ねえ妖夢、見て。雪が降ってるわ。雪って冷たいのかしらね。わたしは覚えていないの。
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「生きているのと死んでいるのと、あなたはどっちがいいと思う?」
いつだったか妖夢は、幽々子にこうきかれたことがある。
「なんです、究極の選択ですか。幽々子さまもお好きですね」
妖夢は持ってきた羊羹とお茶を縁側に置きながら応じたが、幽々子の声のつめたさがおそろしいものだと内心でひやりとしたのを覚えている。幽々子が意味もなく三度の食事や間食を行なっているわけではない、と何となく気がついていたからだ。そのことを言及する必要があるのか悩んだが、妖夢は言葉が見つからなくて黙っていた。
妖夢の動揺を察しているのかいないのか、幽々子は無邪気な微笑を口元に浮かべて、意味ありげに細めた目で妖夢を見ていた。彼女にこんな表情をされるとたいていの妖怪は呼吸ができなくなるだろうなと思いながら、妖夢は平常を装った。
「わたしは生きているほうがいいです。何も感じられなくなるなんて耐えられません」
「生きていると苦しいこともあるわ」
「苦しいことのある方がいいんです。苦しければ苦かった分だけ、楽しいことに価値が生まれるでしょう? 楽しいことばかりでは、つまらないのではありませんか。そして何も感じることができないのは、それよりはるかにつまらない」
「そうね。わたしもそう思っていたのよ」
そんな会話をした幽々子には触覚と味覚の大半が失われていた。なのに彼女は妖夢に食事を作るよう以前と同じように命じ、雪景色を眺めながらおやつを食べようとしていた。
普段はそんな素振りは見せないが、幽々子ほど冷静で頭のいいひとはいない。彼女にはすべてわかっていて、ありのままを引き受ける覚悟があるのかもしれないと妖夢は予想していた。彼女の脳髄に染み付いた死という腫瘍が日一日と心を蝕む可能性があることも、そして妖夢が死に物狂いで幻想郷じゅうの文献から人間の死に関する情報を集めているということも、それが幽々子の従者としてなのか、あるいはもっと深く烈しい感情につきうごかされてのことなのか、どうして自分がこれほどまで無我夢中になっているのか妖夢自身がわかっていなくて、そんないくつかの不明瞭な要素でさえも、幽々子ならとっくに知っていたのかもしれない。
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初めて出会ったときから幽々子は儚げすぎるほど儚げで、それは彼女が幽霊なのだから当然といえば当然かもしれないが、同時に幽霊なのに悟っているような雰囲気を持っていた。あの日も白玉楼の庭には雪が舞っていて、どこかを見ながら立っていた幽々子の姿を、妖夢はまだ鮮明に記憶している。幽々子そのものに見とれたのか、それとも彼女が桜のように散る雪のはかなさに同化していたからなのか、定かではない。目を離すと、泡沫の夢と消えてしまいそうな危うさを含んでいたせいかもしれない。
凍ったような幽々子の目を向けられて、妖夢は身をすくめた。
「妖夢、だったかしらね」
「ええ。そちらは幽々子さまでよろしいですよね。――お体に障ります、さあ、どうぞ屋敷の中まで」
「ありがとう。でもいいの」
いささかの期待もしていない口調で、幽々子は告げた。
「どんなに雪が降っても寒くないの」
「え――」
「わたしの中で感覚は『記憶』なの。覚えていなければ感じることはできない。――いや、過去の感覚の『再現』といった方が適切かしら。死者は失うことはあれど新しく得ることはできず、中にある記憶を感覚として代替しているに過ぎない」
あまりにも無垢な笑顔で。
あまりにも純粋な笑顔で。
――幽々子は続けたのだ。
「だからね。『寒い』って、わからないの。忘れちゃったから」
絶句。
空と彼女たちの間には、冷たいはずの雪が降っている。
「怖い――のですか」
「それも忘れちゃった」
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――雪ってもしかすると温かいのかもしれないわ。雪ってなんだか桜のはなびらみたいなんだもの。春の匂いが漂ってきて、今にも雪の下から緑が上がってくるような気がする。ねえ妖夢、雪って冷たい?
――貴女は温かい。だから幽々子さまにとって、雪は冷たいものであるべきです。
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「わたしはまれにだけれど味を思い出す。こうやって物を口にすることも、生への執着の表れなのよ。本当は食べなくてもいいのにね」
羊羹を頬張りながら幽々子は告げた。
いつも彼女は「おいしい」と口にする。それはきっと、「おいしい」を思い出そうとしているのだろう。
「目覚めたらここにいた。最初の記憶は紫で始まり、彼女に幽々子と教えられたからわたしは幽々子になった。ねえ妖夢、わたしは本当に幽々子なのかしらね。自分で自分を定義し得るための記憶という確証がなくても、わたしは幽々子であっていいのかしら。地に足が着かないって、まさにこのことよ。なんだか生きている者が妬ましいみたいないい方だったけれど、だからこそわたしは生者を死へ誘うのかもしれない」
幽々子の話が途切れた瞬間、気が付いたら妖夢は、幽々子の手を握りしめていた。か細くて、儚げで――なぜか温かかった。
「妖夢の手、あったかい」
「幽々子さまも温かいです」
「不思議でしょう? 『温かい』はまだ覚えているの。だからこの温もりは偽りよ。だってわたしはもう死んでいるんだもの」
日毎日毎に曖昧になっていく幽々子。彼女はいつか、完全に彼女でなくなってしまう。それを妖夢は最も危惧している。打開策はないか日々模索し、ふとしたときに行き当たったひとつの事柄。
それが、頭の中で弾ける。
妖夢は唇を結び、やがて、かねてから考えていたことを決意した。
――そうだ。
桜の花を咲かせよう。
「わたしは生前の幽々子さまは知りません。ですが今、幽々子さまがここにいることは紛れもない事実です。貴女はわたしの知る幽々子さまなのです。ですが――生物としての本物の温度をご所望とあらば、わたしが花を咲かせてみせます。死する必要のなかった貴女の肉体を、この手で解き放つ。そのときこそ幽々子さまは必ずや、雪の冷たさを思い出すでしょう」
幽々子は首をかしげる。
彼女は忘れている。彼女が自分の身に何をしたかということも。
「妖夢は――何をしようとしているの」
「今からわたしは春を集めてきます。ご存知ですか? 西行妖を咲かせると、誰かが蘇るという言い伝えを」
「それって、もしかして」
「ええ。可能性はあります」
幽々子は信じられないというように顔を輝かせた。
もっとも、信じられない気持ちは妖夢も同じだった。耐え難い恐怖心から逃れるため、垂れてきた一本の細い糸にすがりつくような策。確証のない事柄だったが、何もしないでいるよりはずっといい。幽々子ほど妖夢にとって大切なひとはいないことも妖夢自身にはわかっていたから、結果的に幽々子のためになると思って、一歩を踏み出したのである。それが幽々子のためというよりもむしろ、自分自身のためだということも、妖夢はわかっていたのだ。
「必ず遂げてみせるとお約束します」
「そう、――期待しているわ」
幽々子は降ってきた雪を手の平に乗せた。雪が解けて水になる前に、妖夢は空へ飛び上がって、どこかへ行ってしまった。
「生きていたわたしと、死んでからのわたし。どちらが本物なのかしらね」
一人残された幽々子は、誰にともなくつぶやいた。
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雪の降る季節は続く。
季節は巡り、やがて野に若葉が息吹く頃合になった。
だが幻想郷に春は、まだやってこない。
――かくして、あの異変は始まった。