「それじゃあ授業は終わり。復習はしっかりするように」
四限の終わりを告げるチャイムが鳴り、教師が授業を終えて教室を出ていくと、生徒たちは各々昼食の準備を始める。この後は昼休み。楽しい楽しい梨子との食事の時間だ。……普段なら。
鞄からおにぎりを取り出しながら、本来なら過ごせるはずだった昼の時間に想いを馳せる。
「隣、座ってもいい?」
「遠慮する必要ないだろ」
「そっか、そうだよね。ふふっ」
俺は椅子を少し横にずらし、近くの席から空いている椅子を持ってきた梨子がその隣に座る。
「あー、ごめん。俺が梨子の方に行けば良かったか。椅子、大変だったろう?」
「ううん。大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
梨子は嬉しそうに笑うと、二人分の弁当を取り出す。今日は小さめのサイズだ。
「あのね、今日は少し早く起きて自分でも作ってみたの。どうかな?」
梨子が二段になっているお弁当の、上の蓋をあける。まず目に飛び込んできたのは、真っ赤なミニトマト。その横にはタコさんウインナー、ハート型の人参、卵焼き、ポテトサラダとうざきカットのりんごが並び、下にはレタスが敷いてある。虹のような綺麗なグラデーションにはいつもながら、驚かされる。
「美味しそう。食べていいの?」
「もちろん。あ、でもね……」
梨子は手を拭いてから、ミニトマトをその細くて色白な指で摘み、俺の口元へと運んだ。
「私が食べさせてあげるね! はい、あーん……」
言われるがまま開けた口に、ゆっくりとミニトマトが梨子の指先とともに入ってくる。梨子の指が出たのを確認してから口を閉じ、ミニトマトを噛みしめる。甘酸っぱい。
「それでね?」
少しだけ頬を上気させた梨子が、自分のお弁当の蓋を開けた。中身は俺の分のものと同じで、その中でもやはり、鮮やかな色を放つミニトマトがすぐに目に入る。
「わ、私にも……してほしいな、なんて……」
ちらっ、ちらっ、とこちらの方を盗み見ながら、梨子にそう頼まれる。もちろんやりますよ。断る理由なんてないし。むしろやらせてください。お願いします。
箸でミニトマトを掴もうとすると梨子に指がいいと言われる。理由はよくわからないものの、俺は梨子のお望み通り指でミニトマトを掴み、梨子の口元へと運ぶ。
「ほら」
「あ、あーん……」
梨子の口の中、舌の上にミニトマトをそっとおく。指を抜こうとした時、少し早く梨子が口を閉じたためにそのまま咥えられる。
ぞくっとした感覚が、指から腕を伝い、背筋に走る。耳に息を吹きかけられたような、触れるか触れないかのところで背中を撫でられるような、そんな感覚。
梨子がそっと、咥えていた指を離す。指先は濡れていて、照明の光を反射している。
「ねえ、涼君——」
「……一緒に食べよ?」
突然感じた耳元のくすぐったさに、我に返る。どういうわけかすぐそばに梨子がいて、机の向こう側から体をめいっぱい伸ばし、俺の耳元に口を寄せている。
「涼君?」
梨子が一言発する。それと同時に、耳に温かい吐息がかかり——
「うわっ⁉︎」
驚きのあまり、椅子ごと後ろの方へ倒れこむ。倒れる最中、慌てふためく梨子の顔に脳内シャッターを切るのは忘れない。
「りょ、涼君⁉︎ 大丈夫? や、やっぱりまずかったのかな……?」
「いててて……。そうだな、少しまずかった」
主に俺の心臓に。妄想から覚めたら、好きな人が耳元で囁いていたとか心臓に悪すぎます。心拍停止する可能性ありますよ、それ。
と、そんなつもりで言ったのだがもちろん伝わるわけもなく。俺が怒っていると思ったらしく、梨子は言い訳を始める。
「ご、ごめんね! でもこれはね、千歌ちゃんにこうしたら涼君が喜ぶって言われたから……」
なんとか起き上がると、梨子の後ろの方に千歌が見えた。腕を頭の上で組み、ニヤニヤしながらこっちを見ている。まったく、余計なこと教えてくれちゃって。これじゃあ俺が変な人みたいじゃないか。良かったけど。……変態なのかな、俺。
「ううん、やっぱり人のせいにしちゃダメだよね……。と、とにかく! あのね、涼君。一緒にお昼にしない?」
梨子がお弁当箱を包んだと思われる、バンダナを掲げる。あれ、さっきのよりだいぶ大きい箱だな……って、そうか。あれは小学生の頃の弁当箱だったような。
ああ、そういえば。小学生の頃、たまにあったお弁当の日なんかでは梨子と梨子のお母さんの作った弁当を食べさせてもらったっけ。梨子母さんの弁当、手作りで美味しいんだよなぁ。そうそう、あの卵焼きは美味しかった。
って、そんなこと今はどうでもいい。本当に残念なのだが、俺はこの誘いを断らなければならない。断腸の思いで。
「ごめん、ちょっと用事があるから」
「えっ……」
「じゃ!」
軽く梨子に手を振り、教室の外へ。行儀は悪いが時間がないので、廊下を歩きながらおにぎりを食べる。
さて。なぜ俺が、梨子からのお誘いを(内心)血の涙を流しながら断ったのかというと、それは図書室に用があるからだ。
つい先日、俺は津島善子登校計画の担当に抜擢されたわけだ。しかし彼女、注文が多いわけで……。
『私はヨハネ! それ以外の呼び名なんて、認められないわ!』
『ねえ、ルカぁ……。やっぱりみんな、こういう人って嫌いなのかなぁ』
『ダメよ、善子。そんなことでへこたれてちゃ!』
『くっ、くくくっ……。そう、世界の終焉が来たのね……。このままヨハネは魔の集いに行くことなく、堕天するのよ……!』
『……ぐすっ、るかぁ……。私も学校行きたいよぉ……』
あらかた注文じゃない? ……まあ、とにかく面倒なのだ。
一応、彼女のジレンマはわからなくもない。堕天使のキャラでいたいが、それは学校ではきっと痛い。あっ、今のはいたいと痛いを……って、千歌みたいだ。やめよう。
まあ何が言いたいかというと、彼女が無事、学校に行けるにはどうしたらいいのか日々探究しているのだ。そこで図書室。たくさんの本があるあそこなら、何かヒントが得られるかもしれない、と考えたのだ。
「失礼します……」
図書室は静かで、人がいなかった。カウンターには本が開きっぱなしで、誰かがいたような形跡が残っているが、今はいない。
メンタル関連の本が置かれているコーナーに向かい、何となく参考になりそうなタイトルの本を探す。……と思ったんだけど、どれがいいのかさっぱりわからないな。
悩んでいると、肩を誰かにつつかれた。
「あの、先輩。お探しの本でも?」
「花丸ちゃん?」
振り向くと、浦の星女学院の制服の上に黄色いカーディガンを羽織ったマルちゃん。でも、どうして彼女が図書室に?
「ああ、そっか。そういえば、図書委員だったっけ」
「はい。今日は当番なんです」
「大変だね」
「そうでもないですよ? 本は好きですから」
読書家か。俺はあまり本は読まないな。読むとしても、母さんの本くらい。少しは彼女を見習ってみるべきか。
「それで、何かお探しの本でも?」
「まあ、探しているというかなんというか。何か参考になればいいかなー、と思って」
「それは何の?」
「不登校の子が学校に通えるようになるにはどうしたらいいのか、とか?」
「あっ、それってもしかして善子ちゃんのことずらか!」
俺は頷く。すると、マルちゃんは俺に対して頭を下げる。
「ありがとうございます。もともと先輩と善子ちゃんは何の関係もないのに、わざわざここまでしてもらって……」
「いや、まあ、本人と約束しちゃったし。それに別に、マルちゃんが頭を下げることではないような」
ふと顔を上げたマルちゃんは優しく微笑む。なぜか彼女の背中に白い羽根が見えた。
「ううん、善子ちゃんはマルの友達だから」
え、ええ子や……! 今、目の前に、階級で言えば中位くらいの天使様がいらっしゃる。え、上位じゃないのかって? いや、それはもちろん(ry
それにしても、本当にいい子だな。将来梨子との間に生まれる(かもしれない)子どもにはこんなふうに育ってほしいものである。……そんなこと考える前に、告白しないとなぁ……。
「でも、先輩も優しい人ですね」
「優しい?」
「はい。ここ最近、毎日図書室に入り浸ってますよね?」
「まあ、そうだけど」
おかげで梨子との昼休みが過ごせなくなったけどね。それに、放課後も津島宅に行くことが多くなったから、あまり梨子と過ごせていない気がする。じ、事件だ!
「あ! もしかして……!」
と、唐突にマルちゃんが何かを思いつく。そして曜とどこか重なるような、ニヤけた笑みを見せる。いつのまにか、背中の羽根は黒く染まって見える。無性に嫌な予感。
「もしかして先輩、
おちた?
「いや、まさか! 俺は別に
そんなことあるか。たしかに善子ちゃんにはルカと呼ばれているが、俺は別にルカを自称していない。堕天なんかしていない。
「本当に?」
「本当だってば」
じー、とこちらを見るマルちゃん。先程も述べたが、マルちゃんは梨子には敵わない(主観)が天使と誤認するくらいには美少女なのである。そんな子に見つめられると、少し恥ずかしい。
要は思わず目をそらしてしまった。
「あー! 目をそらしたずら!」
「いや、これは」
「やっぱり
なぜか目をキラキラさせているマルちゃん。なんだ、君は俺に堕天してほしいのか。したくないけど。
しかしこのままこの問答を繰り返していても面倒だな。仕方ない、ここは堕天したことにしておこう。
「ああ、そうだよ。《堕ちました》よ、俺は」
「やっぱりそうずらか。先輩、そんなやれやれみたいな態度で照れ隠ししなくてもいいんずらよ?」
「いや、別に照れ隠しじゃないから」
「そうですか? まあ、頑張ってください。マルは先輩を応援してます!」
「ありがとう。ところでさ、スクールアイドル部はどう? 楽しい?」
このままこの話が続くのも嫌だったので、別の話題を振る。
「はい。ルビィちゃん、とっても喜んでます」
「そっか。それは良かった」
「仮入部じゃなくてちゃんと入部したい、とも言ってました」
まあ、予想通りだよな。メールのやり取りを見てわかるように、ルビィちゃんは大のスクールアイドル好き。スクールアイドル活動が楽しくないわけがない。
だから、俺が聞きたいのは彼女のことではないのだ。
「マルちゃんは? 君は、楽しくないの?」
「えっ、マル?」
驚いたように、マルちゃんが目を丸くしながら自分を指差す。……べ、別にかけたわけじゃないんだからねっ!
「もちろん、楽しいです」
「じゃあ入部したいと思う?」
「それは」
マルちゃんは、少し困ったように苦笑いをする。入る気はない、ということなのだろうか。
「マルは、そういうの向いてないですし……」
向いてない、か。どこかで聞いたことのある言葉だな。そう、スクールアイドル部に入る前の梨子が、口癖のようによく口にしていた言葉だ。特に中学生の頃なんて、しょっちゅう言っていた。自分は地味だから、と。
でも、きっと。興味がないわけではないはずなのだ。興味がないのならば、いくら親友といえども、ルビィちゃんの付き添いでスクールアイドル部に仮入部なんてしないだろう。
だから。もし、少しでも興味があるのなら。
傲慢かもしれない。おこがましいのかもしれない。余計なお世話なのかもしれない。それでも、彼女を導けたら。俺が、彼女の背中を押してあげることができたら。
「……先輩? マルが何か?」
「えっ? あ、いや。何でもない」
どうやらマルちゃんをジーッと見ていたらしく、彼女に不思議そうな顔をされる。
やはりここでは言うべきではないだろう。まだ仮入部の期間はある。これは、最後の最後まで言わないでおいた方がいい。
「あっ、そうです! 先輩、少しお願いが」
「お願い?」
マルちゃんが頷く。
「生徒会長と話をしたいんです」