「彩人くんいらっしゃい。藤原さんから話を聞いているよ。プロを目指しているんだってね、凄いなあ今のうちにサイン貰っとこうか?」
彩人の親類が紹介してくれた囲碁サロンのマスターはにこやかに彩人を歓迎した。彼が出かけている間に、彩人はすっかり店の常連たちと仲良くなっていたし、彼が女の子であるという誤解も解けた。
「ナベさんこの子本当に強いぞ。あの進藤本因坊のお弟子さんだって言うし・・・」
「何っ?あの進藤本因坊の?」
男性客の一人が言うと、また彼らと同じような反応をマスターは示した。そして一瞬だが気まずそうな顔をした。彩人は親戚の女性が、進藤に対するネガティヴな噂を聞いたと言っていたことを思い出した。噂をその親戚に話したのは恐らくこの人なのだろうとも思った。
常連客の人の話を聞いていると、どうやら囲碁ファンの間には進藤派と塔矢派の二大派閥がいるようで、両者はよくどちらが優れた棋士か言い争いをしているらしい。最も、それは話を盛り上げるための種に過ぎず、本質ではどちらの棋士も尊敬されているのだが。そしてどうやらこのマスターはこのサロンの中で一番の塔矢派として知られているらしい。親戚に進藤のネガティヴな噂を話してしまったのも、このいつもの話題がヒートアップしてしまったため、そんなところだろう。
そうでなかったら、彩人に詳しく進藤の指導について聞いてくるはずがない。
熱心に訪ねてくる彼の表情は、ここにいる人たちと同じ囲碁バカのものだった。
マスターの話は、ここにいる誰よりも詳しかった。
塔矢アキラのファンだからか、彼は進藤と塔矢の関係について知っていることを語ってくれた。
「塔矢名人は、それ以前名人位で知られていた塔矢行洋という棋士の息子さんでね。プロになる前から棋界のサラブレッドとして有名だった。私も当時の塔矢アキラのことは知っていたし、プロになるのをとても楽しみにしていた。だけど、同時に少し可哀想に思ったよ。同年代に競える人がいないようだったからね。インタビューでも言っていたよ。昔は同世代で自分と渡り合う人が近くにはいなかったから、どこか張り合いがなかったとね。天才ゆえの孤独というやつだ。しかし、彼は進藤本因坊に出会った」
「先生が」
「進藤本因坊はその頃は囲碁を始めたてのひよっこだったそうだが、ずっと塔矢名人をライバルとして追いかけ続けていた。そして、碁を始めて2年でプロになり、塔矢名人に追いついた。それから二人はずっとライバルさ」
「とっても素敵な話ですね。でも先生、そんなこと私に教えてくれませんでした」
「先生も自分の青かった頃の話をするのは気恥ずかしいんだろう」
少年の彩人には、そのあたりの情緒は分からない。
話はかなり盛り上がったが、そろそろ彩人も門限が近づいてきている。彩人はマスターに席料を払おうとしたが、マスターに制止された。
「いいよ。今日は楽しませてもらったしね。今回はサービスするよ」
「え・・・?でも」
「その代わり、京都に来る時はうちに来てくれよ。そのうち、進藤先生も連れてきてくれたらなおよし」
「ナベさんあんたアンチ進藤じゃなかったっけ?」
「ただのネタだろそれは!俺は進藤先生もちょっと尊敬しているよ!」
「ちょっとなのかい・・・」
彩人は和やかな彼らの笑い声を背にして、サロンを後にした。
帰路につきながら、彩人は今日のことを思い出していた。素敵な一日だった。碁も沢山打てたし、自分がどれほど打てるようになっているのか知れたのも良かった。自信はついたし、それに進藤周辺だけだが棋界のこともちょっと知れた。
彩人は益々、囲碁界ひいては囲碁の歴史にも興味を募らせていった。
(そうだ。家に帰ったら借りたタブレットで調べてみよう)
進藤からネット碁での遠隔指導のために預けられた(実際は彩人へプレゼントされた)タブレットを持ってきたことを思い出し、彩人は急ぎ足で家に向かった。
家に帰ると、丁度夕飯の支度ができた頃だったため、先に夕飯を済ませた。その後にお風呂に入り、一日の疲れを癒したところでやっとタブレットに触ることができた。
まだあまり使い慣れないが、ネット碁だけはお手の物だ。
検索サイトのページを開くと、取り敢えず彩人は進藤と縁のある単語から調べていくことにした。
入力した単語は本因坊。検索結果を見てみると、トップには御馴染みの百科事典サイトが出てきた。そしてその次に出てきたのは、彩人の興味を大いにそそられるものだった。
「本因坊発祥の地?」
観光案内のサイトのようだったが、その内容と何より場所が今彩人がいる京都だったのに驚いた。
タップして詳しい内容を見てみると、地下鉄に乗って行ける場所にあった。
進藤が保有しているタイトルの本因坊。そのルーツがここにある。
そう分かると彩人はうずうずして堪らなくなった。
「折角帰ってきてるんだし・・・よし」
彩人はすくっと立ち上がると、バタバタと両親の元へと走って行った。そして、寺町通へお出かけしに行くことの了承をなんとか取り付けたのだった。
________その夜、夢を見た。
目が覚めたら跡形もなく忘れてしまうような儚い夢。
彩人と同い年くらいの少年が、こちらに笑いかけてくる。
声は聞こえない、しかしその金色の前髪と屈託のない笑顔には酷く懐かしさを覚えた。
「_、_」
口が何か大切な言葉を紡ぎだすように動いた。
なんと言っているのだろうか、わからない。
だけど、何故か聞こえもしないその言葉に何かを応えたくなった。
「___」
しかし、少年は次の瞬間には彩人よりも大きい大人になっていた。
彼は・・・進藤だった。
彩人は名前を呼ばれたような気がしたので、咄嗟に答えようとした。
「ヒカ・・・ル」
朝目が覚めた時、何故か彩人は進藤の名を口走っていた。しかも、呼び捨てで、だ。
口走ったものの何故かとても失礼なことをしてしまった気分になりながら、彩人は布団から起き上がった。
「今・・・夢にヒカルさんが出てきたような・・・いや、違うかな?」
数秒前まで見ていた夢の内容など、彩人はとっくに忘れ去っていた。
彩人は起き上がるとまず布団を畳んで押し入れの中に仕舞い込んだ。その次に側に置いておいた服に着替え、洗顔と歯磨きをしに洗面所へと向かった。
顔を洗って、眠気も飛んだ彩人は、今日の予定のことを考えていた。
本因坊発祥の地へと出かける。駅まで親に送ってもらい、そこからは一人だ。
本家の人たちは彩人が一人で遠くまで出かけると聞いて、大いに心配した。それも当然だろう。彩人は東京に引っ越す以前は、生粋のお坊ちゃんとして大事に、もとい甘やかされてきたのだから。
「心配しすぎですよ。大丈夫です。東京では結構一人で出かけることも多かったので、慣れてますから」
両親も、ここ最近での彩人の成長を見て大丈夫だと確信したのだ。
それに、彩人の両親も親戚も、これから家の行事の準備などで忙しい。彩人には誰もついていけないのだ。
車で駅まで送ってもらうと、彩人は地下鉄へと乗り込み、目的地の最寄りの駅へと向かった。目的の駅にはすぐに到着した。薄暗い駅から地上へ上ると、午前の京都の青空が彩人の目の前に広がった。
この辺りには京都御苑などの有名な観光地が点在しているため、この時間でも人は多い。彩人は予めプリントアウトしておいた地図を頼りに道を進んでいった。
京都らしい歴史的な趣を感じさせる通りを進んでいくと、車道沿いのところ四角い石が三つほど、そしてその横に木で出来た立て札が置かれているのを見つけた。
「あった・・・!」
彩人が駆け寄ると、その三つの石の中、真ん中の石が碁盤になっていた。
思わず彩人が感動する。
(こんなところに碁盤があるなんて・・・!)
根っからの囲碁好きである彩人には堪らないものがあった。美しい格子模様にしばらく見惚れた後、側にある立て札の方を見た。
そこには確かに「本因坊」発祥の地という文字が書かれていた。
彩人は脳裏に、進藤の顔が浮かんだ。現在彼が冠している名の本因坊、それがまさしくこの辺りで生まれたのだと思うと、心が揺さぶられるようだった。
そして、またすぐ目下にある石の碁盤に目を向けた。
よく見ると、碁盤を挟むように置いてある石はベンチのようで、碁石さえあればそのまま対局できそうな雰囲気だった。
(ここで、ヒカルさんと打てたらいいのに)
彩人はふとそう思ったが、すぐに無理なことだと笑う。進藤は仕事でここにはいないし、何よりここには碁石がない。
そう、ちょっとした空想として終わるはずだった。
「彩人・・・?」
だが、突如街中で響いた自分を呼ぶその声に、彩人は時間が止まったかと思うほどの衝撃を受けた。
その声は、まさに彩人が思い浮かべた人の声そのものだった。自分の想像が恐ろしいほどの再現を持って現れたのかと思った。
しかし、顔を上げた先にいる男性は、紛れもなく現実にいる進藤ヒカルだった。
理解を超えているのは進藤も同じなのか、彩人が見たこともないほどの動揺を露わにしている。しどろもどろになりながらも紡がれた言葉は、何故こんなところに彩人がいるのかという疑問を表していた。
「え?・・・なんで、おま、ここ京都だぞ・・・?どうしてこんなところに・・・?」
「ヒカルさん!?本当にヒカルさんですか?」
彩人がそう問うと、進藤も実感が湧いてきたのか、先程よりも落ち着いた様子で答えた。
「ああ、そうだよ。本当に、なんでお前がこんなところにいるんだ?ここ京都だぞ?」
「私は・・・実家が京都にあって、今はお彼岸なので本家で色々行事があるので一緒に帰ってきていたんです。ヒカルさんは・・・?」
「マジかよ・・・。俺は、前に彩人に言ったように仕事だ。京都の囲碁イベントに出演することになってて、仕事まで時間があるから観光に・・・」
「本因坊の発祥の地、ですよね」
「ああ・・・・・・本当、まさか京都にまで来てお前に会うとは思ってなかったよ。恐ろしいくらいの偶然だな」
進藤は苦笑しながら彩人の方へ歩み寄る。そして歩道上の記念日を見やるとふっと微笑んだ。
「随分と小さいんだな。まあ寂光寺は焼け落ちて別の場所にあるしな」
「碁盤もありますよ。碁盤」
「これはいいな。ベンチもあるし、ここでちょっと打つってのも良さそうだ」
進藤は石の碁盤の隣にあるベンチに腰掛けると、彩人の方を見てにやっと笑った。
「ちょっと打ってみるか?」
「ええ?嬉しいですけど・・・碁石がないですよ」
「碁石があるのを想像しながら打つんだ。目隠し碁っていうんだが。ものは試しにやってみないか。いいトレーニングになるぞ」
「目隠し碁・・・面白そうです!」
彩人は表情を輝かせ、進藤の向かいのベンチに座って、碁盤を凝視した。それを、臨戦態勢に入ったと解釈した進藤はベルトに差していた扇子を引き抜くと、彩人に促した。
「お前が先番。目隠し碁だから置石は今回は五つ。ちゃんと自分の石の位置を覚えておけ」
「はいっ」
彩人は石の盤面に、五つの石が置かれているのを想像した。そして、碁笥から黒石を取り出し、最初の手を盤面に叩き込んだ。