…………あれ? なんでこんなことになったんだっけ?
呆とした頭で、考える。
視界に広がるのは、顔を紅くして陽気に笑う少女たち。
気崩された浴衣から覗く肌色と、紅潮し、上気してしまって緩んだ表情を浮かべる顔。
どことなく、艶めかしい。
いや、実際のところ、自身とて顔を真赤にしているだろうことは容易に予測できる。
上手く働かない思考をゆったりと巡らせながら、ここに至る経緯を思い出そうとして。
「ハりゅトっ」
どん、と後ろから誰かが抱き着いてくる。
そしてそのまま回された腕に持った瓶をこちらへ近づけ。
「あんたもにゃみにゃさいよ」
視線を巡らせば、その瞳と同じくらいに顔を紅くしたエアが、背中にぴたりとくっついていて。
「えあ…………そんなに揺らされたら飲めない」
「はん? ゆりぇてんのは、はりゅとのほうでしょ」
言われ、気づく。
視界が揺れている…………と言うか、回っている。
「…………目が回る…………」
「はりゅと?」
すう、っと意識が遠のく。
「ありゃ?」
最後に見たのは、目を丸くして自身を見つめるエアの顔だった。
* * *
夢だ。
一瞬でそれを理解していた。
それは自身が…………ハルトが、碓氷晴人だった頃の記憶。
のっぺりとしていて、張り付けたような平穏。
平和、や平穏と言うよりも。
何も無かった、と言うべき日常。
文字通りに、何も無かった。
語るべき非日常も。日常の中で見つけたささやかな幸せも。嘆くほどの不幸も、他人に愚痴るほどの辛さも。
いっそ虚無的なほどに、碓氷晴人の日常とは平穏、平和、虚無で占められている。
その日常の中で、碓氷晴人は笑っていた。
大切な親友のために。
嬉しいことも、悲しいことも、辛いことも、幸せだったことも、全て話した、親友に。
本当は何も思ってなんかいなかったのに。
嬉しくも無かった、悲しくも無かった、辛くも無かった、幸せでも無かった、でも不幸でも無かった。
他人に感情を抱くほど、碓氷晴人は他人に興味など持っていなかった。
空っぽだった自身に、かつて親友がそうしろと言ったから、人間的に振る舞っていただけ。
本質的に自身とはそう言う存在だった。
それが最後まで続いたならば、きっと碓氷晴人は…………そしてハルトは人間として重大な欠陥を抱えていたのだろう。壊れたガラクタのように、感情の無い欠陥人間になっていたのかもしれない。
ではそれが続いたか、と言われれば、そうでも無い。
切欠は…………きっとあれだろう。
親友が自身にくれた一つのゲーム。
データ上とは言え、生物を育て、共に旅をし、そして戦い、勝つ。
それはつまりそう言う内容のゲームだった。
別にそれで劇的に何かが変わった、と言うわけではない。
ただ、その世界に親友はいなかった。
代わりに、共に旅をする仲間がいた。
一緒に戦ってくれる仲間がいた。
いつの間にか、愛着と呼べる感情を抱いていた。
いつの間にか、勝ちたいと思えるようになっていた。
いつの間にか、画面の向こう側に他人を見るようになっていた。
碓氷晴人の世界に、初めて自分と親友以外の存在を認識した。
断たれていた繋がりが、再び出来上がった。
そうなれば、後は少しずつでも繋がりは増えていく。
増えていく繋がりは決して無視できない。
朱に交われば、とは言うが。
人との繋がりを増やすほどに、人間らしさ、と言うものも増していく。
数年もすれば、ただの専門学校卒の普通の社会人が一人、出来上がっていた。
故にそれは、ただの過去だ。
と言うか、現代日本でならば、割とよくあることだ。
苦しいまま生きている人間はいないし、辛さを忘れて生きることも出来ない。
それでも人が形成した社会の中で、人として生きるのならば、次第に人として順応していく。
小学校、中学校、高校と幾つもの過程を得て、子供は大人になって行く。
不幸な境遇の少年も、いつの間にかただの一人の大人でしか無くなっていた、そんなありきたりな話。
ああ、そうか。
ふと思い出す。
始まりはきっとあそこだったのだ。
初めて自身が遊んだゲーム。
まあ、つまりそれがポケモン。
何の偶然か、奇跡か、それとも幸運か、不幸か。
碓氷晴人は、今はハルトとなって今ここにいる。
いや、幸運なのだろう。
彼女たちと言う得難い存在が今自身の隣にいるのだから。
* * *
目覚めは穏やかな気分だった。
決して、いい夢、と言うわけではない。
碓氷晴人の最悪の時代の夢なのだ、決して見ていて気持ちの良いものではない。
けれど、悪くは無い。
少しだけ、自身の原点のようなものを思い出せたから。
ふと、視線をさ迷わせれば。
畳張りの座敷に倒れ伏す少女たちの姿。
「…………っくし」
九月、もうすぐ夏も終わると言った季節。
朝焼けの差す障子窓。時計を見れば時刻は四時。
なるほど、いくら夏と言っても肌寒いわけだ。まだ日は昇ったばかりのようだった。
「…………しっかし…………酷い有様だなあ」
畳の上で、死屍累々と言った様子で折り重なって眠る少女たち
そして傍らに転がる
「はあ…………チークに買い出しさせたのが間違いだった」
二日酔いでも無いのに痛くなってきた頭を押さえ、思わず呟いた。
「少し休みませんか?」
すっかり慣れてしまったホテル生活。
ベッドの上でカタカタとノートパソコンを叩きながらシアが淹れてくれた緑茶の入った湯呑を片手で啜る。
渋味の中に僅かにだが甘味がある、ホテルの備え付けのものだが、このホテルの格を考えると多分高いものなのだろう。
美味しい、とは思うが、別に普通のティーバッグの安物の緑茶でも満足できる安い舌の自身には、少し不釣り合いにも感じられる。まあ美味しいので飲むが、本当に美味しいし。
「もう…………マスター!」
少しだけ、怒気の込められたシアの声に驚き、思わず手を止める。
視線を向ければ、いつもより目つきの鋭いシアが、口を開く。
「もう夕方ですよ? 朝からずっとそんなことして…………体壊しますよ」
「大丈夫だよ、一日や二日くらい」
「もう六日目です!」
シアが声を荒げる。実際のところ、初めて見た気がするその姿に目を見開く。
直後、ぎゅっと、シアがその胸に抱き止める。
「し、シア?」
「気づいてますか? マスター…………チャンピオンリーグが始まってから、少しずつやつれてきてますよ」
言われ、自身の頬に触れてみる。少しだけ乾燥したざらつく肌。
十歳にして、すでに肌が荒れているのが理解できた。
「心配なんです…………でも、邪魔しちゃダメだって、分かってて…………それでも…………それでも」
次第に、泣きそうな声になっていく、シアの姿に何か言おうと口を開き。
「………………………………っ」
けれど何も言えず、口を閉ざす。
「お願いしますから、少しは休んでください」
縋るように呟かれる一言に思わず…………こくり、と頷いた。
夜寝る前、自身の腕が震えていることに気づいたのはいつだっただろうか。
毎夜毎夜、負けてリーグを去る夢を見ていることに気づいたのは、いつだっただろうか。
どうしようもなく唐突に、胃がひっくり返るような吐き気を覚えるようになったのは、さて…………いつからだっただろうか。
当たりまえだが、ハルトの前世、碓氷晴人にとって自身の全てを投げ打って打ち込めるようなもの、と言うのは無かった。
特別誰かに褒められるような人生でも無く、かと言って特別他人に貶されるようなことも無い。
少し幼少が不幸だっただけの平々凡々な人生。
世界中探せば、有り触れているような凡俗の人生。
ホウエン地方チャンピオンリーグ。
それが今、ハルトが戦っている場所の名前。
ホウエン地方数万人のトレーナーの頂点を決める戦い。
ハルトと言う少年は、特別才能に溢れているわけでも無ければ、自身に誇れるものがあるわけでもない、精神が一般的なそれから逸脱しているわけでも無ければ、絶対に揺るがない意思があるわけでも無い。
平々凡々な人間。前世と何も変わらない、ただ取り巻いた環境と、一緒に居てくれる仲間が特別なだけの凡人。
だからこそ、ハルトにとってこの場所は酷く重い。
予選で零れ落ちた数えるのもばからしいほどの数のトレーナーたち。
本戦にたどり着けなかった、八十を超える予選を勝ち抜いた優秀なトレーナーたち。
本戦で下してきた、あのチャンピオンロードをも超えるほどのエリート中のエリートトレーナーたち。
薄々は感じていた。
十歳にして、ホウエンリーグ優勝。
本当は転生をして、精神的にある程度成熟していたとしても。
そんなこと他人に分かるはずも無い。
結果だけを見れば、最年少リーグ優勝者。
周囲の期待の視線は否応でも無く高まる。
それをはっきりと感じたのは、先週、ミシロに帰った時。
誰も彼もが、口を揃えて言う。
チャンピオンに勝て、と。
それがどれだけ困難なことなのか、分かりもしないで。
自分たちが何をしてくれるわけでもなく。
ただ期待だけを押し付けていく。
ただの凡人に。
だたの凡人だからこそ。
押し付けられた重さを振り払うことも出来ず、少しずつ積み重なる、少しずつ、少しずつ。
体が重くなっていく。
心が沈んでいく。
勝たなければならない。
無意識にそう思っていた。
無意識にそう思わされていた。
「…………そうじゃないだろ」
シアに止められ、息抜きのために久々にリーグ街にある温泉旅館に来てみた。
以前にチャンピオンが普通に風呂に来たが、さすがにこの時期になると早々来るものでもないらしい。
暖かい湯につかりながら、ふと呟く。
考えてみれば、何を焦っていたのだろうか。
確かに勝ちたい…………そう思っているのは事実だが。
勝たなければならない、と気負う意味も無い。
負けて何かを失うわけでも無いのだから。
考えてみれば三人目の四天王との戦いも今日を除けば残り一日しかないのだ。
下手に体調でも崩せば大変だったかもしれない。
「…………シアに感謝だなあ」
「…………私だけじゃないですよ」
独り呟いた言葉に、入り口のほうから返事が帰って来る。
「…………へ?」
思わず振り返る。
「…………えっと、その…………そんなにじっと見ないでください、マスター」
呟き、照れたように頬を染め、タオルで体を隠すシアと。
「何先に入ってるのよ」
まっ平ら体にぐるぐるとタオルを巻きつけてはいるものの、酷く堂々とした様子のエア。
「は、はう…………ご、ご主人様いるんだけど」
入り口から顔半分だけ覗かせながらこちらを見るタオル姿のシャル。
「シッシッシ、幼児体型は気にしなければいーのサ」
普通に全裸で、何故か顔をタオルでぐるぐる巻きにしているチーク。
「ち、チーちゃん?! 隠さないとダメなところが、全部出てるよ!」
それを追って、出てきたのは髪と胸元をタオルで隠すイナズマ。
「あはは~、みんな元気だね~」
そしていつも通りの服装のリップル。
「って、なんでお前、服着て温泉入ろうとしてるの?!」
偶にホテルとかで服着たまま入ってるのは知ってたが、まさか温泉でまでとは思わなかっただけに、本気で声を荒げてしまう。
「り、リップル…………さすがにそれは」
シアも顔を引きつらせて呟く。エアは無関心、シャルはそれ以前、チークはむしろ真似しそうだし、イナズマもチークを止めるのに必死みたいだ。
「えーダメ?」
「さすがにダメだなあ…………家とかホテルならともかく、ここ別に貸し切りでも無いからな」
まあリーグに挑戦するトレーナーは自身だけであり、四天王やチャンピオンが来るわけでも無いならば、実質貸し切りみたいなものではあるが。
仕方ないなあ、と一度脱衣所に戻り。
「これでいいよね」
全裸で現れた。
「…………………………………………」
ぽよん、と。一歩歩くたびに…………その、何とは言わないが揺れている。すごく。
「……………………………………………」
絶句してしまう自身に、シアがはっと我に返り。
「タオルくらいつけてきなさい!!!」
顔を真赤にしながら叫んだ。
「あー…………いい湯だねぇ」
因みに、アースはいつの間にか湯船に浸かっていた。タオル装備で。
* * *
思わず風呂以外のところでのぼせそうになりながら。
「そう言えば服脱げないんじゃなかったの?」
旅館の大人数用の客室を一つ借りて、全員で寝転がる。
ひんやりとした畳が体から熱を奪っていき、じんわりと心地よさを伝える。
それから、先ほどと、それから今も、疑問に思っていることを尋ねる。
今彼女たちが着ているのは、いつもの服ではなく…………浴衣だ。
旅館らしい、何とも和テイストだが、この世界にもこう言うのあるのかと思わず懐かしさを覚える。
だが確かヒトガタの服は毛皮や鱗の一種であり、一部ならともかく、完全に脱ぐのは毛皮や鱗を剥がすのに等しいと聞いた覚えがあるのだが。
そんな疑問に、イナズマが答える。
「だから、これも、さっきのタオルも、いつもの服を変えたんです」
嬉しそうに告げるイナズマの言葉に、首を傾げる。
そんな自身の様子にイナズマがえーっと、と言葉を選び。
「つまり、その本質的には同じものですけど…………なんて言うのか、毛色を変えた、と言うか、柄を変えたと言うか」
「つまり、今来てる浴衣も、さっきのタオルも、いつもの服と同じ毛皮や鱗の類、ってことか?」
「えっと、まあ…………はい、それでだいたい大丈夫です」
多分、本人たちにとっても感覚的なものなのだろう。
まあ何となく分かったような気がする。
一人納得していると、イナズマが再度こちらへと視線を投げかけてくる。
「…………何だ?」
自身の視線に気づき、一瞬びくっとして。
「えっとその…………………………えっと」
少しだけ、躊躇したような様子で、やがて意を決したように一つ頷き。
「どう、ですか? この浴衣、私がデザインしてみたんですけど」
その言葉に僅かに驚く。
てっきり旅館の備え付けかと思ったら、イナズマのデザインだったらしい。
「へー…………いいじゃん、可愛いよ」
「は、はう」
呟いた言葉に、イナズマの頬を紅くなる。
あー、こいつ可愛いなあ。なんて思っていると。
とんとん、と障子が二度、三度ノックされる。
「あ、はーい」
声を挙げれば、やってきたのは従業員の人。
どうやら夕飯の支度が出来たので運んでいいか、と言うのを聞きに来たらしい。
「ご飯っ!」
お食事、と言う言葉に真っ先にエアが飛び跳ねて起きる。
「あーはいはい、分かったから、すぐに運んでもらうからもうちょっと我慢ね」
従業員にお願いします、とだけ言付けて、
「あ、そうダ」
ふと、チークが思いついた、と言った様子で立ち上がる。
「入り口でジュースいっぱいおいてあったネ」
ふむ? と首を傾げてみる。
「みんなジュースで乾杯しようヨ」
告げた言葉に苦笑する。
ジュース、と言うのは特別高級品、と言うわけではないが前世ほど一般的でも無い。
と言うか品数が大分少ないし、だいたいが甘い木の実のジュースばかりだ。
ただこの旅館、と言うかリーグ街は各地から物が集まるだけあって、珍しい品も多く。
以前来た時、売店で他所の地方で作られたジュースの瓶が並べられているのを見て、チークが涎を垂らしていたことを思い出す。
要は、適当な理由つけて、珍しいジュース飲みたいってだけか。
とは言うものの、まあ別に構わないだろうと思う。
それぐらいの我が儘、可愛いものだ。
自身は彼女たちがいないと戦えない、彼女たちの居ない自身では、どうあがいても上には登れない。
いつもいつも、頑張ってくれている彼女たちに、それくらいは良いだろうと思う。
「じゃあチーク、適当に買ってきてくれる?」
そう言えば、チークが了解ヨ、と楽しそうに笑みを浮かべ部屋を出て行く。
…………まあ、今思えばこれが間違いだったのだろう、言っても仕方ないけれど。
プリムがガチやばすぎて、データ調整中。
因みに、プリム戦までもう一話挟む予定。