果てしなく哭く風の響き。岸壁の巌を削る潮騒。遠く聞こえる鷗の声。
そんな音を耳にしながら、和装の魔物、江戸紫の少女アヤメはゆっくりと目を開く。
「なぁ、リッチ」
そして、まず隣に立つ本の持ち主であるリッチに話しかける。
「如何した、アヤメ?」
隣に視線を遣ることなく、リッチは聞き返した。
「網ぃ、かかったで」
クスリ、と愉快気に笑声を上げるアヤメに、
「そうか」
とリッチは素っ気なく言葉を返した。
「まさか、こないなに早うことが運ぶなん思わどへんかったわ」
「それで、どっちに掛ったんだ?」
「ハイド、とかいう子の方やね」
「成程、風の取り人の」
彼等にしか分からない会話を続ける二人の間を、
「あの……」
と別の声が挟んだ。
若く少しばかりか細いかもしれなかった女性の声である。
その持ち主は、プラチナブロンドの線が細い白人の女性であった。服装は水色の着流しめいた服装――畢竟するに病衣であるため、病人か怪我人であることは明白だ。
事実、彼女はつい数十分前までは病院の個室の中でベッドに横たわっていた。ある事件に巻き込まれた所為で。
併し、今彼女がいるのは病院ではない。
見えるのは何処までも広がる青い海と、遠く広がる蒼穹とその中の入道雲。風が少しだけ五月蠅く聞こえ、波音を鳴らす水面は遥かに下に見える。
――岸壁の上であった。
「こんな所まで呼んで。一体私に何の用ですか?」
此処に呼びつけたのは、絶壁に立つリッチであった。
事件のことで、貴女にだけ話したいことがある。連邦捜査局のバッジと共にそう告げられて、この場所に連れられて来たのだ。
「ああ、そうだった」
まるで、ついぞ忘れていたかのように、リッチは右手の拳を左の掌に打ち付けた。
「――所で、貴女は日本のサスペンスドラマを知っているかね?」
「は?」
一聴する限りではまるで関係のない質問に、女性は困惑した。
「あの国のサスペンスドラマには種明かしは崖の上という変わった不文律があってね」
「それがなんだと言うんですか?」
その問いに、リッチは柔和な笑みを以て答える。
「貴女を態々こんな場所まで連れ出した理由は、然ういうことだと言いたいんだ。今、この瞬間、私はエイイチロウ・フナコシというわけさ」
リッチの言葉を女性はまるで理解出来ないでいた。それも其の筈であろう。此処はアメリカの西海岸だ。日本の俳優、船越英一郎を知っている人の方がマイノリティであった。
「さて、与太話もほどほどにして本題に移ろうか。然う、君が遭った事件について。つい先ほど決まったことを」
と、その前にと前置いて、リッチはアヤメに手を差し伸べた。
クスリ。
短く嗤い、アヤメは振袖の袖口から江戸紫色の本を取り出して、それをリッチに渡す。
そして、リッチは本を開き、
「“エムグルジオ”」
と刻み込むようなねっとりとした口調で唱えた。
なんだ、と女が疑問に思う暇もなく――
「え……? な、何コレ? 体から火が、火が……。あ、ああ、アアアアアァァァ!!」
女性の体が炎に包まれる。
煌々と立ち上る火柱。
何が起きたのか、女性にはまるで分からなかった。
自分をFBIだと語る男が訳の分からない言語を発したと思いきや、急に体が燃えたのだ。
魔法だとしか思えない。
否、それ以上に。
熱い、熱い、熱い。
死ぬ。死んでしまう。
女の頭脳を支配していたのはそれであった。
「然う、君は大学の講義を終えて宿舎に帰宅する途中何者かに襲われ、気を絶し入院することになった。その際に、何かの薬品を嗅がされたようだから其の為の検査も兼ねてだ」
立ち上る火柱と阿鼻叫喚を見ても、リッチは淡々とした口調で前後関係を整理する。
「――だが、残念なことにその検査の過程でとんでもないものが見つかってしまった。未確認の細菌。そして未知の死病だよ」
「なッ……!」
火焔の中で、ぎょろりと目が見開かれた。
「すぐさま研究者による調査が行われたが感染力が高く、現在の医学では手の施しようがないようでね。そこで決まったのが、君ごと加熱処理をするというやり方さ」
至って涼しい顔で、リッチは淡々と告げた。
一方、女性の顔には炎で黒ずみかけていても分かる程、絶望が満ちていた。
「あ……あ、あ、あ……イヤァァアァァ……」
告げられた事実を打ち消す様に、女性は首を何度も振った。
併し、無情。リッチの口は現実をはっきりとした言葉で伝える。
「受け入れ難いだろうが、誰も君が生きる事を赦さなかった――然ういうことだ」
ついに火達磨のまま女は崩れ落ちる。
「イヤ……イヤ……イヤァァァ……」
言葉の紡げる限り泣き崩れて。
けれど、炎は止まらず、やがって言葉は止まり。
炎も止んで、最後は灰だけが残り、それすら風に乗って、消えた。
それを見送ってリッチは十字を切る。
「I’m sorry―― for your loss」
その様を見て、アヤメはクスクスと笑った。
「ホンマ、酷いなぁリッチは。あないな嘘ぉ吐いて。泥棒んなるよ?」
「言いがかりは止してくれ。私は嘘など吐いていなだろう」
その言葉にアヤメは嘆息を漏らした。
「そらぁそうかもしれんけど。でも、いっちゃん大事んとこ話しとらんやろ? 嘘ぉ吐いとるのと変わらんわ」
リッチが女性に話したことは全て本当であった。
未知の細菌、不治の死病。
それの感染者、総ての焼却処分も話し合われ、途中まで実行されようとしていたことである。
併し、その先をリッチは女性に話さなかった。
「ホンマはわくちんちゅうんもとっくに出おこしやすいて、あん病院ん人らに配られとったんにね」
然う、未知の病気に対する治療法はその後、すぐに発見されたのだ。
「しかもそれ作ったんはリッチやのに」
クスクスとせせら笑い、アヤメはリッチの瞳を見つめる。
黄金螺旋のような、何処まで深淵に続く波紋を描くいと暗き瞳を。
それを閉じて、リッチは嘆息する。
「認めよう。其れ等総て、君の話した通りだ。だが、アヤメ、一緒くたにしてはいけないだろう。嘘吐きと言葉足らずは別に定義付けられるべきだ」
それにと、付け加えリッチはアヤメに微笑みかけた。
「美しかっただろう? 世界に見捨てられる悲劇というのも」
ニタリ。
少女の顔に、逆さまの三日月が生じた。
「せやね。辛うて、甘うて、どろどろん真っ黒で、綺麗やったわ」
くるり、くるり、くるり――。
アヤメは舞い踊る。風になってしまった、絶望に変わり果ててしまった女のいた、黒い痕跡を踏みつぶしながら。
その様を見て、リッチは顔を覆い、クツクツと含み笑う。
「然り。絶望とはウォッカのように辛く、マシュマロのように甘く――そして、恋する乙女のように、美しいものだ」
そう語るリッチに対し、アヤメはうんうんと何度も頷いた。
「せやねぇ。でも、ウチ、楽しいことや奇麗なモンやったらみんな好きよ?」
せやから――と、アヤメは後ろで手を組んで、身を乗り出す。
「ウチ、もぉっと、もぉっと、色んなモンが見たい」
屹度、意識してやったのならば、あざといという謗りは免れない格好であろう。
だが、アヤメの振る舞いは至って自然体である。
「でな、そろそろ話してくれへん?」
その仕草でリッチに訊ねた。
「リッチ言うたやろ? “心”んありかを探しに行くて。ウチ、そこがどないに綺麗なんか知りたいねん。そんでな、リッチの仕掛けた網ぃいうんがどないな風に関わるんか、教えて欲しいんよ」
そうだ。
ずっとずっとずっとずっと――。
リッチはこの“神の試練”に当たって下準備をしていた。
アヤメと共に、戦いが始まる二年も前から。
時折、今し方のような遊戯を楽しみながら、待って、待って、待って――。
そして、遂に獅子が壺に残った最後の毒に、否、蠱毒と共に旅に出る時が来たのである。
一体どのような答えが返って来るか、蠱毒の紫は心を弾ませ待ちわびる。
「仮説、そして実験」
然して、獅子の口から齎されたのはそのような言葉であった。
「“心とは脳内物質の分泌、その発露である”。それを仮に“在処”だとして、歩んでみようと思う」
「若し、それが違うてたら?」
「山を目指していて、砂漠に着いたとしても――。見た瞬間、素晴らしいと思うだろう?」
「確かにね。でも、出来たら、目指しとるとこに着きたいさかい、道標がいるなぁ」
「それならあるさ」
「どんな?」
質問に一拍置いて、リッチは口を開く。
「そこで先程言った実験さ」
「実験かぁ。中身知ったらつまらんくなる?」
「恐らくは」
「やったら名前だけ教えてぇな」
「名前か」
予期せぬ問いに、リッチは顎に手をやり、暫し考える。
命名の必要性などないと考えていた。だが、よく考えれば、生まれ堕ちて、役割を与えられた以上、名前を持たなければいけないだろう。
名前がないのは可哀想だ。リッチはそう思い、
「“天使の塵とニムロド”……そう呼んでいる」
実験に名を授けた。
「“天使”ってなんなん?」
「そうか、君は天使を知らないのか」
青天の霹靂である。
魔界には天使の概念がないのか。それとも、あってもアヤメには知る術がなかったのか。
その“答え”は出なかった。
故にリッチは悩む。
どう説明すれば、良いか。何を説明して、何を説明せざるべきか。
少し考えて、リッチは自分がそれについて知っている事の総てを話すべきだろうと考えた。
「では、説明しよう……少し長くなる。何処か腰を落ち着けられる場所に行こう。何か食べたいものはあるか?」
うーんと、アヤメは唸ると、
「きんつば」
と小さな声で答えた。
困ったように、リッチは頭を掻いた。
「中々、米国(ここ)に在って難しい注文を付けてくれるな。まぁ、良い。金鍔を食べられるところを探そうか」
「ようかんでもええよ?」
「難易度が変わってないぞ」
ほのぼのと話しながら二人は歩き出した。
からん、ころんと、下駄の鳴る音だけが、優しい風の中へと消えていく。