少女は紛れもなく、破滅への道を歩んでいた。
それは紛れもなく、少女自身が望み願って踏み出した道だった。
「――何を不満なことがあるんだ? 被験者連中を『リミット』が来るまでに無力化するのがあなたの目的だろう。それならば現状、僕のパフォーマンスはあなたの注文に対して最大限の成果を出せていると思うけれど」
埃っぽいビルの隙間で、何かの破片をパキリと靴底で踏み砕く。
『彼女』の潜伏していた場所は、かつて
もっとも、野良学生の彼女にとっては、DNA一つ残らず酸で潰された後の事故物件など、逃亡しながら手軽に立ち寄れる『隠れ家』以外の何者でもない。およそ誰も触りたがりそうにないような小汚いポリバケツやエアコンの室外機にカモフラージュした生活用品や『発明品』で、彼女はこれまで二日間の通り魔生活を維持してきたのだ。
「こちらはサイコキラーの愉快犯じゃないんだ、傍からはそう見えるかもしれないけどね。彼らの中から『
『……私が依頼したのは、証拠隠滅ではなくて「処分」のはずだが』
「『回収』という言葉だっただろ。というか子供殺しの依頼にしちゃあ、僕への報酬がケチすぎだよ。
彼女の会話相手はここにはいない。数年前の学園都市の重役にはよく聞かれた話だが、巨額を投じたオーバーテクノロジーの要塞に住まい、暖かい部屋の中から金と利権と悲劇を動かしている。この男は、巨悪の根絶を標榜する現代の学園都市においても今なお狡賢くコソコソと生き残っているような、そういう時代錯誤の小悪党だった。
『
『手足として貸し与えた研究員たちからの報告によると、正体不明の昏倒に偽装してモルモット共を次々に病院送りにしていると。だがそれすら既に失敗しているじゃないか』
「失敗? 能力の剥奪なら全てのケースがつつがなく終了しているはずだが。何せ『
『
「相変わらず嫌に懐疑的だな。足りてないアタマで一生懸命考えない方がいい、馬鹿が露呈するぞ」
少女はニコリとも笑わない。ただ携帯端末の通話口に一言囁いてから、携帯用の細い酸素ボンベで息を継ぐように一口、深呼吸をしていた。
『
それは、天然ものの『神様の頭脳』とまで囁かれたとある人物のパーソナリティを弄んだ、ありふれた悲劇の一端だった。
当時、上位の研究機関が独占していた
ただ、それだけなら、この腐った町の中ではただの笑えない昔話で済まされてしまう。だが――わずかに生き残った八人の被検者全員に『暴発』のリミットが迫っていると今になって判明したことは、計画に関与していた上司に全責任を負わせ切り捨てていた岐閥にとっては寝耳に水だった。
このドブネズミみたいに狡猾ですばしっこい小男は、いずれ『匂風速水』を抑え込めずにモルモットたちが街中で『暴発』してしまうことによって、せっかくあの女狐から隠し通すことに成功していた自身と計画との関わりが露呈する事を恐れた。
だから、被検体の能力を『暴発』よりも前に奪ってから、『処分』してしまうことにしたのだ。
かつての関係者たち――大概は統括理事長と『
忌々しい『匂風速水』を破壊するには、『
そういう結論を得たため、岐閥腹心は数ヶ月ほど前から『彼女』に接触し、工作班のリーダーとして雇う形で衣食住と報酬と、
『貴様がどこまでこの状況を計算していたのかは知らんが、被検者の身柄を預かっている
「ちょっと待ってくれよ、モルモットの回収はそもそも僕の仕事じゃないだろうが。文句があるなら、
『
「……おいおい」
大きな眼鏡に大半を隠された、少女の顔面が凍りつく。
明らかに、空気が変わった。それを肌で察知した『彼女』は室外機に偽装した生活用品から重たい腰を上げると、革靴でゆったりと歩みを進め始める。
アドレナリンが
「そんなに怒らないでおくれよ。なぁ、僕たち大切な仲間じゃないか?」
『このままでは遅かれ早かれ、学園都市内一〇〇〇人以上の軍用クローンや『
「……あぁ、嫌だな。そうか、『命で支払え』ってことか」
『察しがいいな、じきに貴様を始末するための追っ手が来る。貴様の能力や戦い方の特性を知り尽くした連中だ、「匂風速水」の思考を砕く特製のジャマーをありったけ持たせている。他ならともかく貴様は敵わんさ。だが、私も鬼ではない。ここまで働いてくれた功労者の遺言ぐらいは聞いて
「
直後。
通話口から空気を焼き切る音と、爆発的な轟音が遅れて響いた。
うわあ、と滑稽な男の悲鳴が聞こえた気がする。血液を過剰に循環させ、喉をひくつかせるような鼓動を堪えるように手をあてがい、苦しそうに前かがみになりながらも――少女は、それまで氷のようだった表情を段々と歪めていく。
そう、笑っていたのだ。
落とし穴に嵌ったターゲットをくすくすと嘲笑する、バラエティ番組の仕掛け人のように。
「お前の根城まで分かりやすくばら蒔いておいた種を辿って、ようやく統括理事長の礼状を携えた掃除屋のお出ましだ。こんなに上手くいくなんて思わなかったよ。それにしても、
『あっ、が、う……あああ』
鼓膜か頭をやられたのか、辛うじて通話が繋がっている状態の岐閥腹心からはおよそ理性的なリアクションが得られない。
代わりに聞こえてくるのは――モニタリングルームのスピーカーから垂れ流されているらしい、不遜な侵入者が暴れ散らしながら朗々と零している独り言だった。
『ジジジ……あーあーあー、
通話が途切れる。
二度目の暴虐の波は、岐閥の隠れ家を護るインフラを今度こそ完全に潰し切ったようだった。
それを承知で、なお少女は端末へ語り掛ける。
「最後まで気付かれなかったのが幸いなのか何なのか、な。僕が掲げてる一番の仇敵は最初っからアンタだったよクソったれが。これは――
切り崩されたアンデンティティに縋りつくことはもはや馬鹿馬鹿しい。個としての人格など、とうに幾多もの薬品でケミカルに脚色され、コピーライトもあったものじゃない。『彼女』の人格は、もはやずいぶん昔に凌辱され消え失せてしまった。だから『彼女』は、あいつらの汚い手で幾つにも切り分けられた『匂風速水』の処遇をどうにかしないといけなかったのだ。
何もない『彼女』に与えられた役割は、『匂風速水』の名前を、ただ一人の所有物に戻すこと。
復讐者としての使命を受けたなら、脇目を振らずにそれを成せ。
そうなるよりも前に、たった一つだけ守りたい矜持があった。だから。
「それさえ……叶えられたら、僕は」
とうに通話の切れた端末を、後ろ手に放り投げて。
『
「――
少女は紛れもなく、破滅への道を歩んでいた。
それは紛れもなく、少女自身が望み願って踏み出した――地獄へ続く道だった。