厳しい残暑が漸く和らいできた。9月の中旬、秋の彼岸の頃。彩人は両親に連れられて生家に帰省していた。彼の生まれは京都にあった。東京に来たのはごく最近。幼稚園の頃はずっとこちらで過ごしていたため、久々に見た京都の景色に彩人は懐かしさを覚えていた。
彩人の実家、藤原家本邸。そのルーツは一千年前まで遡れるほどの長い歴史を持つ家で、そこそこの資産家としても近所では名を知られている。
紛れもない現代っ子であるはずの彩人が妙に古風で上品な立ち振る舞いなのも、この家の教育の結果とも言える。彩人が帰省すると、それはもう可愛がられた。何せ、彩人ほどの年齢の子供は今や彼一人。おまけに引っ越したために滅多に会えないからと、兎に角世話を焼かれ、話をさせられた。その話の中には勿論、彩人が嵌っている囲碁のこと。そして進藤本因坊に師事し、棋士を目指していることが含まれていた。
なんと、彩人の親類達は皆進藤を知っていた。両親が彩人が師事している人を教えたからではない。進藤は彩人の祖父母世代の人らから非常に知名度があった。彩人の親戚で囲碁をやっているのは母方の祖父のみだが、彼らの知り合いともなると囲碁をやっている人は年代的に多い。
しかし、親類の一人が言った一言に、彩人は少し動揺した。
「彩人ちゃんその進藤先生って大丈夫なの?強さは本物みたいだけど、昔ちょっと問題を起こしたみたいだし・・・」
「・・・問題ってなんですか?」
思わず彩人は真顔になった聞き返す。しかし、その表情を見て彩人が機嫌を悪くしたと解釈したその親戚は慌てて弁解をした。
「い、いいえ!そんな噂を聞いたってだけで詳しくは知らないのよ。本当にただの噂かもしれないし」
「・・・そうですか。でも、ヒカ・・・進藤先生はとっても良い先生ですよ。だから安心してください」
彩人は心に小さなしこりを残しながらも、しっかりと自分の先生に対するフォローを入れて彼女を安心させた。
(そういえば、ヒカルさんが若手だったときのこととか、あんまり知らないなあ)
彩人は、まだ棋界に対する知識がそれほど深くない。棋界でも最も名誉ある賞である七大タイトルというものがあり、それを貰った人をタイトルホルダーと称する。そしてそのタイトルホルダーのうちの一人が進藤であること。そして進藤の持つタイトルである本因坊は最も歴史ある冠であること。それくらいだ。
他のプロの顔と名前も、進藤から教えてもらった範囲内でしか知らない。彩人はこれに思い当たったとき、これはいけないと焦った。
プロを目指し、棋界に飛び込もうとしている自分が、棋界のことを何も知らないというのは問題があるのではないか、と。
彩人はよく世間知らずと称されることが多い。彼自身もうっすら自覚はあった。
囲碁を打つことばかりに集中するのではなく、もっと周りに目を向ける方が良い。
そして・・・尊敬する自分の先生が、周りからどう見られているかも気になった。
東京に戻るには、まだ数日の猶予があった。彩人はお出かけしてくると親に断りを入れて、財布と携帯を持ち京都の街に繰り出していった。目的地は、囲碁サロン。
囲碁をやっているという親戚の知り合いを紹介してもらい、その人が経営している碁会所へと足を運ぶ予定だ。
目立たないように立地したビルの二階、明朝体で囲碁サロンと書かれたそこを見つけ、教えられた店名と一致していることを確認すると恐る恐る階段を上っていった。
カラン、と扉を開けると中は外観に反して綺麗ですっきりしており、しかし時折タバコの臭いが漂ってきた。
彩人が中に入ると、中の客が一斉に彩人を見た。彩人は「ひっ」と喉を引きつらせる。知らない大人たちに囲まれることの怖さを、久々に味わった。
しかし、そんな彩人の恐怖を打ち消すように明るい中年くらいの女性が彩人に声をかけてきた。
「いらっしゃいお嬢ちゃん。碁を打ちにきたのかい?」
「お、お嬢ちゃん?あ、あの、はい。ここのマスターが私の親戚の知り合いで・・・というか、私はお嬢ちゃんじゃ」
「おっ!ナベさんの言ってた知り合いの親戚ちゃんかい?いらっしゃい〜話は聞いているよ!ナベさんは今ちょっと買い出しに行ってるから、ここで打って待つと良い」
「は、はい。あと、私はお嬢ちゃんじゃな」
「ナベさんの知り合いか!よしお嬢ちゃん俺と打とうか!」
「あ、抜け駆けかハラさん?可愛い子とくるとすぐこれだ」
「次じゃあ俺と打とうよ!」
彩人を「お嬢ちゃん」と勘違いしたまま、浮かれた客たちは次々と彩人の対局相手に立候補してきた。彩人は若干諦めつつも、碁が打てると思い気分が高揚した。
彩人は次々にサロンの客たちと対局をしていった。彩人は、正直大人たちの胸を借りるつもりで対局に挑んでいた。進藤にきちんとした教えを受けているとはいえ、普段から、それも彩人よりも長く碁を打ってきた大人たちに勝つイメージがイマイチ湧いてこなかったのだ。
彩人が手を進めるうちに、対局相手は誰もが真剣な顔つきになるか、顔を青ざめさせた。そして彩人は警戒して挑んだ大人たち相手に圧勝していく自分に、他の誰よりも驚いていた。
結果、三人の男が彩人に挑んだが、その誰もが彩人に対しこうべを垂れた。
「君・・・この棋力は一体・・・」
「・・・あ、あの。一応、プロを目指しておりまして、棋士の先生にも普段から見てもらってるんですけど」
「あ、あ〜!プロ棋士の門弟か・・・それならこの強さも納得だな・・・すごい、すごいぞこれ。君一体誰に師事しているんだい?」
「はい。進藤ヒカルという方なのですが・・・確か本因坊というタイトルを持ってる」
「進藤本因坊だって!!?」
彩人がその名前を口にした途端、店内は一気に騒めいた。
彩人は彼らのその反応に面食らう。進藤はプロ棋士だし、タイトルホルダーという棋士の一人でもあることは知っていたが、彼が世間的にどれほどの知名度を持つのか、実感がなかったのだ。
そして店内の大人たちは、進藤のただ一人の門弟であるという目の前の少年を見てただひたすら驚いていた。
「凄いね。進藤本因坊といえば、日本のプロ棋士たちの頂点の一人だ。塔矢名人と双璧をなす棋界の超大物だよ」
「そ、そうなんですか?」
「そんな彼に弟子なんて、聞いたことなかった」
「あ、あの。恥ずかしながら私、あまり棋界のことって詳しくなくて・・・よろしければ、進藤先生の昔のことを教えてくれませんか」
彩人の言葉に快く応じた大人たちは、彩人の質問に出来るだけ詳しく答えてくれた。彼らは進藤がプロになった時から知っているようだった。
「進藤本因坊は、兎に角出てきた時は話題になったよ。色んな意味で。当時から囲碁界のサラブレッドとして知名度も高かった塔矢アキラのライバルってね。北斗杯にも彼と一緒に出場したし、すぐに若手トップとして名乗りを上げた。あんなことがまた起こるんじゃないかと俺たちはヒヤヒヤしたがね」
「あんなこと、とは」
「流石に弟子には言えないか。彼、プロなってすぐに公式手合いをすっぽかすようになったんだよ」
「え・・・・・・?」
「進藤スランプ事件か。懐かしいなもう何年前だ?」
「さあな十数年はいってるんじゃないか?兎に角、そのことがあってか今でも彼のことを快く思わない人もいる。まあ、若気の至りってやつだろう。今では立派なタイトルホルダーなんだからな!」
「でも正直、進藤本因坊はスランプ事件からめきめき力をつけたって見方もあるよな。必要なことだったんだろう」
「かもなー。でもやっぱり手合いサボったのは印象悪いだろ」
「十年も経って未だ蒸し返すなんて大人気ないんじゃないか?」
「なんだと?」
「やめろよ。お弟子さんの前だぞ」
「おっとそうだった」
「進藤先生って、昔は結構やんちゃ・・・だったんですね」
「そりゃまあね。テレビで大盤解説すればハプニングだらけ、記者の前で塔矢アキラと喧嘩を始める、韓国のプロ相手に喧嘩を売るなんてこともあったし、やんちゃはやんちゃだったな」
「俺はそのキャラも含めて好きなんだけどなー。でも本因坊になってからは一気に落ち着いたよな。年寄りみたいな雰囲気になった」
「年寄りは言い過ぎじゃねえか?あーでも、進藤本因坊がタイトルを桑原から奪取して、そのあとすぐに桑原が引退したから、やっぱ心構えも変わるってもんじゃないか?」
「確かに、あれ以来進藤本因坊は孤高というか・・・なかなか人を寄せ付けない雰囲気になったよなあ。初段から知っていると、成長したなって実感するよ。寂しくもあるがね」
「そうですか・・・」
彩人は一連の話を大人しく聞いていた。いいタイミングで相槌を打つので彼らも気分快くどんどん話していった。そして彩人の方は、次々に出てくる先生の意外な一面を心の底から楽しんで聞いていた。
彩人にとって進藤は、他人なのにどこか兄のような親しみがあって、何よりとても優しくて温かい人だった。先生として尊敬している以上に、年の離れた友人として非常に慕っていた。彼について知れるのは、とても嬉しい。
・・・他人を寄せ付けないところがある、というのは彩人も少し感じていた。彼は掴めそうで掴めない、心にある種の深淵を抱えているようにも見えたから。
恐らく進藤は本質的に孤りなのだろう。
その孤高さがトップ棋士としての地位、類まれなる棋力に由来するものなのかは分からない。だけど、囲碁を打っている間は、違うのだ。碁盤を通して、確かに彩人は進藤と対話する。進藤も、きっと囲碁を打っている間は孤りじゃないと、彩人は思いたい。
彩人は、進藤と対局したいとその時強く思った。