ミシロの近くの森にはかつてゾロアの保護区があった。
ホウエンのポケモン研究の第一人者であるオダマキ博士の力を借りて作られたこの区画はけれど作られてから二年で廃止されることになる。
元を正せば親たちから逸れてしまったゾロアの群れを親元へと返すために行われた行為であり、その目的を果たしたのだから仕方ない話だ。
かつてゾロアの時に群れを逸れ、その時ゾロアたちの群れを率いたルージュとしてはそのことを多少寂しくも思いながらもけれどゾロアたちがかつての群れに合流したことにほっと一安心と言ったところ。
問題があるとすれば、元よりヒトガタという才覚に溢れるゾロアだったルージュがハルトというトレーナーの手によって育成され野生のポケモンとしては破格と言えるだけの強さを持ったことで群れのパワーバランスが崩れてしまったことだろうか。
元より逸れたゾロアたちをまとめていたほどに面倒見の良いルージュだったが、今いる群れの『ぬし』を押しのけてまでその座を座りたいだなんて思ってはいなかったのになまじ強くなり過ぎてしまっただけになし崩し的にゾロアークまで含めた群れ全体の『ぬし』となってしまったのはルージュ自身やや不本意なことだった。
とは言え面倒見の良い性格のためそれを否とは言えないのもまた難儀な話である。
元より野生環境とは弱肉強食な世界だ。
強い者が群れの上に立てばそれだけ群れ全体の安全性も守られる。
故に強い『ぬし』を群れが求めるのは自然な流れと言えた。
それでも、と思ってしまうのはミシロに……人の世界にかつてのトレーナーと自身の弟がいるからなのだろう。
否、かつて、なんては言ったがそもそも未だにルージュのトレーナーはハルトのままだ。
野生環境に身を置いてはいるが、ハルトの元にある空のボールには未だルージュのデータが登録されている。
つまりルージュは人の世界の理で語るならば野生ポケモンではないのだ。
だから普段は群れと共に暮らし、群れの『ぬし』として群れを率い。
時折人里にやってきて自らのトレーナーや他のトレーナーの手持ちとなった弟に会いに行く。
そんなトレーナーの手持ちと野生の『ぬし』の二足の草鞋を履いているのが今のルージュの状況だった。
別にそこに不満はない。
それなりに充実した日々ではある。
ただ。
「さて、このままで良いのかしらね」
時折そんなことを思う。
そしてそんな思いを抱くのは大概の場合、会うたびに目まぐるしく忙しない自身のトレーナーの元に赴いた時だ。
自身のトレーナーが何か目的があって動いていることは知っている。
詳しくは知らないが、ルージュからすればハルトの印象というのは随分と生き急いだ人間だった。
まだ幼い……ポケモンの自分たちから見てもまだ幼いとしか言い様の無い年齢でまるで憑りつかれたかのように毎日毎日何がしかやっている。
もっとゆっくり生きれば良いのに、と思わなくもない。
というか実際に言ったことだってある。
それを言う度に反省したような顔をしながら、けれど何一つとして変えようとはしない。
一体何をそんなに焦っているのか、ルージュには分からないが、けれど一つだけ言えることがある。
ルージュにとってハルトという少年は恩人である。
かつて群れから逸れて森を彷徨っていた自分たちの群れのために保護区を作ってくれるように働きかけてくれた。
人間に襲われ無理矢理捕まえられそうになったルージュと弟を助けてくれた。
野生環境の中でも生き残るために力をルージュにくれた。
ハルトがいなければ果たして今自分はここにいることができたかどうか分からないと言えるくらい、ルージュがハルトに受けた恩は大きい。
だから、もしハルトが自分の力が必要だと言うのならばいつだって貸してやりたい。
元よりルージュはハルトの仲間なのだから。
けれど何もかもを放り出すにはルージュの負ったものは大きすぎるのだ。
「どうしたものかしらね」
そんな風に悩むルージュの元に一匹のゾロアークがやってきたのはその一月後の話だった。
* * *
「久しぶり」
そう告げて玄関先に立っていたのは群れ戻ったかつての手持ちの一匹、ルージュだった。
「ルージュ、久しぶりだね。何だか最近ご無沙汰だったけど、何かあったの?」
「ええ、まあ端的に言っちゃうと……群れを抜けてきたの」
「……は?」
端的というか単刀直入というか、ほとんど前置きもおかずに告げられた言葉に一瞬思考が止まる。
「え、え、いや、待って?! え、なんで?」
「何ができるか知らないけど、アンタの力になってやろうと思ったから」
「……いや、でも群れは?」
「うん、まあそれがさ」
曰く、先代の群れの『ぬし』が変わってくれることになったらしい。
「なんでまた」
「ま、細かいことは良いのよ。そういうわけでまた今日からよろしく」
「……うん。まあ良く分からないけど、また一緒に頼むよ、ルージュ」
どうして突然、という気持ちは拭えない。
けれどルージュが再び一緒に暮らすということに否やはない。
まあ一つ言うならば。
「ぎゃあああああああああ?! ね、姉ちゃん、最近来ないと思ったのになんでまたいるんだよ!」
「あ、ハルくん、やっほー」
「やっほー、ハルちゃん。これからフィールドワーク?」
「そうそう、ノワールが進化してくれてすっかり頼もしくなったからいつもよりちょっと奥まで行ってみようかなって」
「ノワールがね……」
「今日からまたお隣さんだねえ、馬鹿弟。嬉しいだろ?」
「ぎゃああ、こんな暴力姉嫌だ、あたたたたた、痛い、痛い、ギブ、ギブだから」
「今何か雑音が聞こえたなあ??? ねえ、ノワール?」
「う、嬉しい、いたっ、嬉しいですううううううう」
「そうかい、そうかい……そんなに喜んでくれて私も嬉しいわ」
「この暴力女……」
「何か言ったぁ?」
「いたあああ、な、何も、何も言ってませんんんん」
なんというか相変わらずの姉弟である。
ノワールも進化して随分と強くなったというのに、どうあっても姉には敵わないらしい。
「仲良いよね、ルージュちゃんとノワール」
「そうだねえ」
「全然良くない!」
「え~何か言ったぁ~?」
「言ってません~! ボクたちとても仲良し!!!」
思わずハルカちゃんと顔を合わせて笑ってしまった。
* * *
「あれももう二年近く前の話か……早いもんだね」
「いきなりルージュが戻ってきたからびっくりしたよ」
「戻って……か」
ハルトの口から出た言葉に、苦笑してしまう。
元が野生のゾロア、それがトレーナーの手持ちとなって、また野生に戻った。
言うなれば野生こそがルージュにとって本来の姿のはずなのに、ハルトは自分たちの元へとやってくることを『戻る』と表現するのだ。
その意味を考えるとなんだかくすぐったい気持ちを覚える。
ルージュはハルトが好きだ。
けれどそれはポケモンとしてトレーナーに向ける感情の一つであり、エアたちのそれとは全く異なる感情だ。けれどその好き中にはノワールに向けたものと同じような感情を持っており。
―――まあ、何だかんだでそう言う事なんだろうね。
ゾロアやゾロアークたちの群れはルージュにとって『群れ』という一つの集団だったように。
ノワールやハルトたちはルージュにとって『家族』という一つの括りなのだ。
群れの『ぬし』として群れを大切にしていたのと同じように、ノワールやハルトたちを心配し、大切に思っていたのも『家族』として当然の感情なのだと、今になって気づく。
多分こういう感情は普通のポケモンならば抱かないのだろう。
ポケモンは人と同等の情緒がある生物ではあるが、けれど人とは異なる生き方をしている存在でもあるのだ。人類の隣人という言葉は、だからこそ人類とは異なる存在であるという区別でもある。
けれどヒトガタはポケモンでありながら、極めて人と類似した姿を取った存在だ。
姿形が似ればそれだけ心持も似てくるのだろう、だからこそそういう感情を持つこともある。
誤解の無いように何度も言っておくが、ルージュのこの感情はエアたちの抱く感情とは異なるものだ。
ノワール……あの馬鹿な弟相手に抱く感情と同じと言っている時点でそれは自明の理だ。
名づけるなら家族愛、とでも言うべきか。
シンプルに言えば『幸せになって欲しい』そう願う感情だ。
ずっとハルトが何か焦っていることを知っていた。
今となってはそれがあのホウエンに巣食っていた怪物たちに纏わることなのだと分かるが、去年ハルトたちとホウエンを旅するまでその理由も知らなかったわけで。
だから力になりと思っていた。
ハルトは紛れもない恩人だったから。
困っているなら力になりたい、助けてあげたい。
そういう感情は紛れもなくルージュの中にあった。
けれどそれは結局のところ、大本の願いの先にあった物に過ぎないのだ。
ルージュの根本は『自分がハルトにもらった分だけ、ハルトにも返したい』というものだ。
ルージュは今の自分に満足している。
仲間のゾロアはみんな助けることができた。
無事群れのゾロアークとは合流できたし、一匹として欠けることなくゾロアたちだけで二年という月日を過ごすことができた。
弟は自ら仲間になりたいと願うトレーナーを見つけ、今はそのトレーナーの元で幸せに暮らしている。
弟のトレーナーは自分のトレーナーと同じ、ポケモンを大切にしてくれる人であり、彼女の元でなら弟はもう大丈夫だろうと思える。
そしてルージュ自身もまたハルトに仲間として、家族の一員として多くの幸福を貰った。
ゾロアだった自分がハルトの元で過ごした二年の歳月は何よりも楽しかった。
ルージュはハルトからたくさんのものを貰った。けれどそんなハルトはいつだって必死だった。
―――この人を幸せにしたい。
自分がかつてそうしてもらったように。
もしハルトが孤独だったなら、ルージュは自らハルトに寄り添い、結果的にエアたちと同じような感情を抱いていたかもしれない。
けれどハルトの傍にはいつだってハルトを大切に思う仲間たちがいた。
この人はちゃんと幸せになれる人なのだ。
直感的にそう思った。
恐らく今ハルトを悩ませている問題、それさえ解決してしまえばハルトはちゃんと幸せになれる。
ならばルージュがすべきことはエアたちと同じ感情を抱いてハルトを抱きしめることではない。
それはエアたちに任せて、ハルトが立ち向かう困難に共に戦ってやることなのだ、と。
まあその結果がホウエンを襲う災厄との戦いのわけだが。
それでもハルトは災厄との戦いを乗り越えた。
困難を乗り越え、エアたちと心を通わせ、さあこれから幸せになるぞ、と。
まるで物語のハッピーエンドを迎えたかのようなハルトを見ていると、ルージュは自らの役割が終わったのだと知る。
自らのトレーナーは、自らの恩人は、自らの大切な家族はもう自分たちで幸福を掴み取れる。
だからと言って別にルージュがハルトから離れるというわけではないが。
それはそれとして、約束は果たすべきだろう、とは思っている。
だからこそ、今日、こうしてハルトと共にゾロアークたちの群れの元へとやってきたのだから。
* * *
「やりたいことがあるならば、迷わずやるべきだ」
ゾロアークたちの群れの先代の『ぬし』はかつてルージュに向かってそう告げた。
二年近く前、まだルージュが群れの『ぬし』だった頃。
突然ルージュの元にやってきた先代がルージュにそう告げた。
「俺たちの不甲斐なさのせいで、お前には苦労をかけた。戻って来てからも群れの早急な安定のために『ぬし』となってもらった。だがもう大丈夫だ。俺たちだけで群れを守っていける。だからお前が為したいことがあるならやれば良い。俺たちのことを気にする必要はない。お前はもうこの群れに出来うる限りのことをやってくれた。これ以上は俺たち自身がやるべきことだ」
だから、と先代は言う。
「行きたいのだろう?」
「何でそんなこと……」
「分かるさ。自分の子供のことくらい」
不意に先代……父が笑った。
「俺はこの群れを守るために戦うと決めてこの場所にいる。だから生涯ここを離れるつもりはない。だがお前はただ俺の娘だからというだけの理由でここにいるに過ぎないんだ。それでもお前は群れのために十分なことをしてくれた。逸れた子供たちを纏め、人と語り合い、再びこの群れまで戻って来てくれた。群れの安定のために『ぬし』となって矢面立って戦ってくれた。もう十分だ、十分過ぎる」
そんな父の言葉に逡巡し。
「本当に、良いんだね?」
「構わん。元よりアイツだってトレーナーの手持ちとなって好きに生きているんだ、お前がこれ以上この群れに縛られることはない」
「別に縛られるつもりは……」
「だが群れを心配してやりたいことができないんだろう。お前にそんな我慢をさせることは俺たちの本意ではない、ということだ」
「…………」
「まあ強いて言うなら、偶には里帰りしなさい。皆、お前を歓迎してくれる」
「……分かったよ。いつになるかは分からないけど、やることやったら一度報告に来るさ。その後のことは……まあその時決めるよ」
「そうか、ならまあ……待ってるよ」
「ああ」
ふっと笑い、一つ頷いて。
「約束だよ」