結局、エシュロスは十本全ての指に絆創膏を巻くことになった。
「エシュ兄ちゃん、大丈夫?」
隣に立つ美蘭が心配そうに訊ねた。
「ああ、安心してくれ。“男子三日会わざれば括目して見よ”と、この国では言うのだろう? この程度の掠り傷、男にとっては直ぐ治るものさ」
傷を見せながらも、エシュロスは豪快に笑い飛ばす。
ところで、“男子三日会わざれば括目して見よ”とは元々“士三日なれば括目して相対すべし”といい、男というのものは少しの間にも見違えるほど成長しているという意味である。
併し、エシュロスにとっては指を切った傷など直ぐに治るというのも事実だ。
普通人間でも包丁の怪我程度であれば三日はいらないが、エシュロスの場合は、絆創膏を巻いたその瞬間には完治していた。
エシュロスに限らず、魔物という存在は人間に比べて傷の治りが圧倒的に速いのだ。
「それよりも、料理が完成したんだ。先ずはそれだろう」
――故に怪我などという些細なことは棚上げするに然る。
それよりも重大事は、料理である。
二人の目の前にある鍋の中には、見た目にも美しいカレーがあった。
湯気と共に遣って来る香りは、はしたないと理解していても、否応なく口内に唾液を溜め込ませる。
「美味しそうだね」
「ああ。だが、味見をしなければ。本当に美味いかはまだ分からんぞ」
然う――二人の戦いはまだ終わらない。
食べさせたい者に対し、食べさせられると断じられるものが出来ていなければ、二人は戦いに勝ったと言えないのだから。
「いくぞ」
「うん」
二人は匙を握りしめカレーを掬い上げ、口へと運ぶ。
永遠のような、短い沈黙の後――
「勝ったぞ、カオル。この戦い、我々の勝利だ!」
エシュロスの口は、勝利の凱歌を上げていた。
「おいしい!」
美蘭も頬を蕩けさせる。
美蘭にとっての初めての料理は、エシュロスにとっての叛逆の物語は此処に確かな成果を上げたのだった。
「良かったな! これで進一くんを元気に出来るぞ!」
「うん! ありがとうエシュ兄ちゃん」
手を取り、二人は喜びを分かち合った。
「ところで、一つ良いか?」
「なぁに、お兄ちゃん?」
「これ、半分貰っても構わないか?」
鍋を指差し、エシュロスは訊ねた。
「いいよ! でも、どうして?」
その問いにエシュロスは有りの儘を答える。
「君と同じだ。大切な人に食べさせたいんだよ」
大切な人である。
魔界の王の候補生にとって、本の持ち主とは。
「そうなんだ。じゃあ、はんぶんあげるね」
エシュロスが魔物であるという事実を知らない美蘭はただ無邪気に笑う。
「有難う」
少女の優しさを微笑ましく思い、エシュロスは表情を和らげた。
少しばかりの、嘘を交えていることに対する後ろめたさなど、何処かに吹き飛んでいた。
「それでね、カレーはあげるから。ねぇ! 早く進一くんのとこ行こ! ねっ!」
そんなエシュロスの手を掴み、美蘭は急かす。
幼い懇情は、けれども余りに大きくそこにとどめる事は出来ず。
分かった分かったと、エシュロスは緩やかな困り顔を浮かべてみせて、鍋を持つ。それを見るや否や、勢いよく駆け出していく美蘭をのたりとした歩調でエシュロスは追いかけた。
目的の場所は隣の部屋ということもあり、一分とかからなかった。
“秋山”と丸い書体とパステルカラーに因って書かれた木で出来た手作りの表札が、家主の細やかで穏やかな性格を窺わせる。
まず、美蘭が、
「進一くん、はるらんだよ」
と声を掛け、扉を叩く。返事はない。
次にエシュロスはインターフォンを鳴らしてみた。矢張り、応答はなく。
そして、無礼だと思いつつもノブをがちゃがちゃと鳴らしてみたが、鍵がかかっているようだった。
「進一くん、るすかなぁ?」
美蘭は顔を俯かせる。
「どうだろう……居留守という可能性もあるが……」
対してエシュロスは顎に手を当て、神妙な面持ちでそう返した。
「いるすってなぁに?」
「本当は家の中にいるのに居ないように装うことだ」
エシュロスの何気なしの回答は、美蘭の表情を曇らせた。
「如何したんだい、美蘭?」
予期せぬ少女の悲し気な顔に、エシュロスは戸惑う。
「……進一くん、わたしのこと嫌いになったのかな?」
「えっ?」
「嫌いなひとには会いたくないから。だから、会ってくれないんだよね?」
俯き、今にも泣き出してしまいそうな声で絞り出された答えに、エシュロスは返答に窮した。
そうではないのは明白だが、まだ幼い美蘭に分かることなのか。
進一が姿を見せない理由。極限にまで打ちひしがれるということの意味。そんな弱い姿を誰にも見せたくないという、男の詰まらない意地も。
――恋に破れる、その痛みも。
「……まさか」
そこまで考えが巡り、エシュロスは目を見張った。
今思いついてしまったこと。進一に起こった最悪の事態を予想して。
そんなことは無い筈だと、脳幹の奥から遣って来るビジョンを蹴散らしながら、エシュロスは固く目を閉じる。
そして、目を開けると、
「畜生っ……!」
忌々し気に毒づいた。
「すまない、美蘭。この鍋持ってくれ! 金属部分には触れるなよ」
「ほえ!? エシュ兄ちゃんどうしたの?」
突然鍋を押し付けられ、美蘭は頓狂な声を上げる。
「あと一つ頼みたい。少し私から離れてくれ」
「え!? どうして?」
「良いから疾(はや)く!」
言い知れぬ威圧感に気おされ、美蘭は震えながら後退った。
それを確認するとエシュロスは、
「きぇあああッ!」
と雄叫びを上げ、扉に目掛けて思い切り拳を振り抜く。
剛! と爆音が鳴り響き、辺りに木っ端が舞った。
木で出来た扉にはエシュロスの腕が突き刺さっている。
「ええええ⁉ エシュ兄ちゃん⁉ ドア壊したら怒られるよ!?」
エシュロスがしたことに、動揺し、美蘭は声を張り上げる。
だが、エシュロスは
「誰がするかは知らんが、説教ならいくらでも聞いてやる!」
と強い語気で言い返す。
そして、手を動かしながら、扉の向こう側に在る、見えていない鍵の位置を探る。
暫く後、ごっ、と金属の擦れる鈍い音がした。
「……よし、開いたか」
それを聞くとエシュロスは腕を抜いてドアノブに手を伸ばした。
一気に進一の部屋に押し入ろうとして、ふと足を止め、美蘭の方を振り、
「美蘭、絶対に入って来るんじゃないぞ!」
そう釘を刺した。
†
エシュロスが扉を壊してまで、進一の部屋に押し入った理由。
それは、進一の人命に関わると判断したからだ。
女に捨てられ、打ちひしがれた男は一体何をするだろうか?
答えは明白、“分からない”である。
Amantes amentes――愛する者に正気無しというラテン語の格言であるが、魔界にもそれに類する諺がある。
深愛に囚われた物は、人間であれ魔物であれ、狂気そのものなのである。
例えば、オペラという括りの中でもかなりの知名度を持つカルメン。全霊を向けた愛を裏切った女、“カルメン”を、最終的に“ドン・ホセ”は殺してしまう。
またフランスの叙事詩、狂えるオルランドの“オルランド”は恋に破れ、諸国を裸のまま放浪した。
白い手のイゾルデは女か虎かの選択を迫られ、喜んで虎を選んだ。
愛ゆえならば、殺害も、狂乱も、倒錯も、なんでもありだ。
理解不能か? 当然だろう。素面の儘、理解出来てしまえる狂気など狂気とは言わない。
名状可能に翻訳された、その名前を張り付けたそれらしい何かでしかない。
とどのつまり愛する人にとっては、何もかも自ら命を絶つことも在り得ない話ではないわけである。
無論、それだけを根拠にエシュロスはあのような暴挙に出たわけではない。
進一が部屋の中で死んでいる可能性に思い至ってエシュロスはまずやったこと。
それは、扉の向こう側にある、生きている人間の気配を手繰ることである。
魔界でそのような訓練も受けていた為に――エシュロスは魔物や人間の気配をある程度の距離であれば辿ることが出来る。
厳しい訓練の末に得た力は、扉一枚隔てた程度の距離ならば息をするより容易くことを成し遂げる。
結果は、部屋の中には生きている人間の気配を僅かに感ぜられた、である。
人の気配があるならば万事良し、というワケではない。寧ろ、無いならばまだ単純に留守という可能性だってあった。僅かにあるというのは大問題なのだ。
玄関から部屋まで、如何見積もっても十メートルが精々。そんな近距離に人がいるならば、その気配は強く感じられなければならないのだ。
それが微弱になっているということが何を意味するのか。
否応なく想像出来た為に、エシュロスは扉が締まり、美蘭の顔が見えなくなってから舌を打った。
「まったく……死体だったら無視したんだがな……」
靴を脱ぎ、素足で廊下をぺたりぺたりと踏みつけ乍ら、エシュロスは毒づく。
可愛らしい花は血の色を知らない方が良い。屹度若し、腐臭の一辺でも感じたならばエシュロスは美蘭の知らない所で部屋を焼くくらいはやってみせただろう。
だが、恋に破れ、自棄になり死にそうな男なら別だ。
そんな代物、死体以上に、麗しい乙女の目に触れるに値しない。
鼻を擽る様な甘酸っぱい匂いの先。六畳程度のフローリング。美蘭の瞳に相応しくない男が確かにそこいた。
締め切ったカーテンの隙間から、辛うじて光が漏れるような薄暗い部屋の窓際であった。
平素、巌のような、と表現すべき屈強な肉体を持った男が硝子に首をもたれていた。
平素と前置いたのは、憔悴し、窶れていたから。
幾夜も寝ずに泣き続けたのであろうか。目が赤く、瞼も腫れ、眼下が黒ずみ、頬には塩の跡が残っている。
目からは光が失せ、何処か遠いところを見ているようでいながら、屹度何処も見てはいないのだろうと想像できる。
指先に在る、擦り切れ吸われぬまま、灰がぽたぽたと落ちる煙草が物悲しい。
煙は、薫の吸っているものと違い甘い匂いがした。先程から嗅いでいた匂いと同じだったので、エシュロスはああそうかと納得すると、
「貴様、秋山進一か?」
まるで煙以上の関心事ではないかのような、心底如何でも良さげな声色で、目の前の男に問う。
「……そうだけど」
のたりと首を擡げ、時が止まったかのような間の後に、男――秋山進一は答えた。
「君は誰? どうやって入ったの?」
「それを貴様が知る必要はない」
エシュロスは当然の疑問をも並べて突っ撥ねる。
「有無は言わさん。理由も話さん。兎に角貴様を病院に連れていく」
そう言ってエシュロスは進一の腕を掴もうとした。
だが、
「止めてくれ!」
エシュロスの手は、凡そ弱った人間とは思えない剛力に跳ね退けられる。
慮外な反応。
エシュロスは唖然とした。
「誰だか知らないけどほっといてくれ! 今は一人になりたいんだよ!」
進一はそう怒鳴り散らし、顔を膝に埋める。
瞬間、ぶちりと、エシュロスの中で何かが千切れ、
「ほざけ!」
理性で判断するより遥かに速い本能が、進一の顔につま先をねじ込んでいた。
「うがっ……」
顔面を鮮血で真っ赤に染め上げ、進一は短く呻く。
「にゃいしゅるゅんだ!?(何するんだ!?)」
「五月蠅い、黙れ意気地なしめが! そんなんだから女に逃げられるんだ!」
顔を押さえ抗議する進一の胸倉を掴み、エシュロスは思い切り怒鳴りつける。
「貴様を心配して、態々料理の腕を振るってくれた可憐な乙女がいるんだ! だのに、いつまでもウジウジしやがって! 手前が蛆以下だと思えんか⁉」
進一は知らないこと。けれど、エシュロスは知っていること。あまりに知り過ぎてしまったこと。
どれだけ、美蘭が頑張って料理をしていたか。どれほど、進一のことを心配していたか。
――進一の笑顔を、一等心待ちにしていたか。
理不尽だとは百も承知だ。けれど、思えばこそ怒らずにはいられなかったのだ。
「……知るかよ、そんなこと」
だが、その思いは進一には伝わらず。
それがまたエシュロスを苛立たせた。ギリギリと歯軋りし、そしてフンと鼻を鳴らす。
「だったら、もう知らん! 勝手に死ね! 美蘭の知らん所で、腐ってしまえ!」
そう吐き捨て、エシュロスは身を翻した。
その直ぐ後だった。その言動総てを、後悔することになったのは。
ボトリと、何か固く重たいものが落ちる音がした。それは鍋であった。フローリングに中身のカレーが少しばかり飛び散っていた。
そして、その先を見上げると――
「エシュ兄ちゃん、なにしてるの?」
そこには、美蘭がいた。
「如何して……入って来るなと、言ったのに」
いてはいけない筈なのに。
「なんで進一くん、けがしてるの? 進一くんのこといじめたの?」
「いや、違う。違うんだ、美蘭」
そう言いつつも、何も違う所などなかった。
エシュロスが進一を傷つけたことは、動かさざる事実である。
「どうして進一くんのこといじめたの? 進一くんを元気にしたいっていったのに!」
まくしたてられ、エシュロスは何も言い返すことが出来なかった。
美蘭にとって、進一が大切な存在であることは分かっていた筈なのに。進一を傷つけてしまったから。
「エシュ兄ちゃんのバカ! 大っ嫌い!」
自分を謗り、逃げていく美蘭を、エシュロスは引き留めなかった。
そうされて当然だと思ったから。
――ただ、胸が酷く締め付けられる狂おしい痛みを感じたのは疑いない事実ではあった。
†
「ただいま」
薫が暇を持て余し、珈琲割りでテキーラの瓶を三本ほど空にした頃であった。エシュロスが帰宅を告げたのは。
「おかえり」
何処か張りのない声に気が付きながらも、薫は至って自然な調子で声を返した。
案の定、リビング迄遣って来たエシュロスは顔を伏せ、落ち込んでいる様子だった。
手に持った鍋が気になったので薫は、
「それ、何?」
とまず訊ねた。
そして、続いて、
「今まで、何処にいたの?」
と。
「この鍋はカレーだ。何処にいたかは聞かないで欲しい。何があったのかも……」
今迄にないほど、エシュロスは自信というものを喪失しているように、薫には感じられた。
何があったかは分からない。ただ、エシュロスにとっては辛い出来事であったのだろうと思い、
「そっか」
と薫はそれだけ言って、それ以上を詮索しないようにした。
「ところで、さっきまでお酒を飲んでいたのだけれど。その所為かとてもお腹が減っているんだ。それを食べても良いだろうか?」
「……嗚呼、構わない」
何処までも暗く、覇気のない声でそう言って、エシュロスはふらふらとした歩調で台所に向かう。
鍋を火にかけ、カレーが煮えると、皿に米と一緒に盛り付けた。
「どうぞ」
出来上がったものを薫に振る舞う。
薫は一口、スプーンをつついた。そして、
「うん、美味しい」
と微笑して答えた。
エシュロスにとっては一番欲しかった感想であった筈なのに。今は、それすら辛く感じてしまう。知らず知らずのうちに、悲痛に顔を歪めていた。
すると、薫は黙ってエシュロスの頭に手を置いた。
「頑張ったね。偉いぞ、エシュロス」
料理に対するねぎらいか。それとも、辛い目にあったであろうエシュロスに対する同情か。
いずれにしても、エシュロスはそれを情けなく思い――自分を甚く恥じた。
「そんなに辛そうな顔をしないでよ。私って、君にとってその程度みたいじゃないか」
「すまない……」
「そういうのやめようよ。正直、自信を無くした君は、私が辛くなるんだ」
薫はそう言いながら、煙草に火を灯した。
深い、紫煙交じりの吐息の後――
「……君がちょっとでも明るくなれるように。明日、私のお気に入りの場所に行こうか?」
薫はそんな提案をしていた。
「……貴女を知れるならそれは嬉しいことだと言わざるを得ないが。でも、良いのか? 貴女、仕事があるだろう?」
「それは良いんだ。暫く仕事、休みだから」
齎された意外な回答に、エシュロスは苦笑を浮かべる。
「休んでばかりだな、貴女は」
「仕方ないよ。ダンさんが休みだって言うんだから」
嘆息交じりの白煙がエシュロスの周りを漂った。