Bloodborne:Memories of blood odor 作:水原 日助
こちらが逃げても追いかけてくる。
振り返って相対して初めて、過去は別にあるのではなく、自分から伸びた影なのだと理解する。
振りきれない。逃げ切れない。
ならば、どうすればいい?
答えなど、わざわざ言われるまでもなく、わかっているだろう?
邪魔な奴は、消してしまえばいい。
「はっ、はっ。はぁっ……」
あの地下室から逃げ出して、ずっと走り続けていた。
初めから追手の声も、足音も聞こえていなかったが、それでも走り続けた。
臭い。
泥の臭い。
木々の臭い。
水の臭い。
血の臭い。
俺を覆う周囲の臭いたちとは違う、何よりも強く発されるこの臭い。
俺の手足、どころか全身から発し続ける、むせ返る程に甘く、暗い。
それを振り切るように走る。自分自身から発しているのだから、振り切れる筈もないのに。
闇の中を走る。ここが何処かもわからぬまま、どこへ辿り着くとも知れぬまま。
息が上がるが、地べたを蹴る足が痛いが、止まる事なく、走り続けた。
辺りは未だに暗い森のまま。相当な距離を走り続けてもなお、その闇を抱えた胎から抜け出せないでいる。
流石にそろそろ限界を感じて、立ち止まって呼吸を整えようとした。吸う度に血が巡り、痛みを運び、吐く度に身体が冷え、痛みが抜けていく。何度も何度も繰り返すと、ようやく鼓動も収まりを見せ始めた。
落ち着きを取り戻したところで、改めて周囲を見回してみる。
森の中。暗い闇。青黒い空。浮かぶ月。地下室から飛び出してから、どころか、連れてこられたあの時とまるで変わっていない。
どれだけ広いんだ、この森は。いや、それとも、ぐるぐると回っているだけなのか? どちらへ行くとも考えず、ただひたすらに真っ直ぐ走り続けていたつもりだったが、実は無意識に曲がっていたのかもしれない。もしそうだとしたら、折角逃げ出したあそこに逆戻り、なんて事にもなりかねない。
そんな悪い冗談に笑えるくらいには余裕が出てきたところで、背後から何かが突き刺さった。
冷たく鋭いそれは、容易く胸を突き破り、収まりかけていた鼓動を再び強く跳ねさせる。痛みはない。これは物理的なものではない。しかし余りにも明確で、無視などとても出来ない程に荒々しい。
これは、敵意、あるいは殺意だ。
「おや、すっかり見慣れた背中じゃないか」
背後からした声には聞き覚えがあった。だが、少し違う。あの冷たさはなく、俺を囲んで歓喜したあの男たちのような熱が内側に宿っている。
「探したよ。思っていたよりもずっと速かったから、追跡に随分と手間をかけてしまった」
俺は肩越しにその姿を捉える。闇から滲み出た人影の目は、僅かに妖しく光っている。
「だがまぁ、獣より利口ではないらしい。痕跡を残し過ぎている。そんなに、そんなにお前は――」
人影が月下へと踏み出る。もう幾度となくその姿を見てきた。そして今も、変わらぬ装いで、しかし確かな熱を含ませて、俺の前に立つ。
「私に、狩られたいのか」
「狩人……!」
俺は姿勢を低く構え、狩人へと向き直る。しかしその態度を何ら気にする素振りも見せず、狩人は言葉を続ける。
「呼ばれて来てみれば、実験場は滅茶苦茶。どいつもこいつも挽肉にされて、床どころか天井にまで飛び散っているじゃないか。けれどお前は、ひとりだけ生かしておいたようだね? とは言え、足を潰されてしまっては、追いかけるどころか、もう二度と自分の足で立てないだろうな。酷い事をする。彼らはお前のような再生能力を持ち合わせてはいないんだぞ?」
「お前――」
まくし立てるように喋り続ける狩人を前にして、俺は我慢出来ずに割り込んだ。その反応を面白がるように目をにやつかせ、手をかざす事で俺に発言を促した。
「そんなに、お喋りだったか?」
「…………ふっ、はっはっはっはっはっ」
暫しの間、狩人は軽やかに笑った。俺の父ちゃんを運んできた時とは違う、実験を眺めていた時とも違う。楽しそうに、笑う。
「お前だって、楽しい事や好きな事を前にすれば、饒舌にもなるだろう? それを内に留める奴もいるらしいが、私は外に出す。いや、溢れてしまう。とても我慢出来なくてね、口に出さずにはいられない」
「それが……お前の、本性って訳だな」
俺の警戒すらも面白いのか、含み笑いの後に肯定する。さも愉快そうに、待ち切れなさそうに、意気揚々と、跳ねるように。
「私は狩人だ。獣を狩る事こそが使命であり、本能なのだからな」
だから、勝手に死んだ男の遺族に謝る事も、実験動物の悲鳴を聞く事も、何ら楽しい事じゃない。やりたくない事が楽しい筈もないだろう? そう無言で同意を求めてくるような目つきで、俺を見る。
「誰が……俺が、獣だと?」
「そうなのだろう?」
「俺は獣じゃねぇ!」
自分の発した怒号の声量と声色に自分自身が驚きながらも、俺は狩人を睨みつける。だが、狩人は変わらずにやついた目で俺を見ている。
「嘘を言うなよ。生き残りから話は聞いている。お前、獣化したんだろう?」
その言葉に、俺の呼吸は止まった。血塗れの手が、感触の名残が、脳裏にこびり付く情景が、その問いを肯定する。だが、認めたくない。俺は獣じゃない。俺はただ――
「殺されそうになったから、殺して逃げただけ。そう言うのだろう?」
全く同じ言葉を吐き出そうとしていた喉が止まる。その反応を見て、狩人は笑う。
「そうじゃない、そうじゃないだろう。重要なのはそこじゃあない。お前は獣なのだ。今は人の形をしていようが、状況に応じてその形さえ捨てる事が出来る。素晴らしい狡猾さじゃないか。人に化ける獣など、童話の中にしかおるまいに。だから……だからこそ」
男は右手の鋸を振り下ろす。しかし振り終わる頃には形状は変化していた。分厚く、しかし鋭い先端を有するそれは、まるで歪な槍のよう。伸びきった矛先が地面を抉り、土を辺りに撒き散らす。
「お前は死ななければならない。お前は、私に、狩られなければならないんだよ」
その言葉に、俺は湧き起こる感情のままに、激昂した。
「こんな身体にしたのはッ……お前らだろうがぁ!」
その叫びを皮切りに、感情は身体の芯からぼこぼこと泡立ち、肉体すらも膨れ上がらせる。骨が伸び、膨張し、堅牢な骨格を形成する。湧き立つ肉は骨を伝い、しなやかで強靭な筋肉を成していく。引き伸ばされる皮膚からは鑢のように荒々しい体毛が生えそろい、全身をくまなく包む。肉に埋もれた爪と歯は、再び露になる頃には、研ぎ澄まされた刃物よりも鋭利になっていた。
俺が変態していく様子を、狩人は恍惚と眺めていた。この男は、待っているのだ。俺が変わり果てるのを。そして変わり果てた俺を狩る自らの姿を妄想し、悦楽に浸っているのだ。
冗談じゃない。殺されてたまるか。これ以上、こいつらの勝手にされて堪るものか。俺が望んだ訳じゃあないが、この際だから容赦などしない。俺はこいつを殺してでも……いや、殺してやる。父ちゃんを見殺しにしたこいつを殺して、俺は自分の家に帰るんだ。
「あぁ、あああぁ…………」
喜びに歪んだ目が俺を見る。その目に映った自分の姿は、よく見えなかったが、およそ人の形とはかけ離れているのだけはわかった。
「なんと、なんと……恐ろしい獣か…………」
だが、俺は獣じゃない。誰が何と言おうとも、俺は獣なんかじゃない。
あいつらの言う成功例だ。人のまま獣の強靭さを兼ね備えた存在だ。俺は獣じゃない。
俺は、人間だ。
「じゃあ、行こうか、お前たち」
その言葉の意味が分からず、誰に言っているのか問おうかとも思ったが、しかしその必要はなかった。
狩人の背後から、ふたつの人影が現れた。どちらも同じように、帽子と覆面で顔を隠している。頑丈そうな革製のコートをたなびかせ、狩人の左右に並び立つ。そして全員が、身の毛もよだつ、恐ろしい凶器を持っていた。
中央の狩人は、右手に鋸槍、左手にストック付きの大口径銃。右の狩人は、細長い棒の先に短剣を取り付けたようなものを両手で保持している。左の狩人は、右手にも左手にも、腕に沿うように固定された、見るからに仰々しくて物騒な鉄の塊を持っていた。
その全員から漂う臭い。血と、火薬と、それより強い、殺意の臭い。
「相手は未だ見た事のない種類の獣だ。それも、実験によって生み出された。数ではこちらが有利だが、獣が相手では数などまず当てにはならん。油断するな、確実に殺す」
狩人が興奮を抑えられない口調で言う。左右はいずれも言葉で発さなかったが、変わりに各々の凶器を振り、空を切る事で答えとした。
三対一。相手は全員、狩人。
帽子と覆面の間から覗く六つの瞳が、俺の全身をくまなく突き刺す。
それでも俺は、行かなくちゃならない。
父ちゃんはもういなくても、まだ母ちゃんがいる。きっと俺を待ってくれている。身体だって大きくなった。これなら父ちゃんの代わりだって出来る筈だ。こんな奴らの実験に協力しなくたって、自分で稼ぐ事だって。
その為にも、俺は、邪魔するこいつらを――
「……殺す」
「さぁ、狩りの始まりだ」
俺の声は闇の中にすぐに消えたが、狩人の声は、消える事なく森の中に響き渡った。
本当は脱出シーンを書こうと思ったけど、何か間抜けな感じになりそうだから止めました。
とりあえず書いた。完結まで、続けなくては。