Bloodborne:Memories of blood odor   作:水原 日助

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痛みに慣れる事は出来るか?
答えは当であり、また否でもある。
人は比較する事で物事を判別する。
痛みのない状態を知っているからこそ、痛みを認識出来る。
絶え間なく痛みが続くのならば、やがてその状態を普通と上書きし、痛みと判断しなくなる。
その認識の麻痺を、基準の更新を慣れと言うのならば、確かに当と呼べるのだろう。
だが、その痛みが続かないのならば?
断続的に襲ってくるのならば?
失っても、また元に戻るのならば?
痛みに慣れる事は出来ない。
痛みからは、逃れる事が出来ない。


痛み

微睡みの中で、音が聞こえる。

水滴の落ちる音。柔らかく、静かに、音は続いている。

 

何の音なのだろう?

遥か遠くから聞こえる音の正体を知りたくて、両の目をゆっくりと開けた――

 

 

俺の意識を肉体に呼び戻したのは、隣の部屋から聞こえる、くぐもった悲鳴だった。

 

眼を覚まし、悲鳴に驚いて飛び起きた俺は、そのまま天井の金属板に頭を打ちつける。

頭が揺れる感覚と、鈍く重い痛みが広がり、声も上げれず悶絶する。

 

視界は暗く、檻の中。悲鳴。

そこまで認識して、自身の身に起こった事を思い出す。

狩人に連れられて来た地下室。手術台に縛り付けられて、右手に打たれた針……。

 

だが、肉体には何の変化もない。暗い部屋の中では身体は影としてしか見えないが、どこも欠けていないし、増えてもいない。手足も指も、変わりなく揃っていて、打ち付けた頭は痛みを発している。

 

では、あの感覚は、あの赤黒い液体は何だったのか?

 

 

そこまで考えが及んだところで、悲鳴はぴたりと鳴り止んだ。

代わって微かに声が聞こえてくる。恐らく白服の男たちだろう。

 

「こ――は――だめ――」

「――から――のい――――たがな」

「はいき――これ――――なかなか――に――――な」

 

それと同時に、ずるずると重いものを引きずる音が聞こえて、次第に遠のいていく。

今度は水の打ちつける音。きっと俺が嘔吐した時と同じように、清掃が始まっている。

 

今は夜なのだろうか、それとも朝なのだろうか。

俺が気を失ってから、どれだけの時間が経っているのだろうか。

いずれも確認する手段がない。たとえあの男たちに聞いたところで、素直に教えてくれるとも思えない。

 

「――し、つぎの――――む」

 

水の音も消えた後、また声が聞こえた。

そして足音が近付いてきて、俺の入れられている部屋の扉が開く。

 

「む、目が覚めているな」

「おや、本当だ」

 

そこには、白服の男がひとりと、あの狩人が立っていた。

ふたりは俺の檻の前まで来て屈み、じろじろと覗き込んでくる。

 

「変態の兆候は見られないな」

「まぁ、初回の注入量じゃ、変態する方が稀ですけどね」

 

変態? 注入量? 何の事を言っているのかわからない。

そんな俺を特に気に留める事もなく、立ち上がったふたりは、部屋の奥へと向かって歩いていく。

 

「お、おい……」

「あ、感想は後で聞くから、その時にね」

 

白服の男はそう言っただけで、こちらに視線を移そうともしない。

無視されている。その事に腹が立って、俺の正面の檻にいた獣のように、柵を掴んで激しく揺らし、ふたつの背中に向かって怒鳴った。

 

「おい! 俺に何をした、どうする気だ! ここで何をしているんだ!」

 

大きな音を立てているというのに、奥の二人は一切反応しない。まるで何も聞こえていないかのように。

開錠と檻を開く金属音の後に、ばたばたと何かを叩くような音が聞こえる。

その反応が一層苛立ちを加速させる。柵を全身で揺らし、さっき以上の声量で叫んだ。

 

「おいテメェ! 聞いてんのか! 俺に何を――」

 

部屋の奥から鈍い音がした。

ぐちゃり、という異音が続き、呻き声が上がる。

前に聞いた声、獣の上げた呻き声だった。

何が起きたのかわからず、部屋の奥を見つめる俺のところに、狩人が何かを引きずりながら歩いてくる。

そして、柵越しに、手に持つ何かを俺の顔の前に突きつけた。

 

鼻が潰れ、血を垂れ流す獣の顔があった。

頬までごわついた毛に覆われた、人の面影すら消えようとしている顔。鼻が潰れた事によって、更に人の顔から遠のいている。

 

 

「五月蠅い奴、抵抗する奴はこうなる。お前もこうなりたいか?」

 

狩人は、俺や母ちゃん、父ちゃんの死体を見下ろしていたあの時と同じ目と口調で、静かにそう言った。

俺は声も出せず、首を横に振る事しか出来ない。その反応を見て狩人は、

 

「なら、騒がす、黙って、順番を待て」

 

とだけ言って、隣の部屋へと消えていった。

 

それから少しして、白服の男が奥から戻ってきて、俺の檻の前に立った。

 

「やれやれ。怖いよねぇ、あの人」

 

そう言って、ねぇ? と、同意を求めるように俺を見る。

俺は素直に頷いた。それ見て、うんうん、と頷きながら腕を組んで見せる。

 

「怖い人はねぇ、怒らせちゃ駄目だよ? お利口にしていないと」

 

その言葉の後に、突然、男は俺の檻を蹴りつけた。

何の脈絡もなく、本当にいきなりだったから、呼吸も止まり、悲鳴を上げる事も出来ない。反射的に身体を強張らせる俺の前に、男は中腰になり、こちらに語りかけてくる。先程とは声色を大きく変え、威圧的な口調で。

 

「あの人程じゃないけどさぁ、僕らだって十分怖い人だからね。あまり怒らせないで欲しいな」

 

いいね? と、こちらを指差した。その目は狩人の目と同じように見えたが、しかし僅かに違った。冷たい目ではあったが、瞳には別の何かが宿っている。

この目を見た事がある。少し前、忘れる程昔じゃない記憶の中に、その目は見つかった。

 

俺の頬を何度も殴りつけた時の母ちゃんと同じ目だった。

 

黙りこくる俺を見て、満足げに目を歪ませて、白服の男は去っていく。

残された俺は、茫然と前を見つめていた。

そして、今更になって気付く。

俺の話しかけた、俺が真似をした、前の檻にいた人型の獣。

その姿は、どこにもいなくなっていた。

 

目覚めた時に聞いたくぐもった悲鳴に、真新しい奇声の記憶が重なる。

そして、鼻を潰され、引きずられていった獣。

 

俺は、自分がこれから辿るであろう結末を予感した。

 

獣にされ、手術台に縛り付けられ、実験される。

 

幾つもあった不安の要素がひとつの恐怖の形となって、俺の頭に伸し掛かる。

 

恐怖に震える俺は、縋れるものを求めて、暗い部屋の中を見渡す。

部屋の壁に沿うように置かれたいくつもの檻。その中に、疎らに存在する、蹲る影。

荒い呼吸音、唸り声。

獣の臭い。

ここに人はいない。俺しかいない。

この檻の中にいるものは、全てが獣だった。

同じ境遇に置かれた人間など、ここにはもう残っていなかったのだ。

 

 

小さな檻の中で、膝を抱えて震える。

男たちが隣の部屋に消えてから暫くして、また悲鳴が聞こえ始めた。

獣の悲鳴が耳に入り、頭を揺らし、脳裏に鼻の潰れた毛むくじゃらの顔が浮かぶ。

目をつぶっても、耳を塞いでも、悲鳴は刺さり、顔が覗き込む。

震える事しか出来ない。

 

順番を待て、狩人の言葉を思い出す。

順番が来たら、俺は何をされる。

感想を聞かせて、白服の男の言葉。

その後は何をされる。

まだ痛い事はしない、優しげな声。

じゃあ次からは?

 

悲鳴が止んだ。靴音と引きずる音が近付いて来て、扉の前で止まった。

軋む音と共に淡い光が射し込み、狩人が獣を引きずりながら入って来る。

真新しい包帯が手足に巻かれ、あちこちから血が滲んでいる。

後頭部を狩人に掴まれているというのに、身動ぎひとつしない。糸の切れた操り人形のように、重量に従って手足を、胴ごと垂れ下げている。

部屋の奥に置かれた檻の中にその獣を押し込み、再び俺の檻の前まで来て止まった。

 

「お前の番だ」

 

そう言って、取り出した鍵で錠を開けた。

怯えた顔で見上げる俺に、言葉を続ける。

 

「檻から出ろ。抵抗はするな」

 

言われた通りにする。力の入らない手足で何とか檻から出ると、隣の部屋に行くようにと狩人から指示が出される。

暗闇は取り払われ、光に照らされた色たちが視界を飾っていく。

それでも、待ち受ける状況は、前と何ら変わらない。

手術台、そこから伸びた拘束具。白い服の男たち。

 

「台の上に寝ろ」

 

背後から狩人が言う。その言葉そのものに押されるように、力なく手術台へと向かう。

もたついているのが気に入らないのか、ふたりの男に抱えられるように台の上に乗せられ、拘束具をはめられる。

そしてすぐさま、また右腕に、あの赤黒い液体に繋がった針を刺し込まれる。

力が入らないくせに、痛みにはびくりと反応する。

 

「前の時の感覚、覚えてる?」

 

男のひとりが問いかけてくる。声からして、俺の檻を蹴った奴だ。

 

「覚えている範囲で、表現出来る範囲で教えて」

 

前の時、最初の実験を思い出す。あの不可思議な感覚を、たどたどしくだが男たちに伝えた。認識が溶けて、自分がなくなっていくあの感覚。

 

「怯えているけど、肉体、精神、共に問題なしだね。実験の結果にも、何の特異性も見られない」

「あぁ。これは大外れではないらしい」

「はてさて。どこまでいけるか、どこまで耐えられるか」

「始めよう。いつも通り、段階的に注入量を増やす」

 

その掛け声と共に、また天井から下げられた容器が弄られ、感覚に変化が生じる。

 

だが、前回とは違う。今回は認識が溶ける事なく、身体の内側から、得体の知れない何かが這い出てくるような感覚に見舞われる。

それは不快なようで、じっとしていられなくて、呼吸が不規則に乱れ始める。

その様子を見ていた男のひとりが、俺の目を覗き込む。こちらからは天井から照らされる光によって、人型の影にしか見えない。

 

「第一段階への移行を確認。痛覚チェックを実行」

「了解。左薬指へ行う」

 

その言葉の後、左薬指がチクリと痛んだ。何をされたのかわからなかったが、僅かなであるが痛みは確かにあったので、左手が強張り、無意識に「痛っ」と声が出た。

 

「痛覚と肉体反応を確認。素直だな。協力的な方が実験が捗って助かるよ」

「最初だけですよ。次は再生確認」

「了解。左前腕部へ行う」

 

その時、視界にちらりと光が見えた。天井の光とは違う、一瞬だけの輝きで、それが男の手に持たれた金属製品による反射光だと理解した。

直後、左腕に鋭い痛みが走る。

 

「あぎっ!」

 

何をされたかは、相変わらずわからない。だが、薬指への痛みとは明確に規模が違う。熱を発し、痛みが湧き出し、そこから何かが肌を伝っていく。

 

「観察を開始。血液は観察に邪魔な為、適時拭き取る」

 

痛みの上を、がさついた何かが通過する。そうすると肌を伝っていた何かは引き伸ばされて消えるが、また溢れ出してくる。

それを短時間の内に何度か繰り返すうちに、男が言う。

 

「傷口の再生を確認。止血され、皮膚は正常に結合」

 

痛みは鋭さをなくしたが、それでも消える事なく、奥の方でずきずきと主張している。

その場所を何度もぐいぐいと押したり伸ばされたりされたものだから、思わず頬が引きつった。

 

「ふむ。順調だな。では次の段階へ移行。注入開始」

 

また容器へと手が伸ばされ、奇妙な感覚に襲われる。

 

今度も前回とは違う。不快感が増し、全身の皮膚がざわつき、身体の芯から嫌な熱が込み上げてくる。鼓動を速める心臓が胸を内側から圧迫し、荒い呼吸を繰り返す。

 

また視界に黒い影が入り込む。歪む瞼を指で無理やり開いた後、今度は顎を上から押して口を開かせる。

 

「第二段階、軽度の変態を確認」

「左前腕部を切開、運動器官を観察」

「了解」

「ぅぐ!」

 

左腕に再び痛みと熱が走る。今度はその場所へ冷たい何かが刺し込まれ、腕の皮膚が押し広げられる。痛みによって身体が震える。歯を食いしばって耐えようとするが、意識だけじゃどうする事も出来ない。意識などという表面的なものではなく、もっと奥にあるところから、この震えは発されている。

 

「おや……」

 

男のひとりが興味深そうに声を上げる。恐らく、俺の左腕の近くにいる奴だ。頭も固定されていて、目玉しか動かせないが、顎に手を当ててまじまじと見ている姿が僅かに見えた。

 

「移行段階と変態とに差が生じている」

「良い方に? 悪い方に?」

「良い方に、です。これ程の差は前例がない」

「ふむ……。では、その運動器官を摘出。サンプルNo.137-Aとする」

 

 

その言葉の後には、痛みが待っていた。

震え、叫び、痛み。耐え難い痛み。

何をされたのかは、およそしかわからない。

視界は黒い影が覆い被さり、光を遮る。鼻から伝わる血の臭い。耳には、外と内から、俺自身の悲鳴が殺到する。

喉が枯れ、息も吸えず、声が出ないにも関わらず、開き切った口は塞がらない。

 

 

俺の左腕が、その内側にあるものが、ごっそりと持っていかれた。




やっと実験描写に映れた。少しでも伝わればいいのだが。
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