1
「――すっかり良くなったみたいで良かったです。アホ毛ちゃんがあの機材の中に入っているのって、やっぱりまだ見慣れなくって」
「大袈裟なんだよあの人もお医者さんも、ってミサカはミサカはベッドの上でソックスを履きながら不平不満を漏らしてみたり。別に病気や怪我とかじゃないんだから、いくらだって現場で暴れ回れるのにね」
清潔感を強調した白い病室の中、
太ももや脇腹のガードが心許ない入院着は脱ぎ去ってしまい、今は着慣れた制服姿に着替えている最中である。培養液に浸かる必要がある『調整』は一通り終了して、後に残すのは医師による軽い機能検査だけだった。明日の昼頃には、煩わしいアフターフォローからようやく解放されるといったところだ。
元々、
だからこそ、
「初春のお姉ちゃん。前にも言った通りだけど……このミサカに接触して、ミサカネットワークの指向性を操作した、その犯人は……」
おそらくは、
いかにお人好しな
「……すみませんアホ毛ちゃん、それがまだ見つけられていないんです。参考人としてすぐにでも押さえようとはしたんですけど」
俯いた唇に自らの指を触れさせながら、申し訳なさそうに答えた初春。その所作にやや面食らった
「ど、どこにもいないの? 本人が見つからないにしても、所属している学校に当たれば……」
「もちろんそうするつもりでした。ただ、アホ毛ちゃんと彼女が接触したあの日は……例の局地的な嵐で警備ロボや監視カメラが一部破損していて、どんな容姿をしているか確認できるような写真が手に入らなかったんです。『
「学園都市のどこにも……? それって一部の
「原因がそれだけとは考えにくいです。学校を辞めているにしても、『
もちろん最初から偽名を名乗っていたり、
ベッドの縁から両脚を下ろして、
「そっか……、ってミサカはミサカは複雑な心境で言葉を受け止めてみたり」
「現状、私たち
「ミサカに謝ることないよ! むしろミサカは当事者なのに、ここで足止めされて寝てばっかりいて……初春のお姉ちゃんにも白井先輩にも申し訳ないし、なんだか恥ずかしいよ、ってミサカはミサカは両指を合わせて目線を逸らしてみたり」
少しだけ耳を赤らめている
仲間が一人欠けた
「アホ毛ちゃん、あまり思い詰め過ぎないでくださいね。何も相手は世界征服を企んでいる大悪党とは限らないんですし、これから匂風速水という少女を見つけたとしても、『上』も極力穏便に済ませるように計らってくれる筈ですから」
「……うん! お姉ちゃんこそあんまり長い間パソコンとにらめっこして根詰め過ぎちゃ駄目だからね、ってミサカはミサカは笑顔で釘を指してみたり!」
「あはは、そこは嫌でも根詰めないと仕事が終わらないんですよぉ……」
適当に言い合いながらも病室のドアを開いた初春は、すぐ外の廊下にいたらしきフレメア=セイヴェルンとフロイライン=クロイトゥーネの二人と鉢合わせたことに少々ビクッと肩を震わせていた。
「わっ!? び、ビックリしました……。もー、二人ともこんな所で立ち聞きしてたんですか?」
「いやいや、大体こっちは今来たばっかりだし。つくづく信用が無いな私達!?」
「フレメアは常習犯ですし、初春飾利の言葉は仕方ないと判断しました」
「お姉ちゃんはいったいどっちの味方だ!! にゃあにゃあ!!」
小さな身体を目一杯動かして不満をアピールするフレメアに苦笑いを寄越して、そのまま二人の間を抜けた初春は病室を後にしていった。
何なんだ
「今日もノート取っておいてくれたんだね、ってミサカはミサカはどんな時でもおサボりを許さないお姉ちゃんのスタンスに軽く戦慄しながらも頭を下げてみる」
「勉学は学生の義務ですよ。あなたもフレメアももっとお勉強しなきゃダメです。それよりも」
いつも通り機械的なペースで会話を展開するフロイラインの口調は、緩急なく一つの質問をぶつけてきた。
「『あの件』はどうしますか?」
「そうだそうだ。大体良いのか子供は、このまま蚊帳の外の状態で」
「……うーん、やっぱりね、ここにいるとネットワークとの接続も制限されるし、世間の事情が勝手に進んでいくから少し厄介なんだよね、ってミサカはミサカは置いてけぼりなトラウマによる病院嫌いをアピールしてみたり」
靴を履いたまま、ベッドの上で行儀悪く組んだ脚をゆらゆらと動かして。
「初春のお姉ちゃん。どう見ても隠し事してるしなぁ、ってミサカはミサカは推論を述べてみる」
仕方なくとは言えはぐらかそうとしてきた先輩に対して、批判の感情などは無く。
ただ淡々と分析する軍用クローンの司令塔を前に、二人の少女も顔色を変えず同調していた。
「結局はあいつら、時間稼ぎがしたいだけだからな。大体当事者の子供を病院にブチ込んで隔離しておいた二日間で、例の女についての情報を本気で『
「白井
「過保護で有名な『あの人』の指図でしか有り得ないよね、ってミサカはミサカは脚をブラブラさせながらむすくれてみたり」
「連続昏倒事件。そんな仰々しい名前が付いてるらしいし。にゃあ」
「小学校高学年から高校生までの子供たちが第七学区内の路地裏で倒れているのを、『偶然』見回っていた白井黒子が発見したようです。地点はバラバラですが、同様の事例が昨晩までで六件ほど。被害者は秘密裏にこっちの病院に運ばれ、例のカエルに似てるお医者様が診察にあたったとか何とか」
「体は全くの無傷。依然として全員意識不明なものの、脳波は安定しており生命に別状はない。ただ、精密検査では、大脳真皮質の細胞が何らかの技術によってミクロンレベルで局部的に破壊されていることと、その影響によってか……『
ここまで話が進み、ようやく
当然、こんな事件の情報は入院中の二日間で誰からも知らされていなかった。しかしそれよりも気に掛かるのは、その事件現場……そして被害の状況である。
(……路地裏で、子供たちが能力を奪われて昏倒……? 『
「うん。大体、例の噂と関係してるみたいだ。『白い誘拐組織』、子供も聞いたんだってな」
「聞いたも何も、ミサカネットワークを無断で間借りしていった自称発明家ご本人からちょうど忠告されてた案件だよ、ってミサカはミサカはあの女の意図が掴めずにため息をついてみる……」
白いシーツの上に転がしていた、目つきが悪いうさぎの風船を指先で小突く。
そんな少女が腰掛けるベッドに上って長い両腕を首へと回してきたフロイライン=クロイトゥーネは、背後からノートのページをのぞき込みながら意見を付け加えた。
「……そもそも最初から、何かの目撃情報をベースにして自然発生したような噂ではないかもしれません」
「どういうこと? ってミサカはミサカは振り返ってみたり」
「『圧力によって揉み消された真実』を装って作られた、嘘で固めた
動物――殊に昆虫に近い彼女の五感が捉える説明不能なインスピレーションは、時に学園都市製の高性能レーダーをも凌駕するオカルティックな観測結果を軽々と弾き出す。
曰く、仰々しい『白い誘拐組織』の話などはまるで意味のない捏造で、実際には
「……ますますきな臭くなってきたし。大体そいつは、『私は今から路地裏にて重大犯罪を実行する犯人です、どうぞ捕まえてください』ってこの子供に宣伝していたようなモノじゃないか。にゃあ」
「お姉ちゃん。被害者が発見された場所は分かるんだよね? ってミサカはミサカは確認してみる」
「はい。一通り座標を記憶しています。いつ調査に向かわれますか?」
「白井先輩たちが現場に出張っていないのなら、今からでも」
「おいおい待て待て! 大体、誘い込まれてるって分かってるのにわざわざ自分から行くか普通!?」
目を丸くしながらツッコんできた金髪碧眼の少女相手に、リノリウムの上に着地した
「誘われてるからこそ行くんだよ、ってミサカはミサカは当たり前のことを言い放ってみたり。ミサカを遠ざけようとする先輩たちやあの人の思惑は分からないけど、だったら余計に自分の足で情報を探しに行くしか道はないわけだし」
それに、事件は病室じゃなくて現場で起きているんだ――と。
言いながら
よれたスカートの裾を正して軽く身支度する彼女にフロイラインが差し出したものは、両面ガムテープ式で着脱が容易な、お馴染み深緑の
「初春飾利のハッキングによる『
「……、やっぱり、どう考えても不自然だね。だけど、路地裏の事件とミサカネットワークの傍聴を結び付けるたった一人の人物……匂風速水のことは、ミサカ達第一七七支部関係者しか知らない。それで白井先輩たちがこのまま慣例通り
「にゃあ……。もしかすると昏倒のことは人為的な事件だとは気付かれずに、大体ただの集団ヒステリーか、無茶な脳開発の後遺症扱いになってしまうかも、って事か」
苦々しい顔でそう呟くフレメア。その頭にポンと手を置いた人物は、すっかり調子を取り戻した生意気盛りの新米
「そうならないためにもミサカ達が動かないとね、ってミサカはミサカはお子様を鼓舞してみたり」
「……そうやっていっつもすぐ私達に頼る、ホント調子のいいヤツだよ子供は。にゃあにゃあ」
鉄板が仕込まれた安全靴の調子を確かめるように、トントンとつま先で床を叩く。
それを合図にさっそく病室から出ていこうとする三人の少女だったが、まだ一応の入院患者である
窓を開け放して地上七階のベランダから身を乗り上げる
いつも通りの非日常が、幕を開ける合図だ。
「なーホントに良いのかー? 優等生の
「そんなものは勝てば官軍なのだ! ってミサカはミサカは適当に言葉を返してみる!」
十五分後に合流しましょう、と長い髪を揺らしたフロイラインへと軽やかなピースサインを投げて。
年配者の親心など知らない傍若無人の少女たちは、二日遅れのスタートダッシュを大急ぎで切るのであった。
2
(――気になっていることが二つあるんだ、ってミサカはミサカは座標を確認しながら自身の思考を整理してみたり)
だんっ!! と、勢い良くコンクリートの壁を蹴りつけ、ビルの隙間を飛び回る影があった。
街中の建造物と靴底などに仕込まれた鉄板を磁力で繋ぎ止めることによって、ちょうどマリオネットのようにエキセントリックな挙動で空を舞う形となるが――平日の授業時間中ということもあってか、幸いにも上空の彼女に気付き腰を抜かすような人影はビルの外には見られなかった。
(まず――犯人はどうやって、散り散りに生活していた孤児院出身の被害者たちを、ここまでの短期間で六人も襲うことができたのか)
ミサカネットワークとの接続を制限されていた病院内から抜け出し、『目的地』――すなわちフロイラインから預かった事件現場の座標と、第七学区内の地図をクラウドからダウンロードして照らし合わせる。
所属する学校周辺の治安維持のみが職務である以上、ここまで
データにあった六つのうち一つ目の現場。先輩方や
二つ目、三つ目の事件現場まではここから少しずつ距離がある。無秩序に散らばっているように見えるこれらの地点だが、それでも六つの場所には無視出来ないとある共通点があった。
(……これは『ターゲットの居場所を突き止めた』末の単純な襲撃とは訳が違う。だって、昏倒していた彼らが見つけられたのは、揃いも揃って第七学区内の路地裏なんだから。被害者たちが日常生活を送っていたところを襲った、通り魔的な犯行ではなくて……彼らを『自らの足で路地裏の襲撃ポイントまでやって来させた』可能性の方が高い。ちょうど、このミサカからの司令で無意識に徘徊をさせられていた、学園都市内の一〇三二人もの下位個体たちのように)
つまり、犯人がターゲットを何らかの手法でおびき寄せるために用いた『狩場』の法則性を明らかにすることができれば――七つ目の襲撃を、事前に食い止めることができるのではないか。というのが、実際の事件現場まで文字通り飛び込んできた末の
そしてもう一つ、彼女の頭に引っかかっていることというのは。
「……何の情報を得るために、犯人は……匂風速水は、ミサカネットワークに不正アクセスするだなんて大きなリスクを背負ったの? ってミサカはミサカは――っとと」
ポケットの中で振動する端末の感触を得て、ビルの隙間を縫うように飛び回っていた
奇しくも、というか目的地が襲撃現場そのものであったのだから半ば必然ではあるのだが、そこは二つ目と三つ目の『狩場』の丁度真ん中に近い地点だった。
「もしもしお子様? そっちは六つ目の場所を調べてる途中だよね、もしかしてもう終わった? ってミサカはミサカは確認してみる」
『そっちの機動力と
誰が変態ですか、とへそを曲げていそうな白いカブトムシの声音を脳裏に思い浮かべながらも、
スピーカーに耳を傾け、ほこりっぽいコンクリートを安全靴で踏み進める。
「……あの嵐は紛れもなく人為的なものだった。そのことは覚えてるよね? ってミサカはミサカはおもむろに口を開いてみたり」
『それも匂風速水とやらの仕業かもしれないってことか? 大体、無理があると思うぞ。応用次第で気候を操れる能力は存在しないこともないらしいけど、そんな出力が単独で出せるようなら、間違いなくその犯人は
「相手は一人とは限らない。例えばミサカたちのネットワークであの人の代理演算を成立させているように、機械の力を借りて一時的に能力を増強することも出来るってことだよ。……まぁ、脳波を整えたり思考の均一化を図ったり、よほどの人非人的な対価を支払う必要はあるわけだけど」
『はーあああ……大体、そういう暗い話題で専門家サマに口を挟むつもりはないし。それで? 相手が嵐を起こした張本人かもしれないってことと、今回の襲撃はどう関係してるんだ。まさか監視カメラや警備ロボを潰すためだけにこんなことをしたって?』
「それが分かれば苦労はしないよ、ってミサカはミサカは性急なお子様をたしなめてみる。ただ、そこの区画が清掃活動の後でちょうど現場が小奇麗になっているってことはつまり、そこで何らかのアイテムを見つけたら十中八九それは今回の事件と関係がある代物だから――……、おわぁっ!?」
「ひゃっ!! び、びっくりしたぁ!?」
電話口の前のフレメアとの会話に夢中になっていた
いつの間にかそこそこ人通りのある抜け道にたどり着いていたことにも気付かずに、危うく尻餅を着きそうになった新米
「ご、ごめんなさい前を見てなかった、ってミサカはミサカは……」
「ふぇ!? あ、ミサ……っ――、……いえ、何でもありません! こちらこそ不注意でした、すみませんですよ、それでは私はこれにて――」
「……? あの、どこかで会いました? ってミサカはミサカは謎の既視感に首をかしげてみたり」
「いえいえそんな滅相もないッ!!」
淡い赤色に染めたポニーテールとスポーツウェアのような白いベストという出で立ちで、シルエット的にはどことなく簡略化した特殊部隊のコスプレにも見えた。ミサカ、と口走った様子からするに、治安維持活動に協力しているボランティア団体の人なのかもしれない。
その立場上、少しでも『
と、そんな感じでわたわたしている善良そうなボランティア少女(暫定)の足元に転がっていたゴミ袋の存在に気が付く
「清掃中の区域にお邪魔しちゃったのか、ってミサカはミサカは……うわ、ミサカのせいで中身散乱させちゃってる、って慌ててゴミを一つ一つ拾い上げてみたり」
「あ、そ、そうなんです
身をかがめて遠慮してくるボランティアさんの衣服の袖には、やはりどこかの治安維持活動で見覚えのある団体のロゴマークが刻まれていた。数日前の
しかしこれだけ不特定多数のボランティアが行き交うこの時期だと、衆人監視のもとの襲撃などますます難易度が上がるのではないだろうか。まぁ、それは同時に、犯人が彼ら彼女らの中に紛れ込んで虎視眈々とチャンスを伺うことも可能だということでもあるわけだが――と、ここまで考えを及ばせた
銀色の、小さな円筒。スプレーを放出する先端部分には、安っぽいプラスチック製の漏斗めいた吸入具が取り付けられていて。
「あれ……これってどこかで見たこと、……!」
それは――まだ真新しい、使い捨ての酸素ボンベ。
ちょうど、あの日貧血で倒れた
「あの! これどこで拾ったんですか!? ってミサカはミサカは食い気味で質問してみる!!」
「ひゃっ!? あ、えっとですねそれは……確か……えーっと……ちょっと思い出せな――」
「えっそれ、S区画の路上にポツンと落ちてたヤツじゃなかったっけ? ほら、あっちの方面の、確か竹下ビルの裏。珍しいゴミだったからよく覚えてるけど」
「うおおおおおおおおああああそうでしたっけええええ!?」
じれったく記憶を手繰る素振りをしていた赤髪の少女へ要らぬ助け舟を寄越すように、すぐ後ろで作業中だったボランティアの青年が声を掛けてきてくれた。
「ご協力感謝します! ってミサカはミサカは頭を下げつつ走り出してみたり!!」
「ぎゃーちょっと待ってください――ッ!! ……あ、あうあ、なんて事ですよ……よりによって
何やら意味ありげな嗚咽が背後の少女から漏れていたが、そちらについてはひとまず無視で
3
初めて学校の授業をサボって、当て所もなくただ一人で歩いて、歩いて。地味なセーラーに身を包む彼女は、青い顔でフラフラと蛇行しながらも、両の手の内に握る小さなスマートフォンの画面に忙しなく触れて操作していた。まるで、地獄に垂れてきた細い糸にすがり付くような、鬼気迫る迷子の様相で。
「……
小さなタッチパネルの中で起動しているのは、『
実を言うと逸海自身はこの数年間、かつての『友達』とはあまり積極的に交流を続けようとはしてこなかった。薄情に思われるかもしれないが……ひとえに、あれだけ切望した平穏な暮らしの中にあって、今更あの孤児院での彼らとのモルモット生活を思い出したくなかったから、というのが本音だった。
それでも。望んでもいないアプリの友達機能で惰性的に繋がりを保っていた旧友たちが、ここ二日間で突然次々と消息を絶っていったのでは――さすがに無関心を装うままでいるにも限界があった。
(……何が、起きてるんだ……)
あのクソッタレな『実験』に放り込まれながら、幸運にも生き残った僅かな子供たち。しかし彼らが得られた報酬など、かつて絶望の中の僅かな希望としていたような超能力とはあまりに程遠く。
どこかの誰かの尽力によって、孤児院より解放されてからの人生は、一般的な
それなのに。
(……誰も、本当に誰も現状を理解出来ていないじゃないか。グループ内の
その
何が起きているのか分からない。顔を合わせると忌まわしい過去ばかり思い出すからと、バラバラになった旧友たちの学校や居場所を深く訊ねようとしなかったことが、今になって猛烈に悔やまれた。
まるで、目隠ししたまま腰を下ろしていた切り株の内側が、無数の小さな虫によって少しずつ食い荒らされていくような。『分からない』という現状は、それだけで得体の知れない恐怖心を少女へともたらす。
それでも、予感だけならいつだってあったのだ。
いつかこの平穏はタイムリミットを迎える。だって、彼女らの頭の中には今だって――大勢の旧友を殺した爆弾が眠っているのだから。
「……ハヤミ……匂風速水、アイツの仕業なのか……?」
ノンフレームの眼鏡の奥でこぼれそうになる涙を堪えながら、とうとう彼女はそこで歩みを止めてしまう。
平凡を装うこの頭の奥に今も深く刷り込まれている、とある天才のデータ。それは逸海縦帆をはじめとする凡人たちの脳では到底扱い切れるものではなく、ただただ拒絶反応で暴走して狂い死ぬか、生き残った数名の人格や趣味趣向などに僅かずつ干渉するのみというお粗末な結果しか生まなかったはずだった。
だけど、人間の脳味噌は、他人を丸ごと受け入れられるほど強くはない。辛うじて適合して、自分らの中の『匂風速水』を閉じ込め制御できているつもりでいた過去の被験者たちが……もしも今になって、その反動に次々襲われているのならば。
あるいは、もっと単純に。
孤児院での生存者たちが今までこうして平穏無事に生活していたこと自体を、疎ましく思う誰かが存在しているとしたら――。
「……、っ……!!」
ぐらりと視界が揺らぎ、嫌な想像で吐き気がする。
「ぅ、あ……、……?」
手を口に当て、薄汚れたコンクリートの地面へとうずくまる。そうしながらも、彼女は今ようやく、自らを取り巻く現在の環境の異常性に思い当たった。思い当たってしまった。
本当に本当に、今更の話ではあるのだが。
――
「啓示というヤツだよ。キミは『
ハッと我に返り、顔を上げたその瞬間。
白衣のポケットから紐付きの風船を無数に生やした、良く知る顔の少女がそこにいた。
「――……ハ……、ヤ」
「お兄ちゃんって呼んでおくれよ。昔みたいに無垢で純朴な子供らしく、なあ?」
慈悲深く柔和に微笑みながら、彼女は丸い風船をひとつ手に取り少女の目の前に突き出してくる。まるで幼い子供のご機嫌を取るように、ためらいなど一つもない仕草で。
風船は目の前で瞬間的に膨張して――それが、逸海縦帆にとって、最後の映像記憶となった。
4
「五年前、フレメア=セイヴェルンを中心に展開された『
寂れた路地裏には風一つ吹き込んでこない。
無数のカラフルな風船が、空中に浮かぶお化け屋敷の人魂のごとく、フワフワと不自然な挙動であちこちに静止していた。まるでその空間だけ時を止めてしまったように、男性装の少女は悠然と言葉を紡ぐ。
わざとらしい演説の宛て先は、両腕の中に雑な様子で抱えた気絶状態の逸海縦帆――ではなく。
「だが本来あの理論は、濃淡の概念が存在する流体であれば何にでも適用できるはずなんだ。空気中の酸素濃度とか、海水とかね。それに、あの事例からヒントを得たのは確かだが、僕の場合は大規模演算が目的じゃない。能力を用いて特定のパターンを第七学区全体に発信して、獲物を特定のポイントに誘導する。そう難しいことじゃないさ、なんせ僕のターゲットは僕自身の思考回路を有する連中だ。無意識領域に食い込んで行動指針に干渉するだけなら、ミサカネットワークに入り込んで『目を盗んだ』ときよりずっと簡単だったよ」
それら全てを知っているネットワークの司令塔は、匂風速水のすぐ目の前にいる。
仁王立ちのまま息を荒げ、片手で自身の頭を抑えた
以前にもこの少女の前で見舞われた、あの症状とよく似ている。
脳を蝕む痛みと、眩暈。低気圧の際に誰もが少なからず経験するような不快感を、もっと大袈裟にしたような。それは周囲の酸素分圧を弄ってもたらされた、人工の高山病とも言えた。
「まぁ、とりあえずお決まりの台詞でも吐いて歓迎の挨拶としておこうか。……どうしてここが分かった? 来なければそんな辛い目には逢わずに済んだのに」
「あなたの方が、ここまで呼んだんだろうが……ってミサカは、ミサカは」
「今頃静かに病室で寝てるはずのキミのための釣り餌じゃなかったって事だよ。どちらかと言うと白井黒子とか
「そんなんじゃない……!」
バチッ!! と前髪から電光が散る。
吐き気を堪えながらも真横に薙いだ指揮棒に連動して、周囲の細かな鉄クズが波のようにざわりと脈打った。
「その子を渡せ。それと……あなたには山ほど聞きたいことがある、ってミサカはミサカは、真っ直ぐに要請してみる」
「渡すとも。粗末な能力は没収済みで、この子個人の肉体にも人生にも興味はないしね。ただまぁ――僕にも目的がある。率直に言って、まだキミに捕まるわけにはいかないんだよ」
砂鉄に触れた風船の一つが、パン! と軽い音を鳴らしてあっけなく割れ。
それを合図に、細い路地裏の全てを圧倒する鉄砲水のような暴風が吹き荒れる。容易く飛ばされそうになる華奢な自身を、
ジリジリと、押し返される。
同時に、匂風の手から放たれたサイケな色彩の風船が視界を幾重にも塞ぎ、全身を優しく押し返しながらもおしくらまんじゅうのようにシュールな絵面で目を眩ませる。
「くっ、……ぁ……!?」
「お偉いさんからのオファーがあってな。天才発明家サマのありがたい脳味噌にあやかった、とあるくだらない『実験』の後始末なんだが、利害が一致していたから協力させてもらうことにした。彼らの脳に移植された『匂風速水』のことは僕が一番良く知っているのだから、直接会えばこうして壊すのも容易い」
生き残った彼らの中の『匂風速水』は前々から目障りでね、と。
近所の汚いゴミ屋敷についてでも愚痴っているような気軽さで、彼女は半笑いのまま気絶した少女・逸海を地面へと転がした。
匂風速水の肉体を起点としているかのような強風によって、ぐったりとしたセーラー服姿の少女の身体はそのまま汚れた溝の近くまで力無く押し流されていく。
演算を元にチカラを行使する学園都市製能力者にとっては、視覚情報の撹乱とこの体調不良は何よりの脅威だ。今にも割れそうな膨張感を訴えてくる両耳を気にしながらも、
「風、を、操る能力者……!? でもっ、この出力は……どう見積もっても
「残念、僕のは風じゃなくて気圧操作だ。こちらとしては無理に殺し合うつもりもないけど、君からしたら最悪の相手だろう?」
「ッ……!!」
気圧。
ゲームや漫画といった創作物ではお馴染みの、
……流されるんじゃないぞ、と、
ただのブラフだ。敵を相手にして、自分の能力を馬鹿真面目に言いふらすメリットなどどこにもないはず。このミサカを脅して主導権を握りたいだけだ。しかし、そう思えば思うほど、彼女の思惑のドツボに自ら嵌っていくということにはたと気付いたタイミングは、
ブラフ上等。なにせ最初から彼女の目的は、この場で
単に、最初からこの場を離れることしか考えていないのならば。ほんの一瞬でも戦いを躊躇させるだけ――まさにそれこそが、絶対的な『勝利』の条件として機能してしまうのだから。
「白状してしまうと、その子が最後のターゲットだ。だから素直に逃げさせてもらう」
まるでハンググライダーだった。
ッパァァァァン!! と、すぐ足元で爆発させた空気に乗って、少女の身体は一気にビルの上まで飛び上がる。傘のような細い骨を内側に仕込んでいたぶかぶかの白衣が大きく展開して、彼女は怪盗か何かのように悠々と空を飛んでいた。
「っ、ふざけ、ないで……!!」
気付いた時には、
バヂィッ!! と。
スタンガンのように人体を痺れされようと放った電流は、匂風の振るった腕の軌跡を辿って見当外れの方角へ逸れていく。
「路地裏を探れとキミ達を誘導したのは他でもない僕だったが、今まで出来損ないの廃品回収作業に従事してもらって随分とご苦労様でしたって所だ。もう君達に用はない。安心していい、後に残ったのは僕一人でやるべき仕事だから」
「だからここは黙って見逃せって!? 事情があるなら詰め所で聞く。あなたが巻き込まれた『実験』とやらも『依頼』の内容も、ミサカが見過ごせるようなものだとは思えない! ってミサカは……!」
「お涙頂戴の話じゃないんだよ。追いすがって断罪するつもりなら、せいぜいもう少し迷いの少ないヒーローか悪党にでも頼むことだ。それに僕を止めるには出力不足だぜ、気圧の壁に容易く阻まれるような電撃程度じゃ」
何度も言うが――キミの出番はここにはない。
いっそ吐き捨てるような少女の嘲りに、高山病の名残とはまた別の高熱が
「――そうでしたの、不躾な後輩が失礼しましたわね。ではベテラン
幾本もの短い金属矢が、匂風速水の真っ白な翼をズタズタに引き裂きはじめる。
「……ッ! キミは――」
「白井先輩!? ってミサカはミサカは驚愕してみたり!」
「
途端にガクンと高度を下げる白衣の少女に、空中で飛び上がった白井黒子がすかさず肉薄する。階段を一段飛ばしで駆け上がるように
気圧変動の影響に曝されて、複雑な十一次元演算式を構築できなくなる――よりも早く。
縦横無尽に動き回り座標が捉えづらい標的が相手ならば、息をつかせる間もなく接近して、本人の体に一度手を触れる。それで終わる。全ての戦術はスピード勝負。
それでも、匂風の表情からはまだ、余裕が消えない。
ッッッパパパパン!! と爆竹のようにけたたましい音を立て、小規模な空気の爆発が白井の猛攻を阻む。強引に高度を上昇させて再び距離を確保した匂風は、唇だけを歪ませてポシェットから取り出した操縦桿らしき道具を手に取っていた。
「一度でもキミに座標を捉えられたら、確かにそれで僕は詰みだろう。捉えられたらの話だけど」
「。流石にやりますわね。……ですけど、おしゃべりしている暇までお持ちですの!?」
強烈な頭痛に顔をしかめながらも――白井黒子の小柄な影が、パラグライダーの真上へと移る。
おそらくは、匂風速水のすぐ背後への移動を試みたのだろう。集中を乱されながらの能力行使は、いつ致命的ともなりかねない座標の誤差をわずかずつ生じ始めていた。
だが、自身がめり込んでしまうような障害物の極めて少ない空中戦は、むしろ白井にとっても好都合だった。獰猛とも形容できそうな勇ましい笑みとともに、細い両腕を標的の首元まで伸ばそうとした矢先――。
「ッッッ!!」
最大限に広がった白い翼の下で、匂風が狙っていたのは白井ではなかった。
手の内に幾つも転がした、スーパーボールのように小さな球体。バシュ!! と、球威に高気圧の爆風を乗せ、砲弾のごとく放たれた得体の知れない凶器の向かう先には――気絶した少女を抱えながらも憔悴した様子で空を仰いでいた、後輩の姿。
「……ぁ、……!?」
「この……、下衆がッ!!」
迷う余地など、あるわけがなかった。
即座に地上まで自身を
バッコァァアアアアアアアン!! と。
強引に内圧を高められた強化ゴムははち切れて、薄暗い路地裏の一角で葡萄の房のように連鎖的な爆裂をもたらした。
反則ですわよ、と白井黒子は歯噛みする。
空気が轟き、単なる土埃よりもいくらか大粒の何かがパラパラと背中に降り注ぐ。標的から離れたことによって気圧の呪縛を逃れた自身を含めて、腕の中にかくまう後輩と
(……気圧操作能力。口で言うには容易いですが、こんなのチートもいい所ですのよ。大気を操り暴風を起こしたり空気を爆発させるだけでは到底収まらない、その気になればチャチな構造物や人体などはいくらでも押し潰せるはず。仮にそれら全てを代償や制約なく達成できるというならば、彼女は間違いなく
「……先輩……、って、ミサカはミサカは……」
「病室を脱走したことと、わたくしへの報告を怠ったこと。これらについてのお説教は後ですの」
捨て犬のような目でこちらの顔を見上げてくる
その眼差しは、とっくに姿を消したあの少女がいた上空へと向けられている。
「ただ……ここに貴女が来るのがあと一分でも遅かったならば、そこで眠っている彼女が今頃どうなっていたか分かりません。まぁ今回ばかりは結果オーライというヤツですのよ」
「……でも、匂風速水を引き止められなかった、ってミサカはミサカは自分の無力を嘆いてみる」
「それはお互い様ですの。とにかく、一緒に彼女を病院まで連れて行きましょう」
ぽつり、ぽつりと。
気が付けば、上空に形成されていた小さな雨雲から、第七学区を中心に局地的な雨が降り注いでいた。白井は羽織っていた薄手のカーディガンからおもむろに腕を抜くと、意識を失った逸海縦帆の身体へと優しく被せていく。
それを抱きかかえながら、
『――ご自慢のネットワークを玩具にされた落とし前は、やっぱり自分で付けたかったのか?』
『お涙頂戴の話じゃないんだよ。追いすがって断罪するつもりなら、せいぜいもう少し迷いの少ないヒーローか悪党にでも頼むことだ』
『何度も言うが――キミの出番はここにはない』
(……このミサカには、届かない……? 綺麗事でもなんでも、ただミサカは、誰一人傷付けずに、
一人の少女が掻き乱した灰色の空から、温い雨粒は――まだしばらく降り止みそうになかった。
5
薄暗い病院の待合では、窓の外から聞こえて来る気味の悪い風の音ばかりがしばらく響いている。
死んだように眠る逸海縦帆を例のカエル顔の医者に託してから、
普段の能力者相手の捕り物でだって、もっと派手な怪我を負うことは少なくない。白井も
「もうすぐ初春もこちらに駆け付けてくるそうですが……監視カメラや警備ロボは、あの少女の足取りを捉えきれなかったとのことですわ。まぁ、相手がデータ改竄のスキルを持っているような組織と手を組んでいるというのは、当初から十分に予想の範疇でした。でなければ流石に『
「……」
「気圧操作、それが彼女の能力だというのはきっと本当でしょう。繊細な気圧と酸素分圧の操作は脳に干渉して、人間の行動や思考さえも操れると聞きますの。まして被害者たちの症例にあるような、特定の神経細胞をミクロンレベルで押し潰すことができるほどの技術力を有しているのならば……、二日前に御坂が食らったネットワーク設定への干渉も、彼女にとっては全く不可能ではないはずですのよ」
公認
極端な低気圧に間近で晒された影響か、いまだに顔色が優れない白井は、仰々しい点滴が刺さった左腕を不服そうに持ち上げながら語る。
勝手な行動をしたくせに、被害者を減らすこともできず実行犯には逃走を許し、結果的には先輩に自分を庇わせてしまった。その事実は、白井自身の淡々とした受け止め方とは関係なく、
「……彼女がミサカ達のネットワークにアクセスした理由。最初は、各個体の視野と電磁波を利用した単なる偵察のためだと思ってたんです、ってミサカはミサカは路地裏を飛び回っていた数十分前までの自分の考えを思い返してみる」
「御坂……?」
「でも、それだけじゃなかった。それだけでいいのなら彼女は真っ先に『
合計七回の襲撃。そのポイントを地図上にセットして俯瞰してみると、一つ一つの地点にはやはり共通点があったのだ。
「ミサカ達が製造された理由――『あの人』が一〇〇〇〇余りの下位個体と繰り広げた戦闘シナリオ。事件現場は、あの時ミサカ達が屋外実験で使用したいくつかの地点から、すぐに出てこられるようなポイントばかりだったんだ……、ってミサカはミサカは、自ら彼女にとっての潜伏場所を提供していたっていう事実に……正直ショックを隠せなかったり」
奪われた情報、それは――
人通りが少なく、どのような惨劇が起きても証拠隠滅のための数十分ぐらいはどうにか時間が稼げるであろう地点。学園都市内で隠密に殺し合いを演じるために練り上げられたその情報こそが、おそらくは匂風速水にとっての本命だったのだ。
長い廊下の奥の方から、二人分の慌てたような足音がトタトタと響いてくる。
病院にしては結構な速度違反でこちらに走り寄ってきたのは、制服姿にも関わらず『帽子』を装着した状態のフレメア=セイヴェルンと――何やら小動物ライクにぷるぷると恐縮している様子の初春飾利を、見事にお姫様抱っこしたフロイライン=クロイトゥーネの姿だった。
「お子様、お姉ちゃん……、ってミサカはミサカは顔を上げてみる」
「……
「いやそのようなシリアス顔で登場されてもそのシュールな手荷物の存在感は少しも払拭されていませんのよフロイラインさん。というか貴女もですわ、この非常時にいったい何を意味不明なVIP待遇を受けているんですの初春」
「わ、私だってここまでの道中顔から火が吹き出しそうな心情でしてねぇ……!? 仕方ないんです足が遅いんですから! 業を煮やしたフロイラインさんが『この方が早く着くんです早くしろ』って! 半分以上強引に!!」
ストンと着地した初春が、顔を赤くしながら白井へとまくし立てる。
彼女は手にしていたタブレット端末の画面を気にしながらもソファへと近寄り、フレメアやフロイライン達よりも数歩早く
「……色々と隠したこと、謝ります。私も白井さんもそれが最良の判断だと思ったんですが、結果的にただあなたの焦る気持ちを煽っただけになってしまいましたね」
「初春のお姉ちゃん……」
そんなことない、と
隠し事は、もうしないということだろう。
仲間内だけで穏便に取り調べをして事件の芽を摘むには、どの道もはや遅すぎるからだ。
「匂風速水という女子学生の情報が『
「にゃあ……、
「……あの忌々しい
おそらくは、その実験こそが被害者たちと匂風速水の接点であろう、と。あの少女の能力を見せつけられた後では、嫌でも納得する。
仮に彼女がほのめかした一連の発言を全て真としたならば――
(……。本当に……? ってミサカはミサカは違和感を拭いきれずに熟考を続けてみる)
何かが、おかしい。
ここに居ない少女のミスリードに、いまだに乗せられているような気さえする。
『――お偉いさんからのオファーがあってな。天才発明家サマのありがたい脳味噌にあやかった、とあるくだらない「実験」の後始末なんだが、利害が一致していたから協力させてもらうことにした』
そもそも、彼女を唆すオファーを出した人物とは誰なのだ?
彼女の背後には、一体何がある?
そしてあれほどまでに下準備を重ね――匂風速水が葬り去ろうと固執する『彼らの中の匂風速水』には、一体、どんな秘密が隠されているというのだろう?
「……いずれにせよ。今となっては、あの少女は我々の目の前で無力な子供を害し逃走した、殺人未遂の現行犯ですのよ」
点滴の針を強引に引き抜いて、白井黒子は初春飾利の手を借りながらもソファからおもむろに立ち上がった。
「!? ど、どこに行くつもりなの先輩、ってミサカはミサカは……!」
「決まっているでしょう、
ズキンと、言葉を受けた
何も事情が掴めていないまま『凶行』として処理するなんて、そんなのは途中で投げ出すのと何も変わらないのではないか。あの匂風速水だって、どう見てもまだ高校生そこそこの学生なのだ。得体の知れない大人に操られているかもしれない少女の、その非行を止めることすら、
「そんなのって……!! ってミサカはミサカは……」
「残念ですが、あの時現行犯で捕まえられなかった以上は、我々の管轄からはとっくに外れていますのよ。被害者はあの少年少女たちだけではなく、これからだって増えていくかも知れない。……何より、貴女は三日前に彼女のターゲットに据えられたばかりでしょうに。その貴女が出しゃばってどうするんですの? まさか、相手の境遇に半端な同情をして手を差し伸べるつもりなどではないですわよね?」
「……ッ」
「アホ毛ちゃん……悔しい気持ちも分かります、でもこればっかりは白井さんの言う通りですよ。私達は組織に属する立場なんですから、個人の感情で動くには限度っていうものがあります。……ありのままを上に報告して、然るべき方々に任せましょう。それが今の私達に出来る最善のことです」
見かねたように口を出しながら、初春は手近にあった車椅子を引っ張ってきて白井へ腰掛けるよう促す。それをきっぱりと固辞しつつ、第一七七支部の派遣リーダーは細い手で手すりをぐっと掴んでいた。
背を向けてゆっくりと廊下を移動し始める二人からの言葉が、
気道をせり上がるような熱量をはらむ感情は、およそ普段の
「……『上』って、誰なんですか? ってミサカはミサカは訊ねてみる」
無意識に、立ち上がったその足取りは彼女らを早歩きで追いかけていた。
目の前にあった初春の服の裾を掴むと、彼女は戸惑いと困惑を上塗りしたような顔で歩く速度を緩める。
「あ、アホ毛ちゃん……?」
「聞いて先輩達。現状、匂風速水の正体に一番近付いているのはミサカたちだよ。そのミサカたちが解決出来ないことだって早々に匙を投げて、武装した大人達の手で一人の人間相手に銃器を向けて叩き潰そうとするのが、本当に最善って言えるの? ってミサカはミサカは疑問に思ってみたり」
「御坂、あの出力を見たでしょう。彼女は危う過ぎますの、悠長に話し合う余地など得ようと時間稼ぎしていては先程の二の舞です。対能力者用の装備が揃っている
「
「それは――」
嫌な予感で胸がざわつく。
何か、現在進行形で自分らをも取り巻く不穏なムードの流れが造られているような気がしていた。
暴力という解決手段の危うさを、
彼女のしでかした事には同情の余地があるのか無いのか、実のところ
今こうして、どこかの誰かがセッティングしたヘイトにただ乗せられて、たった一人の少女への暴力に手を貸すのならば――
「白井先輩……『然るべき人』とやらは、彼女のことを正しい意味で止められるんですか? ……ミサカには今の自分たちの姿が、彼女を本物の『怪物』にしようと背中を押している真っ最中にしか思えないよ、ってミサカはミサカは――」
「今が非常時であるという点に目を瞑れば、そのような青臭い批判を被るのも致し方ありませんの。それも
歩みを止め、手すりに腰を引っ掛けて軽く体重を預けた状態の白井黒子は、それでも真っ直ぐに対等な瞳で
「他にどうするつもりですの? 理想を語るのは結構ですけれど、世の中何でも対案が無くては誰も耳を貸そうとしませんのよ」
「……ミサカネットワークも使って、匂風速水を取り巻く環境についてもう一度しっかりと調べます。彼女が拠点としていた場所は分かったんだから、虱潰しに探れば例のパトロンに繋がるヒントが得られるかも。それに、
「アホ毛ちゃん!! そ、そんなの危険すぎます……! 現にあなたも白井さんも――!」
彼女は最初からミサカ達を害する意図はなかったはずだよ、と。
悲鳴じみた調子で語り掛けてきた初春飾利に対して、
「そもそも自分から
それさえ理解して、法と道徳に則る形で、可能な限り彼女の抱えるものに寄り添うことが出来たならば。
きっと、それは無駄ではない。
新しい『怪物』をこの世界に産み落とすのをただ黙認するよりは、あの時――等身大の変人発明家として公園の子供たちに慕われていた彼女の、何でもないような戯れの中の笑顔を信じていたい。あの光景を拳で打ち壊すことそのものが、
ただの日和見かもしれない。ただでさえ悪意が薄いクローン人間という立場から、大して知りもしないヒトの善意を勝手に見出すなど、性善説の妄信者と言われてしまっても仕方がない。
それでも。
それでもだ。
「――彼女の発言全てが、偽悪を装って事情を深読みさせるところまで計算ずくであるという可能性。それを差し置いてまで達成したいのが、拳を握らずにあの少女を救うことなんですの?」
廊下の曲がり角の、一歩手前にて。
足を止めた二人の正面に回って立ち塞がるちっぽけな新米
「愚かだって言われるかもしれないけど、試す価値はあると思うの。……迷子を止めるのに必要なのは、暴力や拳じゃない。そんな悲しい法則も破壊できないような学園都市なんて、絶対に間違っているよ」
「……」
「だからもう一回だけ、ミサカ達の力で彼女を止めるためのチャンスをください! ってミサカはミサカは正々堂々とお願いしてみ
「
背後から声が聞こえて――何をされたのか、分からなかった。
「。――」
ぎくりと肩を強張らせた
意識を無くした後輩少女を条件反射的に受け止めた初春飾利は、いきなり現れた非日常の象徴のような人物を前に、思わずひくりと喉を痙攣させる。
三日前に詰め所を訪れた際とは、明らかに纏う空気が別人だった。
けれど、違っていて当然かもしれない。漠然と察知した不穏の芽を追いかけていただけのあの時と――明確に、
「だ、第一位、さん……!?」
「オマエらには別の働きをしてもらう。本命の処遇はとっくに統括理事会によって決定済みだ。
首筋のチョーカー型電極にあてがっていた細い指を離しつつ、着崩したシャツにスラックス姿の
「だがまァ、脳内花畑のクソガキやオマエらに任せておく方が妥当な仕事ってモンもあるだろォよ。
「……非常に似合わないフォローのお言葉に感謝しておきますの。それよりも」
あからさまに胡散臭そうな顔を見せながらも、白井は第一位に視線を合わせようとはしなかった。
彼女が目を向けているのは、脳を流れる電気信号を強引に操作された結果、ブレーカーが落ちたかのように意識を失ってしまった
「これで……良かったんですの?」
「半端な馬鹿が半端な覚悟で関わってくるぐれェなら、こォして寝ていられる方がまだ有益だ」
初春から幼い少女の身体を引き取って、すぐ近くのベンチに横たえさせる。
道を自ら踏み外した人間を、犠牲なしで引き留めようという考えが既に浅ましい。善良すぎるがゆえにヒーローにすらなりきれない、彼の知る
「拳を握ンのすら怖がってるよォなクソガキに、そンな役どころが務まるモンかよ。二兎を追うのは間違いなく馬鹿のすることだが、こいつは目ェ付けた獲物の方からこっちの領域に飛び込ンできてくれると信じ切ってやがるから話になりゃしねェ」
「過保護ですの」
「過保護ですね」
死ね、という第一位からの非常に簡素なコメントのみが
先程まで待機していた待合席から離れたことにようやく気付いたらしき看護師たちが、白井用の点滴を携えてぱたぱたと掛けてくる。病院内での対応としては当然ながら、すぐそばで気絶している
彼女らはここで、先ほどからうっかり見逃していた、とんでもない違和感に気が付いてしまう。
「……あれ? フレメアちゃんとフロイラインさんは一体どこに……?」
「ちくしょう、面倒臭せェクソガキがもォ二匹いやがった……!!」
6
フレメア=セイヴェルンは第七学区のビル街――正確には、
身軽に障害物を乗り越えながら、金髪の少女は頭に被った『帽子』が飛んでいってしまわないように片手で押さえる。彼女の表情は、日頃コロコロと変化しがちな彼女の心模様の中でも、かなりの『怒』に振り切れたパターンをその整った顔面に映し出している。
(……まったく! 話を聞いてみたらとんでもなく身勝手なヤツじゃないか! 不本意に巻き込まれたんだか何だか知らないが、『実験』の恨みとやらを子供の方にぶつけるなっての!! 大体、
いかにも怪しげなキーワードを初春飾利の口から聞かされたあたりのタイミングから、ただ黙ってあの場所に留まっていてはいけないと自然に思っていた。
あの子供のように、持て余したチカラの使いどころなどについて迷っている場合ではない。
そもそもフレメアは
だったら、動くしかないだろう。
「にゃあ……」
規則性に従って辿り着いたのは、最後の襲撃があった現場の程近く。
普通には近隣学生の抜け道にも使われないような吹き溜まりの一角で、今は何故か複数人の気配がしていた。立ち入る前にそれに気付いたフレメア=セイヴェルンは気配を殺して、少しずつ物陰から接近しつつ耳を澄ませる。
遠くの方では、二〇人近くの大人たちが、溝や壁などにスプレーを吹き付けながら世間話のように言葉を交わしている。一様にマスクをはめて白を基調とした制服を身に着けているその姿は、特殊部隊の尖兵と言うよりは、何となく白衣の医者たちの総回診などを彷彿とさせた。
熱心なボランティアがこんな場所まで清掃に来ているのかとも思ったが、どうやら違うようだ。
そこに居たのは――
「――全く、
「まぁ、――それも最後のターゲットを……――までの辛抱じゃないか。例のモルモットの一人、確か……
「あま――喋りすぎるなよ。『先生』のご機嫌を損ねちゃ……何にせよ探すならさっさとしないと、ヤツの『リミット』がいつ来るか……――」
(……ちっくしょう、大体いきなりの大当たりか!)
間違いなく、コイツらは匂風速水と同じ雇い主を持つ連中だ。
風に乗って断片的に聞こえてくるのは、あの少女が
遠くから見る限りは、相手は訓練を受けた傭兵などではない。その代わりに数が多い。いくらフレメアが普通より修羅場慣れしているといっても、武器を携えた大の男二〇人というのは、とても生身の少女一人で制圧できるような人数ではない。普通に考えれば、彼らを静かに尾行してその拠点を白井黒子達に伝えて、十分な応援を呼び寄せるなどが最も考え付きやすい策である。
もちろん、彼女も最初から、生身で正面から躍り出て彼らの暗躍を止めるなどという愚行を働くつもりは全く無く。
「……にゃあ。大体、使えるものは何でも使う主義なんだ。この『帽子』も――あなたたちの情報も」
それでも――現在進行形で狙われている、最後のターゲットとかいう子供の存在を知ってしまっておきながら。目の前で、その凶行の下準備を拝んでしまっておきながら。
ヒーローを目指す身としては、彼らの襲撃を黙って見守っているわけには、絶対にいかなかった。
「――
ソプラノの声がこだました直後。
物の例えではなく――
それが、フレメア=セイヴェルンが今ここで仮初のヒーローとして行動開始するための、紛れもない一つの合図となった。