アフターエピソード1 ベースボール・メルティキス
横浜。
開国の象徴であり、舶来の瀟洒な街であり、華やかな中華街を要する大都会。
普段熊本を本拠地にしているカリエはその町並みに感嘆しつつ、遠方に見える巨大な野球場を目指していた。
「あちらの万国橋を渡ると、赤煉瓦倉庫よ。夕食はそこのレストランを予約しているので楽しみにしてもらえると嬉しいわ。で
、この通りを真っ直ぐ抜ければ今日のメインスポットである横浜EFMAスタジアム」
そんなお上りさんの手を引くのは、随分と大人びた格好に身を包んだダージリンだった。彼女はいつものまとめ上げた髪型ではなく、ストレートに下ろした髪型をチョイスしている。最近伸びてきた髪をポニーテールにしているカリエと対になることをイメージしているようだった。
「やっぱ都会だね。横浜は。でも夕食までいいの? ただでさえクライマックスシリーズのチケットは入手困難だったろうに」
「もう、そんなこと仰らないで。あなたとこうして一日を共にすると考えたら、そんなこと些細な手間よ」
始まりは8月末に届いたダージリンからの連絡だった。10月末に開催されるプロ野球の大きな試合のチケットが入手できたから、横浜で観戦しないか? という内容。もちろんカリエは「いく」と即答し、隣で電話に耳をそばだてていたエリカにノータイムで蹴りを叩き込まれるのだった。
「でも楽しみね。私、野球を見るのカリエさんの草野球の全国大会以来だわ。あの試合は本当に面白くて、少し野球が好きになったかも。それに今日の夕食——ディナーはその優勝祝いと思って頂戴な」
ありがとう、とカリエがはにかむとダージリンは顔を赤くして微笑んだ。まさか自分がここまで情緒の弱い女にされるのか、と驚くと共に、カリエから与えられた変化が何より心地よく感じる。
「——あら、さすがは特別な試合ね。もう人が沢山並んでいるわ」
「ま、東京ラビッツも横浜ドルフィンズも人気チームだからね。凜さん、はぐれないようにしてね」
ぐいっ、と引っ張られた力強さが頼もしい。スタジアムの構造はここ一週間で下見含めて完璧に脳内に叩き込んできたダージリンだったが、敢えてカリエに先導されるのも悪くないと、ますます機嫌を良くしていった。
01/
「なかなかおやりになるわね」
「予想していたとはいえ、白熱の投手戦だね。流石エース対決」
5回の表、小休止を二人はスタジアムの外周にある飲食店が建ち並ぶスペースで取っていた。小腹を満たす為に購入したフライドポテトを摘まみつつ、フロアに設置されたモニターで試合の様子を見守る。
「カリエさん、私一度お化粧直しに行ってくるわ」
「じゃあ私はここで待ってるよ。何か買っておいてほしいものある?」
「ならあちらのチュロスを」
普通にカップルらしい会話ができるようになったわね、とダージリンは濡れた手をハンカチで拭う。半年前ならば決して考えられなかった関係性だ。
いくら勝利のためとはいえ、自分がカリエを悪逆に利用した事実は消えない。だからこそこれから二人で積み上げていくものは、美しく尊いものにしていきたいと彼女は願っていた。
化粧の乱れを整えながら、今日のカリエの姿を思い出す。いろいろと吹っ切れだしたカリエはガーリーな格好も、ボーイッシュなファッションも、どちらも着こなすようになっていた。今日のカリエは男性らしいスキニーに白いシャツという出で立ち。ダージリンが横浜駅前のセレクトショップで見繕ったキャップをそれに加えたものだから、遠目から見たら細身の男性にも見える。まあキャップは球場に入った瞬間に、ラビッツのそれに入れ替わっていたが。
「——ぶっちゃけ好みドストライクね」
はあ、とダージリンは溜息を吐きだした。まず顔が良い。もともと母親譲りの整った顔立ちだったが、ここ最近はいろいろと懸念事項が解決したお陰か爽やかな雰囲気すら纏いつつあり、蕩けるような笑顔を周囲に振りまいている。そこに男性らしい立ち振る舞いも加わり、カリエの一挙手一投足にドギマギされっぱなしなのだ。
次に声。エリカと全く同じ声だが、父親譲りの温和な雰囲気も相まって抱擁力の塊となりつつある。学園での悩みを相談したときは真摯に聞いてくれて、割と的確なアドバイスをくれるものだから絆されまくっている。
最後に手。手だ。
草野球でキャッチャーを務めているカリエの手のひらは意外と硬く、見た目とのギャップが凄い。さっきも手を握られた瞬間にぐるぐるといろんな感情が吹き出してきて狂いそうになっていた。
でも、とリップをひきなおす。
そんな魅力的な人は私のものだ。以前のような歪んだ独占欲ではなく、となりに立つことの出来るという誇りだった。そんな素晴らしい人と素晴らしい関係を築けているのだと、誰にでも誇れるのは自分だけなのだ。
「さて、あんまり待たせすぎたら不味いわね。試合、まだ千日手だと嬉しいのだけれど」
化粧室を後にし、チュロス片手に待ってくれているであろう愛しい人を探す。今日だけでなく、これからの人生で輝いた日々を紡いでいくのだと信じて。
果たしてそれは直ぐに見つかった。
チュロスはしっかりと持っていた。流石だ。数多ある飲食店からダージリンが好みそうなシナモンシュガーたっぷりのそれを手に入れている。有能である。
立ち姿も完璧だ。ダージリンが見付けやすいように、観客席側から出てきた入り口近くで立っている。些細な気遣いが素晴らしい。有能だ。
「え、お姉さん熊本から来たの? すごーい、田舎のイメージがあったのに滅茶苦茶かっこいいね」
「うわー、歴代の彼氏の誰よりもイケメンだ。ねえねえ、写真一緒に撮って貰っていいですか?」
「あ、写真撮るなら腰抱いて下さい! 腰! その手で力強く抱き寄せて!」
少なくない女子達に囲まれ黄色い声を浴び、困ったようにへらへらと笑っていた。ド無能である。許しがたし、罰が必要だ。
「カ・リ・エさん?」
怒気にあてられた女子達は一目散に逃げていた。取り残されたカリエだけが情けない声で「ご、ごめんなさい」とダージリンに縋り付いている。ダージリンはもう知りませんと言わんばかりに、カリエを引き摺りながら観客席へと足を向けた。
そう。魅力的すぎるのも問題なのだ、と「ひんひん」泣くカリエを見て思う。自分も絆された身なのであまり偉そうに言えないのだが、カリエは魔性とも言わんばかりのカリスマと魅力を持っている。関わった人間のほぼ全てを味方に付けかねない天然の人垂らしであり、しかもそれに無自覚ときているから殊更たちが悪い。夏の試合で見事下して見せた島田流の妹もしつこくあれからモーションをかけ続けているので気が気ではない。カリエもカリエで妹のように可愛がるものだからダージリンをヤキモキさせるのだ。
しかも以前、東京で初デートしたときも渋谷の一角で若い女性達に囲まれてしまい、ダージリンがキレる一幕があった。
「私、凜さん一筋ですからぁ」
大好きな野球観戦なのに、ダージリンのご機嫌を取ろうとするカリエを見て少し気の毒に思う。確かにカリエが意図して女子を侍らしていたわけでないので、これ以上臍を曲げ続けるのは上策とは言えない。
ここは気持ちを切り替えるべきか、とダージリンはカリエに向き直った。
けれども言葉が出てこない。詰まらない嫉妬心でカリエを困らせたという事実がダージリンの普段の饒舌さを押さえつけてしまう。一言「もう怒っていない」と言えば良いのにその一言が何よりも重たいのだ。
そう遠くない場所で甲高い笛の音が響く。観客達のどよめきが広がる。
ふとカリエの目がすっと細められたのに気が付いた。こちらに縋り付いていた彼女がすっとダージリンから身を離して足下に置いていた鞄に手を突っ込んだ。いよいよカリエの機嫌を損ねてしまったか、とダージリンは泣きたくなったが、カリエはあっという間にダージリンの頭を自身の胸元に抱き寄せて一言だけ、
「危ないから絶対に動くなよ」
ぼすっ! と頭上で革を叩く音がする。周囲で二人の痴話喧嘩を微笑ましく見ていた観客達が「おおっ」と歓声を上げた。恐る恐るカリエから身を離してみれば、いつのまにか装着していたキャッチャーミットで観客席に飛来したファールボールを捕球したカリエがこちらを心配げに見下ろしていた。
「ケガはないですか? 凜さん」
「すげえなねーちゃん! マキ選手のファールボールじゃねえか! 良く取れなあ!」
ビールで赤ら顔をつくった親父が手を叩いて喜んでいる。カリエはその親父に「ファンならいります?」と今し方捕球したファールボールを手渡そうとした。
「本当か! ありがとな! 姉ちゃん! ——あー、いや、やっぱそれツレの姉ちゃんにあげてくれ」
喜色を浮かべた親父が直ぐに優しげに首を横に振った。どういうことか、とカリエがダージリンを見下ろすとカリエのボールを物欲しげに持つダージリンがそこにいた。
カリエが「欲しいんですか?」と問えばダージリンは小さくこくん、と頷いて見せた。
『残念ながらドルフィンズの攻撃はこのイニングもゼロ得点! しかしながら選手さながらのファインプレーが観客席で見られました! ラビッツファンながらあっぱれ!』
爽やかな青年の声で場内アナウンスが球場に響き渡る。何事か、と周囲を見渡せばスコアボード横に備え付けられた大型ビジョンに、カリエとダージリンが映し出されていた。カリエがダージリンを抱き寄せる格好である。直ぐさま二人は弾けるように身を離したが、それを嘲笑うかのようにカリエがファールボールを捕球した瞬間がリプレイ映像として流された。現実ではすでに密着を解いた二人だが、大型ビジョンには延々抱き合っている姿がクローズアップされている。
「あわわわわわ、穴があったら入りたい」
顔を真っ赤にしたカリエが帽子で顔を隠した。
周りもひゅーひゅーと囃し立てるものだから、ますます身を縮こませてしまう。
だからこそ、こちらを熱っぽく見つめるダージリンにカリエは最後まで気が付くことはなかった。
02/
「良い試合だったわね。25番の背番号の選手が打ったホームラン一つだけが得点だったけど、カリエさんの言っていた投手戦の良さが詰まっていたように思うわ」
日もすっかり落ちた夕食時、二人は赤い煉瓦造りの商業施設でテーブルを囲んでいた。ダージリンが予約したコース料理を二人して楽しんでいる。
「戦略的にはこういった投手戦の時は、相手投手にできるだけボールを投げさせればいいのね。いくら調子の良い人でも疲労は蓄積していくから、そこをつくのが定石か。でもそんなセオリーを無視したホームラン狙いがこの試合の結果を左右したのだとしたら、不思議なものね。いつだって英雄は私たちのような凡人の創意工夫をあっというまに超えていってしまうんだもの。『壁を破ることに価値がある。壁を破ることは、何より後世のために道を作ることでもあるのだから』 とあるアメリカの政治家の言葉よ。定石に囚われて、壁を自分の周りに建てることだけは避けたいわね」
ねえ、カリエさん。とダージリンが微笑みを零した。なんかこと戦車道においては「敵に塩を送ったかもしれない」とカリエは冷や汗をかく。やはりダージリンの最大の武器はその戦略眼であることにカリエは今更ながら気が付いていた。
「でもその壁がこちらの身を守ってくれることもある。『定石を破りたければ定石を知れ』 いわゆる型破りは型を知らなければできないことは散々学んできたよ」
「あら、それはエリカさんから?」
ダージリンの揶揄うような言葉にカリエは首を横に振る。
「ううん、キャッチャーの配球。奇を穿った浅はかな思いつきはいつだって強打者の一撃に粉砕されるんだ。今日の試合もそんな感じがする」
多分、エースの疲れを心配したのだろう。スタメンマスクを被っていたのは若いキャッチャーだった。ストレートを武器にする投手に投げさせた安パイの筈のカーブ。それは美しい弧を描いて、スタンドに飛び込んでいった。
「うん、やっぱり奇策は所詮奇策だな。続けるものじゃないや」
食事終わり。二人して横浜の町並みを歩く。もともとは鉄道軌道だったのか、通りに埋められたレールをなぞるように二人並んで歩を進める。普段は無限軌道で縦横無尽に走り回っている二人だが、今この時だけは共に一つのレールをなぞっていた。
「奇策? どうしたのかしら?」
別れの時間までもう幾ばくもない。横浜を発つ九州行きの新幹線の時刻が迫っている。
カリエが足を止めた。ダージリンもつられて少し先のところで立ち止まり振り返る。
何処かで大型船の汽笛が鳴る。
「凜さん、今日は本当にありがとう。とても楽しかった。途中、不安にもさせてしまったけれど、私の、いや、俺が好きなのはあなただけだよ」
返事は言葉ではされなかった。ただ急に歩みを進めてきたダージリンに後頭部をがっちりと掴まれて、いつかの夏の続き、カリエの知らないエリカに阻止された逢瀬の続きがなされる。
時間にして十秒にも満たないあっという間の出来事。
「私も同じ気持ちよ、カリエさん」
呆気にとられるカリエを見つめるそのあおいあおい瞳は夜の照明の中、きらきらと輝いていた。
03/
「あら、ダージリン様、それ誰のサインボールですの?」
ある日の昼下がり、ティータムを楽しんでいたグロリアーナの面々の中で、ローズヒップがダージリンの執務机上に飾られた野球ボールに言及する。ガラスケースに収められたそれにはサインが書き込まれており、野球に詳しくないローズヒップでもそれが誰かのサインボールであることは理解できていた。
「あ、確かに気になりますそれ。いつのまにか飾ってありましたね。もしかしてカリエさんと見に行った試合で誰かのファンになったんですか」
ルクリリもそれに興味を示し、言葉にはしないがオレンジペコもアッサムもダージリンの返答に耳を傾けていた。
「——いいえ、違うわ。その時は確かにファンになる、そんな気持ちだったけれど、よくよく考えればずっとずっと好きな選手だったの。その人からサインして貰った大事な大事な思い出の品よ」
はっきりとしない返答にローズヒップは疑問符を浮かべ、ルクリリとオレンジペコは「ダージリン様ってそんなに野球が好きだったかしら?」と顔を見合わせた。ただ一人だけアッサムが「またそうやって直ぐ惚気る」と苦い紅茶で口直しをしていた。
「本当に、次の『試合』が楽しみだわ」
木漏れ日の差し込む部屋の中、ダージリンは静かに笑みを深める。
彼女が座す机上には一枚の真新しいポスター。
04/
新幹線を乗り継いでやっとこさ辿り着いた熊本駅。楽しかったけれど流石に疲れたな、というカリエを出迎えたのはやけに笑顔が美しい姉のエリカだった。
「あれ? エリカ。迎えに来てくれたの? 助かる」
「エリカ? 何言ってるの? お姉ちゃんでしょう?」
これは終わったな、とカリエは目線を反らす。清々しいまでの笑顔を見た瞬間から、カリエはなんとか平静を取り繕っていたが、最早限界だった。
「テレビのチャンネルを回していたらね、あんたが応援している東京ラビッツの試合があったのよ。妹の趣味嗜好を理解する良い機会だと思って、じっくり観戦していたの」
死刑宣告ってこんな感じなのかな、とカリエは横を向いたまま遠い目をする。
「するとね、何度も何度も何度も自分の妹のファインプレーを見せられるわけ。お母さん大喜びだったわ。おじいちゃんも鼻高々だったんだって」
見てほら、と万力のような力で正面を向かされる。
眼前にはエリカが手にしたスマートフォン。
「凄いわね。SNSでバズり捲ってるじゃない。お姫様を護るスマートな騎士ですって。ねえ、なんで私はあらゆる媒体であんたたちがいちゃついているのを見せつけられているのかしら」
手が引かれる。ローカル線への乗り換えに重機のような力で引き摺られていく。
「あら、次の電車は鈍行ですって。じっくり話を聞かせて貰えるかしら? カ・リ・エ」
ひーん、と少女の情けない悲鳴が熊本の空に溶けていった。二人が消えた改札前では黒いクマのマスコットが手を振ったポーズを取っている。
胡乱げな黒い瞳は正面の柱に向けられており、そこには一枚の貼られたばかりのポスター。
——冬季無限軌道杯。
こんな感じでいくつかアフターエピソードを投稿できたらな、と思っています。