十年前まで私は■■と名乗り、漢王朝の太傅、陳蕃様直属の文官として働いていた。とある大志を胸に抱き、科挙に合格し下働きの文官として三年、その後陳蕃様の眼にとまり直属として働いたのが二年。その五年の間に私が目の当たりにしたのは手の施しようが無い程に腐りきってしまった漢王朝の姿だった。才では無く、金と血筋がモノを言う。能力が無くとも金があれば地位を買え、血筋が良ければ人が集まる。私は、仕官し五年目にして陳蕃様に洛陽を離れる、と言う事を申し出た。
『構わん、もとよりお主のような才覚をこんな場所で腐らせとう無い。儂に遠慮などするな、好きなように生きよ』
そう言って、当面の生活費などを渡された私は荊州北部の村落へと身を寄せた。父母を流行病で亡くし、身は天涯孤独。特に行く宛も無かった私は、科挙を受ける前に滞在していた村へと戻る事にした。そこで私が開いたのは私塾、五年と言う短い期間ではあったものの中央で政治に携わっていたと言う経験。それに加え片手間に学んでいた孫子、六韜三略などの兵法を学問を収め、仕官したいと願う子供らに教える事にした。
十年、私はその村で私塾を続けていた。中には何処かの太守に仕えた者も出たが、中には長くここで学ぶ事を選んだ者もいた。教え、育てると言う事に生きがいを見出していた私はそれを喜び、新たに学ぶものも、引き続き学ぶものも、分け隔てなく教えた。
太傅陳蕃処刑。
その報が流れてきたのはつい先日だった。その日だけは、旧主の死を悼み生徒たちを早くに家へと帰した。陳蕃様は、漢王朝腐敗の原因である十常侍とその派閥を除こうとし失敗。逆に捕縛され、即処刑されたのだそうだ。
『■■、罪人陳蕃と共謀し漢王朝に謀反を企てた罪により捕縛する!!』
その僅か二日後、そう言って現れたのは左豊と言う宦官だった。捕縛された私が収監されたのは洛陽では無く宛城、取り調べとやらの内容は「陳蕃が謀反に蓄えた資金」の隠し場所。何のことは無い、十常侍が陳蕃様を「謀反を企んだ」と言う名目で捕らえたのを真に受けたこの男はどこからか私の事を調べ上げたのだ。滅多に直属の部下を持たなかった陳蕃様が、十常侍の排斥に向け動き始めたのも私が辞めた頃。時期が一致するからには何かを知っている、あるいは託されたはずだと、当てずっぽうで的外れな推察の下に動いたのだろう。
だがそんな事実が無い以上、私は知らぬ、存ぜぬとしか答えられない。
『私が貴方に語るべきことは何一つありません』
疚しいことは何一つ無い、その意思を込めたのだがあちらからすればそうは取れなかったのだろう。杖、鞭で打ち据えるのは当たり前、焼き鏝を当てられたり、それらの傷に塩を塗りこまれたり、終いには爪剥がし、肉削ぎすらあるのでは?とも思える程に段々と私へと架せられる拷問は加速していく。
やがて一ヶ月が経過した。既に私の背に傷の無い部分は無く、近頃は痛みすら感じられなくなってきた。左豊も、事此処に至ってようやく私が本当に何も知らないと言う結論に至ったらしい。
『大罪人陳蕃に貴様が加担したのは明白!!共謀者として貴様を処刑するっ!!!』
だがここまで私を監禁し、しかも跡の残る拷問までしたのだ。今更何もありませんでした、で釈放など考えられるわけがない。そんな事をすれば自らの失態を喧伝するようなものだ、だから私にもっともらしい罪を擦り付けて処分する事にしたのだろう。
全く、こうなった時点である程度覚悟していたとは言え間抜けな終わり方をするものだ。こんな時に限って、かつての
将軍としてでも、軍師としてでも良い。私は泰平の世を創り、その先を見たかったのだ。もはや叶わぬ夢と思うと、妙に口惜しくもあるが・・・・
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私の処刑は明朝だそうだ。牢番からそう伝えられれば、自らの事以外にも色々と心配事が浮かんでくる。国の行く末、世話になった村の人々の事、陳蕃様の遺族の事、そして最後には生徒たちの顔が思い浮かぶ。既に私の下から羽ばたいた生徒たち、そして今私が教えている生徒たちの事。
最後まで教えられぬ事が心残りであり、生徒たちの行く末を知らぬままに逝く事も心残りである。
「酷い顔」
不意に聞こえてきた声に、思わず顔を上げる。人が入ってきた事に気づかぬぐらい、憔悴していたのか。と思うと共に、そこにいた人物の顔を見て首を傾げる。暗がりでも分かる金髪、手に持つ灯がその端整な顔を照らし出す。最も印象的なのはその眼だ、纏う雰囲気は知恵者のそれであるにも関わらず眼の奥に総てを焦がし尽くすような、猛将の放つ気炎のようなものも垣間見える。
「何分、暫くまともに寝る事もかないませんでした」
「そのようね、衣服の隙間より見える傷を見ただけでもそれは分かるわ」
「それで?稚拙な謀計に抗う力すら無く、ただ死を待つこの身に如何なる用事があって参られましたか?」
私の言葉を聞いた少女の、こちらを見る眼に侮蔑の色が僅かに生まれる。
「生きる事を諦める、と言うの?」
「抗う術を持ちません、ここから打てる手が何一つ無いのですから」
「受け入れると?これまでの全てを放り出して」
「世の中にはゴネるだけではどうにもならない事も、あるんですよ」
人生の先輩からの助言です、なんて小さくつぶやいてみる。先輩、と言ってもたかだか十歳かそこらの差なんでしょうけれども。
「そう・・・・」
興味を無くしたかのように、少女は歩き出す。
「一つ、頼まれていただけませんかね?」
足音が止まる、そこからこちらに戻ってくる気配すら無いが聞いてはくれるようだ。
「私の家の、床下に『かつての私』が書き記したモノがあります。もし良ければ、利用するなり処分するなり、好きにして下さい」
承った、と。声は聞こえなかったが、彼女がそう返事をしてくれたように私には思えた。
『かつての私』が書き記したのは新たな国を創る事を想定して書き記した新たな法律、私が独自に編み出した戦術、構想を練り続けていた治水工事の手法、それこそありとあらゆる『国作り』に必要な知識だ。役に立つかは私自身にもわからない、彼女がそれに利用価値を見出すかもわからない。それでも、もしあの中から一つでも彼女が有用だと認め、後世に僅かでも残ったならば私が生きていた証は残るのだ。
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不思議と眠れていたその日の夜、不意に外が騒がしくなるのを感じて私は眼を覚ました。再び開かれた外への扉からは、松明の灯りが漏れてくる。複数人の足音、見れば昼間の少女が二人の女性を引き連れて来ている。
「幾つか聞きたい事があって来たのだけれども」
「構いませんよ、幾つでもお答え致しましょう」
「ありがとう。秋蘭、もう少し灯りを増やして頂戴」
運び込まれたのは大量の竹簡、見覚えがある。私が書き記した竹簡だ、彼女がそれを広げ、その内容に関して片端から質問を投げかけてくる。この工事の予算の捻出は?人手は?この法だとこういった案件はどう対処する?この戦術の有用性は?兵の調練は?と矢継ぎ早に投げかけられるそれは、まるで師に教えを請う生徒のようで。
生涯最後の生徒が、これだけの才人とは教師冥利に尽きる、と思うと共にこれだけの才人が創るであろう次世代を見られない事へ対する無念さも沸々と沸きあがってくる。願わくばこの時間が永遠に続けば、と・・・・
だが、無情にも時は過ぎていく。扉の向こうからは朝焼けの光が漏れ出し、私の思いを現実へと否応にも引き戻してゆく。
「朝、ですか・・・・早いものですね、時間が過ぎるのは」
「えぇ、そうね」
扉の開け放たれる音と共に、さらに複数の足音が聞こえてくる。気が早い事だ、いや。むしろ経緯が経緯だけに早朝に始末しようと、考えているのだろうか。
「?」
違う、兵士たちの来ている鎧が左豊の私兵とは違う。
「栄華、交渉は成功したのね?」
「ええ、大散財でしたわ。この殿方が、本当にお姉様の期待通りならば良いのですけど」
栄華と呼ばれた少女が牢屋の鍵を開け、中へと入ってくる。その視線には僅かに敵意のようなものが垣間見られるが、私の手枷の鍵も外される。開放感、何が起きたか分からない。
「左豊が上への賄賂のために貴方を捕えたのは分かっていたもの、相応の金を掴ませれば引き下がるのは分かっていたわ」
「この、田舎の学者擬きに何をお望みで?」
少女は、ここに至って初めて笑みを浮かべる。
「貴方の書き記したアレは見せてもらったわ。私にも、いえ・・・・この大陸の誰にも思いつかなかったであろうモノばかりだったわ。貴方をここでただ死なせるには惜しい、そう思ったの。それに・・・・」
「?」
「徐庶と劉曄、貴方の弟子二人に懇願されたの。『自分たちができる事なら何でもします、だから先生を助けて下さい』って」
「彼女たちが、ですか」
徐庶と劉曄は一年前から私の塾に来ていた生徒だ。私が塾を開いていた十年で五指に入る優秀で教えがいのある生徒で、いずれ大成すると思い独自の兵法などを教えたりしていた直弟子、とでも言うべき存在だ。
きっと、私が捕まったその時から彼女らは私を助け出す手段を模索していたのだろう。こういう事態に陥った場合、取れる手段は賄賂か権力ぐらいなものである。法外な賄賂をそれなりの地位の者に差し出し、上意をもってして解放させる。だがこれは相応に財力を持つ者に限られる、となればもう一つは何らかの手段で権力者の協力を得て先の手段を用いる。だがこちらはさらに難しい、縋り付く相手を慎重に選ばねばならず、選ぶ相手を間違い外道の類などを頼ってしまえば見目麗しい二人などは私を盾に慰み者などにされてしまわれかねない。
その中で、二人が選んだのが目の前の少女と言うわけだ。
「恩義を受けました、私が望むにせよ望まぬにせよ。であるならばその恩義を返すのが人としての道でありましょう」
錆び付いた身体を何とか動かし、片膝を付き拱手の姿勢を取る。
「何より一度は死を覚悟した身、我が真名は龍牙。この命の続く限り、貴方の矛となり盾となり全知全能をもってして貴方の道の全ての障害を排除して見せましょう」
名は捨てる、如何なる経緯があったにせよ一度官に捕らえられた者に子を預け学ばせようとする親はいないだろう。私塾は閉鎖せざるを得ない。それに徐庶と劉曄の二人は、おそらく目の前の少女に仕える事になるだろう。私を救った報酬として、である。ならば私も共に行かねばなるまい。
「姓を曹、名を操、字を孟徳。真名を華琳」
そこまで名乗れば、秋蘭、栄華と呼ばれていた二人がその顔に驚愕を隠す事無く現す。
「以後、我が矛となり盾となりその全身全霊を尽くしなさい」
そもそもどのような経緯があろうとも、どれだけ才能があろうとも、罪人など見向きもされないのが普通だ。だが少女は、華琳様はそんな固定観念を打ち砕き私を引き入れる判断をなされた。少なくとも今大陸で名を馳せる群雄にそんな人物はいない、だからこそ賭けてみたくもなった。華琳様が如何なる道を歩むのか、そしてもしかしたら、この人の下でなら私の想いも遂げられるかもしれない。
「御意」
ならばこの主君の下で歩みだそう、新たなる道を。
第一話です。