包丁を研ぐ、丁寧に研ぐ。よく切れるようにしっかりと研ぐ。
後ろでは先輩が今日の晩御飯の材料を取り出している。
背中が良く見える。先輩の大きくて温かな背中が。
『今日はシチューにするからジャガイモに人参,玉ねぎとお肉で…後何か入れる?』
「……ブロッコリーが残っているので一緒に入れてしまいましょう」
『ああ、そうだったね。忘れてた』
先輩はこういったところは抜けている。
私がいないとダメな人なんです。
私がいないと、他の誰でもない、私が。
『マシュはやっぱりしっかり者だね』
「……ありがとうございます」
なのに、どうして私を選んでくれないんですか?
私が先輩を支えているのに。私がいつだって傍に居るのに。
ねえ、先輩。どうして私を見てくれないんですか?
こんなに先輩のことを好きでいるのに。
「…ッ」
『マシュ?』
「なんでもないです」
『そう……』
ああ…やっぱりどこかよそよそしい。
酷いじゃないですか、先輩。
前はもっと私のことを心配してくれたのに。
先輩が私のことを見てくれないのなら、私は……。
「いた…ッ」
『包丁で指切ったの!? 大丈夫?』
「いえ、大した傷では……あ」
先輩が私の手を取って傷口を舐めてくれる。
こそばゆい舌。生温かな口内の感触。
体中に痺れのように快感が走る。
『後は水で洗って、少し待ってて、今ばんそうこうをもってくるから』
私の
すぐに背を向けて救急箱を取りに行ってしまったけど、間違いないです。
「やっと……私のことを見てくれました」
喜びが毒のように体を駆け巡る。
血液が熱くなる。先輩が私のことを見てくれた。
そうだ。簡単なことだったんだ。
「私が傷つけば先輩は私のことを見てくれるんだ」
先輩が舐めてくれた指をゆっくりと舐める。
ああ、先輩の味がする。
自分でも顔が上気しているのが分かるほどに体が火照っている。
「もっと…もっと…傷ついたら、私のことをずーっと見ていてくれますよね?」
迷いも戸惑いもなかった。
先輩が私のことを見てくれる。それだけが全てだった。
包丁を握り直し、自分の手首に向け大きく振り上げる―――
『マシュ!?』
先輩の怒鳴り声が聞こえてきて、思わず手を止めてしまう。
ゆっくりと振り返ると、困惑の形相を浮かべた先輩が目に入った。
『何をしているの?』
「先輩…先輩は私のことが嫌いですか?」
『なにを……』
笑うように泣く私を見て先輩が戸惑う。
そうですよね、こんな女の子じゃ嫌いになって当然ですよね。
先輩に愛される資格なんてこれっぽっちもない。
「だって先輩、最近私のことを見てくれないじゃないですか?」
『え…?』
「どこかよそよそしいですし、今日だって上の空みたいで」
私の世界は先輩が全てだから。
先輩が私を見てくれないなら、先輩が私の前から消えてしまうのなら。
いっそ―――
「すっごく辛いんですよ? 大好きな人に見てもらえないのは」
『マシュ……』
「でも、やっと見てもらえました。私が傷ついたから」
哀れみでもいい。単なる親切心でもいい。
大好きな先輩が私だけを見てくれるのなら、他には何もいらない。
例え、この命が尽きるのが代償だとしても。
「ねえ、せんぱい。もっと…もっと…私を見てください」
自分の心臓に包丁を向け、朗らかな笑みを浮かべて先輩を見る。
血の気が引いて真っ青になる先輩。初めて見る表情だ。
よかった。こんな表情を独り占めできるなんて―――私は幸せ者だ。
「それでは、先輩。私をことを最後まで見ておいてくださいね?」
研いで、研いで、良く切れるようになった包丁を心臓に突き立てる。
何かが抵抗するように阻む感触と、温かな血飛沫が手に伝わる。
同時に私の目に先輩の顔が映る。どこまでも真剣に、怒る顔が。
『馬鹿ッ! 絶対に死なせるか!!』
包丁の刃の部分を握りしめ、必死に押しとどめる先輩。
その手からは真っ赤な血がしたたり落ちていた。
「は、離してください、先輩! 先輩が傷ついてしまいます!」
『マシュがそれを離すまで死んでも離さない!』
「そ、そんな……」
先輩の手から逃れようとしてみるがピクリとも動かない。
ただ、先輩の肉に刃が食い込んでいくだけだ。
本気だ。先輩は死んだって離すつもりはないんだ。
『マシュ……』
「……ッ!」
先輩の瞳が私を真っすぐに射貫く。
どうしてだろうか、見つめていて欲しいのに、その瞳には耐えられない。
先輩が傷つくのは嫌だ。先輩がいなくなるのは嫌だ。
先輩がいなくなったら生きていけない。だから、先に消えたかったのに。
「ずるい…ずるいです…先輩」
『ずるだってするし、命だってかけるさ。マシュのためならね』
世界が止まったように二人で見つめ合う。
動くものは一つ。刃を伝い、私の手に流れてくる先輩の血だけ。
……もう、無理だ。
「ごめんなさい……先輩」
包丁から手を離し、うなだれる。
きっと、もう二度と先輩とは関われない。
当然です。こんな醜い女が先輩の傍にいてはいけません。
『謝るのは俺の方だ。ごめん、マシュ』
だというのに、次の瞬間に訪れたものは罵倒ではなく、優しい抱擁だった。
戸惑う私を先輩は痛いほど強く抱きしめる。
『マシュ……好きだ』
「え…?」
強く、優しい言葉が耳を打つ。
でも、信じられない。だって先輩は私のことなんて……。
『最近マシュのことを意識し始めて……どんな風に付き合えばいいか分からなくてさ。そのせいでよそよそしい態度をしてしまってさ。本当にごめん』
「嫌いじゃ…ないんですね? 私のこと…?」
『好きだよ。何度だって言える』
そう言って、傷ついていない方の手で頭を撫でてくれる。
久しぶりのその感触に気が抜けてしまいそうになるが、まだ、問題は残っています。
「でも、先輩はジャンヌさんのことが好きなのでは……」
『あー……うん。好きだった。でも、失いかけてやっとわかったんだ。マシュの方がずっと大切だって』
少し恥ずかしそうに語る先輩に、声が出ない。
ジャンヌさんよりも私が大切だなんて、信じられない。
『最近はマシュのことが頭から離れないんだ。だから、俺の好きな人は君しかいない』
「でも、ジャンヌさんをクリスマスパーティーに誘おうとしてませんでしたか?」
『見てたのか…。うん、嘘はつけない。確かに誘おうかなって思った。でも、マシュのことを選ばないって選択はできなかった』
先輩の目を見る。確かに嘘をついているようには見えません。
ということは、つまり。
「わ、私の早とちり……ということですか?」
『残念ながら、そうなるね』
自分への嫌悪感が噴出してくる。
ああ、やってしまった。
自分勝手な判断で先輩を傷つけてしまった。
なにより、先輩の信頼を裏切ってしまった。
叶うのなら、今度こそ死んでしてしまいたい。
「……あ! そんなことよりも傷です! 早く手当てをしないと!」
『そう言えば、そうだった』
「そう言えばって……」
『マシュが無事で安心してた』
そう言って、いつものように笑う先輩。
何事もなかったように、しっかりと私の目を見て。
傷が痛くないはずがないのに、無理をしてでも私を安心させようとして。
「ごめんなさい……」
『うん。だから仲直りしようか』
ありったけの包帯で傷口をグルグル巻きにしながら謝る。
でも、先輩は許してくれる。
どうして勘違いしていたんだろう。
こんなこと、私のことが好きじゃないと絶対にできないのに。
「私にはもう……先輩の傍に居る権利がありません」
『じゃあ、義務で』
「義務…?」
『しばらくこの怪我で手が不自由だから介護してほしい。それはマシュの義務じゃないかな?』
確かに、それは怪我をさせてしまった私の義務でしょう。
ですが、また自分を抑えられなくなってしまうかもしれません。
「やはり、それでも……」
『ああ、もう! 後輩は先輩の言うことを聞きなさい!』
「は、はい!」
ビシッと指を突き付けられて、思わず背筋を伸ばしてしまう。
『俺が許すって言ってるの。なら、何も問題はない、オーケー?』
「い、イエッサー」
『もし、罰が欲しいんなら逃げるんじゃなくて、毎日俺に会って話すこと。マシュが俺の前から消えたいのなら、俺はそれを止める。それが一番の罰でしょ?』
逃げてしまいたいという心を読まれ言葉に詰まる。
先輩は優しい。私に罰を与えてくれる。
許さないということで赦してくれたのだ。
「はい……分かりました」
『……よし。じゃあ病院に行こうか』
頷くが先輩の目はごまかせない。
口ではああ言っているけど、きっと気づいている。
私が―――先輩に愛される資格なんてないと思っていることを。
正直に言うと、マシュがあそこまで俺のことを思ってくれているのは嬉しかった。
重いのは別に構わない。むしろ、その程度背負えないと男として名折れだ。
もちろん、そのせいで思いつめてマシュが傷つくのは嫌だけど。
「そこまで深い傷でなくて良かったです……」
『そうだね』
病院での治療の結果、特に後遺症は残らないと診断された。
しばらく痛むだろうが、そのうち治るから心配するなとのことだった。
「でも、痕が残ったらどうしましょう……」
病院からの帰り道を歩きながらマシュが不安そうに呟く。
傷は治るが痕は残る可能性がある。
まあ、私生活には特に支障はないんだけど。
『んー、傷物にされたから責任を取ってもらおうかな』
「せ、責任ですか?」
『逆だけどお婿さんにもらってくれる?』
「へ!? あ、あの、その……」
オロオロと慌てふためきながら、顔を赤くするマシュ。
非常に可愛らしい姿だが、その瞳の奥には自責の念が残っている。
自分にはそんな幸福は許されないとばかりに。
『ははは、冗談、冗談。こんな軽く言えることじゃないから』
「じょ、冗談ですか」
『うん……今はね』
「え? て、あぷ…っ」
今の言葉の真意を問いただそうと、俺を見上げるマシュの頭を撫でる。
柔らかな髪の毛、恥ずかしそうに頬を染める姿。
ああ…全てが愛おしい。自分の気持ちに今更ながらに気づいた。
マシュは俺にとってかけがえのない女性だ。
ちょっとぐらい重くても何も問題はない。自分の全てを奉げたって惜しくない。
「もう、そうやってごまかすのは反則です」
『マシュの怒る顔が見たいから仕方ない』
「……怒る顔を?」
『怒った顔も可愛いから』
ムスッとした表情でほっぺを膨らませるマシュ。
こんな可愛い顔で怒られて、反省しろという方が無理だ。
「からかわないでください」
『からかってないんだけど』
「…………」
『…………』
お互いに睨めっこのように見つめ合う。
しかし、同時に耐えられなくなりクスリと笑いを零す。
「ふふふ……先輩おかしな顔です」
『マシュは相変わらず可愛いね』
「もう、だからそういうのはからかいなんですよ」
自然な笑顔を見せるマシュに安堵の息を吐く。
『やっと笑ってくれた』
「あ……」
『ずっと落ち込んでいるより、笑っている方がいい。俺もそっちの方が嬉しいし』
ようやく、元の距離感に戻ったように感じる。
仲の良い先輩と後輩。そんな今まで通りの関係。
でも、今のままの関係じゃ満足できない。
「先輩は……本当に優しいですね」
『ただ単に優柔不断なだけかもしれないよ?』
「それは困りますね」
『そこは、そんなことはないって言ってくれないの?』
手厳しい言葉に苦笑いを返す。
今の今までは優柔不断な男だった。
でも、これからは一途な男になりたい。
―――マシュを選んだ。本当に大切な人として。
他の何かを切り捨ててでも守りたい存在。
いや、他の全てを合わせても超えることができない愛しい人。
「先輩は色んな女の人に粉をかけていますから」
『……ただ単に親切にしてるだけどね』
「お父さんも同じことをよく言ってます」
『ごめんなさい』
なぜだか分からないが、深く謝罪しないといけない気分になり頭を下げる。
「少なくとも私は……あまり他の人を見て欲しくないです」
『マシュ……』
「あ、いえ、こんなこと言ったらダメですよね」
感情が暴走を起こした一件を思い出し、一歩下がるマシュ。
気にする必要なんてないのに。
俺はマシュが死ぬのは嫌だけど、マシュに殺されるのは全然構わないのに。
『あー、えーと、マシュ?』
「なんでしょうか…?」
ポリポリと頬を書きながら声をかける。
そして、遠ざかった距離を同じ分だけ一歩。さらに超えてもう一歩。
先輩と後輩との境界線を越える。
『今度のクリスマスパーティー一緒に出ない?』
「え…? で、でも、私なんかじゃ…」
『因みに拒否権はないから』
「ええ……ずるいです」
今のままの関係は終わらせる。彼女が一生不安になることがないように。
きっと、もう二度とこの温かな関係には戻れなくなる。この世界は壊れる。
でも、そこに新たな世界を築き上げる。
『俺と一緒じゃ嫌かな?』
「そんなわけないです! た、ただ……」
『なら、いいよね?』
「は、はい。……その、よろしくお願いしますね?」
先輩と後輩の関係から、愛し合う男女の関係に。
そして―――マシュをお嫁さんにもらいたい。
『うん、しっかりエスコートするから楽しみにしておいて』
聖なる夜に俺はマシュに―――プロポーズする。
告白すっ飛ばしてプロポーズまで行くのがマシュ√
あ、活動報告にBADEND追加しておきました。よかったらどうぞ。
さぁて、ラストが見えてきたぞ。
次回は久々にバトルを書きます(ネタがないとは言っていない)