大黒天①
すう、はあ、すう、はあ、と規則正しくもやや荒い呼吸音が響く。
無音に等しい病室で、ただ聞こえるのはベッドの上で眠る少女の呼吸の音だけだった。
「…………やっぱりそうだ」
呟きが漏れた。眠る少女の傍らに立った人影から漏れた声はけれど眠る少女にも、他の誰にも届かず消えていく。
「病気とかそういう類のものじゃないねこれ…………」
そっと、手を伸ばす。
眠る少女の顔に、頬に、指先が触れた瞬間、ぱちん、と小さく何かが弾ける。
「…………ああ、やっぱりそうだ…………至りかけてるんだ、だから抑えようとして反発してる」
手を引っ込める、指先を見つめれば、そこについた僅かな火傷跡のようなものがあった。
ふっと、手を軽く振ればそれも消えてなくなる、だが問題はそこではない。
「同格…………かな? でもどうして? 普通になるものじゃない」
他と比べて素養が高いのは分かるが、それでも限界を超えられるほどのものでもない。
否、素養だけで言えばもっと突き詰めたような存在がすぐ傍にいる。
年月をかければ或いは自分たちの領域にまで踏み込んでくるだろうと今の時点で思わされるほどの存在が。
それを比べれば、目の前の少女の才などたかが知れている。
極めて高い、だが高いだけだ。突き抜けてはいない。
だったらどうして、目の前の少女は突き抜けようとしているのだろうか。
「…………誰か、余計なちょっかいでもかけてるのかな?」
呟きはけれど、やはり誰にも届くことは無かった。
* * *
「まず、最初に言っておく」
俯き、僅かに溜めを作りながら男、マツブサは顔を上げ、はっきりと告げる。
「当面のマグマ団の活動を全面的に停止する」
動揺はあちらこちらで広がり、伝播する。
絶対的なリーダーのそれまでとは一転した言葉に、先の戦いを知る、つまりマツブサが真に信頼した同志たちは動揺も少なく、周囲を収めに動く。
やがてどよめきが収まった頃合いを見計らって、マツブサが再度口を開く。
「勘違いをしないで欲しいのは、私は今でも己が理想が間違っているとは思っていない」
陸を広げ、人類の生存域を増す。そうして人類の発展を目指す。
その思想を間違いだとはマツブサ自身、未だに思ってはいない。
「ただ…………やり方については、考え直す必要があると分かった」
先の戦いで、伝説のポケモンを使い理想を果たす、というやり方は致命的なまでに間違っていたことが分かった。
同時に、疑問を抱いた。
もっと良いやり方があるのではないか、と。
どんな手段を使おうと、目的が達成できたのなら構わないと思っていた。
そのためならば、その道中でどれだけの犠牲が出ようと仕方ないと割り切れると思っていた。
ただあの戦いを経て、思う。
自分は理想を果たすことに意固地になっていたのではないか。
多くの犠牲を払って得た結果に、そこに理想の世界は、自分たちの望んだ幸福はあるのだろうか。
あの怪物を見て、もたらす惨状を見て。
本当にこれでいいのか、そう思ってしまったのだ。
組織のトップが目的に迷ったまま組織が動くはずも無い。
故にマグマ団という一つの組織を一時凍結する。
そして。
「私は私の答えを探し、再び貴様たちの元へ戻ってくる。その時こそ、再びマグマ団が動き出す時と知れ」
自らがこうと決めたぶれない芯。いつからか見失っていたそれを思い出せるように。
まずは今の世界でも見て回ることにしよう。
「ホムラ、貴様には当面の組織の運営を任せる」
「ウヒョヒョ、了解しました、リーダーマツブサ」
その間のことは、何よりも自らが信頼する腹心に任せる。
面白いもので、何もかもが終わり、自棄気味に互いに腹を割って話をすれば、自身を裏切るつもりなのだと思っていた男は、その実誰よりも自分を案じていたことが分かった。
「カガリ、貴様は私と共に来い」
「アハ♪ 了解、リーダー」
自らの右手を信ずる部下は、自身と共に。
あの戦いの最中にあって、彼女が自身へと告げた言葉をマツブサは今でも忘れていない。
恐らく一生忘れることは無かっただろう。
彼女の言葉でマツブサは思い出したのだ、自分の理想は、自分独りで抱えていたわけではないのだと。
「最後に一つ、貴様らに言っておく」
全員の視線をマツブサへと集まる。
今から言う言葉きっと、彼らからしたらとてもマツブサ
厳格で冷酷なリーダー、それが彼らにとってのマツブサという存在だろうから。
だが今のマツブサはそうじゃない、そうじゃないことを思い出した。
だから、この言葉を告げよう。
お前たちは仲間なのだと。
いずれまた立ち上がる時のために。
今日の日を忘れるないで欲しい、と。
「また会おう――――同志諸君」
告げて、背を向ける。
その背を、カガリ一人だけが追った。
* * *
「つーわけで…………だ。しばらくは活動は止めになる」
アオギリの口から出た言葉に、団員たちがざわめく。
とは言っても、まあ分かってはいたことだ。
アクア団はすでにチャンピオンハルトの策によって一度壊滅にまで追い込まれている。
そこからチャンピオンに協力し、カイオーガの復活にも手を貸した。
だからこそ、団員たちも伝説の脅威を見て、肌で感じて、その恐怖を知っている。
アレを操ることなど不可能だと思い知らされている。
驚きこそしたが、まあ当然だろうと同時思っていた。
「何よりカイオーガが暴れまくったせいで、海の生態系が滅茶苦茶だ。海だけじゃねえ、陸の上でも異常を感じ取ったポケモンたちが住処を移したりして、どこもかしこもてんやわんやだ」
アクア団の理念はマグマ団とは正反対で、ポケモンの保全にある。
海を増やすのはその一環であり、最終的目的ではない。
故に、今回の一連の騒動で荒れた生態系を戻すのも活動の一環と言える。
実際、アクア団には生態研究などプロフェッショナルもおり、生息域からはぐれたポケモンの保護をしたり、保護したポケモンを元に生息域に連れ戻したり、荒れ果てた生態系に手を施したりと様々なことをしてきた。
特に不味いのは海だろう。
グラードンは幸いにして…………というべきなのかは分からないが、ほとんど同じ場所で戦い続けたため被害範囲自体は比較的狭い。
いや、『えんとつやま』一つ潰れてしまっているので決して軽い被害ではないのだが、それでも世界を滅ぼしかねないポケモンが暴れまわったと考えれば随分と安い被害と言える。
とはいえ、そこに住んでいたポケモンも存在するわけで、後でそのあたりでも活動することになりそうだが。
話は戻すが、グラードンと違ってカイオーガは海底洞窟からルネシティまでかなりの範囲移動しながら暴れまわっていた。
陸上ではそれほど被害は見られないが、海…………特に海中では大渦と波のせいで海流が滅茶苦茶に荒れていたことは想像に難くない。
かなり広範囲に渡って海のポケモンたちの生息域がシャッフルされてしまっている。
海で住むポケモンたちにとって生息域というのは重要だ。
生息域というと分かりにくいかもしれないが、言い換えれば生存圏とも言える。
例えば水温一つ取っても海底と海上で随分と変わる。すると海底にいたポケモンが海流に攫われて海上に浮かぶだけでも環境の激変についていけず衰弱することもある。
他にも獰猛なポケモンの縄張りに流されればどうなるかなど分かりきったことだし、その縄張りにいたはずの獰猛なポケモンが別の場所に流され、その周辺を荒らせばどうなるか、ということだ。
海のポケモンは環境によって住み分けができており、そこには美しい食物連鎖のピラミッドが築かれているのだ。
カイオーガの存在は他の全てのポケモンにとって劇毒に等しい。
ギャラドスやサメハダーなどの凶悪なポケモンにとって、その存在の気配で逃げ出すような圧倒的な存在だ。
それが移動しながらさらに暴れまわっていれば…………今回の騒動でどれだけ生態系が崩れたか、それを考えるだけで頭痛がする。
「イズミ、先にルネに行って状況を見てきてくれ」
「分かったわ、アオギリ」
「ウシオは『えんとつやま』だ。今回かなりやばいことになってるらしいからな、人数連れてけ」
「わかッタゼ、アニィ」
信頼する仲間に仕事を割り振りながら、最近よく見る夢のことを考える。
空、ホウエンの滅び、黒い怪物、見知らぬ少年。
何一つとして心当たりなど無いわけだが、どうしてだがもっと昔にも見たような既視感のようなものがあった。
「…………厄介なことにならなきゃいいが」
呟きと共に、思考を棄てる。やることならばいくらでもある、今は余計なことを考えている場合ではない、と頭を振り。
「さて、俺も行くか」
軽く後頭部をかきながら、誰にともなく呟き歩き出す。
捨てたはずの思考、夢の記憶がもう一度だけ脳裏を過った。
* * *
グラードン、カイオーガ、二体の伝説を捕獲してから二週間の時が経った。
後日の話になるが、やはりグラードンもこちらの指示を聞く気はないらしく、後でもう一度倒す必要があるようだが、取り合えずボールに入れて大人しくさせておくことはできるようなので、ひとまずは安心と言ったところだろう。
とは言え、事後処理は多忙だ。
たった一日とは言え、ホウエン中の住民をあっちこっちに避難させたり、外出を差し止めたりしたのだ。
二年も前から事前に通告や準備をしていなければ、もっと大混乱だっただろうことは自明の理だ。
原作主人公はあんな突発的な戦いだったのに、よくその辺り何の問題もなさそうに切り抜けたな、と思う。
と言っても、一段落付いたのは事実だ。
ホウエンを襲う危機の第一段階を退けたのだ。しばらくの休息は必要だろう、誰にとっても、だ。
そういうわけで、ここ一週間ほどはリーグ側に仕事を丸投げして、ミシロの実家で過ごしていた。
現状、空を見上げても隕石のいの字も見当たらないため、すぐにどうこう、という話でもない。
もし発見された場合は、すぐに連絡が来るようになっているし、今のところ世界は平和だ。
まあ、一つだけ、気がかりを残してはいるのだが…………。
リーグ側で動いているらしいので、時間の問題だろうと考える。
そうして時間は夜。
十時も過ぎればさすがに子供の身では布団に潜ると自然と眠気が出てくる。
前世の時から、寝付きは良いほうで、割とどんなところでも寝れるほうだと思っている。
それこそ、あのチャンピオンロードの中で二日も眠ったのだから、特技とでも言えるレベルではないだろうか、なんてバカなことを考える。
「はあ……………………」
とは言え、そんなバカな考えでも、嫌な思考を紛らわせる程度には役に立つ。
布団を被って目を瞑れば、眠気が沸いてくる。
だが同時に思考を止めれば、自然と湧いてくるものがある。
「……………………えあ」
未だに目を覚まさない少女のことを思う。
キンセツシティのポケモンセンターで見てもらっているが、ポケモンドクターの目から見ても原因不明。
一体どうして目を覚まさないのか、どうして発熱しているのか、さっぱり分からないとのことだった。
いったいいつになれば目が覚めるのか、もしかしてこのまま…………なんて不安が胸中を過る。
明日もう一度キンセツシティの病院へ見舞いに行こう。
胸中でそう呟きながら、思考がだんだんと鈍くなっていく。
眠気が意識を浸食し、思考を鈍化させる。
そうして段々と何も感がられなくなったところで。
………………意識が途切れた。
「…………………………ん」
と、思ったはずなのだが、ふと不可思議な感覚を覚える。
なんというか、上下の感覚がないというか、前後不覚というか。
と言うより、ベッドの感触も、布団の感触も無い。
まるで空中に浮きながら眠っているような感覚に目を開く。
「………………………………………………は?」
黒のインクをぶちまけたかのような闇の中に、星屑がちりばめられたような光景。
意識が一瞬で覚醒し、思わず上半身を起こそうとして。
「…………な、なんだ、これ」
動かなかった。
意識はこんなにもはっきりしているのに、体がぴくりとも動かない。
金縛り、というやつだろうか、なんて考えていると。
ぴかー、と。
目の前が輝きだす。
周囲が宇宙空間のような光景だけに、自ら光輝くそれは、まるで太陽か何かのようにも見えた。
そうして光が段々と形を作っていく。
手と、足、体と首と頭と。
つまり、人の形へと変わっていく。
状況についていけない思考は完全に止まり、ただそれを見ていることしかできない。
そうして光が徐々に収まり、そこに一人の少女が現れる。
年の頃はまだ十にもならないような幼い少女。
金髪のツインテールに、翠の瞳。頭に三か所ほど緑色のリボンを巻いている。
まるで巫女服のような服を着ており、その襟元と腰に巻いたリボンは黄色かった。
ぺたり、と幼女が素足でまるでそこに床でもあるかのように空間に立つ。
そうして、幼女が動かない自身へと視線を向けて。
「なにやってるデシか、おろかもの」
そう言い放った。
一時間で5000字かけたのは久々かもしれない。