Bloodborne:Memories of blood odor 作:水原 日助
果たしてそれだけだろうか?
人が失敗を恐れてやまないのは、今までの苦労を、犠牲を、無駄だと思いたくないから。
だから人は成功を求める。
積み上げてきた犠牲の責任を、こちらに求められたくないから。
自分の成してきた事は正しかったのだと証明したいから。
積み上げてきた犠牲を、栄光の光で塗り潰し、なかった事にしてしまいたいから。
「――ゅうりょ――さらに――」
「――しい――――ここから――そ――」
「わか――さ。だから――――だ。――――ばき――な――をみせ――――だ」
手足の指先から腹の中まで、痛みに埋め尽くされている。
至る所から熱が溢れ出し、肉が湧き立ち、感覚が鈍く歪んでいく。
視界に見えるものは、真っ白な光の中を慌ただしく出入りする、輪郭の溶けた影たち。
意識しなければ、何が見えているのかを認識出来なくなりそうだ。
霞んでいく脳内を保とうと、過去の事を思い出そうとする。
痛みに塗れる今に繋がる、しかし今でない出来事について。
あの日、狩人に生肉を寄越されたあの日から、五回以上は実験をされた。
数が曖昧なのは、五回から先を数える事を止めてしまったから。数える事に意味を見出せなくて、ただ差し出される肉を食らっては実験を受ける、その繰り返しだった。
左腕を治す為にも肉を食え、狩人がそう言っていたのを思い出す。
夢中で食ったあの時は、そんな事などすっかり忘れていたが、事実、左腕は元通りに治った。いや、元よりも丈夫に、どころか大きくなった。
左腕がかつてのように動かせるようになったのは、二度の実験を受けた後。その時からか、やけに身体が軋むし、段々と檻が今まで以上に窮屈に感じる事が増えるようになっていた。
自分の身長が伸びている事に気付いたのは、立ち上がった時に見えるものが違って見えたからだ。見上げていた筈の狩人の顔が、みるみる近付いていった時に思い至った。育ち盛りは肉を食えってのは、そういう事なのだと解釈したつもりだったが、男たちが言うには違うらしい。明らかにおかしい、異常だ、特異事例だと、やけに興奮していた。
そして今も尚、その興奮は俺の身体へと向けられている。
皮膚、肉、血管、骨。あらゆる場所の、あらゆるそれらをサンプルとして俺の身体から引き剥がした。そして包帯を巻き、肉を与え、放置する。するとまた元通り、また実験。その一連の流れが繰り返される。
回想が現在に至る頃には、意識は俺の肉体に戻って来ていた。
だが意識が戻るという事は、現実の認識も戻るという事。見聞きするもの、充満する臭い、痛み。全てが俺を埋め尽くす。
「これ程の損傷も治るのか。獣というものはつくづく……」
狩人の声が聞こえる。
後になって気付いたのだが、狩人は実験の時はいつも、部屋の隅に立っていた。右手に大きな鋸を持ったまま。恐らく、獣に変態した奴を殺す、あるいは無力化する為にだろう。
「はい、この程度などたちまち修復してしまいます。見て下さい、ほら」
興奮に鼻息を荒くする白服の男のひとりが、おもむろに両手を俺の上へとかざす。そこには、薄い鋸が渡されていた。それを俺の右腕に押し当てて、命一杯に引く。
肉を噛み切る時のあの感触が、俺の腕の中でした。ぶちぶちと音を立て、同時に血が吹き出し、その男の顔へと飛び散る。
だが、男は顔を逸らす事もせず、俺の血を真正面から受ける。目の輪郭を歪ませ、嬉しそうに言う。
「ほら、ほぉら……もう結合した! あっと言う間でしょう? この再生能力は異常です、前例がありません!」
「だからと言って、これはやり過ぎではないか。一度にこれだけしては、死にかねんだろうに」
「そうです、やり過ぎです。出血性ショックの症状が出ている、再生はしても血液量が足りていません」
「わかっているとも。だからこそ、輸血するんじゃないかね」
変わらず熱に浮かれた口調で続ける男に、別の男は大きな溜め息を吐いた。
「最近はずっとあんな調子です。確かに新たな発見の連続ですが、死ぬか死なないかの綱渡りばかり」
「随分と体躯が変わったな」
「ええ、これも異例です。恐らくは、子供の肉体では満足な内部補強が出来ない為、無理矢理に成長させて、骨肉量を増加させたのではないかと」
「話はいい、早く輸血したまえ。貴重な検体が死んでしまうじゃないか。」
男がそう急かすと、溜め息混じりの返事の後に、天井から下がる容器に手を伸ばした。
直後、視界が揺らぎ、意識が遠のく。深い闇へと引きずり下ろされそうになるのを、必死に耐える。ここに呑まれたら、二度と目覚める事なないように思えて、今まで何度も耐えてきた。
「――――く――れ――」
「あぁ、しっけ――――たい――――うちゅうに――――でま――いな――――いす――は――――」
男たちの声も、くぐもった水音に思えて聞き取れない。歯を食いしばり、拳を握りしめて、身体の実感を確かめようとする。
だが、血を失ったからか、力が入らず、身体の震えが止まらない。肉体の実感は霧散し、粉々になって消えていく。寒い。肉体が砕け散り、取り残された意識が下へと溶け落ちていく。
耐えられない、そう直感した。
その直感を否定出来なくて、抗えなくて、呻く。だが、枯れ切った喉では、脱力し切った身体では声など出せず、ただ震えている事しか出来ない。
ぴちょん。
ぴちょん。
水の滴る音がした。
粘り気のある液体が、柔らかな音を立てて広がる音。
無音になりかけていた俺の世界を揺らして、その音は近付いてくる。
事ある毎に聞いていた、この水の音。
闇の中で消えず、溶けず、いつも俺の耳に響いていた。
何か……誰か、そこにいるのか?
音のする方へ問いかける。だが、声も出ず、頭も動かせない俺は、その音の発生源が何かがわからない。それでも、溶けていく事に耐えられなくて、恐ろしくて、声も出せずに語りかけ続ける。
助けてくれ……寒いんだ。凍えそうなんだ。死んでしまいそうなんだ。
一定の間を開けて、水音は聞こえ続ける。その音が応答しているようには思えなかったけど、その音だけが今、俺の世界を満たす全てだった。だから縋った。縋るしかなかった。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまうような気がしたから。
水音はやがて俺の隣にやって来た。
今となっては、その音と、俺という認識だけしかないから、音源が何であるかはわからない。
音は、音源は、俺の上へと覆いかぶさった。
寒い、そう訴えた事を理解してくれていたのだろうか。音源に触れた胸と腹から熱が伝わり、そこから肉体の認識を取り戻していく。
この染み込むような感覚には覚えがある。血を飲み、肉を貪るあの時と同じ感覚だ。音源から与えられた熱が血となり、肉となり、俺の身体を闇の底より引き上げて、再び形作ってくれる。
手の感覚が指先まで戻る。身体の震えは収まり、代わりに熱が全身を駆け巡る。
温かい。
俺は無意識に、音源へと両手を回し、抱きしめていた。
がっしりと動かない音源も、それに倣うように、背中に手を回してくれた。
まるでふたつが溶け合うように、ひとつになっていくように、熱は伝達されていく。
温もりに浸っていた俺は、ふと、身体に触れる音源の感触に気が付いた。やっとそこまで感覚が戻ってきたのだが、だからこそ真っ先に、その硬く、肌へと押し付けられる無数の束に注意がいったのだ。
頭部の感覚も完全に戻って来た。脳だけが最後に残されたあの時とは逆。
俺はやっと目を開いて、目の前の音源を見た。凍える俺を優しく温め、抱きしめてくれた存在、その正体を知る。
全身が血に染まった、強靭な四肢を持つ、狼のような獣だった。
身体を包む温もりは、聞こえ続けた水音は、この獣の身体から絶えず滴り続ける血によるものだった。
だが、事実を知った俺は、変わらず穏やかなままだった。
相手が何であれ、こうして俺を癒してくれた。その事実は揺るがない。目を閉じて、一層強く獣を抱きしめた。獣は何も言わなかったが、しかし身動ぎする事もなく、俺を抱きしめ続けてくれた。
「――い――――しき――――か」
「――――から――――です――くを――――」
音がする。いや声か。
あの音とは違う、安らぎもない、騒々しい雑音たち。
薄く濁った光を認識した事で、現状を理解し、瞼を開いた。
虚脱感。いや、その裏には安心感があった。気を許しているからこその脱力。肉体の全てがその状態に陥っていて、身体を動かそうという気にすらもなれない。
「意識回復! 信じられない……」
「あぁ、全く脅威的だ! ここまで規格外の反応を見せてくれるとは」
「変態なし。これならあるいは……」
「君、何を見た?」
その言葉が俺に向けられているのだと気付くまでに、三度も頬を叩かれた。僅かな痛みと共に衝撃が伝わった事で、脱力感が取り払われていく。
見える景色は変わらない。白い光、覗き込む影。だが、その影たちの目は、俺を見る目は明らかに変わっていた。
「見ただろう、獣を!」
「君は獣をどうした? どうされた?」
「答えろ、覚えているだろう!」
今度は逆の頬を一度叩かれた。そこでようやく顔面の筋肉に力が入り、また、男たちが口五月蠅く何について尋ねているのかを理解出来た。また叩かれるのが嫌だから、口を賢明に動かして、問いに答える。
「獣を……見た……」
「獣を見たんだな! 次は!」
「獣が何をしたんだ?」
影たちは身を乗り出して、顔を近付けて問い詰めてくる。その興奮っぷりは実に気持ち悪かったが、顔を背けられるほどの力はまだ出せないから、不快そうな表情をする事しか出来ない。とは言え、今の状態でそれを出来ているかどうかは疑問なところだが。
「獣は、俺を……抱きしめてくれた。温めてくれた……」
男たちに聞かれた事を、素直に答えた。あの闇の中で起きた事を、嘘偽りなく。
その瞬間、部屋を取り巻く空気が明らかに変わった。狂ったような熱は冷めたが、しかし底から湧き立つような、煮え滾るような震えが押し寄せてくる。それを発しているのは男たちだ。俺の返答を聞くと、その場に立ちすくみ、顔を見合わせるばかり。
「……やった」
男のひとりが言った。震えにを上擦った口調を隠そうともしない声で、叫んだ。
「やった、我々はやったんだ!」
男の言葉を皮切りに、部屋は歓喜の叫びに包まれた。
「ついに至ったぞ! 我々は!」
「あぁ、やった! やったんだ!」
「禁忌に辿り着いたんだ!」
俺はそれを手術台の上で聞いていた。と言っても、拘束されているから逃げ出しようがなかったからなのだが。男たちは手を取り合い、涙ぐむような仕草さえして、各々が歓喜に浸っている。
その輪の中心にいた男が、こう叫んだ。誰よりも興奮に満ちた声で、俺の腕を鋸で裂く時よりも高らかに。
「医療教会の禁忌……『獣の抱擁』!」
これで実験パートは終了します。次は苦悩と決断の話。