しばらくオリジナルです。
氣月 乙日
ようやっと身体を動かせるようになったので久しぶりに日記を書く。動けると言っても激しい運動は無理。師父からはしばらく安静にしていろと念を押されてしまった。
あの猿との戦いから数日の間、俺は業の反動と蓄積した疲労心労諸々によって死んだように眠る羽目になった。更に目が覚めても凄まじい筋肉痛によって腕を持ち上げることすらできず、今日になってやっと動き回ることができるようになった。
奴との勝負の結末はどうなったのか、俺自身は正直覚えていない。戦っている途中から意識が半ば飛んでいたというか、とにかく我武者羅に食らいつくことしか考えていなかったのだ。最後に一発だけ入れたような気もするが、まあ大したダメージにはなっていないだろうな。手応えも微妙だったし。
しかしあの猿は一体何者なのだろう。樹海には多種多様な常識を那由多の彼方へ投げ飛ばした怪物共が生息していたけれど、奴はその中でも群を抜いて異質だ。強いというのもあるが、それ以上に奴は他の化け物共とは纏う雰囲気が違った。正直獣ではなく人間と戦っているような気分だったもの。
そのあたりの疑問を師父に尋ねてみたのだが、返答はどこか的を射ないものではぐらかそうとしているのが見え見えだった。ここにも言い辛い事情があるのか。
言いたくないことであるのなら訊かない。誰しも他人には言えない悩みの一つや二つ持っているものだ。無理に暴くものでもないだろう。俺だって転生者という特大の爆弾を抱えているのだから、お互い様だ。
でも、俺と師父の二人しかいないこの世界で隠し事をされるのはちょっと堪える。傲慢な考え方だとは自覚しているが、仮にも息子である俺にすら話してくれないのは少し寂しい。
氣月 蘇日
俺氏、完・全・復・活! ヒャッハー、二週間ぶりの娑婆の空気は旨えぜ!
……ふう、漸く庵から出られたせいかちょっとテンションがおかしくなってしまった。いやはやお恥ずかしい。でも仕方ないよね。やっと師父から外出と修行の許可を頂いたのだもの。気分が上々するのも当然だ。
当然のように修行をしようとしている俺。樹海に放り込まれる前、正確に言うならばあの猿と出会う以前であったらあり得ない思考だ。前の俺なら自発的に鍛錬をしようだなんて考えもしなかっただろう。
だが今の俺には越えねばならぬ壁がある。相手が猿というのはちょっと格好がつかないが、文句は奴を完膚なきまでに下してからだ。現状の俺は互角以下でしかないのだから。
そのためにまずすべきことは縮地の完成。結局中途半端なまま止まっているこの奥義を完全なものにする。全てはそこからだ。
だから師父ー、縮地見せて教えてー! お願いします何でもしますから!
氣月 驚日
一言、師父の縮地はヤベェ。何がヤベェって、超ヤバくて何が何だか分からない。
ありのまま昨日起きたことを話すぜ。俺は師父の縮地を参考にしてあわよくば教えを請おうと思っていたんだが、目の前にいたはずの師父が何の前触れもなく消えたと同時に背後から肩を掴まれていた。何を言っているのか分からねーかもしれねえが、俺も分からん。催眠術とか超スピードとか、そんなチャチなもんじゃねえ。もっと恐ろしものの片鱗を味わったぜ。
余計ややこしくなったので端的に俺自身の感覚で説明すれば、正面にいたはずの師父に背後から肩を叩かれた。これだけなら目にも見えない速さで背後に回ったとも取れるが、違う。師父が消えるのと肩が叩かれたのは
つまり師父は俺の目前から縮地で移動し、全くのタイムラグゼロで俺の肩を叩いたのだ。俺からすると師父が同時に二人存在していたように感じられたといっても過言ではない。
改めて言おう。うちの師父がヤバイ。だってこれが事実なら、というか間違えようのない事実だけど。師父は一歩で千里を往くどころか一歩で軽く時空を超えていることになるのだ。こんなの絶対おかしいよ!
師父の縮地を参考にしようとか愚考してたけど、無理だ。幼児がいきなり東大の入試問題を解けると思う? いるかもしれないけど、俺には不可能です。もっと段階を踏まないとできません。
というわけでやって来ました樹海。目当てはあの猿。業腹だが現状最も参考になりそうなのは奴の動作なのだ。鹿はもう盗み尽くした。師父はまだ無理。よって消去法で猿。
しかし仮にも奴は我が不倶戴天の敵でありライバル。そんな奴に教えを請うのは屈辱以外の何物でもない。バトル漫画なら胸熱な展開かもしれないが相手が猿である時点で熱くもなれない。
だが贅沢も言っていられない。俺は猿を超えると心に決めたのだ。そのためならば苦汁を飲み辛酸を舐めようと構わない。それだけの覚悟はある。
さあ始めようか白髪猿。楽しい楽しい鬼ごっこの始まりだ。
氣月 失日
あーなんか自信なくすわー。何なんだよあの猿、前に戦った時より疾いんですけど。追い縋るどころかグングン距離を離されて置いてかれるんですけど。意味が分からん。
どうやらあのハゲ猿、前に戦った時は実力の半分も出していなかったらしい。つまり舐めプされていた。その証拠に全力の縮地で追っても今日は捉えられなかった。あいつ本当に猿なのん?
ちっぽけな自尊心を木っ端微塵に砕かれて今は傷心中。だがいつまでもくよくよしている訳にはいかない。むしろこの展開は歓迎すべきものだ。
越えるべき壁が更に高くなった。ならば俺はその高くなった壁をも超えてやろう。もう手段は厭わない。どんな手を使ってでも追い抜いてやる。
そのためにはまず奴の速度に追いつかねばならない。なあに、俺ならできる。知識は無駄にあるし、アドバイスは請えば師父が与えてくれる。環境は贅沢なまでに整っているのだ。あとは一心不乱に駆け抜ければいい。
氣月 走日
一歩音越え……二歩無間……三歩絶刀。某桜なセイバーさんの奥義ですね。ちなみに俺は未だ音すら越えていませんが。精々で一歩新幹線を越えるくらいだろうか。それでも未だ猿には追いつけないという理不尽。
これでもかなり進歩しているとは思う。何せ追いかけっこで置いていかれることがなくなったのだ。もう少しすれば追いつけるはず。
氣月 俊日
今日も今日とて懲りずに猿のケツを追っていたら、師父が酒とか摘みとか片手に乱入してきたでござる。何やら俺の修行の様子を見守っているだけでは面白くなかったそうな。取り敢えず混ざろうと互いの親交を深めるため酒宴を催そうとの考えらしい。
──つまり寂しかったと。
やだ、うちの師父が可愛いくて困っちゃう。そんなこと宣ったら首をギュッとねされちゃいそうだから言わんけども。ただ俺としてはハゲ猿と仲良くなんかなりたくないわけで、そもそも前提として俺未成年ですし。
え? 仙境の法は儂? んな無茶苦茶な。でも実際法律云々はないわけだから罰せられることはない。ただあんまり幼いうちから飲むと身体の成長に悪影響が出かねないからさ。
と言って辞退しようとしたものの一蹴。仙境に湧く酒が害になるわけなかろうと逆に論破され、渋々ながら酒席に着くことに。俺、まだ五歳なんだよなぁ……。
感想を述べるのなら、酒は文句なしに美味しかった。前世でも飲んだことがないような美酒で、正直もっと飲めば良かったと今更ながら軽く後悔してる。でもそれ以上に衝撃的な事実が明かされて酒どころではなかったのだ。
まさか仙人たちの成れの果てが──
氣月 迷日
酒の勢いで言ったのもある。だが何れは話すつもりだった。今朝起きて開口一番に師父の口から告げられた言葉だ。
分かっているとも。こんな事実、知れば誰だってショックを受ける。俺の精神性が成熟してから真実を話すつもりだったのも嘘ではないだろう。けどさ、これはちょっと驚くわ。
以前、師父以外に仙境に辿り着いた仙人たちの行方を尋ねたことがあった。何せ現在の仙境に人間は俺と師父のみ。ではかつてここに至った仙人たちは一体何処へ行ったのか。
答えは単純明快。仙境そのものと化したのだ。
仙人とは弛まぬ努力と研鑽の果てに行き着く人間の極致であると、座学で教わった。だがまだその先があったのだ。
死と老いを超越し、人の限界を超えた仙人はそこから更なる修行を積むことで欲や煩悩を完全に棄て去り解脱する。その時、仙人は遂に人であるという枷からすらも解き放たれ、一なる自然へと還るのだ。
つまり彼らは
正直鵜呑みにできる話ではなかった。だが実例を示されたのでは信じないわけにはいかない。まさか──
──ハゲ猿が元仙人だったなんて……!
え? 仙人の行き着く先が自然に還ることだと知ってショックを受けたんじゃないのかって? いやまあそれは驚いたけど、驚いただけだよね。そんなことよりあの猿だ。
俺を散々コケにしてくれたあの猿が元々は仙人の一人であったという事実に多大なショックを受けた。同時に奴の異常な強さにも合点がいった。元仙人ならそりゃ強いわ。
しかし妙な点がある。あの猿は確かに強いが、それでも師父と比べるとそこまで理不尽な強さではないと思うのだ。現にもう少しで足の速さでは並べそうだし。
その点について訊いてみると、「自然へ還る際、仙人はその力の大半を失う。彼奴はちょっとした事故で中途半端に力が残っているに過ぎん」とのこと。
ふむ、これまでの話を纏めると要は切り立つ断崖絶壁に立っているのが師父で、そこから飛び降りちゃった仙人たちが自然へ還った。ただしあの猿は何らかの手段を用いて崖の途中あたりに掴まっているようなものか。
なら師父はどうして崖から飛び降りないのだろうか?
いや別に師父に自然へ還れと言っている訳でなく、純粋な疑問だ。まさか師父に限って未だ修行不足だとは思えない。だって師父に欲とか執着とかなさそうだもの。
それを尋ねると、師父は悲痛そうに顔を歪めて言った。
「あるとも、儂にも捨て切れぬ欲がな……」
その時の師父の表情を俺は忘れない。そして誓った。
もしも俺に師父の捨て切れぬ欲を満たすことができたなら、この身が果てようとも叶えようと。それが俺にできる、師父であり母親である彼女へ返せる唯一の孝行だろうから。
現世とは次元を異にする仙境、しかしながら仙境にも昼夜や時間の概念は存在する。丁度今は丑の刻に当たる頃だ。
樹海の只中、パチパチと火の粉を上げる焚き火を中心に茣蓙を広げ、師父と白猿は静かに杯を交わしていた。火から少し離れた所では黒髪の少年が顔をほんのり赤くして寝息を立てている。
「お主もよく飽きぬな。そんなに京矢をおちょくるのが楽しいか?」
隣で杯を煽る白猿に師父が問う。返答はやはりない。しかし師父は別段気を悪くした様子もなく、からからと笑った。
だがその笑みはやがて仄暗いものへと変わり、最後には苦悶に満ちた憂い顔へと落ちる。
「羨ましいものだ。儂もお主と同じようになれたならば、こうも苦悩することもないのにのう」
その呟きに無反応を貫いていた白猿がピクリと肩を震わせた。
白猿の瞳に微かではあるが明確な感情が宿る。それは憤り。
「ああ、お主を侮辱している訳ではない。ただ純粋に羨ましいのだよ。お主らのように割り切れたのであれば、どれ程気が楽だったのかと」
そう言って師父は杯をぐいと傾ける。頬を仄かに朱に染め、伽藍堂のように暗い瞳で何処か遠くを見つめた。
「皆、儂を残して超えてしまった。儂だけが未だ欲を捨てられぬままだ。全く恥ずかしい事この上ない」
応じる声がないことを承知で、彼女は続ける。
「正直言って、諦観していた。このまま未来永劫、この地に縛り付けられるのだとな。──だがそこへ京矢が現れた」
昏い瞳に僅かに光が灯り、視線が穏やかに眠る少年に固定される。そこにあるのは慈愛と狂おしい程の
僅か二ヶ月足らずでその才覚を顕し、メキメキと成長していく弟子。その姿は師父の諦めかけていた欲に火をつけ、激しく燃え上がらせた。それこそ歯止めが利かなくなる程に。
「遠からず京矢は儂らの域に達する。その時、儂は己の欲を打ち明けようと思うのだ。惨い仕打ちだと思うか?」
「……フンッ」
「ははっ、相も変わらず辛辣な奴よのう」
乾いた笑声を上げて師父は杯の酒を飲み干す。その姿は酷く疲れ果てた老人のようであった。