「ところでエシュロス。実は、とても困ったことがあるんだ」
エシュロスを宥める為に連れ出した小さなレストラン。
アイスコーヒーをズビズビと飲みながら、頼んだフライドチキンの山に、一心不乱にかぶりつくエシュロスを、穏やかに見つめていた薫は突如思い出したかのように喋り出した。
「とても困ったこと?」
エシュロスは訝し気な顔をしながら、口の周りにべとりと付いた油を紙ナプキンで拭いている。
「旅行は今日で終わりの予定で、明日の朝には飛行機に乗って日本に帰るつもりなんだ」
モヒートの冷ややかなのど越しを楽しみながら語る薫の弁に、エシュロスははぁと生返事をした。
「で、君も当然ついて来るよね?」
「当たり前だ。パートナーがいなくては、私は戦えなくなるからな」
バリバリとフライドチキンを骨ごと貪りながらエシュロスは答えた。
「それで、どうやって日本まで着いて来るの?」
「いや、私も飛行機とかいうのに乗れば良いだろう」
「パスポート、持ってるの?」
「パスポートとはなんだ?」
エシュロスが真顔で返すものだから、薫は頭を抱える。
だが、エシュロスは魔界から人間界に遣って来てまだ間もないのだ。知らないのも仕方がないことだろうと結論して、薫は煙草を銜え、火を点けた。
「簡単に説明すると飛行機に乗るのに絶対必要なものだよ」
苦々しい笑みを浮かべ、薫は答えた。
エシュロスは手を顎に当て、ふむと、声を漏らす。
「詰り、それがないから私は日本に行くことが出来ない。そう言いたいわけだな?」
「さらに言うと、君、戸籍無いよね? 向こうにはあるかもしれないけど、人間界では絶対に」
「魔界での戸籍が通らないとあらば、な」
薫は煙草の煙を肺に吸い込んでしまい、
「げほ、ごほっ……!」
咽た。
「おい、大丈夫か⁉」
エシュロスは椅子が倒れるのも気にせず、立ち上がって薫の傍に寄り、背中を擦った。
「だ、大丈夫」
そう言ってエシュロスを席に戻した。
実際、大したことではないのだ。
薫の吸っている煙草はリトルシガー。分類上では、紙巻煙草ではなく葉巻になる。そして、葉巻は紙巻煙草と違い肺喫煙ではなく、口腔喫煙で楽しむものだ。詰り、思い切り煙を吸い込んではいけない。
吸い込めば、強烈なニコチンとタールに気管が悲鳴を上げ、咽ることと相成る。
丁度、今のように。
喫煙者でありリトルシガーを愛飲している薫も当然、そうなるとは理解していた。それでも、『やってしまった』のは、激しい動揺からだ。
人差し指と中指に煙草を挟んだ右手の手首を、薫は凸に当てた。
「どうしようかなぁ……。ココが日本ならパスポートの一つや二つ――戸籍だってダンさんに頼めば見繕ってくれるのに……。困ったなぁ」
ダンさんというのは、薫が働く店のオーナーである。
名前は檀龍一。尤も、本名であるかは薫ですら定かではない。
職業が職業――所謂、暴力団若頭であるため偽名を使っている可能性もある。
ただ中学を中退しこれからどうするか困っていた薫を拾ってくれた男であり、経営者としてもやり手で頼りになる人というのが印象である。
頼めば大抵のことはなんとかなる。ただこの場合は、彼女と彼を隔てる物理的な距離という大きな問題が存在する為、その選択肢は不可能である。
……打開策は見当たらない。一旦、落ち着こうと、煙を吸い込もうとしたその時、
「ちょっと良いか?」
エシュロスが挙手した。
「ん? 何かな?」
「そのパスポートというヤツだが、モノにもいるのか?」
「原則、というか要らないね。モノという括りなのに持ってる場合とかあるけど」
古代エジプト第十九代王朝三代目王、カルナック神殿、アブ・シンベル神殿、ラッメセウスなど数々の神殿を築き上げ“建築王”の異名を持つラムセス二世の木乃伊はパスポートを所持している。
人の遺体に関しては曖昧としているところがあるが、“モノ”の括りに含まれるだろう。
これが詰り、“モノ”がパスポートを所持する場合である。
とはいえ、これは例外中の例外であろう。
この世は不思議なことに溢れているとはいえ、飛行機に積み込まれた狸の信楽焼きがパスポートを申請するなんてことは恐らくない。
「そうか、ならば……」
エシュロスは右手で顔を覆い、気障ったらしい笑みを浮かべ、
「こういうのはどうだ?」
どう問うて、フィンガースナップをした。
次の瞬間、何事かと薫が思う暇すらなく、
「おお……」
嘆声を上げることになった。
†
「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」
隣の席に腰かけていた五歳くらいの女の子に声を掛けられて、薫はきょとんとした表情をした。
「えっと……」
薫は女の子の二つ縛りの亜麻色の髪と、そばかすに彩られたチャーミングな笑みを見て、回答に窮した。女の子の言わんとしていることがまるで掴めない。
「苦しそうだよ。どっかわるいの? おかぜひいてるの?」
然う指摘されて、先ほどから自分が何度も何度も、座る位置をずらしていることに気が付いた。それが屹度、女の子には苦しそうに見えたのだろう。
薫は柔らかく微笑んで、
「大丈夫。お姉ちゃんは元気よ。ただ、一寸眠れなかっただけだから」
と答えた。女の子が話しているのはデンマーク語だった。難しい言葉であるために、薫の中は年相応な話し方が出来ているか不安を覚える。
「そうなの?」
女の子は首を傾げる。それに対して、薫はそうだよと、答える代わりに無言の笑みを返す。
「すいません。娘が御無礼を……」
女の子の隣に座っていた三十代前半ほどの女性が、申し訳なさげに首を垂れた。娘と言っていたから母親なのだろうと思い、
「いえ、そんなことは」
と、薫は恐縮したような表情を浮かべた後、
「気遣いの出来る、優しい子だと私は思いますよ」
女の子の頭を撫でる。
今度は母親の方が照れたように顔を赤らめた。
「お姉ちゃんごりょこう?」
にぃと笑みを向けて、女の子は自分の頭を撫でる薫を見上げた。
「うん、御旅行よ」
薫は依然、微笑みで言葉を返す。
「お姉ちゃんも! わたしも!」
手まで上げて女の子は答えた。場所を弁えれば女の子を叱るべきなのだろうが、周りの辺りを見渡し、別段と気にしている人がいないのを確認して薫は女の子を叱るのをやめる。
「お母さんのお友達にあったの! とってもおもしろかった!」
旅の思い出を見知らぬ“お姉ちゃん”に伝える娘を母は、
「こらもう! お姉ちゃん迷惑してるでしょ!」
と叱りつけて、席に座りなおさせた。女の子の膨れっ面が、薫には可愛らしく映る。そんな母親の手を見て、薫は、
「おっ?」
と声を上げる。
――ああ、なるほどね。
得心していると、母親が、
「もう、本当にすいません。気を悪くされたでしょう?」
と謝ってきた。また、薫は笑顔を作り、
「これくらいの歳の子はそんなもんです」
と返した。
「ああ、でも僭越なら申し上げる事があるとするなら……」
と人差し指を立てる。
「お母様は、少し周りを気にしすぎかもしれません。別に小さい子がいるからといって恋をしてはならない……なんてことはありませんから。寧ろ、貴女が楽しそうならその子だって嬉しいでしょう? 子供なんてそんなもんです」
女の子の母親は、左手の薬指を隠してカッと顔を赤らめた。
薫はそれに目をくれることも無く、膝の上に置いたワインレッドの手提げ鞄に手を伸ばし、その中から本を取り出し読み始めていた。
――飛行機がキューバを経ってから一時間ほど。
女の子の指摘に因って薫はやっとエコノミークラスの座席では自分が寝付けないことに気が付くことが出来た。
ともなれば、日本に着くまで手持ち無沙汰である。本でも読むに限る。
薫が読んでいるのは恋愛小説。というよりも、本はそれしか読まないし、更に言えばハーレクイン限定である。
いつ頃からか、ハーレクインの小説を愛読していた。紙といい表紙といい、妙に安っぽい作りをしているのがツボに嵌ったのと、ある言葉が想起されるその内容を気に入っていた。
その言葉とは――“機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)”。
歌劇に於いて困難な試練、解決し難い状況をクレーンのような仕掛けを用いて神や天使を下ろすというものである。
転じて意外な手段、予期せぬ人物の登場により事が急転的に運ぶことを指す。
それが悪いというワケではないが、この手の本の場合よく一組の男女を隔てていた壁というものが、突然、あっけなく無かったこと同然になってしまうのである。
良いことだと、薫は思う。整合性を保った不幸よりも、不合理な幸せの方が、何百倍も良い。
特に娼婦という職業柄、筋道だったどん底の人生の話なぞよく聞く。
……そういう話を聞いているのは、薫としては疲れるので厭だった。現実周りがこの有様だ。フィクションの中くらいはハッピーエンドが良いと感じるのも当然であった。
と、“機械仕掛けの神”という言葉から思い至る。エシュロスがやったことは、詰りそういうことなのではないかと。
「まさか、あんなこと出来るなんて思わなかった……」
人知れずそう呟いて、煙草が欲しいと感じたその時だった。
(そんなに驚いたか?)
突然、この場にいない筈のエシュロスの声がして、薫は辺りを見渡した。
(見渡しても私はいないぞ。所謂念話というヤツだな。未だ、私は貨物室の中だ。……正直暇になってきた。脳内詰めチェス(プロブレム)も飽きてくるぞ、いや本当に)
存外にくだらない理由で超常的なことをこなすエシュロスに、薫は呆れた。
「……わりと凄いことを、下らないことに使ってないかな?」
(貴女が思っているような、上等なものじゃあないんだ、コレ。まず、相手の顔が分かっていないと使えない。話せる距離にも制限がある。加えて……私自身が把握しきれていない条件があるらしい。精々、運が良ければ内緒話が出来るくらいの、クソッタレな力だ。これより上等な念話をこなす魔物はいくらでもいる)
薫の指摘に、エシュロスは自嘲気味にぼやいた。
「でも」
(念じるだけで構わない。それで通じる。……指摘するのが遅かった。貴女を独り言ばかりの痛い女性にしてしまうところだった)
(……まぁ、痛い子というのも悪くないけれどね。でも、こういうことが出来るって割とエリートなんじゃないの。ほら、この窮地を救った変身にしたってさ、凄いと思う)
日本へエシュロスが行くにはどうすれば良いか。
結論的に言えば、“渡航”ではなく“輸送”することを選択したのだ。
畢竟するに、エシュロスは石像に化けることが出来た。加えて言うならば、人型のものであり、自分とサイズがある程度似通うものという制限こそあれ、姿を変えるという能力があったのだ。
……育ちの良さそうな少年にしか見えないエシュロスの姿も、本来よりも人間に寄せたものであると言われ、薫は銜えていた煙草を零した。
特に、術の系統的に石像に化けることには並々ならぬ自信を持ち、事実空港でエシュロスを見かけた人、エシュロスを通した機械の総てが生物であると見破ることが出来なかった。
このまま石像として、税関と入国管理局を切り抜けようというのが、薫とエシュロスの考えた算段であった。
(エシュロス?)
反応が無かったため、薫は名前を呼んだ。
(今……)
(今?)
(お、俺をエリートと言ったか?)
やっと帰って来たその声は、薫には震えている様に聞こえた。
まるで耳を疑っているかのような。
(うん、言ったよ)
偽らざる事実である。薫は肯定するしかなかった。
それだけだ。にも関わらず――
(ハッハッハ! カオル、貴女は目の付けどころが良いな!)
何故か、称賛を受け薫は困惑することになる。
(そうだ、私は魔物の子の中ではエリートな方だった! 使える呪文も早速四つだ!)
声色から、あからさまなまでに、喜びが溢れ出していた。
白い歯を見せ、グッと力強く握り拳を見せつけるエシュロスの姿が薫の目にはしっかりと見えた。
それほどまでに、嬉しさを隠しきれていない。
(……これからエリートって呼ぼうか?)
(善処してくれ!)
その要求を聞いて薫は完全に結論付けた。
エシュロスは子供だと。
「お? おう?」
そう思った瞬間、頭に怠さを覚え、額に手を当てると、熱を感じた。
ぼんやりとした、けれど熱と分かるそれ。
……風邪でもひいたのだろうか? それとも空調が悪いのか?
そう疑問を抱いたその時――。
バァン!
突如、機内に銃声が木霊した。