「ほう、こいつが進藤の弟子か・・・」
座布団に座り、馴染みある和装姿で進藤の隣で縮こまる少年を見つめるのは、この研究会の主、森下九段だ。和谷の恩師であり、進藤も院生時代は世話になった。今でも時々足を運んでは勉強に勤しむ、現役の棋士でもある。
年を重ねてさらに外見の厳つさが増した森下は、当然ながら彩人に怯えられた。だが、そんな態度には慣れているのかそれを咎める様子は見せない。
「ほら、この人が俺も院生時代には世話になった森下先生だ。ちゃんと挨拶しろよ」
ぽんぽんと進藤が安心させるように彩人の頭を叩くと、なんとか顔を上げて森下の顔を見てお辞儀し、そして名前を名乗った。
「院生ではないんだな」
「そうですね。まだ。でも、院生でもやっていけるくらいの実力はもうありますよ。囲碁初めてまだそんなに経ってないのに、かなりの才能だと思います」
進藤からの賛美に、彩人は顔を綻ばせる。美少年の微笑みは、空気を自然と和やかなものにした。
「彩人くんは、院生になるつもりはあるのかな?」
「やっぱり、外来で受けるよりも院生になったほうがいいよね。色んな子と打つのも、本人のいい勉強になるしね」
「そ、そうですね・・・両親や祖父とも相談して、本気で目指すつもりならいいみたいなことを言われています・・・」
進藤はここに連れて来る前に、初めて彩人の両親と対面した。どうやら彩人の家はかなりの資産家らしく、両親も共に働いていて忙しい身のようだった。それを、なんとか時間を作って進藤と会ってくれたあたりに、息子への確かな愛情が見て取れた。取り敢えず、息子を変な道に進めるなみたいなことを言わない、理解ある人たちでよかったと進藤は思う。後、すんなり受け入れられたのも、進藤の本因坊という肩書きとネームバリューが物を言ったようだ。
「ふむ、進藤がそこまで言うほどの才能、か・・・よし、彩人と言ったか、打ってやるから、取り敢えずそこに座れ」
と、森下が扇子で碁盤を挟んだ対面を指した。
すると、先ほどまで森下に怯えていたのが嘘のように、目を輝かせながらそこに座った。
「はいっ、よろしくお願いします!」
「お、おう」
その態度の急変ぶりと、間近で見る彩人の美貌に少し困惑しながらも、碁笥を取り出し、石を握った。
結果は、二子置いて森下の勝ち。彩人は悔しそうな表情を浮かべながらも、ふかぶかとお辞儀をして「ありがとうございました」と告げた。
直接打った森下と、外から観戦していた和谷や伊角は神妙な表情を浮かべていた。ただ一人、進藤は優しい微笑みを彩人に向けていた。
やがて森下が口を開いてつぶやく。
「なるほどな・・・これは確かに才能があるな。囲碁を初めてそんなに経ってないのに、この実力・・・このまま成長すればプロ入りは間違いないだろうな」
「進藤お前こんな才能どこで見つけてきたんだよ」
「近所の公園で偶然だってさ・・・どんな偶然だよ」
大人たちから口々に褒められて、彩人は気恥ずかしそうに俯く。
そして進藤は何故か彼らの言葉を聞いては自慢そうな表情を浮かべていた。
「検討はまあ後でやるとして、進藤、やはりこの子を院生にするつもりか」
「そうですね。ずっと俺が指導したい気もするけど、やっぱり同年代のライバルがいた方がより成長できると思うんで」
進藤の言葉に和谷と伊角も頷く。同じ時期を院生として過ごした彼らは、互いに切磋琢磨しあう日々をかつて送っていた。その経験は、今にも活かされている。
しかし彩人は少し迷うような素振りを見せた。
「もしかして、ちょっと迷っているのか?」
「う・・・はい。私、あまり同年代の方と話さないので、上手くやっていけるか・・・」
どうやら対人関係への不安があるようだ。囲碁を打つことは問題ないが、彩人はかなり人見知りだ。森下と打つ時は臆さず向かっていったものの、対局が終わるとまた緊張するようになった。
この浮世離れした雰囲気と、整いすぎた容姿から同級生に遠巻きにされてきた日々の弊害か。同じような状況ながらも肝の据わった塔矢アキラとは対照的だ。
「うん、まあ不安だよな。でも、なんとかしようって気持ちがあるなら、それで十分だ。変に気負わず、お前らしく相手に向かい合え。それにお前には、囲碁があるんだからな」
囲碁を知らない同級生とは違い、院生は皆囲碁を愛する者たちの集まりだ。言葉での対話が苦手なら、彩人の得意な対話を図ればいい。進藤は彩人にそう諭した。
「・・・なんか、意外だな。進藤も、きちんと先生やってるんだ」
彩人に言い聞かせる進藤を見て、伊角がぽつりとこぼした。その声は進藤には届かなかったが、隣で聞いていた和谷も頷いていた。
プロになってから幾つものトラブルというか、事件を起こしてきた進藤が、人を導く立場にいてそれをきちんとこなしている。人は成長するのだなと実感するようだった。
そして、進藤を見つめるこの才能ある少年。この子もまた、どのような大人になっていくのか、是非とも見届けたいと二人は思った。