「どうぞ、上がって。……と、私の家じゃないから、あまり偉そうなこと言えないんだけど」
薫がエシュロスに案内した場所は、海辺にひっそりと居を構えた、小さなホテルの一室であった。
「貴女の家じゃない?」
「泊まってるの、ココに」
「旅行、ということか?」
「まぁ、そんなとこ」
何処かその辺で寛いでいてと言われ、エシュロスは部屋を見渡す。
腰を落ち着けられそうなのは、白いダブルサイズのベッドかその隣に置かれたテーブルか。
エシュロスはテーブルを選び、用意されている簡素な椅子に腰かけた。
薫は、部屋に備え付けられたポッドで湯を沸かし、珈琲を淹れている。
「エシュロス、珈琲飲める?」
「勿論」
薫は自分に背を向けているというのに、エシュロスは微笑みを返した。
「今のは、“好き”って感じの声だね」
「分かるのか?」
「一寸ね。そういうの当てるの、得意かも」
そんな遣り取りをしている内に、薫が白い陶器製のカップを二つ持ってエシュロスに向かい合うように座った。
「どうぞ」
差し出されたカップを自分の鼻の前に持っていき、エシュロスは目を瞑る。
スゥーと、僅かに鼻から空気を吸い込んだ。
漂う香りを手繰り寄せるように。
「……安ホテルのサービスだよ。上等なもんじゃないよ」
苦笑する薫をよそに、エシュロスは無言で珈琲を啜った。
そして、無言でカップを机に置いた。
「貴女の言う通りだ、腹が立つほど不味い」
エシュロスはやけくそ気味に笑った。
「そんなに?」
気になって、薫もカップに口を付けた。
……待っていたのは、沈黙であった。
空気が一気に重くなる。お互いに本題に入るタイミングを失ってしまった。
「……ねぇ、エシュロス。君、煙の匂い、大丈夫な人?」
その空気を最初に割ったのは薫だった。
「大丈夫だが……」
「煙草、吸って良い?」
スカートのポケットから取り出した銀のケースを見せて訊ねた。
「ああ、煙草か! 別に構わない」
「サンキュ」
「済まなかった。気が付かなくて」
「良いよ、気にしないで」
申し訳なさそうに項垂れるエシュロスを見て、薫は苦笑しつつ銀のケースを開き、其処から朽葉色をした小指程度の太さで5㎝程度の長さの紙巻煙草を取り出した。
見ようによっては葉巻に見えないこともない。
「リトルシガー……って言ってね。フィルター付きの葉巻なの。気に入った銘柄がキューバにしか売ってなくて。よく来るんだ」
薫は煙草を口に銜え、使い込まれ彼方此方塗装が剥げた赤いオイルライターで火を点けながらそんな与太話をした。
「だから、第二の故郷みたいなものだけれど。本籍も在住も、日本の静岡県」
薫はまたも紫煙を吐いて、エシュロスを凝視した。
「さて、そこで最初の質問だけど、魔物の君は何処から来たのかな?」
エシュロスは薫の瞳に得の知れぬ不安を覚えた。
何もかも呑み込んでしまいそうな、精気が、否、何もかも空な、暗い瞳に。
「魔法……術とか呪文って言った方が良いんだっけ? まぁ、それが使えるってことから君が魔物とか、“人間や動物ではないそういうもの”っていうのは明白だけど。そんな君がいたのはどんなところなんだろう? 円谷プロの怪獣宜しく何処か未開の地からやって来たのかな? それとも地獄みたいな、全く別の世界?」
その問い掛けに、エシュロスは不味いと分かっている筈の珈琲を啜る。
「此処――人間の住むこの世界とは別の世界から来たんだ。でも、“地獄”ではないな。魔物と言っても貴女が思っているような劣悪な場所から来たというワケではない。もっと、私達の世界は、もっと平和な良い場所だよ」
その不味さからか、エシュロスは眉間に皺を寄せ乍ら、何と言ったら良いか分からない表情をした。
「そうだな……。“魔界”という言い回しが正しいだろうか……」
「“魔界”。その心は?」
エシュロスの回答に、薫は疑問符を浮かべた。
「人間が科学を頼りに生き、発展してきたように我々は魔の力――詰りは術を頼りに生きてきた。“魔”を使いそれを頼りに生きる者の“世界”。だから、“魔界”」
「ほうほう」
薫は、子供だと思っていたエシュロスが思いの外しっかりと筋道だった理論を展開したことに驚嘆した。
若しかしたら、自分が思っているよりもエシュロスは幼くはないのかもしれないと薫は考える。
「それで、君は如何して私達の世界……まぁ、簡単に“人間界”とかって呼ぼうかな? 如何してやって来たの?」
煙草の灰を、テーブルに備えらた灰皿の中に落としながら薫は確信に迫る。
再び煙を呑んで、更に訊ねる。
「人間相手に戦争しに来た……なんてことはないよね?」
「貴女は阿呆か? こっちでは魔物は人間のパートナーが呪文を唱えないと術が発動しないというのに。如何して、戦争なんて出来る?」
「そうだね。というか、魔界では人間がいなくても術が使えるんだ。なのに、なんでこっちでは本と人間がないと使えないの?」
エシュロスはピクリと額を動かした。
――もしかして、俺が呪文で攻撃してくる……自分に危害を加えられる可能性を確かめたのか?
訝し気に薫の顔を覗き込む。
併し、エシュロスは呆けたような顔のその腹のうちがまるで読めなかった。
スーっと、珈琲を啜る。少し温くなっていた所為で不味い物がより一層不味くなり、エシュロスは苛立った。
「……君が考えているような思惑は私には無いよ。ただの好奇心」
目を見開くエシュロスに、薫は噴き出した。
「安心して。君が詳しく何を考えているかまで分かるわけじゃないから。お客様相手の商売の勘っていうのかな? 私のこと腹に真っ黒いもの隠した女とでも思っているのかもしれないけど、それは違うよ」
薫は自分の胸に手を置いた。
「私は右京薫。職業、風俗嬢。最終学歴、中学校中退。持っている資格は、普通自動車免許と大型二輪免許のみ。道を歩けば雑草よりも沢山見かける、何処にでもいる弱い女です」
そう説明し、にこりと笑ってすり減った煙草をもみ消した。
「……というワケで。これで私に対する警戒心は解けたよね? 君のこと、本のこと、君が此処にいる理由。全て話して貰おうか」
そう言ってまた、煙草に火を点け、紫煙が齎す脳が灼けるような痛みを楽しんだ。
「ああ、そうだ。魔界とこっちじゃ学校制度って多分違うから一応注意しておくけど。中学退学っていうのは、馬鹿の中の馬鹿なので。そういう人にも分かり易い説明を心掛けて欲しいな」
そう、要求を加え乍ら。
†
そうしてエシュロスが薫に教えたのは次のような内容であった。
魔界では千年に一度王を決める戦いが行われ、それは人間界で開催される。その王の候補は選ばれた百人の魔物の子。それぞれが本を持ち、その本を読むことが出来る人間をパートナーと共に、王の座を掛け戦う。本は人の心を力の源とすることで、魔物の術を発現させる。また、この本自体が魔物の子の王位への挑戦権であり、それを燃やされることはその権利を失うことを意味し魔界へと強制送還される。
「……つまり、術を駆使して本を燃やし合う、所謂バトロワってこと?」
「そういう解釈で間違いない」
薫が噛み砕いた内容を、エシュロスは肯定した。
「あれだね、あれにそっくり。仮面ライダー。十三人出てくるヤツ」
「……そっちについては首肯しかねる。何だ、仮面ライダーって」
困ったように顔を顰めるエシュロスを無視して、薫は話を続けた。
「思うに、殆どの人は魔物の力に魅了されて利用しようとするのだろうけど。でも、これ、無闇に争い事に巻き込まれたくない本の持ち主もいる筈だよね? そうなったらどうするの?」
薫の問い掛けにエシュロスは押し黙った。
「……と、自分で考えずにすぐモノを訊ねるのは頭の悪い子の典型だね。自分で考えよう」
腕を組みながら、そうだなぁと呟いた後、薫は煙草を吸った。
本日三本目である。
「……多分だけど、本の持ち主の家族や恋人、それに友達なんかを人質に取るとか。さもなくば、本の持ち主の心の隙間に付け込んで操縦するとか。人間の世界にもそういうことが出来る人がいたりするんだけど、暗示や催眠みたいなことをしてみたり?」
エシュロスの白い顔は、より一層白く、青みを帯びて白くなっていた。
「まぁ、そういう後ろ暗い策略は隠すものだよね、普通」
薫はにこりと微笑んだ。別に、それを説明しなかったことを責めているわけではと釘を刺し乍ら。
「でも、右京薫には残念ながらこれといって大事な人というのが思い当たらない。逆に怨みなんてものも持ち合わせていない。職業こそ娼婦ですが、“高級”と付くので世のサラリーマンが羨むような満ち足りた暮らしも出来ている。だから、特に魔物やその術を利用しようとも考えられない。暗示や催眠も……出来るなら説明も何も無く、それをすれば良いだけだから、君にはその手札も無い」
愈々、エシュロスは顔中からぼたぼたと冷汗を垂らし始めた。
「まぁ、他にも方法はあると思うけど」
そう言って薫は、煙草を灰皿に置いた。
そして代わりにその手がエシュロスに向かって伸びる。
エシュロスは何をされるのかと思ったが、意外にもその手はただ頬に触れただけだった。
ただ触れただけ。
なのに……。
「牡として、私を支配してみせるとか」
微笑みかける。ただ、それだけなのに――エシュロスの顔は熱を帯びる。
そして、
「え……あ……」
その意味を理解してエシュロスの顔は、燃えるように赤く染まった。
大人びた話し方をしていた。それなりに筋道だった見解も出来た。だが、エシュロスは、それでもまだ子供であった。
しかも、“そういったことを嫌悪しながら、けれど興味が出てくる年齢の”子供である。
その脳には否応なく、“羞恥”という傷が刻まれる。
「良いよねぇ。自分の言いなりが出来て。それでいて分かるんだもん。女の子のこと」
「気になるよね、女の子がどうなってるか」
「王様にもなりたいもんね」
「それとも、私だけは王様扱いしてあげる? “ご主人様”?」
流れ込む、言葉の奔流。
伝わってくる異性の体の柔さ、また温度。
頭が蕩けそうな程の熱を上げる。体が重く、怠くなる。
灰皿に置いた煙草は未だに煙を上らせているのに、まるで匂いがしない。
息も絶え絶えに、呂律も回らない。
そして、下腹部に感じたことのない、熱を伴った甘美な痛みを覚えて、
「うぐっ……ひぐっ……!」
エシュロスは、泣いた。
如何して泣いているのか、自分自身でも理解出来ない。でも止める事は適わなかった。
項垂れる。今は何もかもから目を背けたいとすら思った。
併し、
「なぁんてね」
いつの間にかエシュロスの目の前にはにぃと口角を吊り上げた薫の顔が目の前にあった。
エシュロスの顎に手を当て、無理矢理視線を持ち上げ、その上で薫はテーブルに身を乗り出していた、
「ほへ?」
全く頭が追いつかず、エシュロスは間抜けな声を上げた。
「全部冗談。揶揄っただけだよ。そもそも私は君と戦わないとは一言も言ってない」
エシュロスから顔を遠ざけると、薫はそう説明した。
「は? あ!」
エシュロスはその指摘で漸く気が付く。
「俺と戦ってくれるのか?」
「うん。助けて貰った恩があるからね」
薫はニッと、白い歯を見せた。
「そ、そうか」
状況について行けないのか、エシュロスの返事は歯切れが悪かった。
「だ、だが如何して私をからかったりなんて?」
「ん? 興味」
そう言って薫は、一旦置いた煙草をまた吸い始めた。
「私の感覚では、君の見た目から年齢を考えてたんだけど。どう考えても“事案”になりそうな歳にしか思えないのに、妙に紳士的な態度と、しっかりした考え方だったから。一寸、そこら辺、胡乱になっちゃってね。それで確かめてみた」
「事案と言われても分からないが……。で、結果はどうだったんだ?」
「まぁ、典型的な事案な子の反応だったよ」
ぷはーと煙草の煙を嬉し気に吐く薫に、エシュロスは、脱力した。
「ただ」
「ただ?」
まだ薫は何か続けるようで、エシュロスは顔を上げその言葉に耳を傾けた。
「ああいう反応をされると……。なんと言っていいんだろう? 顔を赤らめて、涙目までされるのは、その、何というか……困る?」
薫は、頬を掻き、それでいて煙草の灰をテーブルに落としていた。
顔が赤いようにもエシュロスには見えた。
その理由は分からない。分からないが、これだけは確かに言えた。
「困るのは……」
涙を流す痴態を演じたのは誰だ?
実際、怖い思いをしたのは誰だ?
その答えは明白である。
「こっちだぁぁぁっぁぁ‼」
窓が粉砕せんばかりの怒号を上げた、エシュロスである……。