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<3時間前>
デリク ≪フロスト≫ ウェストブルック アメリカ陸軍第1特殊部隊
東京上空3万フィート
地上から
大抵の雲よりも上の高度なので眼下に見えるのは地上の様子ではなく雲の表面である。その様相は絨毯というよりも超巨大な綿の塊に近い凸凹とした形状だ。
視界の下半分が雲の地面なら上半分は暗さを帯びた青い蒼い果てしなく広がる水平線だ。
後部ハッチが開放された偽装ジェット機の貨物エリアに立つフロストの視界には日本は東京・銀座の空を文字通り分厚く覆う暗雲とダークブルーの大空、その両方が広がっていた。暗雲との境目があまりにもハッキリとしているせいでこの世の風景とは思えない超常感を抱かせる、そんな光景。
時折雲の中では閃光が生じている。雲内部での放電現象だ。つまり暗雲の中では何億ボルトもの雷で荒れ狂っているという事なのだが、これからこの中へ自ら飛び込もうというのだから呆れるばかりだ。
尤も決めたのも自分自身だ。今更怖れをなして退くつもりもない。
隣に立つ人物――第3次大戦の英雄、世界を救った男、
歴戦のロシア人は毛ほどの動揺も見せず、油断すると体ごと持っていかれかねない暴風に
「装備を点検しろ!」
これから最新技術が満載の飛行機から飛び降り、代わりにリュック1つに収まる面積の布と紐の塊だけを頼りに片道切符の空の旅へと挑むのだから何度装備点検をし直しても足りない事はあるまい。
降下前の装備チェックは自分ではなく仲間に視てもらうのがパラシュート降下の鉄則だ。
パラシュート、
ヘルメット、確認。
酸素ボンベ、チェック。
特殊作戦用空挺降下スーツ、チェック。
武器、チェック。各種装備入りポーチ、チェック
本来はルール違反だが、降下先は呑気に装備を引っ張り出せるような場所じゃないので空挺用バッグに仕舞わず直接身に着けてのダイビングとなる。
降下中の風圧でスリングに吊った銃器がガチャガチャと暴れてヘルメットごと頭をぶん殴ってきたり、同じく風圧に押し出されてポーチから中身が逃げ出してしまわないように、スリングに余分な弛みがないかや弾薬ポーチの蓋がきちんと閉じていて簡単に開かないか念入りに確かめる。
サイドアームの拳銃は通常のレッグホルスターではなく胸元にベルクロで張り付けたホルスターに収めて携行する。
フロストもユーリもサイドアームはH&K・HK45だ。サイレンサーを銃口に取り付けスライドに初弾は装填済み、安全装置を解除さえすれば抜いて即発砲可能にしてある。
無線、チェック。高度計、チェック。自動開傘装置、チェック。ポーチに携行する類以外の装備を詰め込んだ空挺用バッグの配置、チェック。
最後に、己の覚悟をチェック。
胸の中で、聖句のようにフロストは唱えた。改めて覚悟を固めるにはそれだけで十分だった。
「今ギンザ上空は飛行禁止区域に指定されてる! 日本がこの機をハネダエアポートに緊急着陸する民間機に偽装してくれてはいるが『門』を乗っ取ったロシア人――
失敬、
自然とフロストとユーリは互いを見交わした。コクリと頷き合い、次いでアレックスに対し拳を掲げると親指を立ててみせた。
それが合図だった。ぱっくりと口を開けたハッチへ向けて鋼鉄の床を蹴る。
「地上で会おう戦友よ!」
「鳥になってこい――幸運を祈る!」
最後の1歩を踏み切って、2人の兵士が虚空へと飛び込んでいく。
鳥というよりは爆雷投下の真っ只中に放り込まれた小魚の気分だ、というのが正直な感想だった。
暗雲の中はそれこそ絨毯爆撃の爆心地よろしく、外から見た時よりも実際には何倍もの頻度で以って絶え間なく放電現象を繰り返していた。
荒天下の空挺降下が禁忌とされている理由をフロストは身を以って味わっていた。特別製のフルフェイスヘルメットによって過剰な情報が物理的にシャットアウトされていなければ、放電の度に閃光で視界を塗り潰されエネルギーが破裂する時の轟音で聴覚や平衡感覚もとっくの昔にグチャグチャにされていたに違いなかった。
雷を抜きにしても最大時速300キロにも達する落下速度が生み出す風圧だけで気を抜けば、あっさりとフロストの肉体は前後左右にスピンを開始してしまうだろう。自動開傘装置の設定高度到達までに姿勢を回復しなければ最後、展開したパラシュートは全身に絡まりまともな減速も無しに地面と即死級に熱烈なキスをする羽目になる。
落下方向に対し胴体を正面に向け風がぶつかる面積を稼ぐ事で落下速度を調整。
四肢を広げ、顎を突き出し、それぞれの部位にぶつかる気流を微調整し安定性を確保。
周囲の流れに対し己の肉体そのものを舵に見立てて安定を得ると考えれば鳥も魚も似通っているのかもしれない。
どっちが西でどっちが北か、そもそも落ちている方向は下か上かも見失いそうな積乱雲の中、荒れ狂う乱気流に散々振り回されながらも何とか銀座方面への降下コースを維持できているのは、ヘルメットの透明型ディスプレイにナビゲーションシステムが表示されているお陰だ。
地上まで
今やフロストとユーリは東京は銀座の上空を飛んで、否、落ち続けていた。
予想されていた通り雲の下では雨が降っていた。それもかなりの勢いだ。豪雨と言っていい。
既に日付をとうに超える時刻で豪雨に見舞われながら、それでも世界有数の先進国の首都に相応しい異国の夜景に一瞬フロストは見惚れた。
敵占領下に置かれた銀座ですら自動点灯した街灯やビルの広告にちりばめられたイルミネーションによって飾り付けられているのだ。眠らない街、今だ落下し続けたままだというのにそんな表現がふと思い浮かぶ。
祖国アメリカにも多々ある眠らない街で例えるならどれが相応しいだろう? ラスベガスの夜景は享楽的過ぎる。もう少しお堅い、でも娯楽とビジネスが両立しているような……そう、ロサンゼルスやニューヨークがピッタリだ!
……そのニューヨークもこの間の戦争で戦場となり、後に残されたのは大量の瓦礫と米軍とロシア軍の兵器の残骸、両軍の山ほどの死体だけだ。2000万もの市民が暮らすアメリカ最大の金融街は今や廃墟の都に変貌した。
ニューヨーク以外にもアメリカだけで複数の、欧州ではもっと多くの大都市が戦場と化した。
そこではあらゆるものが奪い去られた。そこに在った筈の命も営みも思い出も帰る場所も何もかもが失われた。
何もかも。
何もかも奪われたその場所に残されたのは死だけだった。
フロストはそこに居たのだ。その場所で、その目で、彼は何もかも目の当たりにしたのだ。
彼らもそこに居た。
いなくなった
ユーリに同行する理由は他にもあった。
先日の情報公開で発表されたタスクフォース141について、その生き残りであるユーリが立てた功績の中にはロシア大統領救出が含まれていた。
今は亡きフロストの仲間達が最期に従事し――そして戦死したのもロシア大統領救出作戦だ。
サンドマン達の死と功績も情報公開の際にまとめて明らかにされた。秘密作戦での殉職者によくある『訓練中の事故死』だのといった偽装はされず、彼らは正式な戦死者名簿に勇敢に散った英雄としてその名を刻んでいる。
だがどのような状況でどのように死んだのかまでの詳細な情報は明らかにされていなかった。少なくともフロストの調べが及んだ範囲ではそうだった。
フロストの仲間達は死んだ。同じ作戦で彼らと組んだユーリは生き残った。
何の因果か、それとも運命の女神の悪戯か、フロストはその生き残った英雄と今や共闘関係を結んでいる。
何日もの間活動を共にしてきたが、生憎互いの立場の問題上時間をかけて個人的な相談を持ち掛けられるような状況でもなかったせいで、ユーリから当時の話を聞き出せず結果時間だけが過ぎてしまった。
そこにきてこの事態だ。話を聞き出す前にユーリは死地へ飛び込もうという。であれば自分も付いて行ってやるまでだ。
サンドマン。トラック。グリンチ。
戦友の死にざまを明らかにする。それはフロストにとって命を賭けるには十分過ぎる理由だった。
視界の中出現した新たなアイコンが警告音を伴いながら点滅を繰り返す。ご丁寧にアナウンスがヘルメットの中に自動再生すらされるという至れりつくせりっぷり。
『パラシュート展開』
アナウンスから数秒後、暴力的な風圧とは別の衝撃が上半身を襲った。同時に落下速度に急ブレーキが掛かる。
自動展開されたパラシュートが絡まったりせず無事に展開されたと分かってフロストは密かに安堵の息を漏らした。
首を廻らせればユーリのパラシュートもすぐに見つかった。フロストの後方やや斜め上、高度的にはロシア人の方が十数メートルばかり上に居る。
パラシュート展開後に減速や軌道修正を行う左右のリップコードを握り締め、設定しておいた着陸地点である銀座の一角に位置するビルの屋上への進路へと向けた。
問題はここからだった。
豪雨の中展開されたパラシュートの中核、キャノピーという名の巨大な布は銀座に降りしきる雨粒を満遍なく浴びる格好となっている。
特殊作戦用パラシュートは当然防水処理済みだ。だが布地そのものに水分が吸われずとも、大きく広がったキャノピーの表面に付着した水滴の量は表面積に比例してかなりの規模に及んでいた。姿勢制御用のコードやキャノピーとフロストが背負うバックパック部分を繋ぐ数十本のラインにも大量の水滴が纏わりついてしまっている。
パワーステアリングが機能していない大型トラックを力づくで操作しているような感覚だった。
おまけに車と違って減速は何とか可能でも完全な停止は不可能ときている。歯を食いしばってクソ重くなった制御用コードに繋がる左右のトグルを引いたり戻したりを繰り返し、降下地点への軌道に乗せようと腐心した。
しかしここで更なる不運がフロストを襲う。
地上まで
『予定コースから外れています』
『フロスト! 流されているぞ!』
分かってる! 必死になって軌道修正したくとも、風を受けて風船よろしく張りつめたパラシュートの制御を取り戻すのは簡単な事ではない。
その間にもどんどん風に流されて当初の着陸コースから外れてしまっていく。
姿勢を安定させる為に貴重な数秒を費やしした頃には、元の降下コースへと戻る為に必要な高度をとっくに下回ってしまっていた。
思考を振り払う。このまま乱立するビルよりも下まで高度が落ちて壁面へ激突する前に新しい着陸地点を見つけなければならない。素早く視線をビル街の屋上へ巡らせる。
ほんの数十メートル先に地上10階ほど、ランディングゾーンにうってつけの構造をした屋上を発見した。そこ以外に目に付く建物屋上は面積の大部分を空調の大型室外機やパイプ類、広告看板を支える鉄骨が張り出していて着地に十分なスペースが何処にもないから唯一の空間と言ってもいい。
最悪だったのはその唯一の着地地点にバルコフ隷下の兵士という先客が居た事だ。
高所から奪還部隊の接近の警戒に就いていた監視だろう。雨に打たれながら屋上に2人一組で警備に当たる、遠目から見ても明らかに完全武装な敵兵の姿が見る見るうちに大きくなっていく。
パラシュートにぶら下がったフロストの体は、まるで大気のうねりが意思を持っているかのようにまっすぐ敵兵が居るビルの屋上へと運ばれようとしていた。
雨風の音に紛れてまだ敵兵はフロストの接近に気付いていないが、屋上に落下すれば間違いなくバレてしまう。銃に手を伸ばしたくてもこれ以上姿勢を崩すまいとトグルを把持し続けるのに精一杯だった。
屋上上空に到達。床まで5メートル、3メートル、2メートルまで達した瞬間にフロストはパラシュートを切り離した。
足から落ちる。衝撃で足の骨を痛めないよう訓練で学んだ通り下半身の関節でクッションを取りながらわざと転がる。
が、落下中風に呷られていたせいで想定以上に慣性ベクトルがかかっていた事、打ちっぱなしのコンクリート表面に薄く水溜まりが張って滑りやすくなっていた事が重なり、十分に衝撃と慣性を殺し切れなかったフロストは濡れた屋上を背中を下にしてズルズルと滑っていく羽目になった。
武装分の重量を加えた大の男が落下した音がすぐ近くで響けば雨風が吹き荒ぶ中でも流石に異変に気付く。
間に合ってくれ。冷え切った屋上の床に倒れ込んだ姿勢のままフロストも銃に手を伸ばし――
彼がホルスターから抜き終えるよりも先に、2人の敵兵が崩れ落ちた。
何が起きた? 一瞬呆気に取られてしまったフロストと倒れた敵兵の間に舞い降りる影。
本来両手で1つずつ把持して操作するトグルを左手のみでまとめて掴み、そうして空けた右手にHK45を握ったユーリであった。
ロシア人は屋上にぶつかる寸前急ブレーキをかけると素早くパラシュートを切り離し、転がって衝撃を逃がす必要もないとばかりに2本の足で危なげなく着地。
当たり所の問題か防弾装備もしていたのか、呻き声をあげて悶えるまだ息があった敵兵へと近付くと、とどめの銃弾を撃ち込んで今度こそ息の根を止めた。
……今見たものが確かならば。
このロシア人は大雨と強風に弄ばれる中、片手1本でパラシュートを完璧に操り尚且つもう片方の腕で銃を抜き、まだ宙に居る状態で2人の敵兵を同時に仕留めたという事になる。それも片手撃ちで?
「昔仲間がしていたのを咄嗟に真似してみたが上手くいって良かったよ」
きっと彼の中は赤い血の代わりにキンキンに冷えたウォッカが流れているに違いないと、フロストは思った。
『どこまでも!』 ――第82空挺師団の標語
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