「――ッ!!」
「おいヒロ! 待て! どうしたんだ!」
突然、宏輝は弾かれたように走り出す。急に様子が急変して何かから逃げるように凄まじい速さで走り、背中が百代の視点から小さくなっていった。百代から見ても、宏輝の走る足の速さは普通と比べても速いと思えた。すぐに追い掛けようかと考える百代だが、すぐ目の前に小さな物体が写って足を止める。咄嗟にそれを掴んでしまい、意識をズラしてしまった事で彼の姿を見失っていた。
後で追い掛けようと決め、百代は咄嗟に掴んだ物を見る。手に収まる小さな長方形の物体、携帯電話と呼ばれるものがあった。まだ通話中のようで、百代はまだ繋がっている携帯電話を耳に当て声を出してみる。
「もしもし」
『ん? 誰だ。女か? クソガキはどうしたんだ?』
「ヒロならどっかに走って行ったぞ。それより誰だ?」
『刑事だ。クソガキ、天井宏輝はどうした? まだ説明の途中なんだが』
「説明? ちょっと私にも聞かせてくれよオジサン。後で私が教えとくから」
『その前に身分を明かして欲しいものだな』
「川神百代だ」
『――ってお前さんがMOMOYOかっ! あのクソガキの財布と携帯電話を盗んだって被害届があるぞ!』
「和解した。今は川神市の観光案内をしている」
和解したと言っているが、保留しているという表現が正しい。こうして宏輝が百代と川神市を歩いているのは、たまたま近くに
携帯電話を持ち、耳に当てて会話をしながら百代は移動する。気の感じる場所を目指しながら電話の相手である刑事、以前に宏輝を逮捕して尋問を行った頭の寂しい刑事とやりとりをする。説明、宏輝が身分を証明できる物を取り返した時に連絡をして自分の地元と住所を照会してもらうように頼んでいた。その結果を聞いている最中で宏輝は何故か逃げるように走って行ったわけだ。今もまだ彼が走り続けている事は百代の優れた気の探知能力でわかっているが、正確な位置はわかっていない。
『続きだ。照会した結果、適合するのを見つけた。が、天井宏輝という人間はいたが“年齢は現在七歳”だ』
「……は? でもアイツはもっと年齢が上のはずだぞ?」
『戸籍も確認した結果だから間違いない。それを話したら声が聞こえなくなった。逃げたんだとしたらそのタイミングだ』
「ん、ん? イマイチ理解できん。詳しく」
『俺もよくわからん。その違和感が気になって調べてみたが、俺とお前が知っている年齢の天井宏輝の存在は、戸籍上存在しない』
「お、おかしいだろ。ヒロはこの川神にいるんだから戸籍が無ければおかしいじゃないか!」
百代は狼狽えながら声を出す。自分の新しい友人の戸籍が無いと言うのだ、普通であれば有り得ないと思う。何故なら天井宏輝はこの川神の地にいて確かに彼女は彼と話したのだから。だが、世の中とはそういうものだ。何かの陰謀で戸籍を消される、存在自体を抹消されて天井宏輝という人間を追い詰める手段として使われる可能性も捨てきれない。実際は違うが、その可能性もある。
たん、たん、たんと百代は電話をしながら建物、建物を飛び移りながらいなくなった彼を探す。黒猫は宏輝が抱えたまま逃げているのでいない。黒猫と宏輝、一度だけ感じた気を頼りに川神の街を駆け抜ける。通話も終わり、説明を全て聞いた百代は移動するスピードを上げる。
(どういう事かわからないが今はヒロを探さないとっ!)
◆
(いたっ!)
探す事、数十分。百代は消えた宏輝を見つける事ができた。川原の斜面、草が生えている場所で背中を向け、陽が沈み始めている景色も合わせて哀愁感がかなり漂っていた。宏輝を少し知った百代はただならぬ様子を感じ、彼に近付く。ただ、ボーッとして目の前の景色を眺めるだけの宏輝の隣にそれとなく座る。遠い目をしながら胡座をかき、黒猫を乗せたままの宏輝の様子は普通ではない。何と声を掛けようかと考える百代だが、言葉が浮かばない。時間だけが流れ、冷たい風が二人を叩き始めた。
「……なあ。モモちゃん」
「どうした?」
「聞いたんだろ? あの刑事から。俺の事を」
「まあ。少しはな―――戸籍が無いこと」
「はははっ。やっぱりか……ここには俺の居場所は――」
乾いたような笑いをする。自分の手で自分の顔を隠すように覆う。百代から見れば、泣いているのを隠しているかのように見えた。その動作の前に呟いた言葉は百代の耳に届いていた。自分の場所は―――と続く言葉は『無い』。この場所には自分の居場所は無いと言いたいのだと百代はすぐにわかった。
「――モモちゃん。嘘みたいな話だけど聞いてくれる? 会って間も無いのにこんな事を話すのは少し抵抗があるけど……」
前を向いたまま百代の方を見ないで淡々と感情の無い声で語り始める。チラリと百代が宏輝を見れば、何故だか普通の雰囲気であった。勘の良い百代は危険、危うい雰囲気を漂わせていたのにそれが元から無かったように普通である事におかしいと感じていた。
あの哀愁感が漂う背中は見間違いだったのだろうかと思うが、確かにあの雰囲気は只事では無かったと百代は言い切れる。問おうと考えるが、下手に手を出して藪蛇にはなりたくない。更に空気が険悪化するのだけは避けたい。
「いつか来るとは思っていたけどここまで早いとは思わなかった。本当の両親じゃないんだ。俺の今の両親は」
「つまり、義理の子なのか?」
「うん。だから俺の持っている天運は両親は持っていない、普通の人間なんだ。それが災いしたんだ」
先程の天運の弊害、幸運の裏側にあるデメリット。その幸運が逆に不幸を呼び寄せる事になってしまった。天運による、ギャンブルや宝くじで得られた莫大な金額の金銭。それを巡った醜い争いは天運持ちの宏輝ではなく、無関係の人間や身近な人間を巻き込む事になった――と宏輝は話した。自分が疎ましくなり、自分を誰かに“譲渡”しようとしていたのだと百代に話した。それを行うためがこの戸籍の偽装、書き換え、消去なのだと。自分は亡霊なのだと。そう話した。
「だけど両親を怒らないで欲しい。仕方がない事なんだよ」
「……お前は大丈夫なのか?」
「覚悟はしていたよ。望んでいなくても必ず起きる事だったから。ギャンブルに打ち込んでいる身でこんな事は言えないけど」
ははっと笑う宏輝。膝小僧を抱えて俯いてしまう。膝に乗っていた黒猫がコロリンと百代の隣に落ちる。
「……ヒロ。居場所が無いならウチに来い」
「無理だ。これ以上迷惑は掛けられない。あの痴呆ジジイに何をされるかわからないのが嫌だ」
「う、うん。大丈夫だと思うぞ! そっちの趣味は無いはず。間違いない、はず――」
「余計不安になったよ」
「うっ」
膝小僧を抱えた腕の隙間、腕の下の腋からジト目で百代を見る。祖父である鉄心の様子に不安を感じているのは百代も同じであった。自分の尊敬し、探している人生の師匠に瓜二つの容姿をしている宏輝。名前も呼び方を変えれば見事に一致するというまさに奇跡と呼べる事が起きているのだ。あの信狂ぶりから“間違い”を起こさぬ事に対して不安を感じてしまうのであった。如何わしい女子高生のオカズのネタになるのも近い未来だろうか――。
「宿は自分で確保するから暫くは探さないでくれると嬉しい」
ここで百代は純粋に驚愕を表す。確かに隣に座っていて気も感じられていたはずなのにその網から逃げるように立ち上がって、移動していた。一言だけ百代に言い残すと背中を向けて歩き出す。思わず追い掛けようとするが、脚に何かが引っ掛かって転んでしまう。顔面を強打し、痛む場所を摩りながら見れば足の部分に草が巻きついていた。よくよく見れば、誰かに結ばれたような後があり、それが宏輝の仕業だと知って文句を言おうとする。しかし、さっきまでいた場所にはもう彼はいない。彼に懐いている黒猫も一緒に。
力任せに草を引きちぎると、いなくなった宏輝を探そうと駆け出す。何故そうしたかは百代自身にもわからない。会って一日、ファーストキスも奪われた乙女の敵であるはずなのにと。だが、宏輝の持ち前の温かい人柄に触れて毒されたのだろうと彼女は走りながら思う。何よりも彼女を突き動かすのは“義理の子”というキーワード。
――川神百代には血の繋がらない妹がいる。義理の子である所で同情しているのか、それとも別の感情を抱いているのか。赤の他人であるはずの天井宏輝の事が本格的に気になり始めている百代だった。が、その日の間に百代は宏輝は見つけられなかった。
◆
走っている百代から隠れるように物陰、路地裏から彼女を見る人間が一人。
「ゴメン。少しだけ整理させて欲しい。だって俺はモモちゃんを騙してる――畜生」
黒髪の少年は黒猫を抱えたまま路地裏の壁に背中を預け、力無くしゃがみ込む。片手で顔を覆うと、見えない顔の頬を一つの雫が零れ落ちる。そんな少年の様子を不思議そうに黒猫は見上げるだけだった。
「――もう帰れない。だってここは――」
少年の呟きは表の喧騒に消えていった。