エラゴンは突如として湧いた不穏な気を感じ、寝台から身を起こした。
夜の帳が下りた寝室には、一見しておかしなところなどはなかった。ただ静かに、月に照らされた彼の影だけが浮かび上がっている。
しかしエラゴンが気を緩めることはなかった。今も体の内をひっかくような違和感は気のせいなどではない。エラゴンの身体を包むのは、久しく感じることがなかった危機感であった。
他を拒絶する絶海の孤島。
海面に垂直に突き刺さったような断崖に、荒々しく波が打ちつける。切り立った岩肌は波に削られたのか、鋭く尖り、まるで無数の剣がつきたっているかのようだ。どこにも登れるような場所はなく、大海を吹きすさぶ風だけが訪れることを許されるような秘境。
エラゴンが住まう城はそのような場所の上にあった。城といっても、外観からはそれが城であると分かることはない。
長い年月、風雨に晒された岩が複雑にねじれあっているようにしか見えない。風が通り過ぎることで唸りを上げる洞穴は、その実巧妙に隠された城の正門である。
正門から中に入れば、そこには魔法で作り上げた空間が広がっている。
その偽装のせいか、外から正門を訪ねてきた者はこれまで一人としていない。あまつさえ広大な海の中に忘れられたように存在する島なのだ。誰一人として訪ねてくるわけがない。
しかし、こうまでしても守らなければならないものが、この島の地中深くに眠っていた。
今のエラゴンの使命はそれを誰にも知られることなく隠し通すことである。
〔どうしたの、小き友よ〕
エラゴンの頭の中に声が響く。
彼の寝床を取り巻いていた巨大な何かが突然身じろぎし、首をもたげる。すらりと伸びた首には鋭い棘が生え、無数の鱗が覆っている。月の光を反射して青く光る鱗は、この世のどんな宝石よりも磨き抜かれた輝きを放っている。その鱗は頭の先から美しくしなる尻尾の先まで、全身を隈なく彩っていた。威厳と気品を感じさせるすらりと伸びた二本の角の下には、鱗よりも深い色をした瞳が覗く。
エラゴンを慈しむように見つめるその瞳の持ち主は、巨大のドラゴンだった。
〔サフィラ、これがなんだかわかるかい?〕
エラゴンは長年寄り添ってきた相棒に尋ねる。
エラゴンと心の奥で深く結びついているサフィラが、エラゴンが感じている危機感に気がつく。そして彼と同じように何かを探るように視線を巡らせる。
〔……何かの魔法?これに近いものをどこかで感じたことがある〕
サフィラの言葉にエラゴンの焦燥感が増す。事態は一刻を争うようだ。
〔サフィラ、僕が正体を探る〕
〔わかった。その間、貴方の心は私が守る〕
エラゴンの意図を即座に理解したサフィラが頷く。それと同時にエラゴンの心を温かいものが包んでいく。エラゴンの心を、サフィラ自らが壁となって守っているのだ。
それを感じたエラゴン大きく息を吸い、目を閉じる。サフィラの守護を得たエラゴンは、自分の意識を島全体に糸のように伸ばしていく。
島に打ち寄せる波や吹き付ける風までも、今のエラゴンは感じることができる。しかし、島の外からは特別おかしなものは感じない。
エラゴンが次に接触したのは、自らの仲間であるエルフたちであった。彼らは静かな夜を思い思いに過ごしていたようだったが、エラゴンの意識が接触するのを感じると即座に自分の意識を壁で閉ざした。
他人に心への侵入を許すことは、自らの全てを他人に支配されるということである。そのことを熟知している彼らだからこその対応の早さであった。
接触してきた意識がエラゴンだとわかり、エルフたちは困惑しているようだった。いつものエラゴンなら、心に土足で踏み入るような無礼な振る舞いをすることはないからだ。
エラゴンはその一瞬の接触から、エルフたちにも疑わしい点はないことを知った。また、彼ら以外には島に何者もいない。
未だに消えない気配の正体をつかむことができず、エラゴンは自らの意識をさらに地中深くへと意識を伸ばしていく。城の地下、地中深くには、ある賢者たち眠っている。
それに接触しようとしたエラゴンは、突然強烈な力に意識を引っ張られた。突如として発生したそれは、まるで渦のようにエラゴンの意識を引きずり込もうとする。
〔エラゴン!〕
心を守っていたサフィラが、エラゴンの意識を渦から引き上げるように強く引き寄せた。そのおかげでなんとか渦から逃れることができた。
意識が体に戻り、目を開いたエラゴンは即座に愛剣を手に取り部屋を飛び出した。
〔サフィラ!みんなを地下に集めてくれ!アレをなんとしてでも止めないと!〕
〔待ってエラゴン!アレがなんなのかわからない、危険すぎる!〕
エラゴンを追いかけようとするサフィラを、エラゴンは止める。
〔お前も知ってるはずだ!この感じは…〕
部屋を飛び出した勢いのまま、大広間へ続く吹き抜けを飛び降りる。並の人間ならば大けがを免れない高さも、ドラゴンライダーたるエラゴンにとって障害にはならない。
音もなく大広間に着地したエラゴンは勢いを殺すことなくまた走り出す。
目指すのは、城の地下へと続く階段だ。
途中、尋常ではない雰囲気を感じ取ったエルフが部屋から飛び出してくるのが見えたが、言葉をかける時間も惜しいエラゴンは無視して走り続ける。
行く手に地下への階段を閉ざしている扉が見えてくる。扉には幾重にも魔法がかけられており、それを解くには膨大な時間がかかるが、今のエラゴンにそんな時間はない。
『開け!!』
エラゴンは古代語を唱えることで、ごく単純な魔法を発動させた。
本来ならばこのような単純な魔法で開く扉ではなかったが、エラゴンの意思を全力で載せた魔法をぶつけることで無理やりこじ開ける。
その単純な言葉ゆえに、目標の扉だけでなく、城中のあらゆる扉や窓が開け放たれたが、エラゴンが気にするそぶりはない。
地下へ続く螺旋階段にたどり着いたエラゴンは、躊躇することなく吹き抜けを飛び降りた。先ほどとは比較にならない距離を落下していく。凄まじい速度で周りの岩肌の景色が過ぎ去っていく。
落下していく先に底が見えてくると、エラゴンは自分に対して落下の勢いを殺す魔法を素早くかける。これはエラゴンをしても相当な消耗を強いられる魔法だったが、なんとか無事に下まで降りることに成功する。
目的の場所は巨大な門の先だ。二度の強力な魔法の行使で消耗したエラゴンに、もはやその門を魔法で開けることは不可能だった。
だから、魔法ではなく力をもって無理矢理入ることにする。
『ブリジンガー!!』
ここまで抱えてきた愛剣を鞘から抜き放ち、その名を呼ぶ。
すると、青い刀身からまばゆい輝きを放つ青い炎が立ち上る。真の名を解放された真剣が、エラゴンの精神量を糧としてその力を漲らせる。
エラゴンはブリジンガーを上段に大きく構え、力の限り振り下ろす。ブリジンガーの刀身が門の閉じられた合わせ目に滑り込み、閂を溶断していく。エラゴンの死力を尽くした剣戟によってついに門が破壊された。
今にも倒れそうな体を引きずって、エラゴンは中に飛び込む。
そこにあったのは大小さまざまな宝石のようだった。部屋の壁に飾られている石と、部屋の中央の台座に一つ一つ載せられている丸い石の二種類がある。
この石こそエラゴンが何にも変えて守りたかった、竜の心の核『エルドゥナリ』と竜の卵である。
それは、覇王ガルバトリックスによって滅ぼされたドラゴンライダーたちが残した大いなる遺産。
竜の卵は、己のパートナーが現れる日を卵の中でじっと待っている。時には何十年も卵の中で眠り続ける竜もいたという。
エルドゥナリとは、肉体が滅びた竜の意識が内包されたものであり、生前とかわらず超常的力を持っている。彼らは肉体を持たないが、精神を介してライダーたちに語りかけ、助言を与えてくれる。強大な力を誇ったガルバトリックスとの戦いにエラゴンたちが勝てたのも、彼らの力に寄るところが大きい。
部屋に飛び込んだエラゴンが目にしたのは、部屋の中央、卵の台座の上に開いた光り輝く穴だった。その穴は、台座の上のある卵を飲み込もうとしていた。
エラゴンは一切の躊躇なく飲み込まれようとしている卵に飛びついた。なんとか引き戻せないかと引っ張ってみるが、エラゴンの力を持ってしても吸い込まれていく一方である。
穴は空間そのものに開いており、破壊できそうなものではない。度重なる強力な魔法の行使で消耗したエラゴンに、もう魔法を使う精神力は残っていなかった。
ついに卵が穴に飲み込まれる。しかし、エラゴンは卵から手を離そうとせず、彼自身の腕も徐々に飲み込まれていく。この卵が邪なものの手に渡れば、新たなガルバトリックスを生むことになるかもしれない。それはなんとしてでも防がなくてはならないことだった。
エラゴンは片腕でブリジンガーを床に刺して踏ん張るが、それでも保ちそうにない。
〔エラゴン!!〕
そこに、エルフたちを連れたサフィラが飛び込んでくる。
〔もう少し頑張って!今助ける!〕
「ダメだ、来るな!」
飛びついてくるサフィラにエラゴンが叫ぶが、サフィラは勢いを落とさない。
ついにブリジンガーが床から抜け、エラゴンの体が一気に穴に飲み込まれる。その穴にサフィラも飛び込んでくる。
エラゴンらを飲み込み、閉じようとする穴の向こう側に駆け寄ってくるエルフたちが見えた。
『アーリアがライダーを送ってくるまで、決して島から出るな!』
覚悟を決めたエラゴンが、エルフたちに叫ぶ。その声が届いたかも定かでないまま、穴が閉じてしまう。
光の奔流に放り込まれたエラゴンは、なんとか目を開き、サフィラを探す。サフィラもまた光に流されていってしまっていた。エラゴンとサフィラの距離がどんどん離れていく。
〔エラゴン!必ず、必ずあなたを見つける!〕
光の彼方に消えようとしているサフィラの声がエラゴンに届く。その声を最後に、エラゴンはサフィラの存在を感じ取れなくなった。
サフィラが消えてからも、エラゴンは光に流され続けた。しかし、決してエラゴンは卵から手を離さなかった。
目をつぶり、意識を手放しそうになるのを必死で耐えるエラゴンの頭には、相棒のドラゴンと最愛の人の顔が浮かんでいた。彼女たちの存在がエラゴンに力を与える。
そして、ついに光の終着点が見えてきた。光の先には、エラゴンの新たな戦いの場が待っていることだろう。
(サフィラ、アーリア……!)
エラゴンは巨大な光の中へと消えていった。
雲ひとつない青空の下、ルイズは同級生が作る輪の中央に立ち尽くしていた。
桃色の髪、透き通るような白い肌、うす紅に咲いた唇、鳶色の眼と、まるで精巧に作られた人形のような美貌も、今は強張り、歪んでいる。
ルイズは緊張を押し殺し、手の震えを押さえつけるように杖を握りしめた。目を閉じて意識を集中させる。恐れや不安といった感情は、これから行うことの妨げにしかならない。
「さっさとしろよルイズ!結果は変わらねーんだからさ!」
「どうせまたいつもみたいになるんだろ?」
「もう終わらせてくれよ!」
同級生たちが口々に囃し立てる。いつもなら絶対に言い返しているが、今日ばかりはそれも気にしない。
これに失敗すればすべてが終わってしまう。子供の頃からのルイズの夢がここで潰えてしまう。
「静粛に。ミス・ヴァリエール、落ち着いてやれば必ずできる。心を落ち着かせたまえ」
「……はい」
此度の授業を受け持つコルベールの励ましを受け、ルイズは心を決めた。
ルイズが通うトリスティン魔法学院は、一人前のメイジ、つまり魔法使いになるべく少年少女が集う学び舎である。
今、ルイズたち新学期を迎えた二年生は、学院の中庭で使い魔召喚の儀を行っていた。
使い魔召喚とは学生たちが『サモン・サーヴァント』と呼ばれる魔法で生物を召喚し、『コントラクト・サーヴァント』と呼ばれる魔法でその生物と契約を交わし、自らの使い魔とする儀式である。
一人前のメイジは、その全てが使い魔を使役している。つまり使い魔の召喚は、一人前のメイジになる上で必要不可欠な儀式なのである。
この春晴れて二年生となった学生たちは、一年間の勉学の成果として使い魔召喚に挑む。といっても、無事に二年生に進級できた学生ならば、使い魔召喚は難なくこなせる魔法でしかない。学生たちの興味は召喚の成功失敗ではなく、自分たちのパートナーとなる使い魔たちに向いていた。
ただ一人を除いては。
ルイズは自分を取り囲む同級生たちに目を向けた。皆傍らに使い魔を従えている。
カラス、小さなカエル、フクロウ、珍しいものだとマンティコアやバグベアーなどもいる。
憎っくきキュルケの足元には大きなサラマンダーが寄り添っており、その隣のタバサなどは驚くべきことに風竜を召喚している。
使い魔は、それを召喚したメイジの性質に合ったものが呼び出される。メイジとしての資質が、使い魔という形でわかりやすく示されるのだ。
ならば、使い魔を召喚できないメイジはどうか。それは、メイジの資質なしとみなされるのと同じことだ。
由緒正しきヴァリエール家の末女として、そのようなことは許されない。家名に傷がつくことはまちがいなく、何より自分自身が許せない。
自分が、誇り高きルイズ・フランソワーズ・ル・ブランド・ラ・ヴァリエールでいるためには、何としてでも使い魔を召喚しなくてはならない。
自らの誇りをかけて、ルイズは杖を振り上げる。
「宇宙の果てのどこかにいる、私の僕よ!」
ルイズの言葉に同級生たちが困惑する。このような詠唱は聞いたことがなかった。
「神聖で、美しく、そして強力な使い魔よ!」
ルイズの中に具体的なイメージはない。ただ、自分を認めてくれる存在に対して必死に呼びかける。
「私は心より求め、訴えるわ!」
その時、かすかに反応が返ってきたような気がした。
指先にかろうじて触れたような感触だったが、これまでに一度も感じたことのなかった成功の手応えである。この感覚を逃してなるものかと、ルイズはより一層意識を集中させる。
「我が導きに答えなさい!」
そう言い切った瞬間、ルイズは何者かの視線を感じた。ルイズをまっすぐに見つめ、その言葉に応えようとしているのがわかる。
杖を頭上で一回転させると、ルイズは一息に杖を振り下ろした。
その瞬間、杖で指し示した地面が爆発した。
「やっぱりこうなるのか!」
「さすがゼロのルイズだよ……」
爆発に巻き込まれた学生たちが悪態を吐く。その場にいた全員が、土埃をかぶっていた。
ルイズが魔法を使えば、必ず爆発する。学院での一年間で、ルイズの同級生たちが何百回も見てきた光景だった。
しかし、今回の爆発は、今までとは規模が違った。あまりの衝撃に、魔法を使ったルイズ自身が大きく吹き飛ばされ、地面に倒れ込んでいた。爆発した地面は大きく窪み、土煙で中心部が見えない。
(…っ!成功した!?)
すぐに起き上がったルイズは、土けむりの中に目をこらす。
手応えはあった。しかし、たとえ召喚に成功していてもこの爆発に巻き込まれて無事とは思えない。
ルイズは痛む体を引きずって、土けむりの中に駆け入ろうとした。
その時、土けむりの中で何かが動くのが見えた。それはゆっくりと体を起こし、二本足で立った。
ルイズの耳に、それが何事かをつぶやくのが聞こえた。
すると突然風が渦巻き、土煙を散らしていく。ルイズは正面から吹き付ける風から、顔をかばった。それでも、なんとかその正体を見極めようと、指の間から目をこらす。
徐々に風が収まり、その姿が露わになると、ルイズは驚愕した。
それは、ルイズや同級生たちに油断なく視線を巡らせていた。右手に持つ深い蒼色の剣を、滑らかに振るい、こちらを牽制している。
剣を持つ右手や、大地を踏みしめる足はすらりと長く、その肌は雪のように白い。日の光を反射して、虹色に艶めく肌はその場にいるもの全ての視線を釘付けにした。
こちらを静かに睨みつける顔ばせは、なめらかなようで各部は鋭角的であった。
そして何より目を引くのは、人間ではありえないほど尖った耳だ。
ルイズはようやく理解が追いついてきた。
ルイズが召喚したのは、ハルケギニアに住まう人間全ての天敵、エルフだった。