仮面ライダーディケイド エクストラ   作:牢吏川波実

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注:本文でも最初に注意していますが、北条響ファンの方は、これを見ないでください。見る場合は、自己責任でお願いします。
 あと、もしもR-18であったらすぐに言ってください、削除、修正しますから。

 今更ながら、ドラマだと2クールぐらい、映画だと二時間半以上必要な重い問題をたった一、二話で消化しようとするなんてどうかしている。


プリキュアの世界chapter29 祈りすら凍えるそんな夜

ー現在 ハルケギニアー

 

「待った」

「え?」

 

 響が話を始める場面になったその時、現在の士は一端ミラクルライトがソレを再生するのを止めた。

 

「いったいどうしたんですか?」

「これを見る前に言っておく……本当に見るのか?」

「え?」

「ここから先は……今までの話とは桁外れにどぎついものになる。……好奇心で見るようなことは響のためにも、お前ら自身のためにもやめておけ」

 

 士が、まるで念押しするかのように彼女たちに言った。彼がここまで言うということは、恐らく響の経験したことがかなり自分たちにとって刺激的なものになるからと言うことになる。さらに、士のその鋭い目線は、生半可な気持ちで返事をするなという意味も含めているように感じた。その目付きに恐れをなし、夏海までも返事をすることはできなかった。返事をできたのは一人だけ。

 

「……聞かせて、士さん」

「マナさん……」

 

 相田マナであった。すでにこの時点において未来の自分が妊娠していたり、PC細胞だったり、めちゃくちゃな自分たちの未来を見せられているはずのマナは、士に勝るのではないかというほどの真剣な目付きでそれを言っていた。

 

「……後悔するかもしれない、それでもいいのか?」

「だって……これは、響の、ううん私達が経験するかもしれない未来の事……その悲劇を知っていたら、回避できるかもしれない……だから、私にはそれを見る権利がある」

「……お前らはどうだ?」

 

 と言って士は周りを見渡す。彼女達にとっては何ら関係のない話のはず。しかし、それでも見てみたかった。興味本位だとか、面白そうだとかという邪な感情のためではない。ただただ見てみたかったのだ。それがどんな過酷な経緯だったのか分からないが、それに彼女たちがどう選択していくのかを、ただ知りたかったのだ。その場にいる全員が、聞きたいとジェスチャーするように重くうなずいた。

 

「……分かった。覚悟して見ろ」

 

 そして、ミラクルライトは響の回想を映像とする。

 戻るのであれば、これがラストチャンスだ。それでも見たいのであれば、禁断の門を開こう。見よ、これが北条響の絶望だ。

 

 

 

ーオーストリア ウィーン 三か月前ー

 

 一回、二回、三回……完璧に同じリズムで呼吸を繰り返している女性がそこにはいた。しかし、幾度も膨らませた後の風船のように肺を大きくして、しぼめようともそのすぐ隣で速いテンポでリズムを刻んでいる胸は、その肺を押し込めるように大きく脈拍を打つ。彼女は緊張を鎮めるために試行錯誤何時間もしていた。イメトレ、瞑想、そして深呼吸。しかし、有象無象をどれだけしたとしても無駄なことで、彼女の緊張がほぐれることはなかった。寮の自室で先生からの連絡を待っていた響は、何か、忘れていることはないだろうかと思い返す。化粧はちゃんとした。それが、ほとんど初めてと言ってもいい化粧であったために、昔のやまんばメイクのようになってしまって洗い流したのは、もはやいい思い出となってしまっている。爪も、先ほど切った。楽譜は……直前まで確認するために持って行っておこうか。響は今日弾く予定の曲の楽譜を持った。

 その表紙に書かれている曲名は、『二台のピアノのためのソナタニ長調 第一楽章』、かの有名な天才音楽家、『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1791年没)』が二十五歳の時に書き上げた曲。かつて日本でも『のだめカンタービレ』という、実写化までされた漫画の印象的な場面で登場したために、知名度が上がった楽曲だ。しかし、この曲はその名前の通り、二つのピアノ、二人の奏者がいなければならない物だ。しかし、無論のことコンクールはたった一人で弾くという規定がある。だから、わざわざ一人で弾けるように、そして主催者側が設定した時間内に合わせるように彼女は編曲した。先生からは、リスクが高すぎると猛反対されたが、彼女はこれじゃなければ嫌だった。いや、どちらかと言うと、『二台』という言葉がつかなければ、いけなかったのだろう。こうしていれば、想像上のもう一つのピアノを、彼女が、親友が弾いているように思えて、勇気を与えてくれるものと信じているから。

 このコンクールで結果を出して、日本に帰って、奏や他の友達とも仲直りして、連絡を取らなかったことを謝って、また昔のように喧嘩して……。奏は、どうしているだろうか。いい人を見つけて、もしかしたら、結婚しているかもしれない。子供もいるのかもしれない。そしたら、自分はどんな顔をして彼女に会えばいいのだろうか。もしも、嫌われていたらどうしようか。何年も連絡していなかったのだから、それは至極当然だ。でも、たぶん大丈夫。きっとそれでも仲直りできる、そしてまた昔のように……。昔のように……。

 

「昔のようになれるかな、奏……」

 

 ふと、自分も意図していなかったつぶやきが虚空に漏れてしまった。自分も、彼女も、もう二十四歳のいい大人。子供の時のような関係に戻すことなんて、本当に可能なのだろうか。自分は、この何年間で汚い大人の世界という物を知った。子供の時のように、周りの人間すべてを信じる事なんてできず、むしろこんな世界を本当に救って、それでよかったのだろうかとも一時期思ってしまうほどだった。奏は、友達皆はそんなことはないだろうがしかし、変わってしまっていたらどうしようか、心が醜くなっていたらどうしようか、それが心配だった。

 その時、携帯電話が鳴った。

 

「Hallo. ……ja…… Ja, ich weiß. ich bin gleich da.(もしもし。……はい……はい、分かりました。すぐに行きます)」

 

 音大の先生から連絡が来たのだ。響は楽譜などを入れたカバンを持つと、戸締りを確認して、外に出た。そして、そこで忘れ物を思い出した彼女は、一端部屋に戻りソレを取ってからもう一度ドアを開けて外に出て、二つの形の違う鍵を閉める。もう季節は夏と秋の間、暖かさからゆったりと秋の心地よさに変わろうとしているはずなのだが、まだまだ生暖かい風が頬に当たって気持ちが悪い。

 外はもう日が落ち、街灯がなければ真っ暗闇であっただろう静かなその道、彼女は少し遠くにある試験場へと足を向けた。本来ならば、もっと早い時間に行われるはずだったそれは、記録的な大雨による公共交通機関の不通によって、審査員が遅れてしまったため、ここまでの時間になってしまった。自分も会場で待っていればいいのだが、寮から会場まで非常に近かく、先生からの連絡を受けてから出たとしても、十分に自分の出番に間に合うため、心を落ち着かせるのなら楽屋よりも居慣れている寮の方がいいとアドバイスされてこの場所で気を高めていた。月は、金色に輝いており、まるで笑っているようにも見える。自分のこれからの門出を祝福してくれるように、心配なんてしなくてもいいと言ってくれているようにも。しかし、その時雲が月にかかってしまった。そういえば、今夜大雨が降るかもしれないと天気予報で行っていたような気がする。その雲が、審査員が来ることを阻んでいた雨なのだろうか。傘を持ってきていた方がよかっただろうか。しかし、いざとなったら試験場近くのスーパー辺りで傘を買えばいいので、まぁいいだろう。月が雲に隠れて少し暗くなったものの、街灯や大きな窓から店の灯りが自分以外人のいない地面を照らしてくれているため、十分に光源は保っていると言える。

 いや、待てよ。どうしてこの時間帯に人がいないのだろうか。すぐ近くの店の窓から店内を覗くが、そこにも誰もいない。この辺りは、食事処が多く、大きな窓から店の様子を見ることは簡単にできるがしかし、ふと見ただけではそこに人はいるようには見えない。しかし、机の上にある皿の上には、まだいくつもの食べ物が、床にはお客さんのカバンがたくさん置いてあることから、そこに客はついさっきまでいたはずなのだ。それが、まるで全員霧になって消えてしまったかのように、誰もいない。今はまだ二十時過ぎ、まだ人がいてもいいはずなのにどうして……。

 

「君は、あの頃から大人っぽかったね。やっぱり変わらないっていい」

「ッ!」

 

 耳に響いたその声と共に、ものすごい力と速さで路地裏へ連れていかれて、そして……。

 

 

 三時間後、雨が降った。地面に打ち付ける雨音が雑音のように耳を突き抜けて、幾分かの生暖かい水が彼女の耳に浸入する。気持ち悪くて、脳が身もだえているかのようにムズムズしている。しかし、放心状態の彼女にはそれを取り除く気力もなかった。しゃっくりのような、えづくような、そんな小さな呻くような声も雨の音に消されて誰の耳にも届かない。無論、彼女の腐りかけの聴覚もそれを聞き取ることはしなかった。ちょっと前までは、きれいなハーモニーを奏でていたように聞こえていたソレが、石畳によって人工的な機械音のように出力を変えて、悲鳴の大合唱のように聞こえる。目に、少しだけ雨粒が入った。瞼から流れる出るしずくが、一つ、また一つと地面にしみこんでただの水へと変わっていく。一粒一粒大きな雨のしずくが、身体に当たるたびに体に張り付いたベタベタとしたソレを剥がしていく。しかし、その時の記憶が洗い流されることはない。ひび割れた胸が潤うことはない。見ると、楽譜が雨に濡れて、ふにゃふにゃにふやけてしまっている。散乱した元々服であった布を含めた彼女の持ち物が、乱雑とした彼女の今の気持ちを表しているよう。もしかしたら、それらは彼女の心が砕け散ってしまったのだと表しているのかもしれない。雨は降る。嘆くように。憐れむように。あざ笑うように地面に、壁に、屋根に、裸体に打ち付けて苦しい。さらけ出された背中から、ひんやりとした地面の感触、ゴツゴツとした地面の凹凸も分かる。分かるからこそ、彼女の心は沈みゆく。この歳になって、産まれたままの姿で、地面に寝転ぶことになるなんて、しかも雨に打たれるなんて思いもよらなかった。ただ、もう恥ずかしさとか、そう言った羞恥心なんて吹き飛んで、むしろ雨の日のビーチに寝転んでいるかのようにちょっとすがすがしい、気持ちいいとも思ってしまった自分に嫌悪感を生じた。このまま、ここにいたら風邪を引いてしまう。響は現実逃避をするほかなかった。いや、一つだけ行動に移せることがあったのは確かだ。石化してしまったように固くなってしまった腕を必死の力で動かして、楽譜のすぐ近くに裏返しになって落ちているソレに手を伸ばした。雨に濡れて使い物にならなくなった携帯電話なんて偽物の思い出を入れているものじゃない。ひび割れてしまったソレを胸に持ってくると、眠りにつくようにゆっくりと気絶した。まるで、それを胸の前に持ってこれてよかったと、安心するように。その瞬間に思っていたことはどういうわけか、コンクールのことだった。当然、もう間に合わないだろうし、こんな状態で行けるはずもないのに。ただ、また奏と再会するのが遅くなることが悲しかった。でも、もうどうだっていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だってこんな汚い、醜い私なんて、奏の夢にふさわしくないから。

 響の持つ写真立ての向こうで、中学生の響が、エレンが、アコが、ハミィが、そして……奏が、笑っていた。響と、少女たちの間には大きなヒビが入って、まるで二組を遮る壁のように、無常に、そして彼女に現実を教えるかのように、深々と鎮座していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 窓から差し込む朝日が、彼女の意識を再覚醒させる。夢か、否ここは自分の寮のベッドの上じゃない。知らない服、布団、そして知らない毛布。綺麗な、目に痛いほどに光り輝く純白のそれは、異物の入った彼女の心をあざ笑っているようだった。響は病院のベットの上にいたのだ。すぐそばには、音大の先生や、それから近所に住んでいる彼女と親しくしてくれていた女性がいた。女性が、警察に通報してくれ、保護された後に病院に運ばれたらしい。通報してくれたのが、その女性だったことも幸いだっただろう。もし発見者が男性だったらなんて、おぞましくて考えたくもない。響は、心苦しかったけれども昨晩の事を話し、後は警察の捜査に任された。警察から解放される際に、犯人から接触があったらすぐに連絡してくれと言われた。もしかしたら、響のあられもない姿をカメラに収め、それを材料にしてもう一度行為を迫ってくる恐れもあったからだそうだ。近くにあった監視カメラの映像、そして響の証言から犯人は日本人であるということが分かった。しかし、結局それしか分からず、これと言った特徴もなかったために捜査は難航。さらに、響は恐るべきことをその場で聞かされる。人通りの全くなかったその道、実は少し離れた監視カメラではその道に行こうとする人影は写っていたらしいのだ。しかし現場の監視カメラには、犯人と彼女の姿しか映っていない。まるで、神隠しにあってしまったように。現在、彼女が裏通りに連れていかれる前後にその道を通ったであろう老若男女が、今でも見つかっていないらしく、警察も正確な数を把握できていないそうだ。

 仕方ないとはいえ、大事なコンクールをすっぽかしてしまった響は、その日から寮に引きこもってしまった。辱めを受けたショックもあるがしかし、コンクールに出られなかったというショックも相まって、心理カウンセリングを受けなければ、彼女の心が壊れてしまうということで、警察からは、精神科へのある病院への通院を薦められた。

 だが、正直言えば手遅れだった。彼女の心はすでに壊れていたのだ。一度割れた風船がまた膨らむか?否だ。だから、心理カウンセリングなんて何の役にも立たなかっただろうと思い込んでいた。彼女はこの事件によっていろいろな物を失った。純潔、尊厳、コンクール。音大の先生や、自分のせいでコンクールに出ることが叶わなかった同級生、両親の期待、思い、そして奏に再会する機会。大事な物を全て奪われた気がした響は、死んでいると同じ面持ちであった。

 それから、彼女は家の中で毎日を過ごして、時間を無駄に浪費していた。特に長く居たのはお風呂場だ。一日の内八分の一くらいは、シャワーを浴びていただろう。洗っても、洗っても、洗っても、取れない、流れない。当たり前だ。彼女の皮膚は綺麗そのもの、何も汚い物等ついていないのだから。だが、彼女は浴びる。でも、取れない、消えない、流れない、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗って洗って洗って洗って洗って洗って洗って……どうして、消えないの?

 後は、大抵ベッドの上で座り込んで過ごす。だが、何もしないと、結局はあの夜のことを思い出してしまって、またシャワーを浴びたくなってしまう。でも、取れない、消えない、流れない、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても、洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても洗って洗って洗って洗って洗って洗って洗って……その内、シャワーの水とは違う何かが落ちてきた。これは、目から流れ落ちている水。あぁ、そうか、自分は隠したいんだ。涙を流す自分を。悔しい気持ちっていう気持ちを……。

 

「誰かが見ているわけじゃないのに……馬鹿みたい……」

 

 何故、我慢していたのだろうか。泣くことを我慢しなくていいんだと遅れながらに気がついてしまった彼女は、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて……気がつけば二十四時間、四六時中泣いていた。でも、壊れた彼女の心は戻ってこない。

 そんなある日、ドアをノックする音が聞こえた。また、音大の同級生か先生だろうか。あの日からすでに一週間が経過していた。幸い犯人からの連絡はなかったものの、彼女の心はその扉のように固く閉ざされ、誰とも会わないようになっていた。会って、なんて話をすればいい。自分はどう生きていけばいい。汚されてしまった自分を慰めてくれる人なんて、この世に数えるほどしかいないだろう。親友の奏、エレン、アコ、ハミィ、プリキュアの皆、それから……。その時、扉が開いた。そこにいたのは……。

 

「スマン響……遅れた」

「パパ……」

 

 響の父親、北条団。彼は、この一週間、自分が海外に行くことを薦めたばかりに傷ついてしまった娘の下に行きたいとは思っていた。しかし、世界中を回っている彼に休暇などほとんどなく、キャンセルしようにも急にそんなことしてしまえば、主催者側に迷惑がかかるためにはやる気持ちを押さえなければならなかった。せめてキャンセルするためには一か月ほど間を空けなければならないのだ。

 そんな時、彼の友人が自分の代わりにスペインにて開かれる予定のコンサートに出るということを申し込んでくれた。その人物も、娘さんを持っていたため、彼の娘を思う気持ちをよく理解してくれたようだ。こうして二日間だけではあるが、彼は、響の元に来ることができた。

 北条団は、響の姿を見て愕然とした。気迫を全く感じないのだ。髪はボロボロで、着ている服も擦り切れていて、目からは光が消えているようにも見えた。ちゃんと物を食べているのだろうか、げっそりと痩せているようだ。部屋の様子もまた異常だ。床の上には、服やタオルや楽譜が散乱していて、足の踏み場なんてほとんど見える様子はない。団は、ピアノの上を指で拭ってみる。少しホコリが溜まっている。当然なのかもしれないが、ピアノには全然触っていない様子だ。たった一週間、しかしまるで一年以上の間手も付けていないようなゴミ屋敷のような、そんな雰囲気すらしてしまう。

 団は、あの時の写真立てを抱いて座っていた響の身体を抱いて言った。

 

「すまない……辛かっただろ、響……」

「パパ……ッ……ぅぅ」

 

 そして、もう枯れ果てたと思っていた涙を彼女は流した。それは、当然嬉しい意味での涙ではなかった。それは……。

 

「ごめんパパ……せめて、ここで泣くのなら、コンクールに出た後にしたかった……」

 

 父の胸で泣くのなら、せめてコンクールに出た後にしたかった。賞を取ったら、彼の胸でうれし涙を流したかった。取れなくても、彼の胸で悔し涙を流したかった。こんな形で涙を流したくなんてなかった。

 

「頑張ったって、よくやったって、言って貰いたかった……」

 

 謝罪なんて、しなくてもよかったことなのに。団は、黙って彼女の頭を撫でる。それしかできなかった。それしか、できる事は浮かばなかった。本来なら、このポジションにいたのは彼女の母である北条まりあだったのかもしれない。しかし、彼女は団以上に忙しく、世界的に有名な歌手のコンサートにヴァイオリニストとして帯同しているため、少しの時間も空けることはできなかった。だから、団はせめて、せめてここに来ることのできなかった彼女の分まで、響の側に、短い間ではあるが、いることにした。何とか、一か月後からの仕事はキャンセルできるため、あと三週間仕事をすればその後は彼女の側にいられるかもしれない。しかし、娘の様子を見る限り、もしかしたらそれまで持たないのかもしれない。

 その後響は、父に連れられて心理カウンセリングを受けに行ったり、それから美容院で髪の毛をセットし直してもらったりした。でも、どうしても心の傷が埋まることはない。それは、父の団がからしても目に見えて分かっており、そしてそれが当然だと思っていた。しかし、自分のできる事なんてわずかに限られている。団は、残りの滞在時間ずっと彼女の隣に寄り添い、そして次の仕事に向かわざるを得なくなった時、部屋から出る時に言った。

 

「響、日本に帰るか?」

「ッ……」

「……こんな結末になって残念だが、南野さんが側にいれば……」

「ダメ!絶対に嫌!!」

「響……」

「こんな……こんな私、奏に見てもらいたくない…………それに」

「それに?」

「ううん、なんでもない……さようなら、パパ……」

 

 その言葉に、団は何かを感じたのかもしれない。ドアを閉めるときに彼は最後にこう言った。

 

「……Auf jeden Regen folgt auch Sonnenschein.」

「え?」

「分かるな、響……」

 

 ドイツ語だ。昔の自分だったら、ドイツ語なんて使わないでと言っていたが、しかし今の自分ならわかる。オーストリアはドイツ語が基本、性格には本国のドイツ語と少し違うが、基本的なものは変わらない。それで直訳するとこうなる『すべての雨の後には、日差しもまた続く』。人生の幸不幸は予想できない物ということ。

 

「予測できないことも全部含めての人生だから……辛いことや悲しいこともある。大事なのは、時々は逃げてもいいってことだ」

「……逃げちゃだめ……じゃないの?」

「あぁ、人生の大半は逃げたらいけない事ばかりだよ。……でも、時には、逃げ出してもいいんだ。けど、これだけは約束してくれ、逃げても必ず帰ってくること……」

「帰る……」

「あぁ、それが約束できるなら、逃げ回ってもいいんだ」

「……」

「それから、もう一つ……友人から教えられた言葉だ。『que sera, sera』」

 

 そして、団は次の営業先へと旅立った。

 自分は、父が帰ったら音大の方に退学届をだして、どこかに消えようかと思っていた。自分の事を誰も知らないであろうどこか遠くへと。しかし、不思議なことに逃げてもいいと言われてしまったら、逃げたくなくなってしまう。前を向きたくなってしまう。それに、父のあの言葉。あれがどうにも気になって気になって、頭の底から離れなくて、逆にその事ばかり考えていたら、いつの間にかまた音大へと来ていて、でもまだ感情は悲しみしか存在しなかった。

 それから、彼女はまた勇気をもって音大に通い始めた。しかし、一つだけ変わったことがあった。それが、周りからの視線。日本ではそれが、自分への恨みつらみ、羨みの視線だったが、それが、なんだか軽蔑の視線に見えてしまう。自分は、被害者だというのに、まるで自分が強盗でもやらかした犯人のように彼らは見てくる。のだが、それもすぐに止まった。と、言うのも、彼女がこの五年間で培った同級生たちとの友情が彼女の事を守ってくれ、そして彼女は被害者である。差別的な目線を受けるいわれはないと声高高に訴えてくれたのだ。そのため、少ししたらまた同じ大学生活が戻ってきた。しかし、不都合が二つ、言うとすればまず雨が嫌いになったというところだろうか。雨が降っていると、どうにも足が動こうとせず、寮の自室から出ることはできなかった。もう、トラウマになってしまっているのだろう。それにもう一つ、笑えなくなった。心の底から笑うことはできない。作り笑いしか浮かべることができない。ボンドで固定されてしまったかのような硬い表情でしか笑うことができなくなってしまった。それでも、彼女は懸命に戦った。ただ一つ、ある不安要素を抱えながらも、懸命に、前に進んだのだ。しかし……。

 

ー一月前 ウィーンー

 

 それから二か月後の事だった。

 

「……」

 

 響は、一人トイレで待っていた。結果が出るその時を。あの悪夢のような日からほぼ一ヶ月が経過した頃、普通であったらなければならないはずの、いわゆる『女の子の日』という物がなかったのだ。あんなことがあったのだから本来ならば病院に行くとか、こうして今やっているように確認しなければならないのだが、怖くて、その事実を確認するのが恐ろしくて、使わないでいた。けど、それからまた一ヶ月、ここ最近は吐き気がしたり、体調が悪かったりと、体に不調が出て、いろいろとボイコットして駆けつけてきた母にもその事を知られてしまった。当然だ、彼女にとっては、自分という物で経験しているはずの物だから。そのため、しかたなく、いや来るべき時が来たと思った彼女は、まず自分で確認してから病院に行きたいと母に言って、すぐに近くの薬局でソレを買って、そして今結果が出ることを待っている。逃げてもいいときがある。でも、それは今じゃない。事実から逃げたらだめなのだ。分かっている、それは分かっているが、もしもこれで自分が見たくない物がそこにあったら、もう親友に会えないような、そんな気がした。

 もうそろそろ時間だ。できるならば、間違いであってほしい、自分がそうだと思っているから体調の変化があるというだけかもしれない。だから、だから……。

 

「……」

 

 響は、トイレから出て、それをゴミ箱に捨てた。そして、ゆっくりとリビングにいる母の下に向かった。母は、皿を洗っている。それはいつものように、いつもと同じようだった。多分せめてもの自分への配慮のつもりなのだろう。いやもしかしたら、そうしておかなければ母も心休まる時間がなかったとも考えられる。もしかしたら自分の初孫の父親が……。ということなのだから。響は、母に伝えなければならない。でも、伝えていいものか、もしかしたらショックで気絶させてしまうかも。響は、言葉が出なかった。その時、蛇口を閉める音が耳をつんざく。そして、側にあったタオルで手を拭き、エプロンを台所の端にかけて母がゆっくりと、いや実際にはいつもと同じような速さで歩いていたはずなのだ。しかし、今の彼女にはそれが牛歩のようにゆっくりに見えた。ゆっくりに思いたかった。しかし、ついにその時がやってきた。

 

「どうだった?」

「……」

 

 しかし、響の口は栓がされてしまったかのように何も言えない。いつ頃からだっただろうか、母と同じ背になったのは。あともう少しでそれすらも抜いてしまうかもしれない。でも、今日はまるで違う。母の方がもっともっと大きい気がした。まるで、そう……自分が中学生の頃の身長に戻ってしまったかのように。それほど、母の胸が広く見えたのだ。

 娘は何も言わない。しかしそれが答えだった。まりあは、そっと響の背中に手を回す。二か月前、響の身に起こった不幸。それを聞いたときから、そして夫から響が事件後無気力だったと聞いたときから、薬など飲んでいないだろうということは想像できたから、きっとこんな日が来ると思っていた。だから、結果が出る前から、覚悟していた。覚悟していたが、いざ目の前にその事実を提示されたとき、どうしていいのか分からない。だから、彼女にできる事は団と同じ、そっと、響の身体を抱いてあげる事だけだった。

 

「……ゴメン、ママ……ごめんね……」

 

 祝福の言葉なんて、かけてあげる事なんてできやしない。表面的に見れば、祝ってあげなければならない事なのに、真実を知っているからこそ、祝福の言葉も出ず、彼女に謝罪の言葉を投げさせてしまった。響の口から出た謝罪、それは親の初孫をこんな形で、この世に作ってしまった罪悪感。

 ゴミ箱の中の妊娠検査薬、そこには陽性を示す一本の筋ができていた。

 その後、病院に行き、妊娠していることが確定した。

 彼女の耳の中にある雲は、まだ雨を降らせ続けていた。

 

ー加音町 12月24日 09:57 a.m.-

 

 響は母と一緒に父の運転する車で久し振りにその街に足を踏み入れた。変わらない、全然変わっていない。変わるはずのない街並みだ。車の窓を閉め切っても聞こえる外からのたくさんの音色は、汚れてしまった自分の身体を清めてくれるように、ひび割れた心を修復してくれるようにしみわたる。トランペット、ラッパ、ユーフォニアム、オーボエ、フルート、ファゴット、チューバ、タンバリン、マラカス、オカリナ、太鼓、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ギターそしてピアノ。そのどれもが、まるで何年も聞いていなかったように懐かしく感じる。

 

「さぁ、ついたぞ」

「ありがとう、パパ」

 

 そして、ついにあの店の前に着いた。今日、ここに来たのはこの親友に別れを言うため。中絶しないと決心した響は、最後に一目だけでも奏と会って、後はどこか遠くの国で子供と二人っきりで暮らすことを決心していた。父親が誰かも分からない子供なんて、世間から見ればどれだけ異端であることだろうか。そんな自分が奏と一緒にいても、友達だという時点で、きっとこのお店の売り上げに悪影響を及ぼしてしまうかもしれない。だから、彼女に迷惑をかけないように、これが最期、これで自分たちは親友じゃなくて、ただの赤の他人に戻る。

 なんとも自己中心的なことだ。自分たちは何年も前に連絡を絶ったはず。自分が彼女の事を親友と思っていたとしても、彼女の方はもう自分の事を忘れていてもいいはず。自分の事なんて、待っていてくれるはずないのだ。響は今ちょうど一人の男性が入って行った店に目線を移し、そしてゆっくりと店が掲げている看板を見た。そして、愕然とした。

 

「LUCKYSPOON……SONORAMENTE」

 

 キツイ太陽の光を目に浴びせるようにまぶしく輝いている看板。ピアノをしている自分には分かる。その言葉の意味、イタリア語ではあった物の、必要な音楽用語は全部頭の中に入っていた。だから、分かる。その言葉は、その言葉の意味は……。

 

「響……」

「ッ!」

 

 それに答えたのは父、そして母だった。

 

「正確に言うと、響き渡るだけど……ね」

「南野さん言っていたわ。この名前にしていると、いつでも響が側にいてくれるような気がするって……」

 

 その答えは、思いもよらなかった。自分は、もう五年も連絡を絶っていたのに、どこにいるかも、何をしているのかも伝えていなかったのに、普通だったら友達でいるのも嫌になっているのに、それなのに彼女は自分の名前を店名にしている。どうして、なんで、何故、どういう……。

 その時、一つの雨粒が表面を皮で張っている椅子の上に落ちた。違う、これは汗だ。いや、違う。これは、涙。どうして、悲しくないはずなのに、涙がでる。いや、違う。もしかしてこれはうれしくれ泣いているのではないだろうか。久方ぶりに、悲しみ以外の感情が彼女を襲って、そして戸惑うしかなかった。そうだ。何を当たり前のことを忘れていたのだろうか。親友じゃないか。どれだけ時が経とうとも、どれだけ距離が離れようとも、どれだけ、拒絶しようとしても、彼女もまた自分と同じように自分の事を大事な人なのだと思ってくれているのだ。

 

「ゴメン……奏ぇ……」

 

 それから、何分泣いたことだろうか。随分、涙もろくなってしまった物だ。いや、しょうがないことなのかもしれない。彼女の味わった苦痛、悲劇、しかし、それを見た瞬間、それらの出来事全てがきれいさっぱりと洗い流されてしまった。あんなに洗っても綺麗になることはなかったのに、どれだけ泣いても消えることはなかったのに、奏と一緒にいたあの日々が、嫌な記憶に上書きされていく。嫌だ、離れたくない。もう、離れたくない。奏のすぐそばにいたい。

 でも、自分にはそんな権利なんてない。

 

「それじゃ、行ってくる……」

「ちょっと待った」

 

 しばらく泣いた後、彼女は両親にそう言った。そして、車から降りようとしたとき、父はサングラスを手渡した。

 

「え?」

「少し目が腫れてるぞ。そんな顔を見せたら、南野さんに悪いだろ?」

「……ありがとう」

 

 そして響を降ろした団は、そのまま走り去っていった。響は、別にすぐにすむことなのだから、ここにいたままでもいいと思ったのだがしかし、まずは店に入らない事には始まらない。中にいたのは、奏だけではないようだ。エレン、ハミィ、それから先ほどの男性客。彼が連れているのは確かミップルである。どうして、あの男がミップルを連れているのか分からなかったが、しかし険悪なムードというわけではないので悪意はないようだ。

 響は、幾度も深呼吸をする。あのコンクールの日の時のように。その内、目の腫れも退いてきたように感じる。これなら、サングラスをとっても大丈夫だろうか。どんな感じで入ろうか、いやそんなの決まっているじゃないか。いつもように、あの、奏の記憶の中にある自分のようにふるまえばいい。ただ、それだけだ。LUCKYSPOONSONORAMENTEの扉を、響はゆっくりと開けていく。そして言った。

 

「奏、いる?」




 何となく、あの言葉が使いたかった。
 あと、ドイツ語は全く知らないので、途中の言葉は間違っている可能性があります。

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