パーシング達の猛追を振り切ったとはいえ、ティーガーⅠとティーガーⅡのダメージは大きく、何とか隊列について行けているという有様だ。
ドイツ戦車が慢性的に抱えている足回りの脆弱性が徒となっている。
車長であるエリカもそんな現状を苦々しく思っているのか、眉根を顰めながら優花里に言葉を投げかけた。
「……どうやらCチームが小梅たちの仇を取ってくれたみたいね。これで心置きなく戦えるわ。でも、ここから先はどうするの? Bチームは正直独立したチームとしては戦えないし、足回りにも相当ガタが来てるから何処かで整備も行わないと……」
四方八方から大学選抜チームの奇襲が考えられる、北海道の広大な原野の真ん中での修理及び整備は不可能である。
優花里もそのことを理解しているのか、ずっと頭に描き続けていた青写真を高校選抜チーム全体に向かって語りかけた。
「このままBチームをAチームに取り込みます。そしてCチームと共に南東の方角にある廃遊園地を目指そうかと思います。ここでなら遭遇戦に持ち込みやすく、彼我の車両性能の差を埋められるかもしれません」
言われてエリカとみほがほぼ同時に地図を見た。
障害物に溢れた遊園地に逃げ込むことが出来れば、ティーガーⅠとティーガーⅡの整備をする余裕も生まれてくるだろう。
特に反対することも無いまま、同意の首肯を返す。
優花里も黒森峰の二人が賛成を示したお陰か、幾分かリラックスした調子で鼓舞の言葉を口にしていた。
「Cチームの皆さんもそのまま廃遊園地を目指してください。園の中心に位置する富士山のモニュメント周辺で集合になります。ここから先、皆さんの持ち味と技量を活かした戦いが増えることでしょう。そうなれば我々にも必ずや勝機が見えてくるはずです」
03/
「……妹さんと後輩を追わなくても良かったのかな? あの二人は必ずや台風の目になるよ」
カンテレの音と共にミカが嘯く。
彼女は今、BT-42のキューポラから上半身を覗かせながら何処か遠くを眺めていた。その視線の先に何があるのか知るのは当人だけだ。
BT-42に横付けしたティーガーⅠの天蓋に腰掛けながら、まほはタブレットを操作している。
「無理な深追いは禁物だ。特にあの二人に関しては。黒森峰にいた頃からあの二人のここぞという時の踏ん張りには感心させられっぱなしだからな」
チームの長である愛里寿からの指示が特にないことを確認してまほはタブレットを閉じた。
殆ど自由裁量を認められているまほとミカの二人は、本隊とは別行動に準じている。
ここまで下された命令はたった一つ、「好きに戦え」というものだった。
自分たち二人の扱いを、愛里寿自身も考えあぐねていることは何となくではあるがまほには伝わってはいたので、それを無礼だとも放任が過ぎるとも糾弾することはない。むしろいらぬ気を遣わせていると、気の毒にすら思っていた。
特に実の姉であるミカに関しては随分と頭を悩ませているようである。
「君は妹の所に行かなくて良いのか? 君たちの母親は妹の護衛目的で君をチームに引き込んだのだろう? こんなところで油を売っていると後々が面倒だぞ」
だからこそ自然とまほの口をついたのは姉妹に関する心配事だった。
島田姉妹の間柄が複雑怪奇なことは承知してはいたが、それでもいらぬ世話を焼きたくなるくらいには、まほもお人好しである。
しかしながらミカから返された言葉はまほに対する強烈なカウンターパンチだった。
「——私たちのことよりもまほさんは自分の事を心配した方がいいのでは? 黒森峰の皆さんからしたら大きな大きな裏切りに見えているだろうに。特に今回の一戦、逸見カリエの進退が掛かっているんだよ? 妹さんや後輩から恨まれるという可能性はどうするのかな?」
一瞬、まほは言葉に詰まる。
だがあくまでもそれは一瞬のことだ。直ぐに「覚悟の上だ」と頭を振ると、自身の思いをつらつらと語った。
「最初はこの試合の参加要請を断るつもりだった。けれども『あの人』があんまりにもしつこく要請してくるのと、『あの人』の口車が驚くほどに回るのだから、気がつけば首を縦に振っていたんだ。西住の名誉を守るためには——妹の、みほの立場を守るためには私が出てこなくてはならないと」
ミカの指が弦を弾く。
柔らかいその音色が、話の続きを促しているのだと、まほはそれとなく理解していた。
「十一連覇を逃したことで、みほの立場は随分と危ういものになっている。とくに西住の家の中での立場が。これは完全に私とお母様の失策でもあるのだが、国の求めに従ってほいほいとドイツ留学を果たしたのが不味かったみたいだ。私がドイツに向かったお陰で、みほを神輿に西住での勢力を伸ばそうとする輩が生まれてしまったらしい。その一派からしてみれば此度の黒森峰の敗北は面子を潰された形になったし、その動きを良く思っていなかった一派からしてみればみほを蹴落とす絶好の機会だ。まさに針の筵。ならば私がこの大会で『西住流ここにあり』と示すことが出来れば、不用意に分裂しそうになった家を、そしてその生け贄にされるかもしれないみほを救うことが出来る」
まほの言葉にミカがすっと視線を鋭く細めた。そして次はカンテレでは無く、自身の口で言葉を繋ぐ。
「——嘘だね。あなたが饒舌になるときは、大抵何かを誤魔化すときだというのは短い付き合いだけれども何となくわかってきているつもりだよ。本当のところ、妹さんの、逸見姉妹の行き場のない怒りを受け止める器になりたいんだろう? 敢えて恨み役を買って出ることで、次代の黒森峰が分裂することを防いでいるんだ。西住まほという共通の敵が生まれれば、少なくとも次の黒森峰は憎悪を糧に纏まることが出来るからね」
ミカの追求にまほは「敵わないわね」と小さく笑った。
だが「一つだけ間違えているぞ」と意地悪く微笑む。
「共通の敵になるというのは正解だが、さらにその先にある何かを彼女たちは見せてくれると私は信じているよ。憎悪でなくとも、もっと大きな美しい何かが彼女たちを纏めてくれる。そんな下らない感情に頼らずとも、私が全てを託してきた後進たちは必ずや勝ちを掴み取りに来る」
まあ、だからといって負けてやるつもりはさらさらないが……とまほは天を見上げる。
いつの間にか空には日差しが差し込み、明るい陽光が世界を照らしている。
「例えそれが逸見カリエの道を閉ざすかもしれないとわかっていてもかい?」
ミカの最後の問いにまほは空に視線を向けたまま答えた。
「私ごときで閉ざされる道を彼女は持っていないよ。知っているか? 黒森峰にいた頃から、諦めの悪さはあの子が一番だった」
04/
自分も大概だが、エリカも諦めが本当に悪い。
エリカのティーガーⅡの整備に加わりながら、カリエはそんなことを考えていた。
苛烈な激戦をくぐり抜けてきたかの車両は、カリエの記憶の中にあるどの姿よりも薄汚れていてボロボロだった。
いつからか姉妹のパーソナルマークとして描き加えられていた円環の蛇など、瓦礫や砲弾に削り取られてしまったのか殆ど残されていない。
交換を終えた各種部品を抱えていたカリエは呆然とその様子を見上げていた。
こうになるまで戦い続けたエリカの胆力と悪運、そしてその猪突猛進ぶりに呆れているのだ。
「あ、副隊長、残りは私たちがやりますので、身体をお休めになってください」
黒森峰にいた頃の癖なのか、ティーガーⅡに搭乗している下級生が気遣いを見せてくる。
カリエは優しく首を横に振ると、そっと口を開いた。
「大丈夫、私がやりたいだけだから。優花里さん達が高台で偵察をしている今、私に出来ることがしたいんだ」
カリエの告げた通り、傷ついたティーガーⅡの背後にそびえ立つ富士山——廃遊園地の中心的なモニュメントの上ではⅣ号戦車が停車して広大な原野に睨みを利かせていた。
どの方向から大学選抜チームが仕掛けてくるかわからないだけに、彼女たちの目が今の高校選抜チームの生命線でもある。
カリエもその役割に準じようと優花里に声を掛けてはいたが、以下のような言葉でやんわりと断られていた。
「カリエ殿はお姉さん達の車両についてあげてください。勝手の解っているカリエさんがいたら心強いと思います」
これこそ優花里の気遣いであると、カリエは素直にそれに従った。
例え黒森峰とはいえ、度重なる連戦と撤退戦にティーガーⅠとティーガーⅡの乗員達は多大な疲労と負担を感じている。そんな彼女たちだけで車両整備を行うとなると、完全にオーバーワークであると言えた。
だからこそ、黒森峰の車両に通じているカリエが車両整備に参加する運びになったのである。
自動車部のレオポンチームの面々も、カリエがいてくれるなら整備マニュアルを参照する手間が省けると喜んでいた。
「……うわあ、これ転輪の軸受け歪んでるんじゃない? ぴょんぴょん飛び跳ねて着地でもしないかぎり、こんなことにはならないと思うんだけれど……」
「さすが黒森峰、もしかしたら私たちの知らないドライビングテクニックを持っているのかもね」
ナカジマとホシノがティーガーⅡの車両下で盛り上がっている声を聞いて、カリエは苦笑を漏らす。
彼女は「多分、それは本当に飛んでるよ」とエリカの行動を正確にトレースしていた。
そしてそんな呟きを耳にしたのか、ニコニコと笑みを零しながらカリエに近づく人影があった。
「ねえ、逸見さん。ここの部品の換えはないのかな? 出来ればここくらい直してあげたいんだけれど」
ティーガーⅡの車内装備の一部を小脇に抱えたナカジマだった。カリエが視線を部品に向けてみれば、それは黒森峰の車両が共通で積み込んでいる無線機の一部だ。
飛び跳ねた衝撃で破損したのか、ナカジマ曰く「ウンともすん」とも言わなくなっているらしい。
何となくではあるが、自車に予備部品を積んでいることを思い出していたカリエは「ああ、」と言葉を返していた。
「それなら多分パンターに積んでいる部品で直せると思います」
言って、パンターの方へと足を向ける。ティーガーⅡ、ティーガーⅠと並んだ車両のさらに奥に、そのパンターは座していた。
他の二両の黒森峰車両の整備を手伝っているのか、本来の乗員の姿はない。
ある意味でこれは好都合だ、と後ろめたさを感じながらカリエはパンターによじ登った。
「——さすがに手慣れているね。やっぱりホームグラウンドは違うんじゃない?」
ナカジマの突然の言葉にカリエはドキッ、と動きを止めた。
我に返って視界を良く観察してみれば、自身の手が車長席のキューポラに手が掛かっている。
「いや、もうホームグラウンドじゃ……」
歯切れの悪い言い訳を口にしながらも、身体はキューポラの蓋を開けていた。そして余りにも呆気なく、何一つの障害も無く、車内に滑り込む。
これはどういうことだ、と困惑しながらも、視線だけは目的の部品を探していた。
部品は直ぐに見つかる。
混乱の極地にいたカリエではあったが、ナカジマが外で待っているだろうと直ぐにキューポラから車外へと顔を覗かせた。
するといつにまによじ登ってきたのか、パンターの砲塔天蓋にナカジマが立っていた。
「おお、これだ。これだ。ありがとう、助かるよ」
カリエが車長席に座している事に何の疑問も抱いていないのか、人懐っこい笑みを一つ浮かべてナカジマは天蓋を降りていく。
その様子を呆然と見つめたまま、カリエはその場から動けなかった。
まさかこんなにもあっさりと、この席に戻ってくることが出来るとは思っていなかったからだ。
自身が戦車に抱いていた恐怖心が克服されたのかは、まだ正直なところわからない。
それでもいつか感じていた吐き気と鳥肌は嘘のように引っ込んでいる。
「なんで、どうして——」
不可解だ、と表情を硬くしながらそっとキューポラの縁を撫でる。
続いてもう一度パンターの車長席に深く腰掛けた。硝煙と鉄、そして油の臭いで満たされたそこはいつか当たり前に座していた己の世界だった。
今となっては懐かしさすら感じる場所で、カリエは深く息を吐き出す。
上を見上げれば、雨が晴れ上がった青空が丸く円形に切り取られている。
戦車の修繕に使われている電動工具の音も、高校選抜チームの少女達の喧噪も何処か遠い世界のものだった。
静かで暗い、されど落ち着き払った空間でカリエは一人そこにいる。
「ん?」
ふと、視界の隅っこで何かを見つけた。
通信機の部品を取りに来たときは気がつかなかったが、車長席の右手側に何かが吊られていることに気がついた。
暗がりで良く見えなかったが、キューポラから差し込む日差しにかざしてみれば、それは黒森峰のタンカースジャケットだった。
一体、誰のものだろうか。
記憶を辿ってみても、パンターの乗員達は全員ジャケットを着込んで作業をしていた。
ジャケットを脱いで、パンターの中に置いてきたとは考えにくい。
ならば誰かの予備なのだろう、と襟元のタグをつまみ上げる。
規則ではここに氏名を書き込むことになっているからだ。
「あれ? なんで?」
気の抜けた声がカリエの口から漏れた。
晩夏の日差しに当てられたタグには、流麗な刺繍で『佐久間ナナ』と刻まれている。
カリエはその文字列にどうも引っかかりを覚えた。
少々カリエが苦手とするくらい几帳面なところがあるナナが、車長席の隣にジャケットの予備を吊ることがあるのだろうか。
彼女ならば、きちんと折りたたんで、アイロンを掛けて、乗員達の物品をしまい込んでおく車内ボックスを利用するだろうから。
飲みかけのジュースを無造作に砲塔の天蓋において、急発進で零し散らすカリエとは大違いなのだ。
「……なんでだろ」
しかしながらその理由を確認する術はない。
今のカリエは大洗女子学園の生徒であり、Ⅳ号戦車の装填手である。
こうしてパンターに入り込んでいることもそれなりにグレーゾーンのことであり、これ以上の長居をする気にはなれなかった。
取り敢えずここから出よう。
自身が車長席に座ることが出来た理由はわからないままだったが、こんなところで油を売っているのを誰かに見られたくない、という焦りがカリエを突き動かした。
キューポラの縁に手を掛け、陽光の下に身体を晒す。
とっととパンターから飛び降りてしまって、Ⅳ号戦車——あんこうチームの元に戻ろうと気が急いた。
だからこそ、こちらを見上げている一つの視線を受けても、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「——副隊長」
いつだってその瞳は尊敬と敬愛に溢れている。
カリエが黒森峰で好き勝手に暴れることが出来たのも、彼女の超人的な操縦技術があってのこと。
それに加えて、高い車長適性すら保有しているなど、完璧と言って余りある。
何とかカリエが絞り出したのは、そんな少女の名前だけだった。
「——佐久間さん」
頬を煤で黒く汚したナナがこちらを見ていた。
パンターのキューポラから上半身を覗かせているカリエを見ていた。
在りし日の、己の車長の姿を見ていた。
カリエもまた、視線であるものを捉える。
捉えたのと同時、パンターの車内で抱いたナナのタンカースジャケットに関する疑問が氷解していた。
カリエの視線が向けられているのはまさにそんなナナが身につけているタンカースジャケット。
穴が空いてしまった右肘部分に赤いパッチが当てられた、いつかの思い出。
たぶんきっと、ナナの襟元からタグを引っ張り出してみれば、エリカが油性ペンで書き連ねた『逸見カリエ』の文字が躍っているのだろう。
ナナもカリエの視線が自身が身につけているタンカースジャケットに向いていることに気がついて、顔を赤く染めた。
「あ、こ、これはその、ある一つの験担ぎといいますか、縁起物みたいな奴で、車長をしたことのない私の精神安定剤みたいなものなんです! い、いちおう隊長にもエリカ副隊長にも許可は頂いていますし、必ずクリーニングして、何百回と綺麗に洗い清めて返しますから、どうか、どうか——!!」
慌てふためいたナナがよく解らない言い訳を口にしていたが、カリエは気には止めなかった。
それどころか、ふっ、と表情を柔らかくして軽やかにナナの眼前に飛び降りる。
「……この穴、塞いでくれたの佐久間さん?」
カリエの指が赤いパッチに触れる。
ナナは陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせながら、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「は、はい! 少しばかりエリカ副隊長にも手伝って頂きましたが!」
何となくカリエは、自身が車長席に再び座ることの出来た理由に思い至っていた。
それはつい昨日、黒森峰の仲間達と言葉を交わしたのが切っ掛けのようだった。
エリカがもう少しだけ共に頑張ろうと言ってくれた。
みほと小梅が黙って受け入れてくれた。
ナナ達が縋り付くような視線で帰りを待ち侘びていた。
結局の所、カリエが戦車を恐れたのは酷く他人から拒絶されたのが原因に他ならない。
戦車に乗ることによって、歓迎されることはあっても、あそこまで誰かに罵倒され、追い込まれることは無かった。
顔の見えぬ誰かの悪意がカリエの心に楔を打ち込んでいたのだ。
優花里達、大洗の少女達が楔の打ち込まれた心を静かに守ってくれた。
ダージリンが傷ついた心を受け入れてくれた。
みほたち黒森峰の仲間達が傷を塞ごうと抱きしめてくれた。
もう少しで楔が抜ける。
切っ先一つだけが引っかかっただけの、カリエに対する呪詛と呪い。
黒森峰の仲間達は、自身を拒絶などしたことがないという確固たる事実が、カリエの精神を再び立ち上がらせようとしている。
「佐久間さん——」
だからカリエはナナの肩をそっと掴んだ。
選抜戦の重圧に押し潰されそうになっている、ナナの肩を優しく解きほぐす。
「もう少しだけ、車長をよろしく」
言葉はそれで十分だった。
ナナはぐっ、と表情を引き締めて「はいっ」と小さく叫ぶ。
何処かでティーガーⅠとティーガーⅡのエンジンが始動した。
泥沼の戦いから撤退してきた両者のエンジン音は新品のように冴え渡っている。
つかの間の小休止が終わろうとしている中、カリエはナナから離れた。
「あとはどのタイミングか——」
カリエの呟きは、鋼鉄の怪物の咆哮の中に淡く溶けていった。
05/
そしてこれは完全な余談であるが。
「あら、カリエさん。随分とあの下級生と親しくしていらっしゃったのね」
「えと、ダージリンさん。足、踏んでます」
「本当、おモテになる殿方を伴侶にすると、一時も心が安まらないわ」
「えと、ダージリンさん。お尻、抓ってます」
「全く、先が思いやられるわ」