もし、川神鉄心の若い頃に師匠がいたら?という前提です。
ある所に少年と青年がいた。道場らしき場所で少年は倒れ、青年は涼しげな顔をしながら少年を見下ろす。自然体、リラックスしている様子の青年に対し、少年はボロボロで息を荒く繰り返していた。
「これで二千三百戦全勝。まだまだ甘いな」
「まだッ……まだ負けていない! もう一度だけお願いします!」
青年の容姿は二十歳前後、多く見積もっても三十未満に見えるだろう。少年はまだ幼い子供だが、実年齢は十三歳と思春期真っ只中の少年であった。
倒れる少年は必死に立ち上がろうとする。プルプルと震える腕を必死に動かしながら立ち上がろうとしている。そんな少年をただ見つめる青年。何をするのでもなく、ただ見る。必死に足掻く少年を無感情で見ている。
必死に動かすも、力が抜けたのか、今度こそ動かなくなる少年。立ち上がれなかった事が悔しいのか、握り締められた拳が震えていた。ギリッと歯を食い縛る音が青年の耳に届く。
「――う。――くしょう。畜生。畜生畜生畜生」
「今日はここまでだ。相手ならいつでもしてやる……悔しいか?」
震えながら確かに少年は肯定を表すようにコクリと頭を上下させる。その反応を見た青年は倒れる少年の傍に歩み寄り、目線を合わせるようにしゃがむ。
俯く少年の顔を両手で掴むと、自分の額にコツンと合わせる。汗だらけの少年の額は熱く、濡れていた。自分の額にも付くのも構わずに青年は間近にある少年の顔に向かって語りかける。
「悔しいか? ずっと俺に勝てない事が。 悔しいか? 今までの自信とプライドを尽く粉砕されて。 悔しいか? 自分が井の中の蛙だと知って」
一言、一言。言葉を刻み付けるように少年にゆっくりと確実に言い聞かせる。その言葉に何を思ったか。少年の嗚咽が大きくなる。
悔しい。悔しいと少年の身をその感情が襲う。青年と額を合わせているため、顔は隠せずにボロボロと涙を流すのを青年からははっきり見えている。
それを見ても青年は叱る事はしない。泣くな。悔しいなら泣くんじゃないとは決して言わない。
「その感情は正しい。悔しいという思いがお前を更に強くしてくれる。更なる高みへと誘い、いつかは勝てない者を超えていくだろう」
「――そ、それがあなたでも、ですか?」
その表情を少年は一生忘れないだろう。二千を越える手合わせの中、日常でも初めて見る表情だったから。
「――アホ言え。俺は誰にも負けないさ」
子供のように純粋無垢。大人である青年が悪戯っぽく少年に笑いかけた。額を離し、指で少年の額を小突いた。不思議と痛みは無い。逆に暖かさを感じる動作であった。
いつの間にか涙は止まっていた。青年の横顔の笑顔を少年は倒れたまま見つめていた。少年に背中を向け、道場の入口に向かう青年は少年に対して人差し指と中指を合わせた手を見せ、振る。それは『またな』というメッセージが込められていたのだろう。
◆
「――ホッホッホ。また懐かしい夢を見たもんじゃ」
老人、川神鉄心は嬉しそうに笑う。自慢の髭を撫でながら自分の弟子達の修練を優しい眼差しで見つめていた。
せいっ。はあっ。と掛け声と道場の床を揺らす踏み込みの音を聞きながら昔に思いを馳せる鉄心。本当に懐かしいと思いながら今朝の夢を思い出す。
あれはまだ老人である鉄心が幼い、武道家駆け出しだった頃。生まれながらにして武道家として最高の才能を持っていた鉄心は大人顔負けの実力で手合わせという手合わせを全て勝ち抜いた。
ある日のこと。ふらりと迷い込んだ武道家らしき人間にも戦いを挑んだ。天狗になりかけていた当時の鉄心はその人間に完敗する。完膚なきまでにボロボロにやられた。
それが後に川神鉄心自身が人生の師とあおぐ青年とのファーストコンタクトであった。
「ホッホ。まだワシも若かったもんじゃのぅ」
朗らかに、けれど恥ずかしそうに笑う。天狗であった鉄心はその青年にまぐれだと何度も戦いを挑んだ。その数、万を行く。
結果、全敗。手も足も出ないとはまさにこの事かと言える惨敗っぷりだった。放つ技は全て一見で見切られ、反撃を受ける。技術も青年の足元にも及ばない大きな差がそこにはあった。
何度も何度も戦っていたからか、二人には奇妙な絆が結ばれる。放浪者と自称する青年の自由な時間を狙い、修行そっちのけで戦いを挑んで敗れる。戦いの最中に指南まで受ける始末であった。踏み込みが甘い、拳に力を入れすぎ。と的確な指示をしていた。
回を重ねる度にいつしか鉄心は青年を認めていく。戦い方だけではなく、信念や志の話を聞かせてもらう事が多くなったのだ。
「総代! 終わりました!」
「よい。では各自、汗を流し食卓にて集合じゃ。朝食を取ろう」
弟子の一人に朝の修練を終えた事を聞くと、鉄心はホッホッホと笑いながらその場から退出する。
武の総本山、川神院。経験を積み、青年とよく語り合った場所。現在の世界最大と言われる武道家の憧れの門でもある建築物だ。
川神院の中をゆっくりと歩いていく。ちゅんちゅんと小鳥のさえずりも聞こえ、鉄心の心を癒していく。
そんな雰囲気をぶち壊す音が遠くから聞こえてくる。ズドドドドドと何かが駆ける音に鉄心は重い、重い溜め息を吐く。
「おいジジイ! 何で私が今日の朝食抜きなんだ!」
「自分でわからんかの。精神統一修行をサボりおったじゃろう」
「あんなジッとしているだけの事なんかできるか! まだ成長期の美少女を虐待する気かクソジジイ!」
「口が悪いの……何処で育て方を間違えたんじゃろう」
鉄心に掴みかかる幼い少女。名を川神百代、川神鉄心の実の孫である。女の子らしい黒い長い髪の毛が吠える度に揺れ、真紅の眼が不満を訴えているようだった。
年を重ねた鉄心に子が生まれ、孫もできた。小さい頃を覚えている身としては何とも幸せだと感じる瞬間であった。
「……仕方ない。釈迦堂さんに頼んで分けてもらう!」
「あやつがそうそう渡すわけなかろうが。一食抜いても人間は死にはせんよ」
冷たい態度に百代は何を思ったか、鉄心の脛を八つ当たりのように蹴った。しかし、痛がるのは鉄心ではなく百代だった。ピョンピョンと足を抱えて飛び上がり、悶えていた。鍛え上げられた肉体は老いようとも健在である。
「ジジイのクソバカヤロー!」
「自業自得じゃろうて」
痛がる百代を借りてきた子猫のように持ち上げると、鉄心は川神院の廊下をひたりひたりと歩く。鉄心自身が青年に出会った時よりも百代は幼い。今年で年齢が二桁に到達する頃だろうと鉄心は思う。
――自分もこうだったのだろうか。
そう鉄心は思う。今の孫の百代のように好き勝手物を言っては青年を困らせていたのではないだろうか? と思う。今は青年はもういない。聞く機会が無いのが悔やまれるところであった。
結論から言えば人生の師である青年はある日、突然姿を消した。何も言わず、何も告げず、何も残さず。当時は鉄心は彼の搜索に力を入れるほど依存していた節があったのだろう。
「――イ。ジジイ」
「ジジイと呼ぶなと言うとろうが。何か用かの?」
「また話を聞かせてくれよー。昔の大事な師匠って奴の事をさー」
青年、師と思っていた彼の存在していた事実を伝えようと鉄心は時折、誰かに彼の事を話している。覚えている人間はもういない、共に生きていた時代で彼と会話をした事がある者は寿命で逝った。青年を直接知る者は鉄心のみ。
現在の川神鉄心があるのは青年の存在が大きい。あらゆる事を青年に教わったのだから。
鉄心は孫に語る。自分の人生の師がどんな人間で尊敬できる人間かを詳しく。食卓へ向かう途中、話している間に顔を思い出しながら当時を振り返っていた。
もう会う事も無い、青年の事を思いながら。
修正改訂 13/05/24