JR鬼松駅。
鬼松市の市民が何処かに遊びに出掛けるとなると、この駅前が主になる。百貨店、デパート、大手家電量販店、飲食店などが多く集まっているからだ。
その為、バスターミナルでもある駅前は常に行き交う人で賑わいを見せる。
駅自体も八階建てのショッピングモールになっており、鬼松の若者たちの人気のスポットである。
エシュロスの“叛逆”はそこの八階から始まる。
――中々広いな。
いざ出発点に立ってみると、エシュロスは感嘆の声を漏らした。
ほう、と。
本屋であった。八階にあるのではなく、八階が本屋なのだ。広い空間は、背の高い本棚に埋め尽くされ、漫画や小説、実用書や雑誌などが数多に見られる。
以前薫に本を買える場所はと訊ね、帰って来た答えが此処であった。
覚えておいて良かったとエシュロスは切に思う。
――お蔭で薫に、料理を振る舞うことが出来るのだから。
エシュロスは考えた。如何して自分が失敗をしたのかを。
語るに及ばず。料理について基礎すら知らなかったからである。
ではそんなエシュロスが取るべき道は? 至極単純、基礎を覚えるである。
エシュロスはその基礎を本から学び取ろうとしているのである。
――“料理”……。“料理”……。
早速、料理の基礎を扱った本を探そうと、エシュロスは棚に張られたプレートの文字を確認しながら、店の中を練り歩く。
こういった本屋というものは、出版社の名前や、扱う分野ごとに棚が別れているのが常であるが、エシュロスには区分けする文字を読むのでさえ一苦労であった。
魔界と人間界では当然使用される言語は違う。魔本が翻訳機(トランスレーター)の役割を果たす為、余程魔本から離れない限り“話す”ことに関して不自由はしない。但し、“読み書き”となると別だ。個人で覚える必要性がある。
先ほどエシュロスは薫から借りたゲームで平仮名と片仮名だけはなんとか覚えたが、漢字となると小学生低学年程度までが限界である。
現にエシュロスは歩いている中で、哲学の“哲”と、“経済”という文字の読み方が分からなかった。
なんとか、“料理”に関連した書籍の棚までたどり着きエシュロスは本を探す。
日本語が多少出来る程度、料理がまるで出来ない自分に選べる自身に選べるラインナップ。狭すぎる選択肢からそれでも手に取った本を見て、エシュロスは顔を引きつらせる。
五歳ほどの少女がレードルを片手に満面の笑みを見せつける――そういった構図の雑誌であった。タイトルは“ひとりでできるから!”。
エシュロスは察した。これが幼児向けの本であるということを。
途端に顔に熱を覚えるエシュロス。だが、これも総ては“叛逆”の為である。負けっぱなしなど、エシュロスの主義ではなかった。
湧き上がる羞恥心を押し殺しそれを持ってレジに向かおうとしたその時、
「ねぇ」
エシュロスは後ろから声を掛けられる。
振り返るとそこにはワンピース姿の少女が立っていた。歳の頃は、エシュロスの手の中に在る料理本の表紙の少女と同じだろうか。
おさげ髪が印象的なその少女は、クリッとした大きな瞳を潤ませエシュロスを見つめてきた。
「えっと……。何かな、お嬢さん?」
エシュロスは、見ず知らずの少女に声を掛けられたことに困惑しながら、それでも笑顔を向ける。
「お兄ちゃん、その本買うの?」
「そうだが?」
何気なく言葉を返したエシュロスは次の瞬間、驚愕することになる。
少女がエシュロスの手の中にある“ひとりでできるから!”を掠め取ろうとしたのだ。
当然、エシュロスはそれに対抗する。
年齢、背格好、男女の性差、そして何より歴然とした“魔物”と“人間”という種の違い。
少女に勝てる是非も無し。
けれど、少女は諦めず、尚も本を引っ張り続ける。
「一つお尋ねして良いか? お嬢さん?」
魔物の腕力で本を破いてしまわぬように気を配りながらも、エシュロスは少女に訊ねる。
「なに、お兄ちゃん」
ギギと歯が鳴る程、少女は食いしばる。
「如何してこの本が欲しいんだ?」
「進一くんにお料理、作ってあげたいの」
友達か、はたまた片想いの相手か。
後者の可能性が高いかと、エシュロスはそう勘ぐる。
「如何して、その進一くんとやらに料理を作ってやりたいんだ?」
「進一くん、最近元気ないの。おいしいもの食べれば元気になるから」
野次馬根性でつい少女に訊ねてしまった自分にエシュロスが気付いたのは、言葉を発するより後であった。
併し、知ってしまった以上は仕方ないと、エシュロスは本から手を離した。
「え?」
「君に譲る」
「良いの?」
「勿論」
エシュロスは柔らかな笑みを湛えた。
まだ幼い女子の、純粋な優しさを踏み躙る様な真似はエシュロスには出来ない。
女は花だ。幾ら幼子と云えど、それは変わらない。
「でも、お兄ちゃんもお料理……」
「私は良いんだ」
微笑みを残し、エシュロスはさっさと少女の元を立ち去ろうとした。
その時――
「あの!」
店内に少女の声が響き渡った。
†
エシュロスが叛逆の真っ只中にいる頃。
「ただいま」
薫は帰宅していた。
家を出てから一時間も経たずして、である。
それも仕事場に到着するなり、店の無期限休業というとんでもない連絡を受け取ってしまったからだ。
然も、店長を介してではなく、珍しく店に顔を見せた経営者のダンの口から直接だ。
少しばかりそれが気掛かりとなった薫であったが、ダンから渡されたあるものの所為で直ぐにどうでもよくなった。
そのあるものを、一番見せてやりたい人に早く見せたい気持ちが逸った儘に、薫はリビングのドアを開けた。
「エシュロス。君の戸籍が漸く出来たよ」
そのあるものとは、ずばりエシュロスの戸籍であった。
実際、薫の手に握られているのは、エシュロスの顔写真が張り付けられた個人番号カードとパスポートであるが戸籍と言い換えても問題はないだろう。
人間界で戸籍を持たないエシュロスの為に戸籍を見繕させることをダンに確約させ約三日。
ロシア人と日本人のハーフ、“慈島理睲”の戸籍を手に入れ、晴れてエシュロスの扱いは人間となったのだ。
これで人間界での行動上の不自由がある程度緩和される。
だが、併し、帰ってくる筈の喜びの声は無かった。
リビングにも、ダイニングにも、エシュロスの姿が見当たらない。
「どこに言ったんだろう?」
そう呟き薫は他の部屋も探しに行くが、トイレにも、寝室にも、物置と化したもう一つの部屋にも矢張り彼の姿は無かった。
寝室の枕元に、黄褐の魔本が別冊マーガレットと並んで置いてあるのが確認できた為、取りあえず自分の元を人知れず離れようとした訳ではないことだけは理解し、薫は再びリビングに戻る。
そして、椅子に腰かけ、テレビを点けると、ほぼ反射的に煙草を口に銜え、火を灯した。
重い溜息のような気息と共に立ち上る牡蠣色の烟を見つめ、薫はぼんやりと呟く。
「エシュロス、どこ行ったんだろ?」
叛逆の物語になど、思い至る筈もなかった。
†
逆らうということは、痛いということと同義語である。
自分の無力に対する叛乱の場合などは特に。
「痛ッ!」
現に今、エシュロスの指には痛みが走っている。
滴る血の赤が、不銹鋼の刃の銀灰色によく映える。
「エシュお兄ちゃん、気を付けて。手はネコさんだよ」
「面目ない」
隣に立つ少女――名を木下美蘭(きのしたはるらん)という――に窘められ、エシュロスは面目なさそうに苦笑し、涙目になりながら流血する指を吸った。
――叛逆は始まっていた。
エシュロスは美蘭の家でカレー作りに励んでいた。
そして、今しがたジャガイモの芽を落とそうとしたらしめやかに指先から出血と相成ったわけである。
しかし、一体如何してつい先ほど知り合った少女とエシュロスは料理をすることになってしまったのか。それは美蘭なりの優しさであった。
エシュロスも料理作りがしたい。美蘭も料理作りがしたい。故に二人は共通の料理本が欲しい。ならば一緒に作ればいい。
凡そそのような理論展開となり、エシュロスは成すが儘、美蘭の家に行くことになった。
エシュロス達が買い物をしていた駅からほど近い、所謂“団地”の五階。古びたコンクリートの建物からは想像がつかない程には、手狭乍ら綺麗な部屋が、美蘭の住まいであった。
部屋に着くまで、そして着いて料理を始めてから、美蘭は色々なことをエシュロスに話した。両親と三人暮らしであるが、二人とも仕事をしていて忙しく、少しばかり寂しい思いをしていること。けれど、そんな両親が大好きなこと。
そして、“進一くん”という人物についても。
『いつも遊んでくれる優しいお兄さん』
美蘭の弁を借りるならば、進一はそういう人物であった。
畢竟、彼女の面倒を両親の代わりに見てくれている隣人である。絵が上手く、料理上手の、明るい青年。彼女はそんな進一のことを、両親を思うのと同じくらいに愛していた。だが、ある日を境に突然進一が遊んでくれなくなってしまった。部屋を訪ねても、出て来てさえくれない。偶々見かければ、どこか元気がない様子――とのことだった。
「ところで美蘭。進一くんは如何して元気がなくなってしまったんだ?」
ソファに座り美蘭に治療を受けながら、エシュロスはふとそんなことを訊ねてみた。
「おねえさんとけんかしちゃったからだと思う」
「お姉さん?」
「きれいなおねえさん。進一くんとね、おててつないでなかよしなの。でもその人、みなくなっちゃった。そしたら、進一くん元気なくなった」
「見なくなったって、進一くんの所に来なくなったということか?」
小さく美蘭は頷いた。
「だからね、けんかしちゃったんだと思ったの」
「そうか……」
気が付くと、エシュロスの親指には絆創膏が巻かれていた。
エシュロスは考える。屹度、少女の言うように喧嘩などではないのだろうと。
手を繋いでいた仲良しのお姉さん――詰りは進一の恋人であろう。如何いった事情かは分からないが、恐らく進一とその女性は別れることになり、それが進一の心象に大きな傷を与えた。
そういうことなのではないか――と。
無論、そのお姉さんがただの血縁なのかもしれないが、美蘭の話に因れば進一はコックとして働いているらしいから自立した身といえる。人間界と魔界での労働可能な年齢はそれぞれ地域差もあるが凡そ十五歳前後。果たして、そのような年齢で血縁と手を繋ぐのか。況してや男が、である。
「エシュ兄ちゃん?」
エシュロスは美蘭に呼び掛けられ、つい熟考に入ってしまったことに気が付いた。
「ああ、一寸考えごとをしていた。治療、有難う。上手だな、美蘭。良いお嫁さんになれるぜ?」
頭を優しく撫でられると、美蘭は少しだけ顔を赤くした。
えへへへと顔を緩める美蘭を、エシュロスは見守るように微笑する。
「……あと、これは完全に私の予想だが。多分、進一くんは元気になるぞ」
「本当!?」
弾んだような声がエシュロスに返って来た。
「ああ、本当だ。優しい君がその為だけに作る料理。それを食べて元気ならないわけがない」
確信は、ない。
もし進一の抱えるものが失恋の痛みだとするならば、子供が作った料理くらいで晴れるわけがないとすら思う。
それでも、小さな子供を、花を、踏みつけて平気な顔が出来るようにはエシュロスは育ってきていなかったから。
つい嘘を吐いてしまった。
決して小さくはない罪悪感が、心臓に針で刺されたような痛みを伝える。
「さぁ、そろそろ料理の続きをやろうか。進一くんが待ってるぜ」
それを誤魔化す様に、エシュロスはソファから立ち上がり美蘭に呼び掛ける。
「うん。でも、指切らないでね」
自信満々に腕を捲るエシュロスを、心配そうな微笑みで見つめ、美蘭も続けて立ち上がった。