翌朝。日の出とともに目を覚ました俺。こんなに早起きしたのは、高校入試の日以来だろうか。
着替えて居間に行けば、台所の方は明かりが付いている。旅館の朝って早いんだな、なんて思いながら、一応顔を出しておく。
「志満さん、おはようございます」
「あら、涼くん。今日は早いのね」
いつもの赤いエプロンをつけて作業中の志満さん。高海家長女なのだけど、どちらかというと母親という表現が近いか。なんでも包んでくれそうな雰囲気とかまさに母親のそれだろう。母性というやつ。……あれ、うちの母親にそんなものあったっけ?
ふと目に浮かんだのは高級なホテルの一室で子供のごとく床に寝そべって駄々をこねるとある作家の姿。すぐそばでやつれた編集さんが疲れ切った顔を……いや、うん。なんだか無駄にリアル。
というより千歌の家って母親はいないのだろうか。会ったことないけれども……。
「……? どうかしたの?」
「あ、いえ。今日はちょっと学校行く前にサイクリングしようかなーと。なので朝ごはんはいらないです」
「あらあら。朝ごはん食べないと元気出ないんじゃない?」
「大丈夫です、若いんで!」
ポンと自分の胸を叩く。しかし、志満さんは変わらず心配そうにこちらを見る。なんというか、空回りしてる感が否めない。
「……」
「……」
いたたまれない空気。少し口角を上げ、微妙な苦笑いを浮かべる志満さん。なんだろう、胸が痛い。叩いたからか、違うか。
「……無理してる?」
「……。えっと、じゃ、急ぎなので!」
台所を飛び出す。後ろから追いかけてきた志満さんの言葉は背中を貫通し、胸に突き刺さった。
「自分に正直に、ね!」
*
つい先日、送られてきた自転車。それにまたがると、先ほどの志満さんの言葉を思い出す。
「自分に正直に……か」
俺はいつだって正直にいたつもりだ。梨子が好き。その気持ちに従ってスクールアイドル部に入り、梨子を勧誘し、Aqoursを応援した。そしてそのまま過ごしてきた。
けれど。でも。
自転車のペダルを意味もなく後ろに回す。自転車は進まない。当然だ、漕いでないのだから一向に進まない。
「違う違う。正直に言えば、可愛いんだ。美少女だ、ドキドキさせられたことだってあるんだ」
両手で頬を叩く。今さら戻れるか。嘘はつかない、約束は守る。コンプライアンスは大事、俺は企業じゃないけど。
右足で地を蹴り、自転車を前へ。十千万から出れば目の前には海が広がっている。清々しいほどに青いそれは、なんだか妙に潤い、たゆたってる。
善子ちゃんに宣言はしてしまったのだ。迷っている場合ではない。
車一つ通らない道を沼津の方に漕ぎながら、全力で叫ぶ。
「津島善子が好きだあああ!」
ほぼ無人の町に、自分の声だけが響く。少しだけ気分が良くなる。
善子ちゃん。堕天使を自称していて、ちょっと変わっているけど、可愛くて生真面目で、話してて楽しい子。
駅前のベンチ、楽しそうに堕天使会話を楽しむ善子ちゃん。
カメラの前でポーズを決める、堕天使衣装の善子ちゃん。
夕暮れ時の体育館裏、緋い景色の中頬を染めて告白する善子ちゃん。
初めて言われた、家族以外の人からの好き。それは確実に響いた。
『好きです! 付き合ってください!』
『随分と仲がいいんですね』
『でも、先輩はやっぱり梨子先輩が一番なんですよね』
「そうじゃないだろ」
かぶりを振る。どうしてここまで来てそんな会話ばかり思い出す。もっとほかにあるだろ、ほかに……!
「ああ、もう!」
ペダルを強く踏みしめる。彼女の家まではまだ遠い。
*
次第に賑やかになる道を全力で漕げば、すでに善子ちゃんのマンションに到着していた。上がる息を整え、自転車をマンションのゴミ捨て場の近く、空いているところに駐めに行く。
なんて言おう。イッツァジョークッ、なんて言ったら殴られそうだな。
とかなんとか思っていたからだろう。振り向きざまに人とぶつかってしまう。
「痛っ!」
「あっ、すみません」
どさっ、と相手の人が持っていた段ボールが落ちる。勢いで箱が開き、中から黒い羽根やら堕天使の衣装やら。見覚えのあるアイテムばかりだ。これって……。
「善子ちゃん?」
「あ……」
俺がぶつかった相手は善子ちゃんだった。なんという偶然。転校初日に食パンを咥えた女の子と曲がり角でぶつかるシチュエーションくらいには偶然か。いや、それよりも。この段ボールを持ってゴミ捨て場に来たということは。
「ねえ、もしかしてこれ」
「せ、先輩には関係ありませんから!」
立ち上がり、箱を持とうとする善子ちゃん。俺はかっさらうように箱を奪う。わかってしまう。彼女は堕天使と決別するつもりなのだ。
「何するんですか!」
「俺にも関係あるから」
「なんで」
「可愛いから、これを着た善子ちゃん。それにさ、動画配信するときとか、堕天使トークするときとか、いつも楽しそうにしてたよね。輝いてた。俺はさ、そんな君のことが好——「ごめんなさい!」——へ?」
一大決心の言葉を遮られた。謝罪の言葉によって。いや、まさか。聞き間違い、だよな?
日は上がり始め、町は多少の活気がついている。車の往来もあるし、もしかしたら聞き間違えただけなのかもしれない。
だから聞き返してみた。
「今、なんて?」
「ごめんなさい」
聞き間違いではなかった。やっぱり俺の耳は優秀なんだなぁ……これはコントか何かだろうか。もはや慣習と化してるけども。
「いや待って待って。だって、善子ちゃん」
善子ちゃんは一つ深呼吸をした後、上——建物と建物の合間に見える、わずかな青空を見て話し始めた。
「分かってます、私から告白しましたよね。でも、違ったんです。いえ、好きって気持ちには違わないんですけど、たぶん、これは友達としての好き」
「……うん」
「ほら、私って不登校だったじゃないですか。だからそこらへんの距離感? がよくわからなくて。少し優しくされたくらいで、そんな恋愛感情なんて、ね。ただの勘違いだったんですよ、ただの。本当に……かん、ちがいで……」
「善子ちゃん?」
善子ちゃんの声は次第にかすれる。泣いているのだ。今もなお、空を見上げて。
「無理は」
「無理してるのは! 先輩でしょ?」
その時、初めて彼女はこちらを見た。一杯に溜め込んだ涙。赤く染まった頬。それでも彼女は微笑んでいた。そしてその目を隠すように、左手で覆う。あの、おきまりのポーズで。
「クックックッ。所詮ヨハネと人とでは住む世界が違うの。付き合うなど、不可能なのよ」
そんなんでいいのか。彼女は、善子ちゃんはそれで満足なのか。
たしかに勘違いかもしれない。一時の気持ちなのかもしれない。でも『好き』と感じるのもまたたしかで。好きだと言われたのが嬉しいのも事実で。
「だとしても」
「堕天使ヨハネちゃん!」
突然、暗いゴミ捨て場に場違いなほど明るい声が飛んできた。わかりやすい、千歌の声だ。
「千歌?」
声のした方を見ると、千歌をはじめ、Aqoursの5人がこの前の堕天使衣装を着て立っていた。もちろん、梨子も。
「スクールアイドル部に、ううん、Aqoursに入ってください!」
「私が?」
「うん。私ねμ'sについて考えて、それでわかったんだ。大切なのはステージの上で自分を迷わず見せること。他人にどう見られるとか、人気がどうとかじゃない。自分の好きな姿で輝くのが、一番大事なんだって!」
「自分の……好きな」
善子ちゃんに向けられた千歌の言葉。その言葉には不思議と力が込められている。
「だから善子ちゃんは堕天使を捨てちゃダメなんだよ!」
言い切った千歌。対して善子ちゃんはしばらく間を置いたあと、ゆっくりと喋り出した。
「……捨てるつもりは、もうない。さっき決めたから」
「さっき?」
ちらりと善子ちゃんが俺を見る。……俺?
「でも、みんなはそれでいいの? 私、変なこと言うわよ?」
「いいよ」
曜が笑って返す。
「儀式とかするかもしれない」
「大丈夫!」
「慣れてるずら」
ルビィちゃんとマルちゃん。2人が揃って頷く。
「リトルデーモンになれっていうかも!」
「たまにならいいかな、なんて」
梨子はそう言い、俺に微笑む。……俺?
「涼君はいつでも、でしょ?」
「え、あ、うん」
勢いで頷いしまったが、あれ。いつでもリトルデーモンになるってそれ、なんかすごい面倒な予感が。
「だから! スクールアイドル、やりませんか!」
千歌が差し出した手。善子ちゃんはそれを掴んだ。
*
「ねえ、あのさ。なんでさっきは俺を見たの?」
善子ちゃんのAqours入りが決まって数分後。彼女が捨てた堕天使アイテムは段ボール数箱分あったということで、男手という理由で俺が手伝うことに。エレベーターを待ちながら、俺は気になった点を善子ちゃんに聞いてみる。
「さっき?」
「ほら、捨てるつもりはないって」
「あー、あれは……」
善子ちゃんは俺から目をそらす。その頬が若干赤いのは気のせいなのか。
「あれは、何?」
「うーん、内緒!」
「ひどくない?」
「ひどくない」
電子音とともにエレベーターが止まる。2人で乗り込み、ドアが閉まったところで善子ちゃんが「そうだ」と言った。
「このヨハネが堕天使を捨てないって決めたんだから、ルカもちゃんと自分の"好き"を大切にしなさいよね!」
「いや、まあ、うん。そうするつもりだけどさ」
だって、ねぇ。それを諦めて君と付き合おうとしたら、振られたじゃん。
「というより、善子ちゃんは」
「ヨハネ!」
「……ヨハネは、これで良かったの?」
自分の"好き"を大切にする。そういうことじゃないのか。
「"友達"としての好きだもの。これからもヨハネとルカの避けられぬ
そういうものなのだろうか。そんなふうに割り切れるなんて普通の人には無理だろうに。
「それよりもルカ。私の言ったこと、ちゃんと理解してる?」
「わかってるよ」
「本当に?」
善子ちゃんの住むフロアに着き、エレベーターを降りる。そのまま玄関に向かうのかと思いきや、立ち止まった善子ちゃんは段ボール箱を下ろす。そのままこちらを向いて立ったままなので、仕方なく俺も箱を下ろす。
「いいこと? 梨子先輩以外の人と付き合っちゃダメなんだからね」
「ああ」
「他の人に告白されてもよ?」
「わかってる」
「……なら、いいんだけど」
善子ちゃんは右手の小指を突き出す。
「指切りげんまんをしろと?」
「ふっ、何を言っているの、ルカ。これは古より伝わる、私たちの契約を結ぶ時の作法でしょう?」
「……あー、うん。そうだったな」
「始めるわよ、さあ!」
俺も小指を出して、2人の指を絡める。
「今この指を契りし時より、我ら天より堕ちし者は誓う。深淵より来たる邪悪な波動が…」
善子ちゃんはよくわからない呪詛のようなものをブツブツ呟いているが、要するにただの指切りげんまんじゃない?
「これでいいわね。いいこと、ルカ。もし契約を違えたりしたら、その時は天罰が下るのだから、気をつけるのよ」
「了解」
天罰って。そもそも堕天使ってすでに罰が与えられてるのでは。
「じゃ、行くわよルカ。混沌渦巻く魔境へ!」
「部屋汚いの?」
「そーじゃないわよっ!」
善子ちゃんに続いて段ボール箱を部屋に運び終える。この後学校に行かないといけないし、長居は無用だろう。
「それじゃ、俺は帰るから」
「あ、ちょっと待ちなさい、ルカ!」
ちょうど玄関を出たところで立ち止まる。家の中の善子ちゃんは、少しだけはにかみながら、
「嬉しかったです……その、ありがとうございます。
小さく手を振る善子ちゃんを最後、ドアはゆっくりと閉められる。
……やっぱり彼女も普通じゃない。
今この指を契りし時より、我ら天より堕ちし者は誓う。深淵より来たる邪悪な波動が我らを破滅へと
うーん、堕天使検定4級不合格の作者には難しすぎる……。