-1945年8月15日-
暑い真夏の昼下がり
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク…然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス…」
このある天皇のラジオによる玉音放送にて大東亜戦争及び第二次世界大戦は終結を迎えた。
日本は負けたのである。
軍部の暴走、大政翼賛会の暴走、軍人の政権掌握、陸海軍の確執、大艦巨砲主義への執着等々いろいろな敗因があるが、私にはどうでもいいのだ。
私は今(1945年8月16日)、宮城に居る。なぜなら私は今上陛下にご召集がかかったのだ。
なぜかは分からない。
そして私の名は吉野宮 尊徳(よしのみや たかのり)。皇紀で言えば2570年、和暦で言えば明治43年、西暦で言えば1910年生まれである。
私の苗字は宮家と同じなのである。なぜならば後醍醐院、諱は尊治(たかはる)の直系の子孫であるからだ。だが、それももう今となれば遠い昔の話である。そのような私に陛下は何の用事があるのであろうか。
私にとっては、皇族の子孫だとかはどうでもいいのだ。暮らしも格段と裕福でも極端に貧困でもなかった。普通の暮らしであった。違うのは吉野に家があり、河内の天野町に別荘があるくらいだ。それでも格別贅沢していたわけでもない。勉学に関しては、家がしっかりしており、西代小学校(今の河内長野市立長野小学校)から第三高等学校大学(今の京都大学及び岡山大学)予科へ、そして京都帝国大学(今の京都大学)の法学部へ進学した。
学力だけの人間に何のご用事があるのか。
ただ、血縁絡みでの案件だとは感づいている。
すると、猫背で中年の男性が出てきた。この方こそが今上陛下であるのだろうか。
戦時下、開戦前はあれほど神だと学校で崇められてきたのだが、どう見ても至って普通の人間である。
すると
「朕は…いや、僕は君に用があってこちらへ呼んだのです。あなたは承知の通り、僕の遠い血縁関係に当たります。探すのに苦労しましたよ」
と陛下は少し笑顔を浮かべながら呟いた。続いて顔を険しくして
「君には大日本帝国をもう一度作り直していただきたいと思っている。」
え…何故そのような大命を私に
「君はこれでも一介の宮家だ。僕はもう連合国によって傀儡になるか戦争責任者として処刑されざるを得ないだろう。他の宮家もほとんど臣籍降下となってしまう。あなたしか居ないんだ。」
と頭を下げられた陛下が頭を下げるとなると相当なことだろう。
「頭をお下げにならないでください。分かりました。でもいつかあなたと対峙する日が訪れます。それを如何なさいましょうか。」
と私が問うと、
「その時は上手に僕を君の宮家の分家として取り込んでください。」
と仰せになった。なんと恐れ多いことだろうか。
「わ、わかりました」
私は戸惑いつつ了解した。
すると陛下は
「しかし、無一文で勅命のみで貴方を故郷から離すわけには行かない。僕からの餞別だよ。それから淡路島へ向かってくれ。大日本帝国の再興をよろしく頼むよ。」
私は餞別として皇族の私財のほんの一部の60億円(現在にすれば約1000億円)と従者(侍従長1人、軍人3人、政治家3人)を預かった。
また天皇であることを示す三種の神器(うち八咫鏡と草薙剣は形代)を伊勢神宮、熱田神宮で身を清めてから、陛下から手渡された。
そして日本神話と日本列島始まりの地である淡路島へと向かうこととなった。