Bloodborne:Memories of blood odor 作:水原 日助
血の通った命によって差し出されるその温もりに、人は誰しもが魅せられる。
だが、その優しさが憎むべき相手によってもたらされたものならば?
ある者は迷うだろう。こいつを憎むべきではないのかもしれないと。
だが、別のある者にとっては違う。
その優しさをどうして、いつも誰にでも向けられないのだと憤る。
憎しみという火に、優しさという新たな薪がくべられる。
火はその色を、よりどす黒く変えていく。
狩人が鹿を引きずりながら帰って来たのは、俺が大方の破片を取り除いた頃だった。
姿を見せるや否や、俺の前へと死骸を投げ寄越し、また座り込んで得物の手入れを始めた。その様子の確認を早々に済ませた後、俺の視線は、当の寄越されたものに釘付けになった。
鹿。獣の病が蔓延してより以来、その数は激減したと聞いていた。森へと逃れた疾患者が襲う事は当然として、食肉として人が欲するのもまた当然。家畜の数も減り、それでも肉を求める者たち。危険を冒してまで狩猟に赴き、無惨な死体となって帰ってくる者も決して少なくなかった。
俺の父ちゃんのように。
そしてきっと、母ちゃんが食べたかったのは、こういう肉だったんだろうと思った。痩せている様子もない。ほっそりとしながらも引き締まった体躯の、立派な鹿だった。
切り傷や銃創は見られない。ただ、首があらぬ方向に折れ曲がっている。つまりは、武器を用いずに首をへし折って仕留めたのだろう。流石は狩人、ただの獣など素手で仕留めてしまうのか。
礼を言うべきか一瞬だけ悩んだが、これはこいつが勝手にやった事だと思ったので、何も言う事なく、まだ温かい死骸に齧り付いた。腹が裂け、血と共に、柔らかな腸が溢れ出す。それを片っ端から口に押し込んで、丹念に咀嚼した。形が崩れてどろどろになった肉を、喉を鳴らして飲み下す。熱として僅かに残った命が、腹の中で自分へと溶けていく感覚があった。生きている事、食べられる事。これこそが喜びなのだと実感する。
それでも、それを与えてくれた狩人に対しては、どうしても感謝する気になれない。
だって、こいつが父ちゃんを見殺しにしたという事実は何も変わらない。それに、俺にこの喜びを与えてくれる筈だったのは、他ならぬその父ちゃんである筈だったのだから。その敵であるこいつに感謝などする筈がない。する訳にはいかない。肉どころか骨ごと噛み砕き、腹へと流し込みながら、同じ内側の、しかし別のところから、ぐつぐつと湧き上がる暗い感情を自覚していた。
左腕に突き刺さっていた槍を半ば力尽くで引き抜いてから暫く、みるみる内に左手は復元され、元通りになった。まだ感覚は鈍いが、力が籠められない訳ではない。地面に手を置き、握り込むように動かすと、大地は抉れ、指先は易々と奥深くへ沈み込んでいった。
その様子をいつからか見ていた狩人が、立ち上がりながら言い放つ。
「思っていた程、時間はかからなかったな」
その両手には、手入れを済ませた、重く、しかし鋭く輝く殺意を込めた凶器が握られている。可変式の鋸槍と、散弾銃。死んだ2人の狩人の得物を流用したりはしないらしい。使い慣れている得物こそ、という事か。
「結局、最後まで礼もなしとは。育ちが知れるぞ?」
「感謝する気はない。お前が勝手にやった事だろう」
俺もゆっくりと立ち上がり相対する位置取りで姿勢を正す。
前傾姿勢。両手を脱力し、前方へ。支えにも攻撃にも用いれるようにする。全身の毛が、皮膚が、筋肉が、再び始まる戦闘に備えてられていく。
「ふん。まぁ、構わんさ。獣に礼を求める方こそおかしな話か」
真正面に立つ狩人の、緩やかな深呼吸の音が聞こえる。俺のように張りつめた空気ではない。穏やかな、周囲の気配に溶け込もうとするように、波風を立てない佇まいだ。
「好き勝手言いやがって……」
俺の苛立ち混じりの言葉にさえ、何の反応も示さない。己の内の何かを整えているのだろう。それが何かは知らないが、邪魔立てする気はこちらにもない。肉をくれたからではない。単純に奇襲が成功すると思えなかったからだ。この男には、およそ隙と思われるものが見当たらない。たとえそれを見つけたとしても、きっと罠だと疑ってしまうだろう。そして今のこの瞬間は、その隙などでは断じてない。揺れぬ水面であるからこそ、投げ込まれた石を凄まじい速度で認識する。俺はそんな石になるつもりはない。
何度目かの呼吸音の後、息を吐き出しきった狩人の顔が、ゆるりと持ち上がる。
鍔がどかされ、露となったその目は、何の比喩表現でもなく、爛々と輝いていた。月明かりの反射もあるのだろうが、それとも別の何かが要因となっているように見える。瞬きする事なく、視線は狩るべき相手である俺の方を向いている。
「じゃあ、始め直そう。噛み締めようじゃないか。二度とはない、この狩りを」
殺し合いではない。殺し、殺されるのではなく、一方的に殺す"狩り"という言葉。それは狩人だから用いたのか。それとも意味を理解した上でそう言ったのか。どちらかなどわからなかったが、俺もその言葉に答えた。
「あぁ、そうだな。そうしよう。今からやるのは狩りだ」
互いに大仰な動きを見せない。しかし極僅かに、重心は前へと傾いていく。相手に気取られないようにと、互いがじっとりと勿体ぶるように、殺傷圏内を前方へと蝕むように広げていく。
狩人の目が笑う。狂ったような熱で眼を輝かせ、相手の血を浴びる事を待ちわびるかのように。
俺は笑わない。楽しくなんてないし、まして面白くもない。痛みと悲しみだけの行為になど、焦がれる筈もない。
けれど。
「私がお前を狩ってやる」
「俺がお前を狩ってやる」
それでも、俺はこの男を殺してやりたいと思った。そして"狩り"という言葉の意味を再認識した時、俺もまた、狩人を狩ってやろうと思い至った。
イカレ野郎。父ちゃんの敵。俺の敵。理由なんて十分だし、きっと後からいくらでも思いつける。だから動機なんて後回しでいい。今はただ、この心に従おう。
殺されずに殺す。
一方的に殺す。
俺は獣じゃない。
獣なのは、お前の方だ。
続けなければ習慣にならない。忙しい時ほど熱が向く。全くもって困り者。