Bloodborne:Memories of blood odor 作:水原 日助
その輝きに魅せられて、手を伸ばさずにはいられない。
手を伸ばして、掴んだとして、果たしてどうするのか?
抱きしめ、砕き、喰らう。
その輝きを、熱を、我が物とせんが為に。
それ故に人は受け入れる。
己が獣に近付いていく事を。
水の落ちる音がする。
ぴちゃり、ぴちゃり。遠くから、こちらに向かってくる。
這いずるような湿った音。か弱く、静かに、一直線に。
俺の方に向かってくる。
俺は今、どこにいる?
俺は今、どうなっている?
俺は今、生きている?
確かめる術ならば知っている。重い瞼を、自分の意思で押し上げればいい。けれど、それをしたのならば、意識も身体もが、現実へと引き戻される。
そこに何が待っている。
俺に何が待っている。
知らずにはいられない。確かめずにはいられない。
俺が何者であるかを。
俺が、どうなろうとしているのかを。
薄暗い空間に、ふたつの手が見える。
この不格好に細い指には見覚えがある。
俺の指だ、俺の手だ。
その手の片方を支えにして、身体を起こした。
認識が、視界から身体の方へと広がっていき、俺の置かれた状況を映し出す。
檻の中。取り巻く環境は変わらない。
いや、少しだけ明るくなったか?
影にしか見えなかった筈の自分の手を、指を、爪の生え際まで認識出来ている。
しかし、記憶の中と変わりなく、この部屋に光源はない。なのに、暗闇に慣れていた時よりも、明瞭に周囲を見渡せる。
俺の目に何かが起きている。
だが、身に起きた変化は、目だけではなかった。
起き上がる時に使わなかった、もう片方の手。
左手が、やけに軽い。
いや、引きずるには軽いのだが、持ち上げるには重い。そして、不自然に細い。
痛みはない。だが、記憶が痛みを運んできた。
手術台、覗き込む影、遮られる光。
左腕の中身。
身体が記憶に支配され、無意識に強張らせる。だが、その動きに左腕だけが追随しない。まるで切り離されたように、自分の支配下にないように、力なく垂れ下がっている。
右手で掴んで持ち上げて、檻を掴ませようとしたが、力が入らず握れなかった。
俺の左腕は、もう俺の物ではなくなっていた。
扉が開いて、狩人が入ってくる。今までよりも細やかに服の装飾が見て取れる。
その右手に薄っぺらい何かが持たれているのも見えた。そしてそこから漂う、鉄の香り。
「気が付いたか」
俺は変わったというのに、狩人は変わらない。変わらず冷たい声のまま、俺の檻の前に来て、右手の何かを置いた。
皿に乗った肉だった。赤く、黒く、血が滴った状態の。
「食え」
そう言って、狩人は立ち上がり、俺を見下ろす。
何を言っているんだ、この男は?
「食える訳ないだろう、生じゃないか」
俺は言葉で否定する。だが、その食えない生肉から目が離せない。芳しい血の臭いが、鼻孔をくすぐるのが堪らない。自然に溢れ出す唾液と、今更になって自覚する空腹感。だからと言って、肉を生のまま食す事は出来ない。そんな事は、この狩人でなくとも分かっている筈なのだが。
「いや、食えるさ。今のお前ならばな。他の者がそうだったのだ、お前だけが違うという事もあるまい」
他の者。檻の中の獣たち。今の俺ならば、変わった俺ならば食える。
ならば、今の俺は獣だと?
「ふっ……ざけるな!」
一瞬、鼻の潰れた獣の顔が頭をよぎったが、それでも俺は右足で檻を力一杯に蹴りつけた。その前にいた狩人は一切動じなかったが、構う事なく、まくしたてるように怒鳴りつけた。
「俺は獣じゃない! こんな血まみれの、生のままの肉なんて食えるか!」
「食わず嫌いは良くないな。もうそんな歳でもあるまいに」
「そういう問題じゃねぇ!」
「心配するな。今のお前ならば、何の問題もなく食える。むしろ煮るなり焼くなりするよりも、余程美味に感じる筈だ」
目や口調に変化はなく、だからこそ、これが冷やかしや嫌がらせではなく、本気で言っているのだと理解出来た。狩人は言葉を続ける。
「お前はどういう訳だか、段階の移行に比べて肉体の変態に遅れが生じている。目に見えた外見的変化が殆ど見られず、内臓や筋肉といった内側から症状が進行している。他の者とは踏む筈の順序が逆だ」
「だったら……」
「だからこそ、今のお前でも食えるのだ。本来ならば、奴らのように薄汚い毛玉にでもならん限り食えんのだが、内側だけが奴らと同じ状態のお前ならば、噛み切る事も容易いし、消化だって出来る」
内側が奴らと同じ? つまり、内側だけが獣だと? 今の俺が?
そんな事はない。そう否定したいが、どう言えばそう出来るかがわからない。押し黙る俺を無視して、狩人は事実を突き付けてくる。
「以前よりも目が見えるようになっているだろう。暗闇の中でだって、血に浸った生の肉だと見て取れた。歯には気付いたか? 犬歯に触れてみろ。ずっと鋭くなっている筈だ」
その言葉にはっとして、恐る恐る舌を動かし、歯に触れてみる。縁に沿って動かしてみれば、すぐに分かった。前歯を挟むように位置する、両端にある歯が鋭く伸びて突き出ている。右手を突っ込んで前に奥にと押してみるが、びくともしない。
俺の歯はこんな風じゃなかった。記憶との摩擦が息苦しさとなって胸の奥を押し潰さんとする。
「お前の左腕の筋肉は、サンプルとして摘出した。だが、時間が経てば再生する。人間ならばこうはいかないが、獣であるならば別だ。その為にも、お前は肉を食わなければならない。さもないと、治るよりも先に、手足がなくなるぞ」
そう言うと、狩人は扉の向こうへと消えていった。
俺の前には、皿の上に置かれた生肉が残されている。
肉。
母ちゃんが食べたがっていた肉。
育ち盛りの俺が食うべき肉。
父ちゃんが俺に食わせようとしてくれた肉。
だからか?
だからこんなにも美味そうに見えるのか?
その香りに、艶に、魅了されて目が離せないのか?
自分の右手が自然と檻の外に出され、その生肉に手を伸ばしていた事を認識しても、止める事が出来なかった。
止めるのにも力がいるし、腹が減ってはその力も出ない。
だから、今は肉が食いたい。
右手が生肉を掴んだ。
沈み込む指と、そこに絡みつく、血の感触と生温かさ。
掌から染み込んで、腕を伝って、身体全体へと伝達されていく心地良さ。
これを、内側から感じたい。
俺は自分の意思で手を引っ込めて、血の滴る肉に噛みついた。
繊維の噛み切れる感触と、溢れ出す血液。
喉の奥へと殺到するそれを飲み下す時の、舌触りと滑らかさ。含み切れずに口から溢れたものは顎を、喉を伝い、胸まで垂れていく。
食道から胃へ。内側と外側から同時に、じんわりと広がる、血肉の熱。
美味しい。
美味し過ぎる。
さっきまでの抵抗感など忘れて、俺は肉を貪り食った。狩人に言われた事を嘘と思わず、どころか全てが真実だと受け入れる事で、自らの行為への歯止めを捨てた。
頬を伝う温かい液体が血か涙かわからぬまま、掴んでいた右手すら食わん勢いで口へと頬張る。
肉を平らげた後は、皿を檻の中へと引きずり込んだ。その時に縦にした事で、残っていた血が床へと落ちてしまった。
勿体無くて舐め取った。
金属製の檻の床は、血よりもずっと鉄の味がした。もしかしたら、前にここに入っていた獣の血の名残があるのかもしれない。そう思うと、風味を変えてくれる調味料のように思えて、心が躍った。
床を舐めた後は皿を舐め、更にその後には、顎や胸を伝った血を右手で掬い取った。その右手を鼻に押し当てて、深く息を吸った。空気は血の暖かさと匂いを抱えて鼻腔を過ぎ、胸の中の肺へと至る。食道や胃とは同じようで僅かに違う快感が満たす。
これが、肉の美味さか。
成程、これは食わねばならない訳だ。
この味は、体験は、感覚は、今の俺にこそ必要なんだ。
ぴちゃり、ぴちゃり、と音がする。
前よりも近くで聞こえていたのに、肉の全てを貪る事に夢中の俺は、その事に気付かなかった。
お肉が食べたくなりました。読んでくれた方にもそう思ってもらえるような文を書けるようになりたいね……