北海道からの帰りは、今となっては懐かしさすら感じさせる黒森峰の学園艦だった。
これでもか、と並べられたソーセージに芋料理、そしてノンアルコールビールに満たされた戦車道格納庫。
その中心には隊長たる西住みほが立っている。周囲の熱気は今にはち切れんばかりになっており、あとは号令一つで今日一日、彼女達は淑女であることをかなぐり捨てることになるだろう。
「えと、みなさん。本日は本当にお疲れ様でした。無事私たちは勝利を収め、大切な仲間を取り戻すことができました」
全員の視線がある一点に注がれる。逸見エリカという特大の防波堤の横でカリエは困ったように苦笑を漏らしていた。
みほも一瞬だけそちらに視線を向けるとさらに言葉を重ねる。
「私たちは一度負けました。けれども王者であるという自負は失っていません。敗北は私たちをさらに強くしてくれました。それは苦渋の経験でもあり、私たちの絆の再確認でもあります」
みほがカリエに歩み寄る。そしてカリエが持っていた空のグラスになみなみとビールを注いだ。あとはあなたの役目ですと言わんばかりに、演台へと突き飛ばされる。
「やはり最後の言葉は私たちの大切な副隊長から頂きましょう」
ぶん投げられた、とカリエが眼を剥いた。エリカは当然と言わんばかりに鼻を鳴らし、小梅はあらあらと微笑みを零す。ナナだけが小声で「頑張って下さい!」とエールを送っていた。
ノーサインの牽制球は本当に危ないと、声にならない呻き声を漏らす。
冷や汗を滝のように流すカリエが正面を見据えた。
感謝の言葉、謝罪の言葉、歓喜の言葉あらゆる感情が混ざり合って渋滞している。
本当にいろいろなことがあった。辛いことも苦しいことも楽しいことも喜ばしいことも。
口が思うように動かない。
頭が真っ白になって、数秒の沈黙が続く。
前世の悪い自分が鎌首をもたげた。
もうやけくそだった。ビールも揃って祝い事ならばこれしかないだろうと身体を動かす。
それはすなわち——、
一人コップに注がれたビールを一息であおった。黒森峰の隊員たちが呆気にとられたのは僅か数秒のこと。直ぐさまみほとエリカが手にしていたビール瓶を奪い取ると、ノンアルコールで何故か赤ら顔をつくったカリエが声を張り上げた。
「みんな本当にありがとう! 大好きだ! とにかく、やった! すごい! 見事!」
ビールのシャワーがみほとエリカの顔面を直撃した。ナナが歓声をあげ、小梅が声にならない悲鳴を上げた。
ぽたぽたと、身動き一つしないみほとエリカの顔面からビールがしたたる。
ああ! なんてことを!
今日は血の雨が降るぞ!
副隊長が腸詰めにされる!
ティーガーⅡの砲身に吊されるぞ!
いや、再びの左遷だ! 次はプラウダに更迭だ!
プラウダの隊長の肩車係にされるぞ!
我々の副隊長をお救いしろ! と誰かが音頭を取った。
黒森峰の隊員たちが動きを再開する。我先に、と狼藉を働いたカリエに殺到し、手にしていたビールをぶちまけた。
溺れる! 溺れる! と天に手を伸ばす大馬鹿者をもみくちゃにして、いつの間にか胴上げにまで発展していた。
「あの、みほさん。エリカさん……」
未だ指一つ動かさないみほとエリカに小梅が声を掛ける。歓声を上げていたナナはいつの間にか逃げ出して胴上げの輪の中に入り込んでいた。
薄情な後輩に恨み言を吐き出しつつも、小梅は「久しぶりの懇親会ですから」となんとか言葉を絞り出した。
「みほ」
「はい。エリカさん」
抑揚のない声がこんなにも恐ろしいとは。小梅は一刻も早く逃げ出したくなった。だがエリカの手がすっと小梅の背後に回され、正面にみほが立つ。
二人ともビール臭かった。
「やったわね!」
「はい! やりとげました!」
いつの間にか手中にあったビールが小梅の前と後ろの襟からどばどばと注がれた。悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべる二人は、涙目で身を捩る小梅にビールを浴びせ続けた。
「小梅! 本当にありがとう! あなたのお陰よ! みほ、やっぱあなた天才だわ! あのまほさんに勝つなんて!」
「エリカさんだって最後までお疲れ様でした! 私、あなたとチームメイトで本当に良かった! 小梅さんもエリカさんを救ってくれて本当にありがとう!」
「もー! 二人がかりなんて卑怯です!」
そこから先は呑めや騒げやの混乱の極みだった。カリエはもう乾いているところがないくらいビール漬けにされ、お腹がいっぱいとどれだけ訴えても口の中にソーセージを詰め込まれ続けていた。
みほがケラケラと見たことがないくらい笑い、エリカがナナの肩を抱いて上機嫌に連れ回す。小梅が「もーっ」と可愛らしく怒れば、隊員達からどっと「梅ちゃんせんぱーい!」と黄色い声が飛んだ。
その日は深夜遅くまで、戦車道倉庫から喧噪が止むことはなかった。
01/
翌日、カリエは学園艦を降りて熊本の実家を目指していた。熊本市の郊外にある閑静な住宅街。そこにエリカとカリエの生家がある。エリカはいろいろ後始末があるから、と学園艦に残っていた。カリエ一人が最低限のの荷物を背負って帰宅の路をつらつらと辿っていく。
「——ただいま」
玄関を開ける。整理整頓が行き届いた小洒落た玄関だ。ジュニア時代にエリカと獲得した小さめの戦車道トロフィーがいくつか飾られている。嗅ぎ慣れた実家の匂いというものに包まれながら、カリエは靴を脱ぎ捨ててそのまま足を進めた。
「あら、お帰りなさい。早かったのね。お疲れ様」
エリカを一万倍柔和な感じにすればこうなるのだろうという雰囲気の母親がリビングでカリエを出迎えた。カリエから連絡を受けて掃除を進めていたのだろう。手にはハンディモップを持っている。彼女は掃除用具をいそいそと片してみせると、庭の方に向かって少しだけ声を張った。
「あなたー、カリエちゃんが帰ってきたわよ」
庭で趣味の釣り具の手入れをしていたのか、汗を若干頬に浮かべた父が戻ってきた。こちらはカリエとよく雰囲気が似ており、ぱっと見ればぼんやりとした印象を抱かせる男だった。父は冷蔵庫から麦茶を取り出すと、何も言わないままダイニングテーブルにそれを三つ並べた。
「テレビで見てたわよー。おじいちゃんも町内会総出で応援してたらしいわ。最後のちょうだん? を使ったやり方、テレビでいろんな人が褒めてくれていて、お母さん鼻高々だったわ」
「エリカとカリエらしい、良い試合だった」
自然と家族の団らんが始まる。お茶菓子も並べられ、ここ最近の近況を互いに伝え合う。両親は最近犬を飼おうか猫を飼おうか迷っていること、カリエはもうすぐ草野球の全国大会に出場することをそれぞれ話していた。
「——お父さん、お母さん」
小一時間ばかり経ったときだろうか。ふとカリエが唇を固く結んで両親に視線を向けた。瞳が不安に揺れて、いつも泰然としている彼女らしくない落ち着きのない動作。娘の変化を如実に感じ取った両親は居住まいを正して、娘の言葉を待つ。
「今回はいろいろ心配をかけてゴメン。二人にも沢山迷惑を掛けたと思う。でも今からもっと迷惑を掛けることを言うと思う」
言葉としての返答はなかった。けれども両親の柔和な笑みがそっと続きを促す。
「——これまで女の子らしくあろうと頑張ってきたつもり。たぶん、だいたいのところはもう問題がないと思う。自分自身が女性であることは理解できている」
すらすらと考えが纏まらない。今日この日のために作戦を練ってきたというのに、いざ本番を目の前にするとその全てが真っ白のまま。
「でも、最近好きになって、お付き合いして、これからも一緒に生きていきたいと思う人は女性です。ごめんなさい。こればっかりはどうしようもなかった」
それからダージリンとの出会いから近況まで全て両親に話した。自分が追い込まれたとき、側に寄り添ってくれたこと、これからもその隣で支え合いたいと誓い合ったこと。
両親がどれだけ自分の事を心配して、あらゆる手を打ってくれたかしっているからこそ、カリエは頭を下げた。
これ以上、有耶無耶にして不義理を貫くこともできなかった。こればっかりは勘当も覚悟せねばならないと、カリエは顔を伏せたままただ時を待つ。
「——そうか、君も大人になったんだな」
口を先に開いたのは父だった。カリエはまだ下を向いている。母が言葉を繋いだ。
「昔から大人びているとは思っていたけれど、もうそんな人ができるなんて。カリエちゃんも隅には置けないわね。あ、でもこの話ってエリカちゃんは知っているのかしら」
「確かに。あの子にまだ黙っているなら今すぐ連絡した方が良いぞ。お姉ちゃんが怖いならお父さんが間に入ってあげるからさ」
恐る恐る顔を上げる。母と目が合えば「写真はないの? 写真!」と年頃の少女のように目を輝かせて身を乗り出してきた。呆気にとられてスマートフォンを手渡すと「おおっ、これは凄いな。とんでもない美人さんじゃないか」「本当にねえ。お人形さんみたい。ぜひ二人並んで写真を撮りたいわねえ」
拒絶されたり、忌避されることはないと予想していた。
けれどもその現実が目の前に来るまで、不安に押し潰されそうになっていた。
カリエは両親を信じ切ることができていなかった自分を恥じた。エリカは「ちゃっちゃっと報告してきなさいよ」と大変不本意そうに気軽に言ってくれていたが、その意味がよくやくわかった。
まだまだ自分の視野が狭いままだったことに気が付かされる。
「君が幸せになるために、と女の子らしさを勧めたこともあった。今でも正直それが間違いだったとは思っていない。けれども正解だったとも思っていない。人生の、どんな道を歩いて行くのかは私たち親と、君たち子がああでもない、こうでもないともがきながら進んでいくものなんだ。でも、君はもう分別がついた。君はもう大人だ。なら、もがいた末に君が選んだ道があるのならば、あとは背中を押すだけだ」
「正直、ついこの間まではいろいろ不安だったのだけれど、この前の試合を見て安心したわ。この子達は、私たちの可愛い娘は自分たちで歩いて行けるって」
だから、と両親二人は声を合わせる。
——いってらっしゃい。
EPILOGUE 逸見カリエの戦車道
地域の運動公園。バッティングセンターやらグラウンドが併設されている総合運動施設。そこにカリエは一人で足を運んでいた。季節は秋になり世界の色の彩度が少しずつ落ち始めている頃。もうすぐ白い冬がやってくるのだろう。
「おい、ねーちゃん。そこは150キロだぜ。ケガするからやめときな」
昔はもしかしたら野球小僧だったのかもしれない。しなやかな動きでバッティングセンターでバッティングを繰り返していた壮年の男がカリエに声を掛ける。カリエは「大丈夫ですよ」とはにかみながら150・左と書かれたケージに入っていった。
「おお、うまいもんだな」
カリエは正直非力だ。エリカのようにボクササイズを趣味にしている訳でもないし、ナナのように筋トレを日課にしているわけでもない。だが持ち前の器用さと、身体の柔らかさで飛来するボールを綺麗にはじき返していく。
けれどもそれは最初のワンセットだけ。計30球を打ち返した彼女はいそいそとスポーツバッグを漁り、捕手のプロテクターを自身に身に纏い始めた。
「まじかよ」
壮年の男がカリエの動きに釘付けになる。
本来の捕手のポジションに腰掛けたカリエは飛来する剛速球をいともたやすく捕球し始めた。設定は変化球折り込みの完全ランダム。それでも一球たりとも取りこぼすことなく完璧な形でミットに収め続けていた。
「凄いですね。この子、ここの常連ですか?」
「いや、俺は初めて見た。地元の子かどうかもわからん」
カリエの捕球を呆然と眺めていた壮年の男に青年が近づいて来た。一番遠いケージでバッティングを続けていた青年だ。
彼はカリエが1セット30球を捕球し終えたタイミングでケージの金網越しに会話を試みた。
「ねえ君、野球はずっとやっているのかい?」
キャッチャーマスクを額に上げたカリエが振り返る。
「うん。ずっとしてるよ。ポジションは捕手一筋」
そうか、と青年が笑った。そしてカリエに一つの提案をする。
——外のグラウンドで僕の球を受けてくれないか?
02/
サインは即席で三つ。ストレート、フォーク、スライダー。いつの間にかバッティングセンターでたむろしていた野球好きが野次馬として二人を遠巻きに囲んでいる。どうやらこの青年はここいらではちょっとした有名人らしい。
「ねーちゃん、悪いことは言わないから捕れないと思ったら全力で逃げな。アザではすまねーぞ」
一番最初にカリエに声を掛けた男が、プロテクターを結び直すカリエに説得を続けていた。周囲のギャラリーも似たような反応で、「誰か止めろよ」と消極的な声があちこちで飛び交っている。
「カリエちゃん、だっけ。一球目、70%で」
手加減、されていると感じたがそれも当然か、とも思う。見ず知らずの小娘相手に本気を出す大人は中々いないだろうから。
「じゃあ一球目」
ゆったりとしたフォーム。でも中で渦巻いている筋肉の剛力ぶりは容易に想像できた。恐らくど真ん中、とカリエはミットを構えた。
「おおっー!」
歓声が上がる。青年の投じた一球は糸を引くようにカリエのミットに吸い込まれていった。カリエはミットに収まった白球を二、三度手の中で弄ぶ。そして鋭い矢のような返球で青年へとボールを突き返した。
「ありゃ、機嫌を損ねてしまったかな?」
青年が眉根を下げたが、カリエはいや、と首を横に振った。そして挑発的にこう言った。
「次から本気で。ウォーミングアップしたいなら別に好きにしたらいいけど」
その時、青年は不思議な感覚を味わった。本来なら初対面の相手にここまで言われたら面白くないだろう。だが違う。心地良い。昔からそうだったように、少女の言葉があまりにも心の中にすとんと落ちた。
「——わかった。サインは任せる。僕は打者がいるつもりで投げる。いや、打者に立って貰おう。駒田さん、打席に立って貰えませんか?」
一番最初にカリエと関わりを持った男——駒田が慌ててバットを持ってバッターボックスに立った。彼はカリエに対して「当てないでくれよ」と情けない懇願を返す。
カリエは一瞥だけ。
「当てませんよ。あいつは」
ストレート。150キロ超。
スライダー。139キロ。
フォーク。148キロ。
ストレート。150キロ半ば。
スライダー。142キロ。
フォーク。149キロ。
球種が増えた。
スプリット。151キロ。
高速スライダー。149キロ。
ストレート。150キロ後半。
シンカー気味のストレート151キロ。
「ね。憎らしいくらいコントロールがいいでしょ? 構えたところに来るから楽ですよ」
嘘だ、と駒田は思う。これだけ伸びのある球筋をしっかりと見極めて捕球するのがどれだけ難しいことか。
事実ここに集っているギャラリー達全てが、半分もミットに収めることが出来ていなかったのだ。
「そっか、野球、続けていたんだ。良かった」
次で最後にしようと青年が言った。カリエは「うん」と答えた。
「サインは任せるよ。相手はとんでもない強打者だ。君ならどうする?」
挑発を返された。カリエはふと空を見上げる。秋の空は高い。押し潰してくるような夏の空とはまた違う。
ど真ん中、ストレート。
157キロ。野次馬が構えていたガンにはそう表示されていた。
ミットからボールを取り出したカリエはそれを投げ返さずにマウンドまで歩いて行き、直接手渡した。
「ゲームセット。相手打者は空振り三振だよ」
「僕もそう思うよ。ありがとう、楽しかったよ」
野次馬に囲まれたまま二人は向かい合う。カリエの方があたま二つ低い。
「もしよかったらなんだけれど、東京の球団に入るまでの自主トレ、付き合ってくれないか?」
即答はしなかった。カリエはたっぷり数十秒、沈黙を保った。
ギャラリーの誰かが生唾を呑み込んだとき、ようやく言葉を返す。
「いや、本職は戦車道だから。そっちに専念する。ごめん」
泣き笑いだった。
青年は別段驚くこともなく「そっか。頑張れよ」とカリエの肩を叩いた。カリエは再び荷物を纏めると、ギャラリーの間を縫うように足早にその場を去って行った。
「振られたな、兄ちゃん」
「ええ、折角の女房役だったんですけどね」
青年の手の中にはまだカリエの手のひらの温もりが残っているボール。それを後ろポケットにねじ込むと、青年は「ああ——」と空を仰ぎ見た。
「夏が終わったなあ」
03/
学園艦に戻ったら、エリカにぱんぱんに腫れた手を見咎められた。
何をしてきたのだ、という余りにも厳しい追及の中、カリエが絞り出したのはたった一言。
「お別れを言ってきたんだよ」
逸見カリエの戦車道 完
逸見カリエの戦車道にお付き合いいただき有り難うございました。
途中、年単位の時間が掛かってしまい大変申し訳ありませんでした。
私生活のサイクルが変わったことが大きな原因なのですが、言い訳にもならないのでこれ以上はそういうのはナシで。
一応、小説は隙を見てちょこちょこ書き続けていました。
ただ逸見カリエの物語はここだけの話、全く筆が進んでいました。
劇場版は本当に難しく、正直心が折れていました。
けれども原作の最終章四話が私を救ってくれました。
やはり二時創作は原作ありきで、最大限の敬意を払いつつ自分の妄想をしたためるものだと再確認しました。
最終章四話のとあるシーンが全ての靄を振り払ってくれ、逸見カリエの進むべき道をはっきりと見せてくれました。
たぶん、もう迷うことはないと思います。
今後の話。
エピローグで書ききれなかったエピソードがいくつかあるのでしばらくはそれを書いていこうと思います。
まだまだ掘り下げていきたいキャラクターは沢山いるので。
私の書き散らしたこの物語たちが、少しでも皆さんの人生の暇つぶしになることを願って。