「だぁぁぁあああッ! 糞! なんだこの如月何某とかいう女性(ひと)は! 一体何がそんなに気に入らないというんだ!」
朝食が終わって暫く後、薫の部屋のリビング。
エシュロスは苛立ちのあまり手に持ったゲームのコントローラーを床に投げ付け、髪を滅茶苦茶に振り乱して絶叫した。
原因は手持ち無沙汰のあまりに始めた薫のゲームにある。簡単に言ってしまえば人間界に降りたって日が浅く、ゲームのゲの字も分からない常態には非常に度し難い難易度に知らず知らずのうちにチャレンジしていたのだ。
奮闘すること約三時間。
エシュロスの目に映るゲーム画面は全く好転する気配を見せない為に、文字通り、彼は投げ出したのだ。
無力。あまりにも遠く遠く及ばずの到達点。
薫に対し、容易く片付けてみせると啖呵を切ったことすら最早遠い過去にすら感じられ、遂にエシュロスは床に倒れ、天井を仰ぎ見る。
あまり遠くない筈の天井さえも今のエシュロスには遥か彼方にあるかのように見えた。
今、昼食の買い出しに行った薫が帰ってきたらどんな風に詰られるのだろうか。ゲームの状況が好転しない中出て行ったから、屹度、そこから一歩たりとも進んでいないことを嗤われるのだろう。
と、エシュロスの中で負の方向性へ思考が連鎖していた時――。
「ただいま」
部屋の主の帰りを告げる声が届いた。
だが、併し、エシュロスはそれにも、近づいてくる足音にもまるで反応を示さなかった。
「如何したのエシュロス?」
リビングに着くなり、薫の目に留まるのは当然、敗北に打ちひしがれるエシュロスである。
「嗚呼、カオルか……。私は駄目だ。女性一人、如何としてやることも出来ない……駄目な男なんだ……」
薫が見てきた中で、エシュロスが最も弱った瞬間であった。
一体何事だろうと思っていると、ふとゲーム画面が目に映った。
「ああ、そうか。千早スパイラル抜けなかったか」
薫は総てを察し、エシュロスの前にしゃがむ。
「エシュロス、顔を上げて。落ち込まないで」
「カオル……」
体を持ち上げ、薫を見つめるエシュロスの瞳は心做しか潤んでいる。
「む?」
薫は違和感を覚える。
エシュロスではなく、自分の内側に。それに敢えて名前を付けるならば“時化”であろうか。そぞろに波打って、一向に止む気配はない。
それを起こしているものの正体は、薫には分からず、
「……えっと、ね。エシュロスに起こったことはこのゲームを初めてやる人にはありがちなことだから。特段、エシュロスが下手くそってわけじゃないんだ」
誤魔化すかのように、慰めの言葉を継いだ。
「本当なのか?」
「こんなことで嘘言わないって」
薫は苦笑しつつ、エシュロスの頭を撫でた。
「……頭を撫でるな」
エシュロスは頬を膨れさせる。
子ども扱いされることに対する、ほんの小さな不満を発露させ。
「慰めのつもりなんだけどね」
そういう所が子どもなのだということを屹度、エシュロスはまだ気が付かないだろうと薫は顔を綻ばせる。
「うん、そうだね。これが気に入らないなら別な物を今から用意するよ。と、言ってもこれも立派な代物ではないのだけれど」
そう言って、彼女が見せつけた物は、幾らか丸みを帯びたビニルの袋であった。
†
「ほふぅ……」
エシュロスはテーブルに座ると薫が作った珈琲に舌鼓を打ち、脱力しきった声を上げた。
そして、見つめる先はキッチン。
リズミカルに包丁を鳴らす、薫の後ろ姿。
――矢張り、この姿は慣れない。
焦げ茶色の目立たないデザインのジャージ。地味で垢抜けないその恰好は薫には似つかわしくないように、エシュロスには感じられた。
「如何したの、エシュロス?」
視線に気が付いて振り向く薫を見ても、その感想を変えることは無かった。
作り物めいた美貌の中に、顔の三分の一は覆い尽くす大きさの黒縁眼鏡が妙に浮いていて――着ている赤と黄色のボーダー柄のエプロンがまるで似合わない。
「なんでもない、続けてくれ」
そう言ってエシュロスは、言葉として出かかっていた感想を珈琲と一緒に喉の奥へと流し込む。
「そっか」
エシュロスの言葉に納得し、薫はまた調理へと戻った。
薫の手つきを見ながら、エシュロスは魔界時代に思いを馳せる。
彼が暮らしていた家には大きな厨房があり、何人かの料理人もいた。エシュロスにはそんな料理人たちと比べても、薫の腕前にはなんら遜色はないように見えた。
――それなのに、“料理が楽しくない”か……。
何かで高い力を持つのならば、自然とそちらに興味が向く。興味が少しでも向けばいつの間にか楽しくなっているものだ――というのがエシュロスの持論だ。
故に薫が料理をすることを楽しめないという事実に、今一共感が出来ない。
――カオルは、如何して料理を好きになれないのだろう?
そんなことをぼんやりと考え乍ら、知らず知らずのうちに、エシュロスはぼんやりと転寝をしていた。
「エシュロス、出来たよ」
掛けられた声にびくりと身を震わせ、エシュロスは目を覚まし、そこで自分が寝ていたことに気が付く。
「ああ、もう出来たのか……お疲れ、カオル」
目を擦り、欠伸をしながら、エシュロスは薫にねぎらいの言葉を掛ける。
その時、半睡の意識の中に、チーズと黒胡椒の香りが割り込んだ。はっきりと目を開けると、それはどうやら“麺類”のようであった。
クリームソースと粉チーズがかかっており、中央にポーチドエッグが乗っている。
立ち上る湯気が、エシュロスの頬を舐める。
「どういたしまして」
そう礼を言いながら、薫はエシュロスの前に皿を置く。
「カオル、この料理はなんというんだ?」
エシュロスが知る限り、魔界には目の前にあるものと似た料理は無かった。
「“カルボナーラ”。私のなかでこれが一番綺麗に出来る料理だからこれにしたのだけれど……最初に好みを聞いておくべきだったね。チーズとか苦手じゃない?」
「いや、問題ない。とても美味そうだ」
弾む声色で答えるエシュロスに、薫は嬉し気な、柔らかい笑みを浮かべる。
そして、自分の分のカルボナーラと、珈琲、そして二人分の食器(カトラリー)を並べると、
「さ、食べようか」
とエシュロスに食べるように促して、手を合わせた。
エシュロスもそれに続ける。
「いただきます」
エシュロスは覚えた“日本の食事前の不文律”を終えると、パスタをフォークで巻き上げまず一口。
併し――
「あ……れ……?」
エシュロスははたと手を止めた。
妙な違和感に襲われる。不味いわけではない。口に合わないというのとも違う。寧ろ、味に関しては言うことはない。
ただ、“冷たい”のだ。無論、湯気が上がるような料理が温度的な意味合いで冷たい筈もない。けれど、エシュロスには“冷たい”ように感じられた。
まるで、食べること以外の何かに腐心しているかのような不自然さを感じるのだ。
薄気味が悪い。心の底から空しさが押し寄せてくる。
徐々に、徐々に、エシュロスの顔は蒼白になっていく。
カルボナーラにこれでもかというほどタバスコをぶちまける薫の姿だけが異様に、スローモーションに瞳に映る。
「どうしたの? 髪でも入ってた?」
あからさまに気分を悪くしているエシュロスに薫はそう訊ねた。
「い、いや……」
「言っとくけど、髪が入ってたとしてもワザとじゃないから。実際、そういうことをやる人がいるっていうのは事実だけど、私はそうじゃないし、私にとってエシュロスはそうじゃないから」
一切の無表情でそう語る薫の言葉はエシュロスの耳には届かず、また届いたとしてもその意味の半分も理解出来なかっただろう。
「エシュロス?」
「い、いや。ああ、そうだな。うん、そうだ」
「あからさまに怯えているね……若しかして、本気で私がそういう人だって思ってる?」
無論、“そういう人”というのがエシュロスには分からなかったので、
「そういう人というのは?」
と素直に訊ねる。
すると、
「恍けるな。下手か、君は」
と薫に切り捨てられる。
エシュロスからすれば理不尽極まりない。
「だから、つまり。私が料理に髪だの血だの入れるようなメンヘラだと思っているのかなと。そういうことを言いたい」
「メンヘラとはなんだ?」
「俗に精神疾患及び精神障害を患っていること。またそれを患っている人のこと。以上、『三省堂スーパー大辞林3.0』より」
日本語とは面容なり。
エシュロスはそう感心しながらも疑問を呈する。
「だが、自分の体の一部を料理に入れることに何の意味があるんだ?」
薫は珈琲を一口啜ると、
「一体化、とか?」
と答える。
「一体化?」
「人間の体は当然、食べ物で出来ているでしょ? 当然体を形作るのは食べ物なわけだ」
「詰まり、相手の体の一部を食べるとは、そのまま自分の体の一部になるということ?」
薫がコクリと頷いたのを受けて、エシュロスは吐き気を催し、口を押さえる。
「人間の体は一年もあれば大体総てが入れ替わるようになるらしいから。一年も同棲して、相手の口に入るもの全てに自分の血でも入れとけば、それは最早“一緒”になったと同じことだってわけだね」
「だ、だからってそんなこと実行する輩がいるのか?」
涼しい顔で言ってのける薫に対し、エシュロスは最早吐瀉寸前であった。
だが、無情。薫は、そんなエシュロスに止めを刺す。
「いる」
たった一言で。
「私の同僚の、『エリー』って娘(こ)なんだけどね。彼氏が出来るたんびそんなことばっかやる子で」
「し、しかも知り合い……」
「なりたくってなったんじゃないよ。正直、ああいうアウトローとは関わりあいたくないんだけどね。理解は出来るけど、共感は出来ないし」
食事中にも関わらず、薫は煙草に火を点け、吸い始める。
煙草の味と料理の味が混ざり合い、舌の中が不味くならないかと心配するエシュロスをよそに、
「一つになりたかったらセックスっていう方法がある――とも思うしね」
薫が途轍もない爆弾を投げつけた。
「な……な、な、な何を言っているんだ貴女は⁉」
「顔、赤いけどどうしたの?」
「なんでもない!」
そういって、飲みかけの珈琲を一気に飲み干すエシュロスを尻目に薫は口元から煙を吐きながらにやつく。
無論、エシュロスの動揺の理由など承知の上だ。
もしエシュロスの年齢が見た目通りならば人間の子であれば思春期である。その時分の子供である。そういったことに興味があるのは人も魔物も変わらないのではないのだろうか。
薫のそんな考えは結果正しかったのである。
事実、エシュロスは耳まで真っ赤にして薫と顔を会せようとしない。
――楽しくなってきたな。
薫は自分がどんな表情をしているのか、心配になった。心象がしっかり現れているのならば、屹度酷く見っとも無い笑みを浮かべているのだろうから。
その心の儘に、
「興味あるの?」
薫はエシュロスを揶揄い続ける。
「そ、それは……」
あからさまに顔を下に向け、ズボンの裾を強く握る姿は羞恥に震えている様に見えた。
薫は身を乗り出し、エシュロスの顎に手を当てて、顔を持ち上げる。
目の端に僅かに雫が溜まっていた。
悪い熱に浮されているかのように、顔は真っ赤であった。
――嗚呼、嗚呼、嗚呼……。
――堪らない、堪らない、堪らない、堪らない。
――心臓が熱く、千切れるように切なく、壊れる程に甘く。
キィィイイイン――……。
何処からか金属音のような奇々怪々な高音が遣って来る。
ぐるり、ぐるり、ぐるりと景色が歪む。
――あれ、“甘い”?
――なんだ、それは?
そう思った瞬間、薫の目に映る世界の歪みは元に戻り、目の前にはエシュロスの顔があった。
ニタリと薫は唇を吊り上げた。
どく、どく、どく、どく。
途方もなく、気道が詰まるくらい、心臓が高鳴って、競り上がって。
「私とする?」
気が付けば、薫はそんなことを口にしていた。
瞳には、不安気で、今にも壊れそうなエシュロスの面様がある。
暫しの沈黙が流れる。
何かを言おうとするも、エシュロスの口からは音が生じない。薫も薫で頭の中が白濁し、ただ呆けるだけである。
「カオル!」
「冗談だよ」
漸くエシュロスが声を絞り出した時、薫はおどけたような口調でそう言って席に戻る。
「……へ?」
エシュロスから出てきた声は驚く程に間抜けであった。
薫はそれを見てせせら笑いながら、煙草を吹かす。
「君の反応が面白いからね。つい揶揄ってしまいたくなった」
「なんだそれは!」
文字通り怒髪天を衝くといった勢いで、エシュロスはが鳴る。
「うん、思ったんだけど君は少し“うろたえない”とか“余裕を持つ”だとかいうことを覚えた方が良いと思うんだ」
紫煙交じりの嘆息と共に薫はカルボナーラにフォークを突き立て巻いていく。
「何故私が悪いという体になっている!? どう考えても貴女が十割悪いだろう! というかまず謝ってくれ! 本気だと思ったじゃないか! 一寸怖かったぞ!」
あははと乾いた笑みを立てると、薫は一口カルボナーラをつまむ。
「それは悪かったね。ごめんなさい。でも、私にはショタコンなんて趣味はないから。全く以て本気ではないのでこれは安心して」
片手に持った煙草の吸殻を灰皿に置きながら薫はそう語った。
「ショタコン? なんだそれは?」
「性愛の対象を少年に求める心理に名付けられる俗称。または、性愛の対象として少年を取り扱う作品や、その心理を抱く人のことを指す。横山光輝作の漫画“鉄人28号”に登場する少年『金田正太郎』が由来とされ、正しくは正太郎コンプレックスという。以上、『三省堂スーパー大辞林3.0』より」
「……要は児童性愛のことか」
「うん。だからまぁ、これから誘われることがあったとしてもその場合は冗談なので落ち着いて、堂々と、鼻で笑うくらいの強さを持つべきだね」
「その前に“揶揄わないこと”を心掛けたらどうなんだ?」
フフフと薫は笑い、エシュロスの言葉を無視してパスタに集中し始めた。
「この畜生……」
エシュロスは額に青筋を立てる。
が、どうあっても口では勝負にならないのが目に見えている為、その怒りは目の前の麺にぶつけることにした。
畢竟、やけ食いに近い。
小さな苛立ちに囚われて、当初感じていた違和感はすっかり忘れ去られてしまっていた。
†
昼を食べ終わると、薫は赤いカクテルドレスと薄い化粧、幾つかのアクセサリーを纏い仕事へと赴く準備をすると、
「行ってくるね、エシュロス」
と皿洗いをしていたエシュロスに声をかけた。
「ああ、仕事、頑張ってきてくれ」
なんの飾り気もなく、エシュロスはエールの言葉を送る。
そこを微笑ましく思いながら、薫はお気に入りの赤いハイヒールに足を通そうとした。
すると、
「そうだ、カオル」
と呼び止められる。
「何? エシュロス」
薫は靴ベラを使いながらハイヒールに足を入れながら聞き返す。
「夕食はどうすれば良い?」
その問いに、ああと気が在るのだか、無いのだか曖昧模糊な相槌を薫は打った。
彼女の勤務時間は昼の一時から夜の九時である。
だが、九時に上がったとしても家に着いてから調理を始めると実際食べ始めるのは恐らく十時。
まだ子供であるエシュロスにとってはあまりにも遅い夕食になってしまう。
「悪いけど、夜だけはコンビニで買うか、どっか食べに行くかしてくれないかな?」
「了解した」
「ありがとう。お金は靴箱のとこに置いていくから」
薫は財布から福沢諭吉を召喚し、靴箱の上に置く。そして、そこに置かれた鍵を持って駐車場へと急ぐ。
極めて余談であるが、彼女はバイク通勤である。
「行ってきます」
そうエシュロスに改めて挨拶を残し、薫は帰国後初めての仕事へと急いだ。
薫がいなくなり静まり返った部屋の中。皿洗いを終えたエシュロスは、家中の灰皿の中身を片付け始める。
いついかなる時も煙草を吸う為か、薫の住まいは各部屋に灰皿が置いてある。玄関やトイレにもである。
また、その殆どがほぼ山盛りになっている状態であった為、エシュロスは見かねて掃除を始めたというわけだ。
そして、そこから魔界に居た頃習慣となっていた筋力トレーニングをこなしそれすら終えて一時間が経過した頃――
「まずい、暇だ」
エシュロスは手持ち無沙汰に見舞われた。
魔界に居た頃はチェスを趣味にしていたものだが、当然相手がいないとやれない上、魔界と人間界では駒の名称や動き方に差異がある可能性もあり手軽に出来るものでもない。脳内詰めチェス(プロブレム)という彼にとって常套の時間つぶしがあるが、途轍もなく退屈なのでその考えは打ち消す。
ゲームをやろうにも、件のゲームは暫くやる気にはなれない。今なら如月何某の顔を見ただけでもコントローラーを投げつける可能性すらある。
ならば、薫に勧められたアニメか映画のDVDでも見ようかと思ったところで。
「そうだ」
妙案が浮かび、エシュロスは玄関へと向かう。
そして、薫が置いていった一万円札を手に取ると、
「もう一度料理をしよう!」
と高らかに宣言した。
――斯くて叛逆の狼煙は上げられる。