「…ここは?」
「起きましたか」
「そうか、僕は…」
剣聖カシウス・ブライトの暗殺に失敗した後、顔を見られたことが原因か、僕は記憶を消されて、そして切り捨てられた。
追っ手による執拗な追撃によって、カシウス・ブライトに敗れた時に受けた怪我もあり、最終的には追い詰められ、処刑されるところだった。
だが、何を考えたのかカシウスは僕を助けた。
ここはカシウス・ブライトの屋敷だ。多くの武装した人間の警戒する気配を感じ取ることが出来る。そんな中で、僕の横たわるベッドの傍の椅子に彼女は座って分厚い本を開いていた。
体を起こすと額に乗せられていた生温くなった濡れタオルが落ちる。
「まだ熱が下がっていませんよ」
「エステル・ブライトか」
「フルネームで呼ばれるのは面白くないですね、エステルと呼んでください。ヨシュア」
同じぐらいの年頃の少女。栗色の腰まで届く長い髪。穏やかな表情で微笑む少女はしかし、侮ってはならない存在だ。
世界で初めて飛行機を生み出し、この王国を存亡の危機から救った稀代の天才。《空の魔女》と恐れられ、この国の国政にまで関わっているという存在。
また剣においては《剣仙》の教えを受けており、試合の上とはいえ武術大会で優勝するほどの腕前らしい。
今は剣を帯刀していないようだが、少なくとも今の自分では彼女に敵う道理はない。扉の外では彼女の護衛も控えているようだし、下手な行動は出来ないだろう。
まあ、下手な行動なんてする意味もないのだが。
自分は古巣から切り捨てられた身であり、もはや帰る場所なんてどこにもない。彼女を害する理由などどこにもなく、自分はもはや追っ手によって消されるのを待つだけの存在でしかない。
ふと、少女が近づいてきて僕の額に手を当てた。僕は一瞬驚いて彼女の手を反射的に払いのけてしまう。そうすると、彼女はクスリと笑った。
「まるで、人に慣れていない猫みたいですね」
「うるさい、いきなり何をするんだ?」
「熱はだいぶ下がったみたいですね」
「負傷による一時的な発熱だ」
「分かっています。喉は乾いていませんか?」
彼女は水差しとグラスを近くのテーブルから手に取る。そういえばひどく喉が乾いている。彼女が水を注いだグラスを差し出すと、僕はそれを受け取って飲み干した。
程よく冷えた水が喉を通り、渇きを潤して体に染み渡る。水がこんなに美味しいと感じたのはいつぶりだろうか。
「簡単な食事を出させましょう。体力を回復させなければいけませんから」
「何が目的なんだ?」
「目的?」
「君は僕に何をさせようとしている?」
「その辺りは父に聞いて下さい。父が貴方を連れてきたんですから」
少女は肩をすくめて苦笑いをした。親愛を思わせる穏やかな笑み。彼女は部屋の扉を開けて、そこに控えていた護衛と話し出す。相手は女のようだ。
彼女は女に消化に良い粥のようなものを用意するようにと言づける。今の自分にはそういった食事が必要なのは分かるが、釈然としない事もあった。
「なぜ君が僕の世話をする?」
「ん、そうですね、なんとなくでしょうか」
彼女はそう言って笑う。
そうして静かな時間が過ぎていく。少し変わった気配を持つメイドが粥を届けてきたり、独りで食べれますかなどと聞いてきたりしたが基本的には無言の時間が過ぎていった。
静かな部屋は僕の息遣いと、たまにふらりとやってくるエステル・ブライトが本のページをめくる音、チクタクと時を刻む時計の音しかしない。
だけどそれはむしろ、安心さえできる時間でもあった。いや、何故僕は安心しているのだろうか?
傍にいる少女は出会ってからそう時間のたっていない人物だ。にも拘らず、この穏やかで清廉な雰囲気は何なのか。僕はいつのまにか本をめくる少女の横顔を注視していた。
そしてその容貌に、一瞬だけ自分によく似た黒い髪の年上の女性の姿が重なって見えて、僕は酷い頭痛に襲われた。
「どうかしましたか!?」
「いや、頭が…」
「脳内出血でしょうか? シニさん! 至急、医者を呼んでください!」
「いや、大丈夫だ…」
「頭を怪我していたので、もしかしたらということもあります」
「僕は…」
「大丈夫です。不安がらないで。ここには貴方を害する人はいませんから」
彼女は僕の頭を抱いた。その温かさに、どうしようもない程の懐かしさを感じた。そうして僕の意識は再び闇に飲まれた。
◆
「異常なしですか。良かった」
「お嬢様、どうしてそんなにあの少年に気をかけられるのですか? まさか一目ぼ…」
「違います。ただ何となく、気になっただけですよ」
あのどこまでも冷たい瞳は、彼の不幸な境遇を物語っているのだろう。私も一つ間違えれば、もしかしたら彼のような瞳をしていたのかもしれない。
だが、それだけならばそこまで気になる存在にはならなかっただろう。一番彼に興味を抱いたのは、彼がうなされている時に呟いた一言だった。
「お姉さんですか…」
姉さんと、そううなされながら呻いて、少年は私の手を握った。それはまるで迷い子のような、そんな空気を感じさせた。
母性本能とか良く分からないが、なんとなく放っておけなくなってしまったのだ。
良くないことは分かっている。彼は父を暗殺しようとした危険人物であることには変わりないのだから。
「エステルっ」
「エリッサ?」
シニさんと話していると、エリッサが駆け寄ってきた。ちょっと表情が怖い。
「ねぇ、どうしてそんなにあの子の事をばかり見てるの?」
「怪我をしている時は、安心させてあげることが大事ですから」
「シニさんとか、メイユイさんじゃだめなの?」
「ダメということはないですが、なんとなく、私が面倒を見たいと思ってしまいまして」
「まさかエステル、あの子の事…」
「断じて違います。ただなんとなく、放っておけなくなってしまったんですよ」
「エステルは誰にでも優しいから」
「優しくすると決めた相手にしか優しくしませんよ」
私はそんなに多くの人に無差別に甘い顔をしていい立場にはない。分かっているし、分かって受け入れて、分かってそうなった。
だけれども、あんな子供が人殺しを強いられている世界に、どこか理不尽さすら感じると同時に、深い悲しみが湧いてくる。
「エステルお嬢様、よろしいでしょうか?」
「メイユイさん?」
「彼の素性について、情報部からの報告です」
「早いですね。聞きましょう」
「結論はいまだ出ていないという、中間報告です。装備のメーカーも不明のようでして」
「まあ、父も目立つ人ですからね、飼い主をしぼることも出来ませんか」
A級遊撃士というのは伊達ではない。あの人は遊撃士になって数年で大規模な事件をいくつか解決に導いており、当然として割を食った人間もいる。
特にリベール王国は発展の裏で闇の部分が拡大しており、そういった人間が父に恨みを抱いて、暗殺を依頼したという線は現実的だった。
「少年への直接の聴取は出来ませんか?」
「父が頷けばやってもいいのでは? ただ、彼はプロですし拷問でも口を割らないでしょう」
失敗した後すぐに口封じされかけたところを見れば、使い捨ての人員と考えて良い。よって大した情報は最初から持たされてはいないだろう。
尋問途中で自殺されても困る。そもそも、父はそのために彼を連れ帰ったわけじゃない。父は少年を救うために連れ帰ったのだ。だからそういった事は父の意思に反してしまう。
少年がどういった処遇になるのかは分からないが、私は父の意向を尊重することに決めていた。
「まあ、お父さんなら妥当な答えを導き出すでしょう」
「ん、エステルがそう言うならいいけど。私にも構ってよね」
「エリッサは甘えん坊ですね」
私はエリッサの頭を撫でる。エリッサは気持ちよさそうに目を閉じてなすがままになっていた。
◆
「こんな場所にいましたか」
「君か」
この屋敷は広く、そして警備も厳しい。警備を行っている男たちは僕を胡散臭そうに見るが、何かをしてくるわけではなかった。
とはいえ、視線がうるさいので僕は屋敷の一角にある庭の、池のほとりに立つ木に寄り掛かった。そこだけは自然のままに残された小さな森になっていて、視線も気にせずに済んだ。
しばらく目をつぶって体を休め、外の空気を吸っていると、エステル・ブライトがやってきた。彼女は呑気に歩きながらやって来て、僕の隣に座る。
手には釣竿とバケツがあり、どうやら釣りをしようとこの池にやってきたらしい。
「熱は引きましたか」
「まあね」
「そうですか。なら、少しは体を動かした方がいいかもしれませんね」
「分かっているよ」
「なかなか懐きませんね」
「ヒトを動物みたいに言わないでほしいな」
「ふふっ、気を悪くしましたか? ごめんなさい」
そうして彼女は木陰に座ると、池に糸を垂らした。会話は無く、ただ風が木の枝を揺らす音、鳥の鳴き声だけが聞こえる。
ひどく穏やかで、ひどく落ち着いた時間だった。時折、少女が釣竿を振り上げて、銀色の流線型をした魚を釣り上げる。
「ん、フナですか。まだ小さいですね、逃がしましょうか」
木漏れ日はどこまでも優しく、時間はゆったりと過ぎていく。
「エステル・ブライト。君は…」
「どうかしましたかヨシュア。あと、フルネームで呼ばないで下さいと言っていましたよね。エステルと呼んでください」
「…エステル。君は僕に何も聞かないのか?」
「聞いてほしいことがあるんですか?」
「質問に質問で返さないでほしい」
するとエステルはクスリと笑う。まただ、この彼女の穏やかな空気に言いようのないほどの懐かしさと言うか、胸を締め付けるような感情を抱いてしまう。
この感情は何なのだろうか?
「貴方が話したくなったら、話してください。事情は知りません。でも、貴方がしたくも無い事をやらされていた事ぐらいは分かります」
「君に僕の何が分かるっ!?」
「何も分かりませんよ。そもそも、会ったばかりの私に全てを話すなんてことは出来ないでしょう?」
「君はそれで納得するのか? 僕が何をしたのか知っているだろう?」
「それは、貴方と父の問題ですから。父が貴方を救うと決めたのなら、私がとやかく言う事などありません。ただ、貴方がもし自分の中に溜め込んでいる何かを吐き出したいと思ったときに、私をその相手に選んでくれたのなら光栄には思いますよ」
彼女はそうして穏やかな笑みを浮かべた。暖かな日差しが木漏れ日となって降り注ぐ。木々の緑色が目に痛いほどに眩しい。
そうしてふと、世界はこんなにも明るかったかなと、そんならしくもないことを感じてしまった。
◆
「いい感じじゃないですか?」
「はい、出力も安定していますね。これで博士の要求するスペックにはなんとか届きそうです」
金属製の円筒形の機械が、その先端から青白い焔を吐き出している。焔の勢いは凄まじく、まるで噴火でも起こったかのよう。
轟音はあらゆる音を塗りつぶし、その灼熱は1800℃に達している。強化ガラス越しでも、その圧倒的な迫力は見る者をたじろがせるだろう。
王立航空宇宙研究所におけるジェットエンジン研究棟において、長年の研究が実を結ぶ瞬間に立ち会っている。
金属水素を用いたターボジェットエンジンの開発は佳境を迎えていた。タービンブレードの改良と、水素燃料の供給系統の改良がようやく上手くいったのだ。
タービンブレードの素材には七耀石による結晶回路の層が形成されている。燃料が燃焼する際の熱を吸収して導力に変換し、それを利用して導力による極薄の膜を表面に形成するシステムが構築されたのだ。
これはノバルティス博士との会談で得られた知識を元に考案したもので、半年以上の試行錯誤でようやく実現した。
極薄の導力場による層は断熱効果とタービン素材の化学反応を抑制する働きがあり、十分な耐久性を持たせるとともに、タービンそのものの寿命を飛躍的に伸ばした。
これによりエンジン出力全快でも1000時間を超える運用が可能となり、タービンにおける問題は一応の解決を見た。ただし、この加工のせいでタービンの価格は驚くほどに上昇してしまう。
量産効果があれば価格を抑えられるとはいえ、ジェット戦闘機の調達価格に悪影響を与える事は間違いなく、より簡便で低価格な処理法の考案が必要だと思われた。
「まあ、これで計画も推進できそうですね」
「次世代戦闘機開発計画ですね」
金属水素を用いたジェットエンジンは驚くほどの出力を生み出すことを可能にする。
単純に燃焼後の排気のスピードが圧倒的に速いということもあり、現在開発しているエンジンですらアフターバーナー無しで100kNの推力を生み出すことに成功している。
これは超音速巡航(スーパークルーズ)すら可能にする領域だった。
「新型機は重量を重くしても良いかも知れません」
「では、デルタ翼ですか?」
「クリップドデルタでいきましょうか」
先端を欠いたデルタ翼と水平尾翼の組み合わせ。そして二枚の垂直尾翼という形状はF-15に採用される大型戦闘機の典型的な形状だ。
ここに抗力の低減のためのリフティングボディ設計とカペルを用いたフライバイワイヤによるCCV設計を取り入れる。
また導力技術による運動性向上を目的とした渦流制御器の活用により、機体表面に気流の渦を発生させることで負圧を生み出し、翼を用いない姿勢制御や運動制御をも実現する。
さらに、大型戦闘機であることを利用して、反重力発生装置を組み込むことでVTOLとしての機能を付属させる。
機体構造材にはチタンと炭素繊維複合材が用いられる予定だった。
これらには七耀石の添加による構造・強度強化を行う研究が並行してZCFで行われており、これもノバルティス博士との会談で得られた知見を応用したもので、データ上では性能・経費的にも優れた素材が製造されつつあった。
試験機にはこれに合わせてヘルメット・マウント・ディスプレイの採用が考慮されていた。
これは機体の最大の弱点となるキャノピーの装甲化を最終的には目標としており、完全に実現すればキャノピーは透明なガラス素材ではなく、チタンのような装甲で覆われる事になる。
さらにはカペルを用いた早期警戒管制機との戦術的な連携を視野に入れた行動を想定しており、極めて高水準の導力演算器と導力レーダーとXバンド電磁波レーダー、そして通信装置を搭載する。
これにより4.5世代ジェット戦闘機相当のものを完成させる予定だった。
また、並行して進むのはステルス化技術である。結晶回路の薄層を形成することで可視光を含む電磁波と導力波を高効率で吸収するシステムの研究が行われている。
現在の所、導力波の吸収素材についてはかなりの水準に達しており、導力波レーダーに対するステルスシステムの完成も視界に入ってきていた。
「問題は《結社》対策ですね…」
導力ネットワークの普及はかなりのレベルで進んでいる。王国の各公的機関や金融機関は既に導力ネットワークで結ばれており、緻密な情報交換が可能になりつつあった。
とはいえ、何らかの方法でこれらに介入する技術を《結社》が持っているらしいことは理解しているので、サブとしてのシステムを作っておきたい。
候補になるのは光ファイバーや電線、電波を用いた情報処理システムだが、当然これらには電力を用いる必要があり、導力による介在は出来るだけ防いだ方が無難と思われた。
そこで発電装置を各地の要所に設置する計画を立てている。名目は対導力兵器に対するバックアップということになっている。
導力エネルギーに完全に頼った状態にあると、その脆弱性をついた攻撃を受ければ軍は一気に崩れてしまうとか、そんな理由だ。
電信と電話ぐらいしか使えないのが玉に瑕だが、通信が生きている状況さえ作れれば、近代的な軍がただの秘密結社に敗北するとは思えない。
発電装置は燃料電池が候補に挙がった。テティス海沿岸の工業地帯や航空宇宙研究所において水素は定常的に生産されており、白金は高価だがそこまで数を要さないのでコストは許容範囲と思われた。
原理自体は分かっているので、後は適当に研究させているが、まだ満足できるものは作られてはいない。
他に火薬式の兵器の備蓄が進められている。火薬を用いた兵器は弾丸がかさむので人気がないが、導力銃にはない高い威力を誇る武器が存在した。
そのあたりはラインフォルトやヴェルヌあたりが良い武器を生産しているようで、必要数ぐらいはそろえる事が出来るだろう。
ジェットエンジンについても、金属水素をそのままではなく、通常の炭化水素燃料を使用する出力を大幅に下げたタイプの、無導力ジェットエンジンの研究もされている。
同時に対導力兵器として考えうるものを列挙しているが、強烈な導力パルスを使用した兵器ぐらいしか思いつかないのは悲しい所だ。
他にもハッキング対策として、データをネットワークから直接抽出できないように、外付けの記憶装置を適時利用するように指導をしている。
まあ現代導力学においてはカペルの力が必要不可欠なので、研究が非効率にならない程度の工夫しかできないのだが。
半導体を用いた論理回路や集積回路の試作も行っている。カペルには届かないが、導力ネットワークとは異なる情報システムの構築により《結社》の介入を防ぐことが可能かもしれない。
「まあ、対策はこの程度でしょう。彼らはこれを知ったうえで動くのでしょうがね」
彼らの恐るべき導力技術は一朝一夕で培われたものではないはずだ。
おそらくは導力革命以前からその技術を研磨していた可能性が高く、そうなれば彼らの技術の出所は古代文明といったものに限られてしまう。
情報部によれば七耀教会も独自に古代遺物の運用を行っているとのことなので、似たような背景を持つ集団なのかもしれない。
◆
「こんにちは」
その人は穏やかな笑顔を浮かべて、私にあてがわれた真っ白い、青い空の見える部屋に現れた。栗色の長い髪と、赤銅色の瞳の年上の女の人。
私とはそれほど歳も離れていないのに、何人かの軍人や医師の人たちを引き連れて、彼女は私の部屋にやってきた。
「貴女とは一度、ちゃんと会って話をしたいと思っていました」
彼女はそう言って私が横たわるベッドの傍の椅子に座る。彼女が担当の医師と看護婦の人たちと二三言葉を交わすと、彼女に連れられた人たちは私の病室から出ていった。
軍人の人は閉じられた扉の向こうにいるようだが、部屋の中には栗色の髪の女の人と私だけになった。そうして彼女との何気ない会話が始まる。
それは本当にどうでもいいような事で、例えば私がいた国の事とか、両親の事とか、幸せだったころの思い出とか、あるいは彼女の事だとか、彼女の幼馴染が私と同じ名前だとか、飛行機についてだとか。
彼女の声色はとても落ち着いていて、感じられる感情の色はとても穏やかで澄み切っていて、気が付けば私は彼女とすっかり話し込んでいた。
私は起き上がることも出来ない程体力がなくなっていて、いつの間にか彼女と話している途中だというのに眠気が襲ってきた。すると彼女は私の頭を撫でた。
「今日はたくさん喋って疲れたでしょう。また来て良いですか?」
私は頷いた。看護婦の人たちも良くしてくれるが、年齢の違いとか、向けられる憐憫の感情を感じたりして上手くなじめなかったけれど、彼女は純粋に私を私個人として見てくれた。
少しだけ好奇心は混じっていたけれどもそれは不快ではなくて、むしろそんな雰囲気が心地よかった。
およそ二年間、時間の感覚なんてとうに無くなってしまうほどの時間。私はたくさんの酷い事を、そして嘆きをこの身に受けてきた。
今でも感じる。この病院には私と同じ境遇の子供たちが集められていて、医師たちの治療を受けていた。彼らの苦しみや悲しみ、そして憎しみや諦観といった感情を読み取ることが出来る。
薬が抜けても鋭敏になった感覚は収まらず、遠くの病室の心が壊れた女の子の狂った感情も時折だが感じる事が出来た。
助けられたらしいことは分かっている。ここはリベール王国という国のツァイスという街の病院で、時折、いくつかの変わった機械を使って診察を受けるが、酷い事はもうされなかった。
数日して再び彼女がやってきた。とても嬉しそうな感情で、何事かと思ったら、良いニュースがあるのだと言う。
「貴女の両親と連絡がついたんですよ。喜んでください、もうすぐお父さんとお母さんに会えます」
そう言って我が事のように喜ぶ彼女は私の頭を撫でて抱きしめてくれた。私もその知らせに心が躍った。パパとママに会える。
物心がついたばかりの5歳で引き離されることになったが、パパとママのことは片時も忘れたことが無かった。彼女は一週間もすれば会えると約束してくれた。
そうして一週間が過ぎてとうとうパパとママが私に会いに来てくれた。二人は涙で顔をぐしゃぐしゃにして私を抱きしめてくれた。
ここ数日、私と同じように周りの病室でも子供たちの親たちが会いに来ていて、私もソワソワと待ちきれなかったのでとても嬉しい。
パパの話によると彼女、お姉さんは世界でも有名な学者さんらしい。私はお姉さんのことをパパとママに話して、そしてようやく私の時間は再び動き出した、そんな気がした。
医師の人によるとまだ身体がちゃんと回復していないので一か月は入院しておかなければならないという。
パパとママはその間、ツァイスの街に逗留して毎日お見舞いに来てくれるのだという。やっと苦しい時間は終わったのだと、心からそう思えるようになった。
お姉さんも時々やって来てくれて、私と同い年の技術者希望の女の子の話とか、お姉さんの研究していることなどを話してくれた。
でも少しだけ心配なことがある。
私は変わってしまった。些細な感情を読み取ってしまうこの力は、もう無くすことは出来ないのだという。
パパとママの些細な感情の揺らぎも、何もかも全て分かってしまう。この事が後に私の人生を大きく歪めてしまうことは、まだ私には知る由もなかった。
◆
ヨシュアが我が家に来て2週間が経とうとしていた。彼の怪我は順調に回復し、ぎこちないものの歩き回れるようにはなっている。あと少しすれば走れるようにもなるだろう。
だがそれは同時に、彼が療養として我が家に滞在するという名目が無くなることを意味していた。この先彼はどうするつもりなのだろうか。
私はテラスでブランデーをたしなむ父にその事を問うことにした。
空には雲に霞む朧月、涼しげな夜風。大理石のテラスにシックな木彫の椅子とテーブル。グラスには琥珀色の液体に大きな氷の塊が浮かび、父がグラスを揺らすたびにガラスと氷が涼しげな音を奏でる。
「お父さん、この先、彼をどうするつもりなんですか?」
「この先?」
「もう怪我はだいぶん良くなりました。彼を連れてきた手前、お父さんにははっきりさせてもらわないと」
「ふむ、お前はどうしたい」
「私ですか?」
「ああ」
「個人的には彼が自分の道を見つけるまでは置いておいても良いと思っていますが、公的な立場として言わせてもらうなら、一応は反対と言わせていただきます」
暗殺者。その素性は全く分からず、何らかの組織に属していたことは間違いない。
私の研究成果の一部でも持ち去って、どこかの国に売り込めば、それだけで当面の資金源になるはずだろうし、彼を切り捨てたと思われる組織にも凱旋できるかもしれなかった。
だが、ヨシュアの様子を見ればそのような行動は行わないのではないか、そんな気がする。
たまに垣間見える彼の苦悩に満ちた表情や、かつてのエリッサの様に痛々しい程にうなされる寝姿。そこには傷つき、行き場所も帰る場所も失った子供の姿があるだけだった。
とはいえ、私は慈善事業家というわけではない。
恵まれない子供全てに手を差し伸べるなんて傲慢な考えは持っていないし、ただ目の前の少年にたまたま気まぐれの様につきあっているだけにしか過ぎない。
成り行きでしかないのだ。彼個人に特別な感情を持っている訳ではなかった。
「一応か」
「一応です。私は答えましたよ。お父さんの番です」
「俺はアイツに任せるさ。何をしたいのか、何を望むのか。そういうものは自分で考え、自分で見つけ出すべきだ。ここから去るのか、ここに留まるのか。それはアイツが決める事だ」
「厳しいですね。俺の背中について来いとか、お前が信じる俺を信じろとかは言わないんですか?」
「そこまで熱血ではないさ」
父は笑う。
何が熱血じゃないさ、だ。昔は剣の道を極めるとか言ってレグナートに喧嘩売りに行ったくせに。
そういえば、最近レグナートは詩を詠むことにはまっている。いくつか本を紹介したところ、詩集を気にいってしまったようだ。なかなか情緒のある詩を詠むので、こんど出版社に売りこんでみようか。
閑話休題。
「それは残念です。ですが、彼はそれを見つけられますかね。歳の頃を考えれば、まだまだ子供だと思いますが」
「それをお前が言うのか?」
「私には夢がありますから。いままで夢すら見る事を許されなかった彼が、いきなり夢を探せなんて言われても困るでしょうに」
「ふっ、大人のできる事などそうはないさ」
「刺客は来ませんでしたね」
「ああ、そこは俺も気になっていたところだ」
少年は命を狙われるはずの立場だった。父に敗北した後に追っ手を放たれたのだから、当然として追撃が行われる可能性は高かった。
とはいえ、既に完全に敵の手に少年が落ちている以上、情報は既に漏れていると判断すべきで、追っ手を出しても手遅れと判断している可能性もあった。
「情報部でも彼の素性を洗っているようですが、何も分かっていないようです」
「そうか」
「彼に尋問しないんですか?」
「子供の暗殺者など組織の末端にすぎないさ」
「…なるほど」
子供の暗殺者というのは基本的には使い捨てだ。攫ってきて、洗脳して、鍛えて、送り込む。費用は100万ミラもかからないだろう。
属している組織についてもほとんど知らない可能性が高い。むしろ、当然のように知らないはずだ。尋問して分かるのは、どこで誰に『教育』を受けたか、どのような任務をこなしたかぐらい。
それでも暗殺対象から組織の目標というか傾向を絞ることも出来るし、アタリをつけることも可能かもしれない。そういう意味で尋問が全て無駄になるわけではないだろうが。
まあ、『教育』を受けた場所については彼が我々に捕まった時点ですでに放棄されている可能性が高い。
父は琥珀色の酒精を口に含んで舌の上で転がす。
しかし、彼自身に為すべきことを見つけ出させるか…。父は基本的に放任主義だが、それは子供を甘やかすという意味ではなく、ある意味厳しい教育方針だ。とはいえ思う。
「立ち止まる時も必要だとは思うんですけどね」
「エステルは優しいな」
そうして父は私を抱き寄せ頭を撫でた。私はされるがままに父に体を預ける。ちょっと酒臭かった。
◆
「リハビリに行きましょう」
「リハビリ?」
僕がこの屋敷に来て数週間が経った。足の怪我もほぼ完治していて、歩くのも走るのも問題は無くなっている。
長い間療養していたせいで筋肉が落ちて、体がなまっているが、動くことに支障は無くなっていた。そんな僕にある日エステル・ブライトはそう切り出してきたのだ。
「この子も連れていくの?」
「人数は多い方がいいでしょう」
「どこに行くんだ?」
「パーゼル農園です」
エステル・ブライトの隣で僕をジト目で睨んでいるブラウンの髪の少女はエリッサ・ブライトだ。彼女はこの家の養女であり、エステル・ブライトの姉妹ということになる。
いままであまり話さなかったが、僕に対してはあまり良い印象を持ってはいないらしい。
着替えを済ませて庭に出ると、ZCFの高級車が止まっていた。そして同じ車が他にも1台あり、どうやらそれらはエステル・ブライトを護衛するための人員が乗る車のようだった。
まあ、彼女ほどの人物が出かけるのならば、それぐらいの護衛はついて当然なのかもしれない。
「では行きましょうか。メイユイさん、運転お願いしますね」
エステル・ブライトは白いワンピース姿、エリッサ・ブライトは花柄のスカートといった動きやすい装いをしている。
暗器使いのメイドが彼女たちを車に乗せる。僕は助手席に乗せられた。そうして2台の導力車はロレントの西口を出てミルヒ平原を走る。
青い空に天高く入道雲が映える。
リベール王国最大の穀倉地帯であるミルヒ平原は地平線まで見渡す限りの畑になっていて、巨大な農業用導力機械がときおり人を乗せて動いていたり、道をすれ違ったりしている。
話によれば耕耘、散水、作付けから刈り取り、脱穀から精製まで全て導力化されているだけではなく、温室栽培の導入や水耕栽培の試験なども行っているらしい。
さらには小型飛行船による農薬の散布まで行っているようで、ここまで高度に導力化された農地はリベール王国ぐらいしか存在しないかもしれない。
「チェルとウィルは元気にしてるかな?」
「夜泣きが大変そうですね。双子のお姉さんになってティオも大変ですね」
エステル・ブライトとエリッサ・ブライトは非常に仲がいい。元々は幼馴染だったらしいが、特にエリッサ・ブライトがエステル・ブライトに懐いているように見える。
二人は後部座席で手をつなぎながら話をしていた。関係性から見るに、エステル・ブライトが姉といった関係なのだろう。
パーゼル農園は彼女たちの幼馴染であるティオ・パーゼルという短髪の少女の家が経営しているらしく、その家の主の妻が子供を出産したということで、今回の農作業の手伝いをするらしい。
実際にはノーザンブリアや東方からの移民を雇っているので労働力には不足は無く、どちらかと言えば毎年恒例の行事のようなものらしい。
そうして車は大きな農園の敷地に入っていく。
一年戦役によって農夫にも多くの犠牲者が出た関係もあり、戦後復興事業において農地の大規模な区画整理が行われ、ロレントには大規模農業経営者が誕生したそうだ。
パーゼル農園もその一つであり、立派な牛舎や温室菜園などが立ち並んでいる。
「こんにちは、ティオ、それにフランツおじさん」
「いらっしゃい、それにしても毎度大仰なご登場ね。どこの貴族か」
「ティオー、やっほー」
澄ました顔の短い青い髪の少女がティオ・パーゼルだ。エリッサ・ブライトは満面の笑みを浮かべながら彼女に抱き付いた。
基本的にスキンシップが好きな少女なのかもしれない。エステル・ブライトはその様子を微笑みながら眺めつつ、農園の主であるフランツ・パーゼルに挨拶をする。
「おお、来てくれたのか」
「今日はご迷惑おかけします」
「いやいや、ウチもエステル君のおかげで立派な農園を再興できたしね」
「私がやったわけじゃないです」
「はは、謙遜だな。おや、そちらの君は…?」
「ヨシュアです。ちょっとした縁がありまして、我が家で療養しているんですよ」
「おお、そういえばティオからそんな話を聞いていたな」
そんな風にティオ・パーゼルやフランツ・パーゼルと話していると、パーゼル氏の家の扉が開いて赤ん坊二人を抱いた女性が現れた。彼女は赤ん坊をあやしながら歩いてくる。
「ハンナおばさん、こんにちわ。ご加減は大丈夫ですか?」
「こんにちわー」
「はい、こんにちは。二人ともよく来てくれたわね。私もすぐに農作業に戻りたいんだけど」
「おいおい、作業はまだ無理だろう。最近はヒトも雇っているし、お前は働かなくてもいいんだぞ」
「なーに言っているのよ。ティオが生まれた時は、もうしっかりと働いていたんだよ。農家の妻なんだから当然のことさ」
「あはは、ハンナおばさん、無理しないでください」
「ふふ、まあ双子だからそうもいかないけどね。ん? おや、そっちの黒髪の子は?」
「ああ、ヨシュア君だよ。エステル君の家で世話になっている…。ほら、前にティオが話していたろ」
「ああ、そういえばそうね。まあまあ、また随分とかわいい子じゃないか」
ハンナ・パーゼルはそんな事を言いながら陽気な笑顔を僕に向けてくる。無警戒で、そして平和な光景だ。まあ、農家なのだからしかたがないだろうが。
「あんたも手伝いに来てくれたのかい? 済まないねぇ…。ん? おや、よく見たら包帯をしてるじゃないか」
「おお、本当だ。これは気付かなかったな」
「傷はほぼ完治しています。作業に支障はありません」
パーゼル夫婦は心配そうな表情で僕を見つめる。とはいえ、傷はほとんど完治しているし、そこいらの子供よりは動ける自信はある。足手まといにはならないし、運動をこなさなければ体力は回復しない。
「リハビリのために連れてきたんですよ。簡単な作業でもいいので、任せていただけませんか?」
「いやいや、無理は良くないよ。どこか休めるところで…」
「そうだ、いいことを思いついたよ」
エステル・ブライトの言葉に難色を示すフランツ氏。そんな時、ハンナ夫人が何か名案を思いついたように声を上げた。そうして、
「……」
何故か僕は双子の赤ん坊の世話をする役を仰せつかっていた。
「男の子の方がウィルで女の子の方がチェルさ。よろしくたのむよ」
「…了解しました」
「それでは作業を始めようか」
そうしてエステル・ブライトたちと、他の労働者たちが農園に散らばって作業を開始した。僕は農園の片隅にある木陰で赤ん坊を抱きながら、彼らの作業を遠くから眺める。
それはどこにでもある、ごく普通の農家の風景でしかなく、今まで自分が身を置いていた世界からはほど遠いものだった。
この数週間、追っ手の気配は全くない。ブライト邸の警備態勢が厳しいと言うのもあるだろうが、監視などの類も一切感じられなかった。何故か。
僕の居場所ぐらいはとっくに突き止められていてもおかしくはないというのに。もう僕には関心がないのか? だから記憶だけ消して捨てた?
いや、だけど。何か、何かとても大切な事を、大切な物を失ってしまった様な気がする。何だろう。僕はいったい何を失ったというのか。
「…シュア」
僕はいったい…
「ヨシュア!」
「!?」
気が付くと目の前に籠いっぱいに野菜を詰めたエステル・ブライトが立っていた。麦わら帽子をかぶった彼女は心配そうな表情で僕の瞳を覗き込んでいる。
「少しぼーっとしていましたが、調子は悪くないですかヨシュア?」
「いや、普通だよ」
「そうですか」
彼女は穏やかな表情をして僕の隣に座る。
「少し休憩です」
「そうか」
「立派な野菜でしょう。この農園の野菜はリベール王国全土の食卓にのぼるんですよ」
「そうなんだ」
彼女は楽し気に微笑みながら収穫したばかりの野菜を手に取る。土のついた人参に、茄子。とくに珍しいものでもないのに、何がそんなに楽しいのか。
「こういうのはいいですね。当たり前の幸せを享受できるのは幸せなことです。そう思いませんか?」
「……」
「大地の恵みを収穫するのは人間の数千年来の喜びですよ。見ているだけで幸せな気分になります」
「君は…」
「では、私は行きますね。休んでばかりはいられませんので」
エステル・ブライトはそう言うと立ち上がった。楽し気に、笑みを浮かべて、労働に向かう。
それは記憶には無いが、今までの自分にはきっと無かったもので、そしてどうしようもなく懐かしさを感じさせるもので、まるでそれが失った大切な物にとても良く似ているのではと思ってしまうほどに。
そしてふと、どうしようもなくハーモニカを吹きたくなった。今はもう誰に教えてもらったのか、どこで覚えたのかもわからない曲。
ただ自分の中に残った、唯一の本物らしき何か。僕は何かに突き動かされるように、ハーモニカに口を当てた。
◆
「ハーモニカ?」
「うわぁ、上手いねぇ」
「あんな特技があったんだ」
木陰から風にのってハーモニカの音色が農園に響き渡る。明るいようで、寂しいような、聞きなれないのに、どこまでも懐かしい。
夕日に照らされた少年がハーモニカを吹く。抒情的とでも表現すべきなのか。まるで胸をかきむしるような、どこまでも切ない懐かしさ。
私の脳裏に浮かんだのは母親の、お母さんの姿。なんでもないような日常の風景。もうかすれてしまった母さんの声の記憶。
何を話したっけ。どんな風に遊んだっけ。記憶は遠く、手を伸ばしても届かない。知識としては覚えていても、一つ一つのエピソードを思い出すのはとても遠くて。
「エステル、泣いてるの?」
「どうしたのエステル!?」
「え、あれ、変ですね」
私の頬を濡らしていたのは涙だった。私は泣いている? 何故? 何に泣いているのか。音楽がとても綺麗だから? それもある。
けれど、今までどんな名曲を聴いたってこんな涙を流した事なんて無かっただろう。ならばなぜ。……ああ、それはきっとお母さんのために泣いているのだろう。そうしてはっと気づいた。
ああ、なんということだろう。私はもしかしたら、初めてお母さんのために涙を流している。
漆黒の牙、赤ちゃんをあやす。
22話でした。
電子励起爆薬登場させていいですか? ヘリウム使ってTNTの500倍の威力もつヤツです。金属水素が作れたなら、金属ヘリウム爆薬作れたっていいじゃない。
ポリ窒素は扱いづらくていけないし、威力もTNTの8倍でちょっとインパクトが足りないかも。作り方なんて知らないんですけどね。