黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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次回の終章で終わりです。


黒森峰の逸見姉妹 後編2

 試合後のベンチ。

 敗戦の屈辱も覚めやらぬその空間でエースとキャッチャーは向かい合っていた。

 エースは力なくベンチに腰掛け、こう零した。

 

「すまない、俺が息切れしたせいだ。お前のリードは完璧だった」

 

 それは違う、と否定するだけの勇気をキャッチャーは持っていなかった。

 何も言えないでいると、エースはさらに続けた。

 

「アウトローをあそこまで運ばれたんだ。俺の球威がまだまだ足りなかった」

 

 そんなことはなかった。

 スタンドに運ばれた球は、考え得る限り最高の球だった。

 ならば何故打たれてしまったのか。

 理由は至極単純だ。

 キャッチャーのリードが、打者に対する怯えが見抜かれていたに他ならない。

 でもキャッチャーはその事実を、打ち砕かれたエースの前で告げることはできなかった。

 ただ曖昧に「そうか」と笑って誤魔化すしかなかった。

 エースにお前のせいで負けたと責められるのが怖かったのだ。

 自分が臆病風を吹かせたから、チームが負けたのだと認めたくなかったのだ。

 

「……でも、お前とバッテリーを組んできた三年間は、今までの野球人生で一番楽しかった。感謝しているよ」

 

 これほど惨めな気持ちになったことは、今までに一度もなかった。

 エースの屈託のない笑みが、彼を何処までも追い詰めていった。

 キャッチャーはエースから逃げるようにベンチを後にした。エースは何も言わなかった。

 

 せめて彼がこちらを責めてくれれば、カリエのその後の人生はまた変わったものになっていたかもしれない。

 

 

1/

 

 

 エリカが率いる小隊と、プラウダの別働隊の戦闘は泥沼の様相を見せていた。

 3両のT-34を屠ることに成功していたが、随伴していたヤークトティーガー1両が撃破され、エリカのティーガーⅡも複数の砲弾によって装甲を抉られていた。

 

「くそっ、あんた達しつこいのよ!」

 

 ティーガーⅡのアハト・アハト砲が咆哮を上げる。生き残ったヤークトティーガーを狙っていたT-34がエンジンルームを撃ち抜かれて停車した。

 だがその陰から直ぐさま別のT-34がエリカのティーガーⅡに向かって発砲する。

 なんとか正面装甲で受け止めたが、その強烈な反動にエリカは激しく揺さぶられた。

 

「エリカさん、危ないですから中に!」

 

「駄目よ! ただでさえこっちは小回りきかないんだから常に相手を補足しないと!」

 

 エリカの言うとおり、ティーガーⅡの弱点は融通の利かない足回りにあった。超重装甲と攻撃力を誇る分、車重もまた破格であり、履帯が破損しやすいという欠点を抱えていたのだ。

 万が一この乱戦の中で履帯を破損してしまえば、それは致命的な隙になる。

 

「T-34/85 2両! 左側面!」

 

 だからこそエリカが常に肉眼で敵を確認し、その機動を予測してティーガーⅡを操っていた。死角に回り込まれないよう細心の注意を払い、随伴するヤークトティーガーとの連携を指示する。

 

「あんた達なんか模擬戦のみほやカリエに比べればまだまだなのよ!」

 

 縦列で接近していたT-34/85の先頭車両を撃ち抜く。だが当たり所が良くなかったのか、正面の防盾が砲弾を弾いていた。ただそれだけでエリカが焦ることはない。

 彼女は冷静に随伴するヤークトティーガーへ命令を下した。

 

「足が止まった! 後方のT-34/85を吹き飛ばして!」

 

 さすがは黒森峰と言うべきか、ヤークトティーガーの砲手もまた卓越した技量を持っていた。エリカの指示通り、いつの間にかT-34/85の側面に回り込んでいたヤークトティーガーが後方のそれを撃破する。退路を断たれたT-34/85が慌てて回頭するが、それはエリカの狙い通りだった。

 

「次弾、ってー!!」

 

 王虎の一撃がT-34/85の車体下部を吹き飛ばした。

 降りしきる豪雨の中、T-34/85が吹き出す黒煙と、撃破を知らせる白旗がはためいている。

 先ほどまでの激戦が嘘のような静寂が、エリカ達を包んでいた。

 

「はあっ、はあっ。はあっ」

 

 荒い息と火照った体を雨の下に曝して冷却する。

 エリカが気怠げに周囲を見回してみれば、動いている陰は随伴するヤークトティーガーだけだった。

 

「……どこへ行ったの?」

 

 おかしい、とエリカは疑問の声を上げた。

 確かもっとこちらに押し寄せてくる敵影があった筈。それなのに気がつけばあっさりと敵の波が引いていた。

 こちらの攻略を諦めたのだろうか。

 それなりに撃破されてしまったから、怖じ気づいたのだろうか。

 

「小梅。ヤークトティーガーは何か言ってる?」

 

「いえ、向こうも敵影をロストしたようです」

 

 何かがおかしいとエリカは周囲を見回した。ぽつぽつと木々が点在する林の中、ティーガーⅡとヤークトティーガーのエンジン音だけが鳴り響いている。

 

「……まさか」

 

 ふとその時、木々の向こう側で何かが光った。それがT-34/85とは比べものにならない砲煙だと認識したときには、ティーガーⅡの車体が浮き上がっていた。

 

「全速後退!」

 

 バウンドが落ち着いた瞬間、エリカが叫んでいた。

 だがヤークトティーガーがそれに従うことはない。彼女達は既に黒煙を吐き出しながら、車体を引っ繰り返らせていた。

 

「エリカさん、どうしたんです!?」

 

「KV-2よ! プラウダの奴ら、とんでもない怪物を持ち込んでいたわ!」

 

 慌てて後退したティーガーⅡの鼻先で特大の爆炎が打ち上がる。

 KV-2の152ミリ榴弾砲が炸裂したのだ。爆風は周囲の木々をなぎ倒し、ティーガーⅡを激しく揺らした。

 

「つっ、さっきの奴らも戻ってきた!」

 

 最悪なことに足の遅いKV-2を護衛するかの如く、3両のT-34がエリカ達の前方に展開していた。KV-2が1両だけならなんとか死角に回り込むことも出来たのだが、今となってはそれも叶わない。

 

「エリカさん、指示を!」

 

「とにかく後退よ! ここで囲まれたら一巻の終わりだわ!」

 

 ティーガーⅡのエンジンが唸りを上げ、エンジンが焼き切れる限界のところまでスピードを上げた。だがT-34の前進速度はそれを上回っており、徐々に距離を詰められていく。

 なんとか反撃のアハト・アハト砲を叩き込むが、ろくに狙いも付けられていないそれは濡れた地面を穿つだけだった。

 

「エリカさん、後ろ!」

 

 小梅の悲鳴が車内に響き渡った。

 慌ててエリカが振り返ってみれば、そこは大幅に増水した川だった。

 

「しまった!」

 

 プラウダの狙いを理解したエリカが舌打ちをした。

 最初からエリカをここで包囲することが、彼女達の狙いだったのだ。

 

「やってくれるじゃない……」

 

 憎まれ口を叩いても、内心には余裕がなかった。後方には増水した川。前方にはプラウダの怪物が座している。

 川を渡ろうにも、シュノーケル装備がなければエンストを起こして停止するのが目に見えていた。

 

「こんなところで!」

 

 苛立ちをティーガーⅡの上部装甲に拳を打ち付けてぶつける。

 KV-2の152ミリ砲がこちらを向いた。例えティーガーⅡの重装甲でも、直撃すれば一撃撃破は免れない。

 

「こんなところで負けるわけには行かないのよ! まだカリエのところにいかなきゃいけないのよ!」

 

 追い詰められたエリカが選択したのは徹底抗戦だった。

 包囲を完成させた油断があったのか、前に出すぎていた1両のT-34/85をアハト・アハト砲で吹き飛ばす。けれども次弾装填が間に合わない。直ぐさま残されたT-34がエリカに狙いを付け、彼女の進行方向を穿った。

 急停止を命じてなんとか直撃はかわしたものの、そこはKV-2のキルゾーン真っ只中。

 

「あっ……」

 

 目が合うというのはこのことだろうか。

 まっすぐこちらを見据えるKV-2の砲口をエリカは見た。

 車内にいた小梅が危険だと、エリカを中に引き摺り込む。

 砲声が鳴り響いた。

 KV-2が奏でる超弩級の砲声だ。

 ティーガーⅡの乗員達は来たるべき衝撃に向けて、身を寄せ合った。

 小梅も引き摺り込んだエリカをしっかりと抱きしめていた。

 

「……?」

 

 だがいつまで経っても衝撃は訪れなかった。

 爆音がどこか遙か遠いところで炸裂している。

 まさか外したのか、とエリカはおそるおそるキューポラから外を伺った。

 

「えっ?」

 

 口から漏れたのは、なんとも間抜けな声。

 エリカの視線の先にあったのは足下を撃ち抜かれて、車体を大幅に傾けさせたKV-2だった。

 ぬかるんだ地面に履帯がはまり込んで擱座している。

 

 まさか自滅したのか?

 

 そう思い至るが、鼻をつく火薬の臭いがその可能性を否定させた。

 エリカはもう一度川を振り返る。

 火薬の臭いに身に覚えがあったからだ。

 これまで何百も、何千も嗅いできた、自身のパートナーの香り。

 

 そう、彼女の視線の先にあったのは――。

 

「カリエ!」

 

 川から上半身を覗かせた、愛しい妹の姿だった。

 

 

2/

 

 

「カリエ、防水シールが浸水し始めたわ。そろそろ上にでないとエンジンすら掛からなくなるわよ」

 

 ぐらぐらと揺れる車内で、装填手の上級生がカリエにそう報告をした。

 キューポラから外の様子を伺っていたカリエは地図の上に描かれた川を指でなぞる。

 

「大丈夫。もうすぐこの川が大きく蛇行する。そこに行けば川岸に乗り上げるはず」

 

「そう。なら良いけれど。……で、この作戦は隊長の指示なの?」

 

「この作戦?」

 

 首を傾げるカリエに上級生は疑問をぶつけた。

 

「わざと川に落ちて敵の背後まで川の中を通っていく作戦よ。いくら黒森峰で防水装備を試験してきたとはいえ、いくらなんでも無茶が過ぎるわ」

 

 そう。カリエが提案した作戦というのは、川の中を伝って敵を強襲するという困難にも程がある作戦だった。

 もちろん、そのような作戦をまほが提案する筈がなく、カリエは首を振って否定した。

 

「んなわけない。むしろ最初は止められた。でもある条件を呑むことで許可が下りた」

 

「……ある条件?」

 

 そう、とカリエが頷く。彼女は飛沫を上げる川の終点を見据えながらこう言った。

 

「私たちの上陸地点にエリカを配置すること。必ず姉妹で背後を突くこと。これが隊長の出してきた条件。もちろん私はそれを二つ返事で呑んだ」

 

「つまりは、上陸時に万全のサポートが出来るよう、隊長が図ってくれたのね」

 

「そうかもしれない。でも、私は別の意味を感じた」

 

 カリエは周囲の荒れ狂う水を見た。

 不思議と恐怖感はあまり感じない。

 川に落ちるまでは震えが止まらなかったのに、今は何故か落ち着いていた。

 いや、何故かはわかっている。

 それは――。

 

「隊長はきっと、仲直りしろって、言いたかったんだと思う。やっぱりあの人はすごい。エリカがこの先で待っているとわかれば、私が大丈夫なことを私よりも知っていた」

 

 カリエは笑っていた。

 苦手なはずの、決して相容れない筈の水に囲まれながら、彼女は笑っていた。

 

「前の時は一人で悩んで、一人で逃げて失敗した。お互いにわかり合っている気になって、何も理解していなかった。でも今回は違う。私たちは姉妹だ。しかも双子だ。この世でたった一つの特別な肉親なんだ。だから大丈夫。もう失敗しない。もう逃げない。だって一人じゃない。姉妹で、黒森峰の逸見姉妹として私たちは戦っている」

 

 パンターの揺れが突如停止した。それが上陸の合図であることは、既に乗員全てで示し合わせられていた。

 カリエが周囲を伺う。

 すると奇遇なことに、直ぐ前方に姉の乗車するティーガーⅡの背面が見えた。

 ただ姉の置かれている状況は、少々厄介なものらしい。

 でも心配や懸念はなかった。

 

「……助けに来たよ。エリカ」

 

 

3/

 

 

 エリカやカリエにとって幸運だったのは、プラウダが彼女達が想像する以上の混乱に包まれていた事だった。

 まさか川の中から撃たれたと思わないKV-2の乗員は足回りのトラブルを想像し、周囲のT-34も同じ思考を辿っていた。

 端的に言ってしまえば、カリエの援軍に気がつかなかったのである。

 これにつけ込んだのがエリカだった。 

 彼女は直ぐさま前進を命じると、動きを止めていたT-34に思いっきり体当たりをした。三十トン近い重量差に押されて、T-34が吹っ飛ぶ。

 混乱の頂点に達した無事なT-34が破れかぶれに発砲するが、その隙を川中のカリエが見逃さなかった。

 

「よくやったわ!」

 

 側面を打ち抜かれたT-34の脇を通り抜け、吹っ飛ばされたT-34にティーガーⅡが砲塔を押しつける。例え傾斜装甲で強固な防御力を誇ろうと、アハト・アハト砲の接射にT-34が耐えられるはずもなかった。

 

「落ちなさい!!」

 

 瞬く間に随伴戦車を撃破されたKV-2が慌てて後退を始める。だが履帯のダメージを忘れていたのか、急な後退のせいで履帯が千切れ飛んでしまった。

 そうなってしまえば、KV-2は逸見姉妹の餌食になるほかない。

 

「「撃てっ!」」

 

 二人の声が重なった。全く同じ声で唱えられた宣誓は、KV-2の車体下部を連続で穿っていた。

 片方だけなら耐えられたであろう砲撃だが、同じ箇所を連続となるとそうもいかない。

 一瞬の沈黙ののち、KV-2の砲塔から白旗が揚がる。

 

「やりました!」

 

 小梅と、その他の乗員の歓声が上がる。

 それは無理もないことだった。絶体絶命のピンチから一転、一気に形成を逆転したのだ。

 やはり逸見姉妹はすごい、と小梅が尊敬の眼差しを車長席に向けたとき、エリカは既にそこにいなかった。

 ならば何処へ? 

 と小梅がキューポラから外へ身を乗り出してみれば、一目散にパンターへ駆け寄るエリカの後ろ姿を見つけた。

 

「エリカさん!」

 

「小梅たちはそこで待機!」

 

 川岸まで駆け寄ったエリカが声を張り上げる。

 

「馬鹿! 危ないから早く上がってきなさい!」

 

「うん。……うん?」

 

 パンターのキューポラから顔を覗かせていたカリエが妙な声を上げた。

 そしてすぐに車内に顔を引っ込めた。

 やがて数秒経過した後、今度は顔の上半分だけをこちらに覗かせた。

 

「エリカ」

 

「何よ!」

 

「エンストした」

 

「はあっ!?」

 

 エリカが素っ頓狂な声を上げたと同時、パンターの車体がぐらついた。何事か、とカリエが視線を足下に走らせれば、流れに負けて徐々に車体が流されていた。

 

「まずい、流される」

 

「早くエンジンを掛けて!」

 

 エリカの悲鳴が豪雨の中響き渡った。車内では必死に格闘しているのだろう。セルモーターの音が雨音に空しく消えていく。エンジンの火が点火されることはない。

 

「っ、待ってなさい!」

 

 川岸に立っていたエリカが慌ててティーガーⅡに戻った。そして、車体後部に備え付けられていた牽引用のワイヤーと麻のロープを引っ張り出す。

 

「エリカさん!」

 

「これ、ティーガーⅡにくくりつけて!」

 

 ワイヤーとロープの端を小梅に放り投げ、エリカは再びパンターに走った。

 見ればパンターは川の中程まで流されており、車重でぎりぎり持ちこたえているような状態だった。

 

「エリカやめろ!」

 

 姉が何をしようとしているのか察したのだろう。

 カリエが滅多にあげない怒声を上げた。けれどもエリカは意に返さない。

 己の胴体にロープをしっかり結びつけると、牽引用のワイヤーを片手に、躊躇することなく川に飛び込んだ。

 

「エリカッ!!」

 

 今度はカリエの悲鳴が響き渡った。彼女は半狂乱になりながら「エリカ、エリカ」と叫び続ける。中から乗員達が彼女を抑えていなければ、それこそ飛び込みかねない勢いだった。

 

「だからエリカって言うな!」

 

 ざばっ、と水中から手が伸びた。

 慌ててカリエがその手を取ると、ずぶ濡れになったエリカがパンターの車体をよじ登ってきた。

 しっかりと牽引用のワイヤーを手にした彼女は、垂れた前髪を鬱陶しそうにかき上げる。

 

「帽子、流されたわ。後で隊長に怒られるわね」

 

「エリカぁ!!」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃに顔を歪めたカリエがエリカに抱きついた。それを難なく受け止めたエリカはよしよし、と彼女の頭を撫でた。

 

「よしよし。もう大丈夫よ」

 

「死んだかと思った! エリカが死んだかと思った!」

 

「馬鹿ね。あんたをおいて死ぬわけないでしょう? 危なっかしくて見てられないもの」

 

 それはどっちのほうだ、とカリエは言葉にならない声を上げた。

 エリカの線の細い体を、彼女は決して離すまいと強く抱きしめる。

 

「私はお姉ちゃんだからね、いつもあんたを迎えに来てあげる。あんたが前に進めないときは私が引っ張っていってあげる。でもそれは、そんなことができるのは、あんたがこうして元気に生きていてくれるからよ」

 

 ついこの間の喧嘩が嘘みたいに、姉妹は堅く抱き合った。

 

「それに、あんたは覚えてないかもしれないけれど、こうして迎えに来てくれたのは、あんたの方なのよ」

 

「へっ?」

 

 心当たりの全くないカリエが素っ頓狂な声をあげた。

 エリカは苦笑を一つ零すと、自身のタンカースジャケットの袖でカリエの汚れた顔を拭ってやった。

 

「小学生の時ね、私がくだらないことで虐めを受けたとき、あんたが学校まで迎えに来てくれたのよ。あんなに雨が駄目だったあんたが、一人で私を迎えに来てくれた」

 

 奇しくも同じ雨の中、エリカは微笑む。

 

「その時からよ。あんたを守っていこうと誓ったのは。あんたの姉として悔いのないように生きていこうと考えたのは。ありがとう。カリエ」

 

「……お姉ちゃぁん」

 

 カリエの感情が決壊した。

 わんわんと声を上げて泣き、涙をまき散らした。

 エリカはそれを優しく抱き留め、背中をそっとさすってやった。

 

「……さあ、行きましょ。私たちはまだまだ戦えるわ。私はあんたがいる限り負ける気がしないもの」

 

「それはこっちも同じ。エリカ」

 

「こら。エリカって言うな」

 

 カリエは嬉しかった。

 こちらを軽く小突いてくる姉の優しさが。

 車内からそっと見守ってくれている乗員達の視線が。

 川岸で牽引の準備を始めてくれている小梅たちの頼もしさが。

 

 何より、仲間と共に戦えるこの人生が、カリエは嬉しくてたまらなかった。

 

 

4/

 

 

 カチューシャは自軍の配置と黒森峰の配置に違和感を感じ始めていた。

 まほ率いる本隊と交戦を始めて二時間弱。

 両者ともにそれなりの損害を出していたが、大勢を決するような展開にはまだまだ至っていなかった。

 まほとカチューシャ、それぞれの巧みな用兵が互いの決定打を阻害していたのだ。

 

『カチューシャ。黒森峰のフラッグ車が本隊にもう直ぐ合流します』

 

 本隊から離れていたノンナの報告に、カチューシャは耳を傾ける。

 

「……カリエ車の詳細は?」

 

『わかりません。運営に救助されたのか、それとも流されたのか。この雷雨さえやめば無線で確認も取れるのですが』

 

 がりっ、とカチューシャは爪を噛んだ。

 それは己に対する苛立ちの表れだった。

 

「……別に川底へ落とすつもりはなかったのよ。ただ足を止めてくれれば、ただ怯えて周囲の味方の足を引っ張ってくれればそれでよかったのに」

 

 弱々しい声は、幸いなことに雨音と砲声に邪魔されて、周囲の乗員に聞き取られることはなかった。

 カチューシャは別にカリエのことを嫌っていたわけではない。

 むしろライバルとして高く評価していたからこそ、彼女を封じ込める戦法を決行したのだ。

 それが想像以上の惨事を引き起こしたことに、彼女は若干の後悔を滲ませていた。

 

『……カチューシャ、彼女を川に叩き落としたのは私です。カチューシャが気に病むことはありません。もしそのことでご立腹ならいかようにでも罰を受けます』

 

 そんなカチューシャの心境を感じたのか、ノンナがすかさずフォローを入れた。 

 だがそれは今のカチューシャには逆効果だった。

 

「わかったような口を聞かないで! カチューシャは、カチューシャは別に落ち込んでなんかいないわ! そうよ、川に落ちた愚図なカリエが悪いのよ!」

 

『……差し出がましい口をきいて申し訳ありませんでした』

 

 ノンナが謝罪し、沈黙を保ったのを見てカチューシャはその表情を崩した。

 違うの、そんなことを言いたかったんじゃないのと口を開き掛けるが、内心に燻るプライドがそれを許さなかった。

 小さな暴君は、暴君たり得なければプラウダに君臨することを許されないのだ。

 だからこそ、口から突いて出た言葉は内心とは正反対のものだった。

 

「ええ、ノンナは口出しをしないで。私の命令だけを聞いていれば良いの! そうしたら必ずプラウダに勝利の栄光をもたらしてあげるわ!」

 

 精一杯の強がりは果たして伝わったのだろうか。

 ノンナからの返答がなかなかないことにカチューシャがヤキモキし始めたとき、明らかに黒森峰の砲撃の密度が上がったことに気がついた。

 キューポラから慌てて顔を出したカチューシャは遠くに見える黒森峰の本隊を睨む。

 

「ふん! ついに西住妹の凱旋ということね! 目に見えて士気なんかあげちゃってむかつくったらありゃしない!」

 

 これは残念ながら本心から出た言葉だった。

 何故なら目の前にいるまほやみほのカリスマが、エリカとカリエの人望が羨ましかったからだ。

 

「そうよ! カチューシャがあんたたちみたいな甘い奴らに負けるわけにはいかないのよ! なによ、なによ! みんなしてカリエを守っちゃって! みんなしてあいつを大切にして! カチューシャは誰もそんなことしてくれないのに!」

 

 カチューシャは己の立てた作戦に苛立つという矛盾を抱えていた。

 彼女は黒森峰の弱点を突いたつもりでいたが、それと同時に己の自尊心まで傷つけていたのだった。

 それに気がつかないカチューシャは涙目ながらに、全軍へ指示を飛ばす。

 

「黒森峰のフラッグ車が合流したわ! みんな、一斉に包囲しなさい! ここで黒森峰を叩きつぶすわよ!」

 

 

5/

 

 

「みほ、ご苦労だった。どうやら無事、カリエはエリカと合流したようだ」

 

「……よかった。ほんとうによかった」

 

 胸を撫で下ろし、車長席にへたり込むみほを見てまほは苦笑した。

 

「安心するのはまだ早いぞ。カリエの決死の強襲作戦なんだ。ここで奴らに気取られては全てが無駄になる。私たちはこれよりプラウダの本隊に全面攻勢をしかける。カチューシャがその頭脳を回転させる隙を与えるな」

 

 うん、とみほは力強く頷いた。

 まほは頼もしい妹を隣に、喉元のマイクを抑える。

 彼女が全軍前進の号令を掛ければ、黒森峰の獣たちは一斉に獲物へ飛びかかるだろう。

 だがまほは直ぐにはそうしなかった。

 ふともう一度、隣の妹を見つめた。

 

「みほ、一つだけ聞いて良いか?」

 

「え? 何? お姉ちゃん」

 

 みほは困惑した。何故なら目の前の姉が自分には中々見せない、少し迷ったような表情をしていたからだ。

 あの冷静で、何事も即断な姉が二の句を告げないでいる。

 いつものみほならそんなまほの言葉を待つか、姉のそんな表情を見なかったことにしていただろう。

 だがエリカとカリエの絆を目にしていたみほは一歩だけ踏み出していた。

 

「何でも言って。お姉ちゃん。私、カリエさんみたいに頭も良くないし、エリカさんみたいに前向きではないかもしれない。けど、お姉ちゃんのことは二人に負けないくらい大好きだよ」

 

 驚いたのはまほだった。

 彼女は目の前のみほが昔ながらの活発さを取り戻したのか、と錯覚した。

 それくらい、みほの言葉と表情は力強かった。

 けれどもそうでないくらい、まほは理解している。

 流れ過ぎた時間は決して元には戻らない。妹が、昔に戻ることはもうない。

 ただ、成長することは出来る。

 黒森峰の、西住のみほとして一歩前へ踏み出しているのだ。

 みほは、妹は黒森峰に来て初めて、己を主張していた。

 

「そうか。なら私も安心して聞けるな」

 

 穏やかに笑ったまほが問うた。

 

「みほ、戦車道は楽しいか?」

 

 まほからしてみれば、もう答えのわかっている問いだった。

それでも聞いておきたかった。みほの言葉で答えを聞いてみたかった。

 そうすればプラウダの車両がどれだけ現れようとも、決して負ける気がしなかった。

 みほもそんな姉の真意を見抜いているのか、とびきりの笑顔で答えた。

 

「決まってるよ、お姉ちゃん。こうしてみんなで頑張る戦車道が楽しくないわけがないよ」

 

「それは私もだ。――なあ、みほ。前進の宣言を頼む。ここにいる仲間全てに聞こえるような、そんな宣言だ」

 

 まほの言葉を受けてみほはマイクをしっかりと手で押さえた。

 周囲に展開する黒森峰の仲間に、そしてこちらに向かってきているであろう逸見姉妹にはっきりと聞こえるように。

 

「みなさん、パンツァー・フォー!!」

 

 

6/

 

 

「張り切ってるね。副隊長」

 

 ガタガタと揺れる車内で、上級生が笑った。

 

「いやー、戦車道はいいわね。大学に行ってももう少し頑張ってみようかな」

 

 砲弾を片手に、屈託のない笑みを浮かべる上級生。

 カリエはそんな上級生に疑問の声を上げた。

 

「……ルミ先輩って高校でやめるつもりだったんですか?」

 

「おやや、カリエに初めて名前で呼ばれたかも。まあ、そうね。私が継続高校からこっちに転校してきたのは知ってる?」

 

「ええ、まあ」

 

「私、継続ではいっぱしの車長もやってさ、それなりに自信持ってたんだ。でも黒森峰に来たら万年補欠で、三年になってようやく装填手になれたわけ。正直、周囲の才能に絶望してた」

 

 カリエはそんなルミの心境が痛いくらいに理解できた。 

 前世での自分がそうだったのだから。

 

「でもさ、カリエの指揮を近くで見てていろいろ勉強してるとさ、やっぱ諦めきれないんだよね。戦車道。それに今日臨時とはいえ車長をやって、それがすっごく楽しかった。まだまだやりたいと思ったんだよ」

 

「先輩なら、出来ますよ」

 

 気がつけばカリエはそんなことを口走っていた。

「え?」とルミがカリエを見上げる。

 

「ルミ先輩なら必ず素晴らしい車長になれます。ポンコツで、ドジで、脳天気な私をいつも助けてくれた先輩なら必ず日本を代表する車長になれます。――それに先輩は私と違って諦めていない。一度目から諦めていない」

 

「そっか。ありがとう。カリエがそう言ってくれるんならまだまだ頑張れそうだよ。――でも、まずは目の前の優勝が欲しいかな?」

 

 悪戯っぽく笑うルミにカリエも笑った。

 

「そうですね。私もMVPが欲しいですし。――エリカ、本隊までどれくらい?」

 

 言葉は直ぐさま返された。

 

『あと四十秒! カリエ、チャンスは一度よ! プラウダの本隊のど真ん中に出るんだから覚悟しなさい!』

 

 エリカの言葉にカリエは気を引き締める。

 彼女達の進む森林が、今途切れようとしていた。

 

「見えた! 目標T-34/85! フラッグ車を叩く!」

 

 豹と王虎の姉妹が咆哮を上げた。

 

 

7/

 

 

 カチューシャは焦った。それは自分が意図しないタイミングで乱戦の様相を呈していたからだ。

 彼女の予想では、もっとまほは手堅く駒を進めてくると踏んでいた。

 それがどうだ?

 黒森峰の車両達はそれまでとは想像も付かないほど変則的にプラウダの本隊へ肉薄している。

 敵味方入り交じった戦場では、誰がどこにいるのか最早把握できなくなっていた。

 

「何でよ! 何でよ! どうして誰もカチューシャの言うことを聞いてくれないの!?」

 

 実際はカチューシャの指示を仰げないほどに、プラウダの車両が混乱しているだけだったが、今の彼女にはそこまで推し量る余裕がなかった。

 

「どうして急にこんな……」

 

 ぐっ、と戦車帽の鍔を握りしめてカチューシャは弱音を吐いた。

 するとその時、黒森峰の車両の先頭にフラッグ車を指し示す青い旗がはためいているのが見えた。

 何事か、と目をこらしてみれば、それはみほの乗車するティーガーⅠだった。

 カチューシャに電撃が走った。

 

「そうか、まほの奴、指揮権を妹に渡したんだわ! 自分の指揮が私に研究されていることを知って……」

 

 それと同時、カチューシャは羨ましいと思った。

 指揮権を委ねてもいいと考えることの出来る、信頼できる仲間を持っているまほを羨ましいと思った。

 それはカチューシャがどれだけ欲しても、永遠手に入れられないものだ。

 この小さな体躯では決して願うことも出来ない、絶対の絆。

 

「見せつけてんじゃないわよ!」

 

 カチューシャが爆発した。

 先頭のみほのティーガーⅠに苛烈な砲撃を叩き込んだ。みほも己が狙われていることに気がついて、カチューシャのT-34を常に視界に捉えた。

 

「あんたたちなんかに負けたくないの! カチューシャは折角ここまで来たの! こんなところで負けられないのよ!」

 

 散々馬鹿にされてきた。

 散々蔑ろにされてきた。

 散々無視されてきた。

 

「だからカチューシャを虐めないでよ!」

 

 叫びには涙が混じっていた。

 その涙が皮肉なことに、彼女の指揮を鈍らせた。

 みほのティーガーⅠが死角に回り込んでいる。砲塔が捉えられない。

 

 やられた。

 

 こちらを見据えるみほの目線と、ティーガーⅠの照準にカチューシャは諦めの言葉を吐いた。

 

『させません!』

 

 カチューシャの無線に叫びが轟いた。カチューシャも聞いたことのない、ノンナの叫びだった。

 気がつけば、カチューシャとティーガーⅠの間に、ノンナのIS-2が割り込んでいた。

 ティーガーⅠの主砲が、IS-2の極近距離で炸裂した。

 

「ノンナ!?」

 

 一撃で撃破されたIS-2が黒煙を噴き上げる。

 カチューシャとみほは呆気にとられた。復活が早かったのは、切り替えに優れていたのはカチューシャだった。

 

「砲手、ティーガーⅠを!」

 

 直ぐさま反撃の砲弾をティーガーⅠに叩き込む。ただみほの反応も、カチューシャの予想を超えていた。直ぐさま急発進したみほはカチューシャを深追いすることなくその場を離れた。

 取り残されたカチューシャはノンナに必死に呼びかけた。

 

「ノンナ! ノンナ! 返事をしなさい!」

 

『申し訳ありません。カチューシャ。やられてしまいました』

 

「馬鹿、そんなことはどうでもいいの! ノンナは無事なの!?」

 

 無線の向こう側で、ノンナがくすりと笑っていた。

 

『やはりあなたはプラウダに必要な方です。私の小さな暴君、カチューシャさま』

 

 何を言っているのだ、とカチューシャは怒りをあらわにした。

 

「訳わかんないことをいってるんじゃないわよ! 私なんか黒森峰の強襲も予想できなかった間抜けな指揮官よ!」

 

『いいえ、カチューシャさま。あなたは我がプラウダへ新しい風を吹き込むお方です。あなたの地吹雪は我々の古き因習を吹き飛ばし、さらなる栄光をもたらして下さるでしょう』

 

 ノンナの穏やかな言葉にカチューシャは息を呑んだ。

 そして、震える声色でこう問うた。

 

「なら、ノンナは私についてきてくれるの? こんな無様を曝した私をいつまでも支えてくれる?」

 

 小さな暴君にふさわしくない、年相応の少女の言葉。

 だがそれをノンナは否定しなかった。彼女は全肯定した。

 

『あなたが望む限り、いつまでも』

 

 言葉はそれだけ。

 だがカチューシャにとっては十分だった。

 十分すぎる、再起の言葉だった。

 地吹雪のカチューシャ。

 彼女は小さな暴君だからこそ、プラウダの長たり得る。

 涙をごしごしと拭い、戦車帽を目深にかぶり直したカチューシャが無線を引っ掴んだ。

 

「プラウダの全隊に告ぐわ! 敵は私たちの混乱を誘っている! 今すぐ私の元に集まりなさい! 後方のフラッグ車も同じよ! 全員で体勢を立て直すわ!」

 

 返答は期待していなかった。

 それでもここからプラウダがやり直せるのならば、とカチューシャに出来る最後の指示だった。

 けれどもプラウダの隊員達はカチューシャを裏切った。

 敬愛する小さな隊長に、あらん限りの歓声を送ったのだ。

 

「「「ウラアァァァァァァァァァァ――!!」」」

 

 地鳴りのような応答にカチューシャは耳を押さえた。

 だが彼女は笑っていた。

 

「うっさいわね! 無線機が壊れちゃうじゃない! 無線機が壊れたら、あんたたちの声が聞こえなくなるのよ!?」

 

 

8/

 

 

「カリエ、敵フラッグ車が本隊に合流する!」

 

「わかってる。私に任せて!」

 

 単独行動をしていた筈のプラウダのフラッグ車がカチューシャの元へ集まりだしていた。

 エリカが焦りの声を上げるが、カリエは落ち着いて指示を出す。

 

「              」

 

「            !!」

 

 その時の二人の会話を知っているのは、当の本人たちだけだった。

 豹と王虎が奏でるエンジンの協奏曲が、二人の声をかき消したからだ。

 けれども二人は、逸見姉妹は互いのやるべきことを理解していた。

 通じ合っていた。

 

「行けえええええええええええ!!」

 

 カリエのパンターが急加速する。エンジンから煙を吹き出しても、決して速度は緩めない。

 白煙をまき散らしながらも、逃げるプラウダのフラッグ車――T-34/85に並んだ。

 だがパンターの主砲は真横を向いていない。少しでも速度を稼ぐために、空気抵抗を減らすために正面を向いていた。

 ならばエリカのティーガーⅡか。

 否。

 エリカの距離からはまだT-34/85を確実に撃破出来なかった。

 チャンスは一度きり。

 一度逃してしまえば、速力で勝るT-34/85に逃げられてしまう。

 

「エリカ!!」

 

 だからカリエは考えた。

 逃げるフラッグ車をどう押しとどめれば良いのか。どうやって足を止めれば良いのか。

 エリカのティーガーⅡが照準を定めた。

 エリカが砲手の肩を、一瞬の間のあと、叩いた。

 

 ガンッ!!

 

 ティーガーⅡが撃ち出した砲弾がパンターの右履帯を吹き飛ばした。

 それは丁度、パンターとT-34/85の間の履帯だった。

 エリカはT-34/85の履帯を狙わなかった。何故なら、T-34/85にかわされることがあっても、信頼する妹ならば必ず受けてくれると信じていたからだ。

 殆ど最高速度で前進していたパンターが、片足を失ってスピンする。

 スピンした車体は逃げるT-34/85を巻き込んで、その場に急停車した。

 パンターの砲口が、殆どゼロ距離でT-34/85の装甲に張り付いた。

 

「カリエ!」

 

 砲撃音が一つ。

 高らかと鳴り響いたパンターの雄叫びは、黒森峰とプラウダ、それぞれの隊員全ての耳へと届いていた。

 


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