藤の花の盛りを迎える   作:ruuca

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提案

 

「お、おじゃましまーす・・・」

「そんなに固くなるなよ。家には俺以外誰も住んでねーから」

 

 約束の土曜日。碁を打ってもらう約束をして意気揚々と公園に向かった少年、彩人は顔を強張らせながら進藤の自宅へと足を踏み入れた。彼はてっきり公園で打つものだと思っていたが、進藤が自宅にある碁盤で打とうと言い、彩人を進藤邸へと連れてきたのだった。

 進藤邸は持ち主自身の印象とは異なり、純和風建築だ。ギャップに驚いていると、進藤はズンズンと家の中を進んでいく。慌てて彩人はその背中を追いかけた。

 

「お茶、これでいいか」

「あ、はい。いただきます・・・」

 

 通された部屋は和室。部屋の中心に碁盤が置かれており、部屋の隅に幾つか置かれた書棚には詰碁の本や、囲碁雑誌、そして棋譜と思われる書類がファイルに綴じられ収まっている。

 囲碁一色で染まった部屋に、驚きよりも先に高揚感が沸き立った。

 すでに囲碁の魅力に取りつかれた彩人にとっては、この部屋は理想の空間だったのだ。

 

(この人、きっとすごく強い。だって、こんな囲碁専用みたいな部屋があるくらいなんだ)

 

 彩人の胸は期待で膨らむ。お菓子とお茶を一緒に差し出されて、彩人は礼儀正しくお辞儀をしてからそれらに手をつけた。

 

「じゃあ・・・まずは4子置いてみるか」

「はいっ。お願いします」

 

 彩人が先番だ。黒石の入った碁笥の中に手を入れると、じゃらっと石がぶつかり合う音がした。

 部屋の中に静寂が訪れる。ひたすら碁盤に石を打つ音と、それから時に進藤が茶をすする音くらいしか聞こえる音という音はない。彩人は対局中、一度も進藤のように出されたお茶やお菓子に手を付けはしなかった。

 やがて決着はついた。二目差ほどで進藤の勝ち。しかも、彼は手加減して打っていた。

 敗北した彩人はというと、白黒の盤面を見つめながら、呆然としていた。

 負けたことによるショックではなく、とてつもなく強い相手が目の前にいるという高揚でだ。

 かつて彩人は碁を教えてくれた祖父としか打ったことがなかった。祖父との勝負は勿論楽しい。しかし彩人はその祖父の棋力にすでに追い付き、しばらく大敗するということが無くなっていた。

 大敗、そう大敗だ。彩人にはすでに、目の前の男性が手加減をして打っていたことに気づいていた。4子も置いて、先番も彩人に譲った上での指導碁。歴然とした棋力の差を感じさせられた。

 

「ヒカルさん・・・貴方は一体・・・」

「・・・ははっ。なんかデジャヴ」

 

 彩人の疑問の言葉を受けても、進藤は飄々としていた。進藤は先ほどまで競っていた盤面を見つめる。

 

(決して弱くない。むしろ、かなり打てる。爺さんとしか打ってないって言ってたけど、それでこれほど打てるっていうなら、すげー才能を持ってるか、爺さんが初段相当の実力があるか・・・)

 

 冷静に目の前の少年の実力を分析する。顔を上げると、落ち着かない様子で進藤の言葉を待っているように見えた。

 まずは、彩人の疑問を解くことにした。

 

「プロ棋士って知ってるか」

「は・・・囲碁の強い人で、お給料をもらっている人・・・ですよね。ヒカルさんは、そのプロなんですか?」

「まあな。それにしても、結構打てるくせに、囲碁のプロについてはあまり知らないんだな」

 

 と、進藤は立ち上がると、書棚の横に置いてある新聞を手に取り、広げて彩人に見せてやった。

 彩人ははっと目を見開き、新聞に載っている写真と進藤の顔とを見比べた。

 新聞にはこう載っていた。

 

『進藤ヒカル、本因坊連続防衛達成!』

 

 先日、進藤が本因坊を防衛した時の記事だ。スーツ姿の進藤が、碁盤に向かい合う姿が映っている。

 彩人は記事を読んでさらに目を丸くしていた。進藤は自慢げに微笑んだ。

 

「どうだ。すっげーだろ。本因坊だぜ本因坊」

 

 普段はあまり自分の地位をひけらかすことはしないのだが、なんとなく彼と似た面影を持つ彼に自慢したいような気持ちになった。そして彩人はというと、公園で知り合った男性が、実は新聞に載るほど有名な囲碁のプロだと知って驚愕していた。

 

「囲碁のプロ・・・囲碁を打つのが仕事ってことですよね。毎日、強い人と碁が打てる・・・」

 

 彩人はそう一人呟くと、毎日打てる、という贅沢な環境にいる進藤を羨ましそうな目で見つめた。

 

「すごいです・・・!いいなあ、囲碁のプロかあ」

「お前はなりたいと思わないのか?囲碁のプロ」

「む、無理ですよぉ。プロのヒカルさんに、この通りボロ負けしましたし・・・」

 

 進藤は思わず吹き出した。進藤はプロの中でも一握りのタイトルホルダーである。そんな彼に一回負けたくらいでプロは無理だと言われてしまうようでは、プロになれる人間はほとんどいなくなってしまう。

 確かに、プロになるのは大変だ。どんなに頑張ってもその高みに届かない人間だって大勢いる。

 しかし、進藤は先程彩人と打った盤面を見て、考えごちた。

 ふと、昔の思い出が蘇ってくる。囲碁を覚えたての頃、大した碁も打てず、悔しい思いした日々。しかし、そんな思いをしている時に優しく、時に厳しく、進藤の碁を導いてくれた一人の存在。

 彼が、囲碁の世界で一人でも戦えるように鍛えてくれた。

 この盤面を見て、強く思う。この子もきちんと導いてやれば、きっともっと強くなる。この子には、何より囲碁を愛する才能があるのだから。

 

「無理じゃねえよ。俺だってお前くらいの年の頃は全く打てなかったんだぜ?今のお前の方がよっぽど強いくらいだ」

 

 進藤がそう話すと、彩人は信じられないというように目を丸くした。

 

「貴方が?うそ・・・」

「うそじゃねえよ。誰だって最初は弱い。強くなるには何が大切かって、誰よりも強くなりたいと願い、努力することだ」

「努力・・・・」

 

 彩人はじっと進藤の部屋の棚、新聞を見て呟いた。

 

「私でも、プロになれるでしょうか」

「可能性なら、いくらでもあるだろ」

「・・・なりたいと思っても、いいんでしょうか」

「・・それは、お前の自由だろ」

 

 ぎゅっと彩人は決意を込めた眼差しを進藤に向けて言った。

 

「私、プロになりたいです。もっと、強くなって、いろんな人と打ちたいんです」

 

 打ちたいんです。そう言った彩人の表情が、彼の影と重なった。

 白い狩衣がふわりと風に揺れたように見えた。よく見れば、それは開け放たれた窓から入ってきた風が、彩人の髪を揺らしただけだったのだが。

 

「・・・・そうか」

「はい、そうと決まれば、一杯勉強しますよー!お爺様にも、囲碁友達を紹介してもらえるようお願いしてみます!」

「待った、彩人」

「はい?」

 

 彩人が意気揚々と今後の抱負を語っていると、進藤が制止した。

 

「囲碁が強くなるために大切なことが、気持ち、努力の他にもある。多分この二つよりもずっと重要なことだ」

「そ、それはなんでしょうか・・・!」

 

 重要、と言われて彩人の目は真剣味を帯びる。進藤はそんな彩人に優しい眼差しを向けながら言った。

 

「ライバルと、指導者だ」

 

 進藤がここまで強くなれたのは、本人の才能によるものだけでなく、切磋琢磨し合えるライバルと、正しい方向へと導いてくれる指導者、二つの要素に恵まれたからに他ならない。

 ライバルは、彩人ならきっとこれからの人生の中で出会うことができるだろう。

 そして、進藤は彩人を見て、この一つの才能が伸びるところを見てみたいと思うようになっていた。願わくば、このこどもを導いてみたい。

 かつて自分を導いてくれた彼のように、自分の持つ全てをこの子に託してみたいと思った。

 

「・・・・良かったら、俺の弟子になってみないか?彩人」

 


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