Bloodborne:Memories of blood odor 作:水原 日助
血の臭い。彼の記憶はそれにまみれていた。
そして今も尚、絶える事なく臭いで溢れる。
街角から。森から。闇から。
自分から。
血の臭いがする。
だから彼は思い出す。
思い出し続けている。
自らの血にまみれた過去が、脳裏にこびり付いて離れない。
「はっ、はっ。はぁっ……」
あそこから逃げ出して、ずっと走り続けていた。
初めから追手の声も、足音も聞こえていなかったが、それでも走り続けた。
臭い。
血の臭い。
俺の手足、どころか全身から発し続ける、むせ返る程に甘く、暗い臭い。
それを振り切るように走る。自分自身から発しているのだから、振り切れる筈もないのに。
闇の中を走る。ここが何処かもわからぬまま、どこへ行くとも知れぬまま。
息が上がるが、地べたを蹴る足が痛いが、止まる事なく、走り続けた。
父ちゃんが獣に殺されたのは、俺がまだ棚の一番上に置かれた本に手が届かなかった頃だと記憶している。
俺たちの住んでいた家は、他の人たちとは少し離れた、痩せて枯れた土地にあった。
いつも隙間風が吹き込み、雨が降れば天井から水が垂れ、そのくせ狭くて窮屈、そんな家だった。
庭には畑があったけど、いつも大した量が採れず、採れてもろくに育ってなくて。そのせいか、一度として腹一杯になるまで御飯を食べた事がなかった。
けれど、そんな暮らしでも、続けれ来れたのは父ちゃんのおかげだ。
毎日休まず働き続けて、汗と土にまみれて帰ってくる。
誰よりも疲れている筈なのに、いつも少ない御飯を俺に分けてくれた。
「大きくなったら、お前にも手伝ってもらうからな」
そう言いながら笑って、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてくる父ちゃんの顔は今も覚えている。
早く大きくなって、父ちゃんの手伝いをするんだ。
いつもそう思いながら、少しだけ多くなった御飯を口に頬張った。
けれど、その日が来る事はなかった訳だ。
父ちゃんが森へ猟に行って、ずたずたに裂かれた状態で帰って来た。
いや、持って帰って来てもらった、と言うのだろうか。
父ちゃんだと言われなければ、いや、言われてもわからないような。
身体中を切り裂かれ、噛み砕かれ、辛うじて人だと認識出来る、そんな状態だった。
「獣の仕業です」
そう言う男の顔は、目深に被った帽子と、鼻と口を覆う覆面で、目しか見る事が出来なかった。
だが、その発した声色は、とても冷たい口調だった。
「あなたの旦那様は、教会によって禁域に指定されている森に侵入しました。我々の制止を無視して」
父ちゃんの亡骸にすがり付いておいおいと泣く母ちゃんを見下ろしながら、男は言葉を続ける。
「近隣の森に獣が出没する事は既にご存じの事と思います。しかし、だからと言って禁域指定されている"あの森"へ許可なく侵入するなど、あってはならない事であり――」
「どうして、父ちゃんを助けてくれなかったんだ」
俺は無意識に男に向かって怒鳴りつけていた。
「あんたら、狩人なんだろ? だったら父ちゃんを止める事だって、助ける事だって出来たんじゃないのか」
「君のお父さんは、教会の許可を得ずに"あの森"に侵入したんだ。身の保障は誰にも出来ないし、我々も許可を得なければ立ち入る事が出来ない――」
「お前らが父ちゃんを見殺しにしたんだ!」
「お黙り!」
突然、割って入った母ちゃんに殴られて、俺は床に倒れ込んだ。目を白黒させる俺を差し置いて、母ちゃんは男に向き直る。
「申し訳ございません、狩人様。うちの馬鹿息子がご無礼を……」
「いえ、仕方ありますまい。やるせない気持ちはこちらにもあります」
男――狩人に向かってぺこぺこと頭を下げる母ちゃんを、俺は茫然と眺めていた。
どうして怒らないんだ。父ちゃんが死んだのに、見殺しにした相手が目の前にいるのに、どうしてそいつに頭を下げるんだ。
狩人の顔は依然として見えない。だが、帽子と覆面から覗く目もまた、声と同じように冷め切っていた。とても謝る人間のする目つきではない。何とも思っていないような、ともすれば謝る事自体を不服としているような、冷たい目で俺たちを見下ろしている。
その事を知ってか知らずか、母ちゃんは頭を下げたまま、目だけで狩人を見上げて言う。
「ところで、狩人様。見ての通りうちは貧しく、明日を無事に迎えられるかもわからない状態なんです。そんな時に支えである夫を亡くしてしまっては……。狩人様。どうか、お恵みをいただけないでしょうか?」
母ちゃんは頭を下げたまま、どころか薄ら笑いを浮かべながら、そんな言葉をつらつらと話してみせた。まるであらかじめ決めていた言葉を読み上げるように。
「それは出来ません」
そんな言葉に対しても、狩人の口調は、目つきは、態度は変わらない。
「先にも述べましたように、あなたの旦那様は教会の指定した禁域に許可なく侵入した結果、獣に襲われて亡くなりました。教会の定めた規則を意図的に破棄した者に対しては、そういった援助はなされません」
「そんな。では、私たち家族はどうなるのです。育ち盛りの息子もいるんですよ。このまま飢えて死ねと言うのですか」
さっきまで父ちゃんにすがり付いていたのに、今度は狩人の足にすがり付いて泣き始めた。
それを変わらず冷めた風に見下ろす狩人の目が、ふいに俺の方を向いた。
「ならば奥様。あなたの、そちらの息子さんに、我々の協力をしてはいただけないでしょうか」
「は? うちの息子にですか……?」
そう言って、母ちゃんも俺の方を見る。その目には涙など流れてはいなかった。
「我々、医療教会では、獣の病に対抗するべく、様々な試みがなされております。その中に、お宅の息子さんでも出来る、簡単な実験があるのです。それに協力してはいただけないかと」
俺を見る母ちゃんの目つきが変わる。その目は、金を数える時と同じ目をしていた。しかしその先は硬貨ではなく、俺の方を向いている。
「……それには見返り、報酬などはあるのですか」
「もちろん差し上げます。簡単な実験ですが、相応の額を」
「わかりました。うちの馬鹿息子をよろしくお願いします」
そう言って、母ちゃんは狩人に深々と頭を下げた。俺の方など見ていない、気にしていない。俺の意思など、聞く必要もないように。
「ちょっと、ちょっと待って――」
「ほらお行きよ! 狩人様のお手を煩わせるんじゃないよ!」
俺の声に耳を貸さずに、母ちゃんは俺の首根っこを掴んで玄関の外へと引きずり出した。
狩人はその様子に何も言う事はなく、庭に停められていた馬車の御者席に座った。
「痛い。痛いよ、母ちゃん」
「がたがた五月蠅いんだよ。あんたはこれから狩人様のところに行くんだ、粗相するんじゃないよ」
「母ちゃん、待って。俺は――」
必死になってもがく俺は、足で母ちゃんの脛を蹴りつけてしまった。
短く悲鳴を上げたけれど、母ちゃんは首根っこを放す事はなく、どころか一層強く掴み上げる。
「このガキ!」
そう叫んだ母ちゃんは、俺の頬を殴りつけた。
目がちかちかして、身動きが取れなくなる。それなのに母ちゃんは二度、三度と俺を殴り続けた。
「お前が出来る事なんて、この位しかないだろうが!」
「俺……俺は、早く大きくなって父ちゃんの手伝いを……」
「その父ちゃんはもう死んだだろうが!」
その声には怒りだけが含まれていた。
悲しみなんて微塵も感じさせない。ただ苛立ちに任せて怒鳴り散らされる言葉。
「お前がこうなるのも、その下手打った父ちゃんのせいじゃないか!」
俺は、自分の耳を疑った。
今の言葉が聞き間違いじゃないかって、母ちゃんが父ちゃんを責めたように聞こえて。
父ちゃんが殆どしない猟に出かけたのは、俺たちを思っての事だった。
獣の病だかが蔓延してからというもの、森は今まで以上に危険な場所になった。木々が生い茂る森は、獣にとっても身を隠すにはうってつけの場所だった。今となっては、猟銃を持った猟師たちですら踏み込むのを躊躇うようになっている。
そうと知っていても父ちゃんが森に入ったのは、俺が育ち盛りだからで、母ちゃんが肉を食いたいと駄々をこねたからだ。
いつも枯れかけの根っこばかりじゃ腹も膨れないし、美味くもない。
肉。肉が食いたい。あんた、ちょっと狩りに出ておくれよ。
いつもは「無茶言うなよ」と嗜めるだけであったが、今回はしつこく食い下がるものだから、父ちゃんが根気負けして、狩りに出る事になったのだ。
そして死んだ。獣に食われて。
俺たちのせいで猟に出たから、父ちゃんは死んだんだ。
なら、父ちゃんを殺したのは、俺たちのせいでもあるんじゃないか。
それを忘れているような物言いを、俺は信じる事が出来なかった。
愕然とする俺を大人しくなったと思ったのか、母ちゃんは荒く溜め息をひとつ吐いて、
「ったく、この馬鹿息子! ……すみません、狩人様。お見苦しい真似を……これで大人しくなったと思いますので」
「でしたら、早く馬車へと乗せてもらえませんか」
「あぁ、はい。そうですね。すみません」
狩人に促されるまま、俺は母ちゃんによって力任せに馬車の荷台に押し込められた。
御者席からそれを確認した狩人が、鞭を打って馬車を出そうとする。すっかり暗くなった闇の中に、馬の唸り声が消えていく。
「あ、あの。報酬は……」
「後で使いに届けさせます」
その言葉が、俺を送り出した母ちゃんの言葉だった。
これから俺がどうなるのか、実験とは何なのか。そんな事など私が悩むような事ではないと思っている風に。
がたがたと揺れる馬車の荷台、その中で俺は、ただ寝転がってじっとしていた。
その俺も、これからどうなるのかとか、実験とは何なのかとか、そんな事を考えてはいなかった。
急に起きたいろんな事のせいで頭がごちゃ混ぜになって、泣く事すらも出来なかった。
どうして彼だけが。そんな疑問を抱いたので、自分なりの答えとして書いていきます。
取り敢えず完結を目指して。
見切り発車に近いから、随時修正を加えていくかもしれません。