逸見カリエが姉のエリカと合流し、ツーマンセルとして行動を開始したことは直ぐに高校選抜チームのメンバーに対して無線を通じて周知された。みほと優花里がなんとか大学選抜チームのパーソナルをまくことが出来たこともほぼ同時に報告されており、久方ぶりの良い知らせたちだ。
「——どうやらこちらに流れが向かい始めたみたいですね。このまま一気に畳みかけたいものですが」
グロリアーナとサンダースの混成チームは遊園地の中央を目指していた。立て続けにもたらされた朗報に心なしかメンバーの様子は浮き足立っている。そんな中でアッサムは淡々とダージリンに試合の状況を伝え続けていた。
「そう願いたいところだけれども、『大将たらん人は、心に油断の義ありては叶うべからず。あまたの心得あるべし』 流れが良いからこそ、兜の緒はしっかりと締めたいところね」
「日本史の偉人、楠木正成の言葉ですか。確かに少し私たちに都合の良い流れが来すぎていると思います。それにあちらの大将——島田愛里寿さんの沈黙も不気味です。これまで会敵した人は誰もいません」
オレンジペコの言葉にダージリンはその通りね、と満足げに頷いた。彼女は周囲の警戒を車長席から行いながら言葉を重ねていく。
「でもこの流れに乗りきらなければならないのも事実。カリエさんならば流れ有るときこそ大胆あれ、と言うはずよ。T28の撃破がなった今、残ったパーソナルのパーシングを狙うか、それともまほさんと継続のBT-42を撃ちにいくか、決断の時かも知れないわね」
ダージリンは思案する。カリエはどう考えているのだろうか、と。エリカと合流が成功した今ならばきっと彼女も同じようなことを考えているだろう。ならばそれの援護にいくのも悪くないし、逆にカリエが向かわなかった方へ部隊を進めるのも一興である、とダージリンは自然と無線機に手を伸ばしていた。カリエ車への直通のチャンネルは補給を行ったときに聞いている。恐らくエリカと合流したことで新しい無線機を手に入れているであろうカリエ車にダージリンは問いかけを投げようとした。
すうっ、と少しばかりの緊張感を身に纏いつつ息を一つ吸い込む。
「ダージリンさん! 不肖、知波単の西絹代です! やりました! 大洗のアヒルさんチームとの連携により裏手から侵入してきたパーシングを撃破いたしました!」
鼓膜に穴が空いたかと錯覚するほどのよく通った声。思わず耳を押さえたダージリンをアッサムとオレンジペコが心配げに見上げる。恐らく車内にヘッドホンから声が響き渡っていたのだろう。二人とも絹代の報告がどのようなものだったのか察しているようだった。
喜ばしいことですね、とオレンジペコの必死のフォローがエンジン音に虚しく消えていく。
「報告は受け取りました。ですが次からはもう少し声量を抑えて下さい。——引き続き大洗のチハ戦車とともに索敵、及び警戒をお願いします」
無線のマイクを一度本体に戻し、ダージリンは大きく息を吐く。
折角カリエに連絡が取れる、と内心喜んでいた彼女は一気に現実へと気持ちが引き戻されてしまったことによって何処か不機嫌そうだった。触らぬ神になんとやらといわんばかりに、こちらに振り返っていたアッサムとオレンジペコの二人はそれぞれの持ち場にきっちりと座り直す。
「でもこれでますますこちらに流れがきたのもまた事実、か」
ダージリンが思い直したとおり、絹代の報告はさらなる朗報であることは間違いない。現時点で高校選抜チームは大学選抜チームに対して数的有利を取ることが出来つつあるのだ。殲滅戦においてそれが意味するウェイトは非常に大きい。
だが気がかりがないと言えば嘘になる。先ほどもオレンジペコが溢してたとおり、島田愛里寿の動向がここまでいっさい掴めていないのだ。ダージリンの下調べが間違っていなければ、彼女もまた怪物じみた力量を持つ戦車のはず。それこそ黒森峰のナンバーワンである西住みほや次点のエリカやカリエを凌駕しかねないほどには。そんなトップエースが一向に前線へ出て来ないのは何かしら理由があるのだろうか、と思い至った時、ふと口端から言葉が漏れた。
「そうか、お姉さんの島田ミカか」
今回の試合で継続高校に出奔したミカが参戦していることは既にダージリンの耳にも届いている。その姉妹仲が中々ややこしい問題を孕んでいることも同じようにリサーチがついていた。何かしら姉に思うところがあって動けないのだとしたら、これはチャンスではないか、と一筋の光明を見つけた気分になる。
だが——、
「いや、違う。もしこの推測が正しいのだとしたら、島田ミカは島田愛里寿のウィークポイントなどではなく、むしろ」
ダージリンが忘れたくても中々忘れられない光景の一つ。それは二年前の夏の大会の出来事だ。当時、既に名を馳せていた逸見姉妹を討ち取るべく彼女はさまざまな策を弄した。だがその結果は散々たるもので姉のエリカを激昂させてしまい、むしろ手がつけられない状況を生み出してしまっていた。
もしも愛里寿がそれと同じパターンだとしたら? こちらは島田ミカが妹の愛里寿を気遣って動いていると想定していたがそれが逆だとしたら? 愛里寿がミカに対して何かしらの思いを、それこそ負い目を感じていて自由に動けないのだとしたら?
まほとミカ、そしてメグミの誰かを撃破するべくカリエやエリカ、その他のメンバーは動き始めている。しかしながら一歩選択肢を間違えてしまえば竜の尾を踏んでしまう結果につながりかねないのではないか?
さまざまな疑念がダージリンの中に渦巻いては消えていく。折角黒森峰に復帰することが叶ったのに、伸び伸び戦うことをカリエに許すことができない状況に歯噛みする。
彼女の長い長い沈黙に割り込んできたのは、意外なことにサンダースのケイだった。
「ねえ、ダージリン。ジェットコースターの上から偵察をしてくれているアンツィオから今連絡があったのだけれど、ずっと外周を警備していたあちらのパーシングがいつの間にか姿を消しているみたい。多分、遊園地内の劣勢を受けて増援に加わるつもりね」
弾かれるようにダージリンが地図を見た。残存車両状況が書かれたホワイトボードはアッサムが砲手席からこちらに掲げてくれている。
「——しまった。島田ミカに気を取られすぎたわ。もう彼女は、島田愛里寿は」
瞬間、砲声が背後で鳴り響く。振り返ればアリサのシャーマンが火炎と黒煙を噴き出して停車していた。そしてその背後から恐るべき速度でこちらに近づいてくる影を見つける。
「ダージリン様!」
オレンジペコが砲弾を叩き込み、アッサムが発砲するも掠りもしなかった。縦横無尽に動き回るセンチュリオンが急速に接近してきている。
「最後まで動かなかったのはおそらくブラフ! ミカとの不協和音を演出していただけだわ! 彼女は我々が一番気の緩む今を狙っていたのね!」
センチュリオンの砲口とダージリンの目線が重なる。鈍重なチャーチルでは間違いなく逃げ切ることができない。ご自慢の重装甲も、この距離とあちらの技量なら間違いなく抜かれる。
ダージリンは自身の終わりよりも先に、無線機を再び手に取り、ありったけを叫んだ。
「カリエさん! すぐに島田ミカを倒しなさい! 猶予はもうないわ!」
複数の砲撃音が遊園地内に大きく轟いた。
01/
「隊長、このまま外周を回れば次は裏手門に展開している日本戦車たちと会敵することができます。それらをすり潰せば、いよいよ本命に手が届くかと」
車内の副官の言葉に対して愛里寿は小さく頷いた。彼女は姉との合流はもう少し先になりそうだ、と消え入りそうな声で呟く。
「今入った報告によると、こちらのチャーフィーと向こうのクルセイダーが相打ちになったようです。ですがこれまでの隊長のご活躍により、向こうに取られた数的優位を取り戻しつつあります」
そうか、と愛里寿は淡々と答える。彼女はふと懐から一枚の写真を取り出していた。それはまだ姉が家にいたころに家族で撮影した随分と古いものだ。まだ戦車道の世界に自分が飛び込んでいなかったこの頃は、姉妹揃って笑い合うことが少しばかりあった気がする。
「——あちらの姉妹はボコね。どれだけボコボコにされても必ず立ち上がって挑んでくる。本当、私たちとは正反対」
続いて彼女が目にしていたのは残存車両が記載されたタブレットの画面だった。そこには顔写真付きで各選手と車両のデータが表示されており、トップに鎮座しているのは黒森峰の逸見姉妹。
「でも大丈夫だよ、ボコ。私は一人でもこの二人に勝ってみせるから。私はこんな甘い人たちに絶対負けないから」
車長席の右手側に吊るされた小さなボコ人形を愛里寿は優しく撫でる。ただその目線だけは依然として鋭く前をしっかりと見据えていた。
「自軍のパーシングが一両、今やられました。どうやらタンケッテに誘導されて、水路に落とされたようです。ここから一本向こうの路地ですので、今から向かえばあちらの車両を二両、潰すことができるかと」
愛里寿は通信手の報告に是と返した。彼女はキューポラから身を乗り出し、細かな指示を咽頭マイク越しに全軍と自車両に下していく。
「一つずつ、確実に行こう。その積み重ねがあの姉妹を最終的には追い詰める」
02/
「あの女の指示に大人しく従うのは癪だけれども、正直言って継続を撃破するのは賛成よ。まほさんとの連携を鑑みても、あれは相当脅威になっている」
「ただ夏の大会は私という餌で誘き出すことができていたけれど、今回はダメだ。向こうには私たちと無理に戦うメリットがない。すでにサンダースがやられて数の有利もなくなってしまっている。少しずつこちらを削ってくる戦法を取られるとジリ貧だ」
並走するパンターとティーガーⅡのキューポラ越しに姉妹は作戦を練り続けていた。ダージリンが直前に送ってきた通信。そこから考えられるのは島田ミカと愛里寿の合流という考えられる限り最悪の展開だ。
「一応不仲説はあるけれども、それでどうこうなるような技量じゃないのは確かよ。ビジネスライクにツーマンセルを組まれると面倒なことこの上ないわ」
「つまりはせんたくバッテリーを打ち崩さないといけないわけか。こちらもオガラミ砲で迎え撃たないと——十年くらい現役期間が違うけれど」
「もういちいち突っ込まないけれど、何かいい策でもあるの? ただこちらが連携するだけじゃ正直ジリ貧よ」
エリカの言葉にカリエはうーん、と首を捻った。だがそれも数秒のこと。彼女はすぐさまエリカの方へと向き直ると、どこか自信を覗かせながら言葉を続けた。
「そもそもなんか前提が違う気がする。島田姉妹って本当に不仲なの? 夏の大会の様子を見てたらどうもひっかかるんだよなぁ」
カリエに対してエリカは「でも妹ほっぽって出奔する奴が仲良いわけないじゃない」と厳しい姉トークを展開していた。なんかエリカはミカに対して心なしか厳しいね、と苦笑が溢れる。
「どちらにせよ、あちらの姉と妹が合流したら面倒なのは間違いないわ。悔しいけれどもダージリンの戦略眼が信頼できるのもまた事実。ここは大人しくまほさんと行動を共にしている島田ミカを仕留めにいきましょう」
カリエは即答しなかった。エリカの提案がダージリンの狙いが正しいことは分かりきっていたが、カリエの中にある「彼」が警鐘を鳴らしている。
「ねえ——エリカ」
カリエがもう一度エリカを見た。硬さも緊張感も感じられない、むしろどこか愉しげな悪戯前の悪餓鬼のような表情がそこにはある。
「敢えてあちらのお姉ちゃんへのマークを外してみようか」
03/
アンツィオのタンケッテ、大洗のルノーB1hisを撃破した島田愛里寿は続いて日本戦車狩りに邁進していた。いくら機動力に優れていようが、島田流の前では無意味。装甲などあってないようなものだから、1両、1両確実に息の根を止めに行っている。
「アヒルさん、助けに来たよ!」
大洗のレオポンさんチーム——ポルシェティーガーが眼前に立ちはだかる。やけにちょこまかと逃げ回るな、と思ってみれば成る程、こちらに誘導していたのかと愛里寿は少しだけ感心していた。結成から一年も経っていない素人同然のチームという考えはやはり間違っていたのだ、と気を引き締める。逃げ回りながら装甲火力に優れた車両の眼前に誘き出すテクニックは強豪校でも中々会得することが難しい上級の戦術が故に。
だがそれすらを喰い破っていくからこそ、自分は島田流の後継者なのだ、と彼女は次の指示を乗員に飛ばしていた。
「ブレーキ、一度目を回避。ポルシェティーガーは真後ろが弱点。逃げ続けるチハを視界に捉えつつ一つずつ確実に」
ポルシェティーガーの88ミリ砲が火を吹く。だが、絶妙なブレーキワークの動きに翻弄されてセンチュリオンの装甲に掠めることもなく後方へと砲弾が流れていった。そしてその脇をセンチュリオンが駆け抜けていく。面食らったのはポルシェティーガーの背後で援護の構えを取っていたチハ戦車で、慌ててセンチュリオンからの逃亡劇を再開する。
「ツチヤ! 例のあれを!」
ナカジマの一声でツチヤは手元に増設していた電子レバーを全てオンにした。するとポルシェティーガーの増設されたバッテリーたちが改造されたハイパワーモーターへの給電を開始した。戦車離れした加速と最高速が遺憾なく発揮され、横を駆け抜けていったセンチュリオンに肉薄する。
「よし、捉えた!」
スズキがすぐさま次弾を装填し、ホシノが照準の中心にセンチュリオンの後部ラジエーターを映し出す。あとは引き金を引くだけだ、というタイミングで突如としてセンチュリオンの姿がぶれた。
強引な超信地旋回によって背後に回り込まれたと気がつくことができたのは、その場には誰もいない。
「つれた」
着弾の衝撃によってポルシェティーガーが激しく揺さぶられる。後部のラジエーターが撃ち抜かれていたのはセンチュリオンではなくポルシェティーガーだった。
「っひえー、これは流石に想定外だ」
ツチヤの気の抜けた声のすぐ後に白旗が砲塔の天蓋から射出される。ほんの数秒の間に攻守を逆転されて撃破された事実を認識するまで、全員かなりの時間を要した。
「まるで忍者だね、ありゃ」
「うちの冷泉さんでも中々手こずりそう」
自動車部員たちが戦慄しながら漏らす悔しげな声を置き去りにしてセンチュリオンが次なる獲物を視界に捉える。
大丈夫。この距離ならもう外さない、と愛里寿は次弾の発砲を指示した。砲弾は彼女の狙い通り螺旋を描いて目標へと突き刺さった。主砲塔を撃ち抜かれたチハがぐるぐると回転しつつ沈黙する。わずか数十秒の間に彼女は大洗の主力2両を完全に手玉に取っていた。
「次は黒森峰の隊長と、プラウダの生き残り」
園内地図に素早く眼を走らせた愛里寿が次の指示を下す。しかしながらふと、彼女は周囲を見渡す行動を取った。何処からか聞こえるエンジン音。味方のものではない敵のもの。
「——まさか!」
一両、撃破されたポルシェティーガーの横を擦り抜けて車輌が飛び出してくる。互いの尻尾を加えるウロボロスのパーソナルマークが刻まれたパンター。さらに右前方から現れたのは第二次世界大戦の怪物、ティーガーを超える王たるティーガーⅡがこちらに照準を向けながら近づいてきていた。
「自分たちから仕掛けに来たのか」
愛里寿の読みでは逸見姉妹はそのままみほとカチューシャの救援に向かうか、西住まほと島田ミカのどちらかを撃破しに行く筈だった。それが何と、そのどちらも無視して愛里寿の前に立ち塞がっている。
「エリカ!」
ティーガーⅡが轟音とともに砲弾を吐き出した。もちろんそれをかわすことくらいならば愛里寿にとって造作もないこと。しかもカウンターを叩き込んで即座にティーガーⅡを撃破する余裕すらある。だが彼女はそれをしない。成せない。何故ならば猛チャージを仕掛けてくるパンターの動きを無視することができなかったからだ。
「くっ!」
疾いし上手い、と愛里寿は言葉こそ出さないものの、パンターの操縦手の技量に驚いた。いくら機動力に優れた中戦車といえども、島田流で鍛えに鍛えた自分たちのセンチュリオンに肉薄してみせるなど、中々考えられることではない。
「ナナ、右! 今、撃て!」
パンターの砲弾が僅かではあるがセンチュリオンの装甲に触れた。視界の端で少量の火花が血しぶきのように舞う。この試合初めての被弾に焦りこそしないが、それでも愛里寿は逸見姉妹の脅威度を一気に引き上げる必要があった。
「カリエ! 下がりなさい!」
センチュリオンがパンターを狙えばティーガーⅡが直ぐさま割り込んでくる。そんなティーガーⅡを撃破せんと狙いを修正してみればちょこまかと鬱陶しさ満点でパンターが絶妙な緊張と距離感を保って嫌がらせのように砲弾を叩き込んでくる。
やられた、と愛里寿は臍を噛んだ。
04/
カリエが提案した作戦は至ってシンプル——「本丸を最後まで残す必要はない。もう撃破できるならしてしまおう」だった。
大学選抜チームの統制が余りにも綺麗かつシステマティックで、その末端から叩いていけば本丸である島田愛里寿にたどり着けるような錯覚を覚えがちだが、あくまでこれは殲滅戦。撃破の順番などどうでも良く、尚且つ守るべきフラッグ車も存在しないために大胆な攻勢を仕掛けることも時には可能だ。ならば最大の脅威に今後なり得る島田愛里寿を早めに叩くことは理に適っているとエリカは直ぐさま同意を見せていた。
「あとは島田愛里寿の場所か。ダージリンの通信によればこの遊園地の外周に沿ってこちらの車輌を潰しに掛かっているようだけれど」
「外野フライと一緒だ。あっちが弧を描いて飛んでいるのならばこちらは最短距離で進めば良い。さっき報告では知波単と大洗の混成部隊はここに展開していると聞いた。幸い、大した遊具も見受けられないから障害物は踏み潰すか吹き飛ばすかして突入しよう」
「でもあんまり派手にやられると相手に感づかれるわよ」
「——感づいたところで逃げ出すようなタマじゃないでしょ。ただエリカ、正直彼女の技量はうちのみほ以上の可能性がある。何があっても私を一人にしないで」
カリエの言葉にエリカは眼を丸くした。ここはあんまり出しゃばりすぎるな、とか勝手なことはするな、とか言われるものだとばかり思っていたものだから、「一人にしないで」とは随分意外な言葉だった。
「折角こうやって帰ってきたんだ。まだまだ私はエリカと一緒にいたい」
全身の毛穴がぞわぞわした。やっぱり自分はこの子の姉なのだ、と声にならない歓喜が全身を支配する。いつかみほが言っていた、人をその気にさせる才能が確かにカリエには備わっているようだ。その証拠に心の何処かで感じていたちょっとした緊張感は既に霧散しており、今体中を駆け巡っているのは熱い高揚感だけ。
「いいわ。でもその代わり絶対ここで仕留めるわよ」
「もとよりそのつもり。徹底的に敵の四番をマークするのはこちらの常套手段だ」
センチュリオンが放ったのだろうか。聞き慣れない砲声が通り向こうから聞こえてくる。無線に耳を傾ければ大洗のポルシェティーガーが撃破されたようだった。残念ながら同時に狙われている八九式中戦車の救援には間に合わないだろう。
カリエがハンドサインをエリカに繰り出し、少しずつ離れていく。エリカもまた、センチュリオンの眼前に飛び出すことになる最短ルートを選択してティーガーⅡを進めていく。二人の予想通り、大洗の車輌を2両撃破したセンチュリオンが通り向こうにまだいた。あれが島田愛里寿か、とエリカが車長席の小柄な人影を認めたのと同時、カリエのパンターが背後からセンチュリオンに猛チャージを仕掛ける。
さすがと言うべきか島田愛里寿はぐるっと大回りに回ってパンターの体当たり染みた接近を回避した。ティーガーⅡの砲弾は残念ながら大外れだったが、しつこく食い下がるカリエのパンターが放った砲弾が僅かばかりセンチュリオンの装甲を削った。
——めちゃくちゃ強いけれども、やりようはある! 近接弾も増えてきた!
エリカとカリエ、二人の間に会話らしい会話は存在しない。互いの名を呼ぶか、それすらもどかしいときはハンドサインと目線の動きだけで互いの動きをフォローし合っていた。
パンターがセンチュリオンに一瞬だけではあるが接触した。ティーガーⅡの砲弾がセンチュリオンのスカートを吹き飛ばす。間違いない、愛里寿もその化け物染みた技量で逸見姉妹をいなしてはいるが、少しずつ追い詰められている。
やはり数的優位を保つのは正解だったと、エリカとカリエ、双子のどちらも共通して抱いた感触だった。
愛里寿の珠のような汗が土煙と砲煙に紛れて飛んでいる。カリエの滝のような汗が、乱雑に消されていた天蓋の数式をさらに滲ませた。エリカのしたたり落ちる汗の飛沫が、夏の日差しを浴びて熱くなっているティーガーⅡの天蓋に落ちて側から蒸発していた。
3両の戦車が複雑怪奇な円模様を描き始めていた。しかしながらその中でセンチュリオンが描く円だけが少しずつ綻びを見せている。
パンターの円が追い詰め、ティーガーⅡの円が進路を塞ぎつつあった。
「ストライク、バッターアウト」
カリエのパンターの砲口がセンチュリオンの背後を遂に捉える。エリカのティーガーⅡが絶妙なタイミングでセンチュリオンの進路を塞いだ。センチュリオンの砲口は逸見姉妹の丁度真ん中をまだ彷徨っている。
空が高い。雲が遠い。あの夏、最後まで取り切ることのできなかったストライクが、今カリエの手に収まろうとしていた。
05/
「カチューシャさん! 今です!」
側面を晒したティーガーⅠにメグミのパーシングが突進した。鈍重なドイツ戦車が履帯に不調をきたして動けなくなっていた。勝利を確信したメグミではあったが、ここに来て、一緒に逃げていたはずのT34/85の事を思い出す。
「しまった、プラウダ!」
突如としてパーシングの左側面の自販機が動いた。否、自販機が描かれた絵を被ったT34/85が動いたのだった。必中の位置に陣取ったT34/85が砲炎を吐き出す。
やや遅れて飛び出した白旗は彼女達の勝利を告げていた。
「よしっ! 大洗の看板、借りといて良かったわ! 中々やるじゃない、ミホーシャ!」
看板の背後に隠れ、擬態していたT34/85を操っていたカチューシャは喜色を浮かべながらみほへと笑いかける。
「まさかこんなものまで用意しているなんて、大洗の皆さんは本当に凄いです。どうりでこの試合中、Ⅲ突の皆さんを見かけないと思ったら、これで隠れていたんですね」
「あちらはこれで2両仕留めたみたいよ。これの擬態効果は結構馬鹿にならないわね。プラウダでも用意するべきかしら?」
「いえ、プラウダならば冬季迷彩が有効なのでは?」
そこまで言って、みほは自分がすらすらとカチューシャと会話を続けることができていることに驚いた。自分で言っていて悲しくなるが、エリカやカリエと比べて人見知りの気がある自分が他校の生徒——しかもプラウダの隊長と普通に打ち解けている現実が未だに信じられないままでいる。
「……ま、あんたたちに思うところがないと言えば嘘になるわ。でも今この時ばかりは水に流して共に勝利を目指す仲間よ。このカチューシャが味方になるなんて幸運、めったにないんだから!」
得意げに胸を張るカチューシャをみほは微笑ましく見守った。どことなくノンナから向けられている視線と同じものを感じ取ったカチューシャは「私の方が上級生なのよ!」と憤慨するが、みほの視線の色はそのままだ。
「ふん! まあ良いわ! 私の方がうわてだってことあんたにもそして——」
それまで喜色を浮かべていたカチューシャの視線が瞬時に鋭くなる。そして彼女がちらりと振り返った先にはみほとはまた違う、もう一両のティーガーⅠ。
「そこの姉にも知らしめてやるんだから!」
「お姉ちゃん!」
西住家、妹対姉。
その第3ラウンドが始まろうとしていた。
06/
「——パスボール。いや、これはホームスチールを食らった感じだ……」
「カリエ! あんた無事!?」
エリカの怒声が直ぐ近くで聞こえる。カリエはぐらつく頭を振りながら自車の損傷を落ち着いて確認した。
ひしゃげた履帯の上部装甲が転輪に食い込んでいる。
「幸いBTー42だったからこれくらいで済みましたが、センチュリオンにやられていたら脱落していましたね」
てこの原理で何とか装甲を引き剥がそうとしているナナが額についた大粒の汗を乱雑に拭った。パンターとティーガーⅡ、それぞれの乗員が総出で応急処置に勤しんでいる。
「しかしまさかあちらのお姉さんも飛び込んでくるとか、こればっかりは完璧に読みを外した。妹が少々追い詰められても我が道を行くタイプと思っていたのに」
カリエは愛里寿にとどめを刺そうとしたほんの数分前の出来事を振り返る。完全にセンチュリオンを砲口の先に捉えたその瞬間、カリエのパンターは何かしらの衝撃を受けて横滑りしていた。何事か、と視線を走らせてみればこちらに体当たりをかますBTー42の姿が
あった。
——応援に来たのか!
予想外の展開にカリエは咄嗟に言葉が出てこない。体勢を崩された今、センチュリオンがカウンターを叩き込んでくる。愛里寿の隔絶した技量ならばこの僅かな隙でこちらを撃破することなど朝飯前だろう。事実、宙を彷徨っていたセンチュリオンの砲口がこちらに流れ始めている。
——ごめん、お姉ちゃん!
その叫びが現実になされたのかはわからなかった。だが着弾の衝撃に身を固めたカリエはもっと非現実的な光景を目の当たりにする。あろうことかセンチュリオンの砲口はそのまま流れ続け、明後日の方角を再び向いたと思えば、全速力で車輌ごとこちらから退避していったのだ。しかも体当たりしてきたBTー42までもがそのセンチュリオンを護るかのように続いて撤退していく。
衝突の衝撃でぐらぐらしながら、カリエは呆気にとられてその光景を見ていた。
彼女を現実に引き戻したのは横付けしたティーガーⅡから飛び移ってきたエリカの声だ。
以上が、勝利目前の逸見姉妹に起きた出来事の顛末である。
少しばかり見通しに隙があったか、とカリエは己の策を反省した。そして次の手を打つべく隣に立っている姉の方を見て——、
「くそ、人の妹を好き勝手してくれて」
あ、ぶち切れてる。とカリエはエリカから一歩身を引いた。余りにも冷たい声色に周囲の乗員まで身を竦める。
「た、たぶんあちらも同じ事を考えているんじゃないかな」
カリエの咄嗟のフォローはエリカの一睨みで無に帰した。ナナが小声で「副隊長、もっと頑張って下さい!」と檄を飛ばすが、触らぬ姉に祟りなしと言わんばかりにカリエはさらに一歩身を引いた。
だが——、
「カリエ」
「はいっ」
点呼だけで引き戻される。エリカの眼前に立ったカリエはだらだらと汗を流しながら視線を宙に彷徨わせた。
「じっとしてなさい」
「はい、お姉ちゃん!」
ぎゅっ、と抱きすくめられる。強く強く抱きしめられる。余りにも力が強すぎて変な声が口端から漏れた。
「——こっちが勝ってると、全国に知らしめるわよ。何が島田姉妹か。熊本に逸見姉妹あり、じゃない、日本に、いえ、世界に逸見姉妹あり、と刻みつけてやるわ」
「う、うん。頑張ろうね」
上擦った声にエリカは気がつかない。いつの間にか周囲の乗員達は応急処置を終えて、触らぬ姉妹に祟りなしと全員車輌内に引き籠もっている。
「勝つわよ、絶対に」
意外なことに、その声はひどく優しげだった。
次回はお姉ちゃんパワー全開です。